2、ソ連領

   10月8日、遂に、満州最北端の町、満州里を通過してソ連領へ入った。 これで日本への帰国を半ばあきらめ、気を紛らわすように大声で“満州里小唄 などを合唱した。 ソ連領に入ってから警備は一段と厳しくなって、貨車から出ることも許されず、 持ってきた食料も底をついてしまった。 チタを過ぎてやがて列車は、2〜 3,000 ton級の大きな船の浮かんでいる海 岸らしきところに出た。すかさず誰かが「おぃ、海だ、ウラジオストクだ」と叫ん だが、今までの列車の進行方向から見てそんな筈はないと思った。 列車は岸辺を2日間走ってから砂浜近くに停車して、何日かぶりで下車して炊事 が許された。 皆は急いで砂浜へ走って行って水を舐めてみたが、案の定それは淡水であった。 バイカル湖畔についたのである。しかし、その湖の大きさには驚いた。 海だ、と言われても疑わない程雄大で、浮かんでいる船は海洋航路並みの大きさ で、水平線は遥かに湾曲しており、勿論対岸などは見えるはずもない。 久しぶりの炊事である。早速バイカル湖の水で飯盒炊さんを始めたが、炊き上が る前に、発車の命令が出たので御飯を蒸らす暇もなく、急いで貨車に持ち込んで、 まだ芯のあるごりごりした飯を食べた。 列車輸送中の炊飯は、この時の1回だけであったが、あとは何を食べていたのか 記憶にない。 ソ連の将校は割合と紳士的に思えたが、下士官と兵隊のレベルの低さはひどいも ので、特に兵隊は暇さえあれば毎日どころか一日に何回となく、貨車の屋根を駆け 回って貨車の中へやってくる。 目的は時計や万年筆の略奪であるが自分達がすっかり取り上げて、もう何も残っ ていないことを承知のはずなのに飽きもせずに来るのである。 ソ連兵は、泥棒よりもひどい強盗集団であった。 われわれの貨車でも16〜17歳の子供のような兵隊が、首からマンドリン(7 2連発の自動小銃)を掛けて、だれかれの見境なく乱暴に雑嚢を引きずり出しては 手当たり次第にかっぱらっていくので、余りのひどさに我慢できず、班長の久保軍 曹始め皆と話し合って、懲らしめてやることに衆議一決した。 彼等も指揮官が恐いらしく、列車が発車してから走行中の貨車の天井にある換気 孔から侵入してきて略奪を始めるのである。 しかし、一時的に懲らしめても後からどんな仕返しをされるか分からないので、 いっそのこと殺してしまって夜中に走っている貨車の窓から捨ててしまうことに決 定、早速その夜に決行することにした。 そこでいつものように換気孔から入ってきた歩哨を皆で取り押さえた。 まずマンドリンを取り上げ、袋叩きにして手足を縄で縛りあげて今までのうっぷ ん晴らしとばかり全員が交替で殴り、散々に痛めつけてやった。 ところが、その後の処置が問題であった。 殺して走っている貨車の窓から荒野へ放り出してしまえば判らんだろうという者 が大勢の声であったが、いざ実行する段になるとやはり抵抗があった。 久保班長にはそれができなかった。 まして、歩哨があのかっぱらいの時の勢いはどこへやら、「オー.オー」と泣き 出して命乞いをする始末、そうなると殺すのはますます出来なくなってしまった。 そこで仕方なくパントマイム宜しく手真似で、 「われわれに報復しなければ助けてやる」ことを約束させ、次の停車地点で外へ放 してやることにした。 列車が止まったので貨車から出してやったその途端、振り向きざまにマンドリン をわれわれのほうに向けてブッ放してきたのである。 狭い貨車の中でのこと、逃げ場もなく、その場で皆は床に平伏したが幸い威嚇だ けであったので、1人が軽い怪我をした程度ですんだ。 その銃声を聞いて、すぐにソ連の輸送指揮官が飛んできた。 歩哨から一通り事情を聴き終わって、今度は通訳を通じてわれわれからも同じよ うに状況の説明をさせたが、私達は捕虜という立場から当然不利な決定を受けるこ とは間違いないものと覚悟をしていた。 しかし、両者から話を聞いた指揮官は、意外にも歩哨の行為が良くないというこ とで、 「日本兵は完全に投降して、戦争も終わって武器も持っていないのだから、われわ れと同等に扱うべきで、歩哨の暴力による略奪行為は許されない行為だ」と言い、 結局、われわれには何の罰も無く、ホッとした思いであった。 日本の軍隊では考えられないことであり、その時以来、ソ連の将校をちょっと見 直したのである。 その歩哨はその後何処へ配転させられたのか姿を見せなくなってしまった。 お陰でその後は略奪がなくなって、われわれの行為が無駄でなかったと思った。 列車は昼も夜も休みなくシベリア鉄道を走り続けた。 そしてバイカル湖畔の最大都市のイルクーツクに着いたその時から日本へ帰るど ころか、シベリアへ送られて労働させられることを覚悟した。 真夜中に突然下車命令が出た。入浴するというのである。 しかし、ロ助が嘘を言って実際は入浴と偽って裸にして、“金玉を切り取って去 勢するのではないか とか、“ガス室で殺されるかも知れない などとよくない話 ばかりが飛び交って不安な気持ちで列車を降りたが、行ってみたら本当の入浴であ った。 8月12日にハルビンの兵舎を出てから、一度も風呂に入らずに、着のみ着のま まの為、不潔そのもので襦伴襟が黒光りして虱がわき、毎日、貨車の中では虱取り を仕事としていたので入浴はうれしかった。 浴場は、駅から5分ぐらいの近いところだったと思った。すぐに脱いだ衣類を金 属のリングに通してソ連兵に渡して浴室に入った。浴室はだだっぴろいガランとし た部屋でシャワーの蛇口がずらりと並んだ薄ら寒いところであった。 熱くなったり、ぬるくなったり温度の定まらないシャワーで、風邪を引きそうに なったので早々に上がったら、先ほど脱いだ衣服が奥の部屋から放り出された。 自分のを探し着ようとしたが、熱で滅菌消毒したらしく熱くてとても持てない。 それよりも衣類に染みた汗と垢が、熱気でガス化してナンとも異様な臭気が漂っ ていたが、身体が冷えていたので急いで着て、やっと暖かくなり身体中をもぞもぞ 這い回っていた虱退治ができてしばらくは大いに助かった。 その頃、列車が止まると民間のロシア人が、われわれの持ち物を欲しがって歩哨 に見つからないように配給のパンなどを持って物々交換にやってくるのである。 われわれが持っているものは何でも交換できた、三角布、石鹸、歯磨き粉、襦袢 、手拭い等そのうちに交換するものがなくなると褌まで交換した。 特に女性は化粧品を使ったことがないのか、歯磨き粉を顔へ塗る“化粧品だ と いうと喜んで交換に応じた。 また三角布をネッカチーフとして頭にかぶって喜んでいた。 そんな様子を見てソ連の日常生活品を始め、あらゆる物資の不足はとても想像以 上のものだと初めて知った。 来る日も来る日も、列車は見渡す限りの荒野を走り続けた。 時々荒野の真ん中にポツンと給水塔だけが建っていて機関車に給水するのである が、電気もないのにどうやってポンプアップするのかと不思議に思ったものだ。 10月15日頃、走っている列車が複線(シベリア本線)から単線に変わっているの に気が付いた。 さらに今まで西に向かっていた列車が、南に進路が変わっているのである。 どうもノボシビルクスでシベリア本線から支線に入ったようである。 そしてさらに300km程走り続けた。 9月22日、満州の謝家沿で貨車に詰め込まれてから、ずっと走り続けた長い旅は 、ちょうど1ケ月かかってやっと終わった。


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