7、敦 化

  8月28日、列車は敦化で停まって下車させられた。紅密峰を出た翌々日である。 そこにはすでに関東軍の兵隊のほかに、多くの満蒙開拓団、民間人の人達が集結 させられていた。 私はその時の雰囲気からどうも日本へは帰れそうにない、という感じを初めて強 く受けた。そして再び全財産の荷物を背負って敦化飛行場まで歩いた。 途中、ソ連の兵隊が大勢居るのに出会ったが、いつの間にかわれわれはソ連の歩 哨に護衛されていることに気付いた。途端に“捕虜 という嫌な立場が現実のもの となって自分たちを包むとともに、これから先われわれへの対処を思うにつけ不安 な気持ちに襲われ、とても憂鬱な気持ちに落ち込んでいくのが分かった。 そのうちに猿のようなソ連兵がわれわれの持ち物を略奪し始めたが、垢だらけの 服装で口汚く罵って、持っている銃で誰彼なしに殴り、踏みつけて目に付くものは 片っ端から自分のポケットに放り込んで、およそ気品のかけらもない凶暴で下品な 暴徒の集団であった。 その暴挙に対して、何の抵抗もできず歯を食い縛って堪えるより仕方無かった。 彼等の狙っているのは、まず第一に時計である。 例え壊れていても取り上げてしまう、次に万年筆や皮の雑嚢である。 原田見習士官も雑嚢を彼等に見つけられて、取られまいと相当争ったが、所詮戦 に敗れた国の者の結果は明らかであった。 また、3〜4列に並んで歩いているとソ連兵が、われわれの略帽を片っ端から取 って中を調べている。それは前に帽子の中に隠してあった時計を見つけ、味を占め て、あわよくば夢再びとでも思っているのであろう。 私も学生時代に買った精工舎製の安物の腕時計を隠し持っていたが、それでもロ 助に取られまいと巻脚絆のなかへ巻き込んで持っていたので取られずに済んだ。 途中、日本陸軍病院の前を通ったときに門の前に、白衣を着た数人の看護婦さん がわれわれに手を振っていたが、その人達はその後どうされたのか、50年近く経 った今でも気に掛かっている。 砂埃の中を歩き続けてやっと敦化の飛行場に着いた。 右手には河を挟んで青い潅木の茂った低い山があり、飛行場と河との間には大き な格納庫がズラッと並んでいた。 その広い飛行場には、すでに何万とも知れない日本人が野宿をして暮らしており われわれの到着は遅いほうであった。 飛行場の隅には、日本軍の戦闘機が数機置いてあり、外観はきれいだが機関部は すっかり破壊されていた。 これはこの航空隊の者が終戦と同時に飛べないように破壊していったという。 私も飛行場の片隅に他の人達と同じように腰を下ろしてホッと一息ついた。 精神的にも肉体的にもすっかり疲労困敗しており、どうにでもなれという半ば自 棄的な気持ちなっていた。 そのうちにソ連軍による所持品の検査が始まった。 今度は武器の摘発が目的の様だったので、それまで吉林以来、護身用に隠し持っ ていた拳銃と実弾、それと手榴弾を急いで穴を掘って埋めた。 石原部隊長は丸腰で、背中を丸くして口の中で何かぶつぶつ云いながら同じとこ ろをこつこつと行き来している姿に、ありし日の権力と威厳はなく関東軍の末路を 見る思いであった。 私達はソ連の監視の下で飛行場に座り込み、“これから先どうなるんだろう と 話し合った。 次から次と集結してくる開拓団の人や民間人など誰もが皆、悄然として疲れ切っ た様子である。 昨日に変わるお互いのこの惨めさは、とても言葉にはならないものであった。 9月1日、この日、将校と下士官、兵に分離させられて、将校のほうはどうなったか 知らないが、われわれ下士官と兵、約2万人は敦化の河辺へ移動させられて、そこ で1ケ月近く野営生活を強いられたのである。 石ころと潅木のだだっぴろい河原の生活では、天幕もないので差し当り自分の寝 る場所を造らなくてはならない。 そこで近くから潅木を折ってきて、雨は防げなくとも何とか夜露だけでも凌ぐた めに乞食小屋よりもひどい掘っ立て小屋?をつくった。 夜になると小枝の屋根の隙間から北斗七星の瞬きが良く見えた。 その星明かりの中で煙草を回しのみして、お互いの故郷の話をしたものである。 この頃のことはよく覚えていないが、毎日何もすることがなく、ただ食べ物の調 達が日課であったと思う。 近くにトウモロコシ畑があって、夜になるとそれを盗みに出かけたことだけは記 憶にある。毎夜のようにソ連の歩哨の銃声が響いた。 それは脱走兵と見做されて撃たれるのだ。その度に“また誰かが殺られたな と 話し合い、明日はわが身と思いつつも空腹に耐え切れず、夜になるとまた命掛けで 歩哨の目をぬすんで、泥棒猫のように腹這いになって出かけていくのである。 その頃になって、ソ連兵の略奪が更に激しくなった。 噂によれば最初に進攻してきたソ連兵達は囚人で構成されている部隊との話であ ったが、まさにそれを思わすように暴力による強奪を繰り返していった。 皮のベルトを二つ折りにして、それで無抵抗の日本兵を打ち据えて根こそぎ持っ ていくのであるが、その中に同じようにソ連の軍服を着た6〜7歳の子供が、兵隊 を2〜3人従えてきて、これがまた同じように大きな顔をして手当たり次第に徴発 していくのである、輸送隊長の子供だと言っていたが、彼等のマスコット的存在で あったようだ。 精鋭をうたわれた関東軍のなれの果ての姿とはいえ、耐えられない屈辱の日々が 続いた。 満州大陸も9月下旬ともなると朝夕は寒く、昼間のうちはまだいいが夜になると 底冷えがひどくて、明け方に目が覚めると寒さのために足の感覚がなくなって、立 ち上がることできないことが度々で、周りは霜で白く、水溜りには薄い氷が張って おり、そのため寝るときは隣の戦友と抱き合ってお互いの体温で寒さを忍んだ。


ホームへ戻ります 目次へ戻ります
紅蜜蜂へ 満州領へ