9.覚醒した矢先に
 
 二日後(もう一泊していた)、愛とアリアが家に帰ってきたときには、家の中に既に灯はなかった。何となく・・・生気すらも失われたような感じがした。
「・・・どういうこと?」
「さあ。またなんかで落ち込んでるんじゃないの?」
 深刻そうに愛が聞いてみれば、アリアはこの答え方である。
 全く楽観的なことこのうえない。
 とりあえず、家の中に入って事態の確認をしてみなければ仕方がない。たった四日やそこらいなくなっただけで、こうも家が豹変してしまうとは・・・。
 玄関のドアにたって、とりあえずは勢いよく開け放ってみせる。だが、答えるものや現れるものはなかった。留守の場合なら、鍵が開いていることなどあるわけがないし・・・・・・。
「一体・・・何があったというの・・・?」
 これは・・・、ただ事ではない。
「ドリッカー!兄さん!ロールさん!」
 誰も答えない・・・。まさか?
 そう思った瞬間、廊下の向こうから声が上がった。
「・・・愛か。」
 妙にかすれた、ドリッカーの声が響く。そのまま、ドアによしかかる音が聞こえて、ドリッカーがでてきた。しかし、その姿からは今にも朽ちてしまいそうな感じがする。そして、手にはビールの缶が握られていた。
 つまり、彼は泥酔しているということになる。
「あ・・・あんた何やってんのよ!こんな真っ昼間から酒なんかかっくらって・・・!」
「・・・へ。」
 愛の言葉に仕草で答えるかのように、ドリッカーは皮肉ったように笑ってみせる。・・・むしろ、自嘲しているような・・・。
 一体何があったのか、愛にも、アリアにも見当がつかなかった。
「答えなさいよ!へらへら笑ってないで。」
「・・・変よ、ドリッカー。もしかして、答えられないくらいに酔ってるっての?一体いつから飲んでるのよ・・・。」
 アリアがそう呟くものの、ドリッカーはもうバカみたいに座り込んでいるだけだった。
「仕方ないわねー。そのうち吐くでしょうから、洗面所までこれ持っていって。」
 やれやれとアリアが愛に向かって話しかけると、愛はドリッカーをとりあえず壁によしかからせる。
「大丈夫だ。まだ立てる。」
「あれ、まだ意識あるじゃない。なんで座り込んだのよ。」
「安心したんだよ。お前が、無事に帰ってきたから・・・。」
 愛はそこで間近からドリッカーの表情を見ることが出来た。目は落ちくぼみ、瞼は痙攣し、何よりも疲れ切っていた。何故・・・。一体、何がこうもドリッカーを追いつめたというのだろう。
「ドリッカー・・・。」
 とりあえず、今こんな状態になったドリッカーを、どうにかして安心させなければならない。・・・愛は、ドリッカーの顔を自分の胸に埋めさせて、頭を撫でた・・・。何か、そうしているうちに自分も切なくなってくる。この男がこんなに悲しそうになっているだけで、自分もこうなってしまう。
 エホバでの戦いの時もそうだった。
 ドリッカーが一人でエホバの中心部に潜り込もうとしたとき、そんな感覚がした。
 それが・・・今ではもっと胸の深淵部に切り込んでくる。そして・・・刻みつけられる。そして・・・消えはしない。
「教えて・・・。」
 もう一度、諭すように愛は呟いた。
「ドリッカー、一体何があったの?ゆっくりでもいいから、答えて・・・。」
 何かが自分の心に浮かんでいる。それがまるで形になったかのように、涙が・・・涙がこみ上げ、そして、流れ落ちる。
 しばらくして、かすれるようだったドリッカーの呼吸も、落ち着いてきた。
 よかった。落ち着いてくれた・・・。
 自分が人を静めることが出来る方法を心得ているとは・・・。今なら、どんな力さえも信じられるような気がした。
「ロックが・・・。死にかけてる。」
 え?
「ロールが側についているが、二人とも全く部屋からでてこない・・・。」
 え・・・。
「まさか・・・結核がもうそこまで?」
 ドリッカーは、愛の言葉にほんの小さく、本当に小さく、頷いた。
 そんな・・・まさか。数日前までは本当に元気だったのに・・・。なぜこんな短期間で・・・。動けなくなるほどにまで衰弱するなんて、考えてみたこともなかった・・・。
「あいつは・・・もう、死ぬことを受け入れようとしている。生きようという意志が感じられない・・・。絶対に、ここ数日中には、死ぬぞ。」
 そんなドリッカーの言葉を聞き終えるより早く、愛は階段の方へと向かった。
「アリア!ドリッカーをお願い。私は兄さんの容態を見てくる・・・。」
「ちょ、ちょっと愛!一体何が・・・。」
 とりあえず、階段を一足で飛び越え、着地して一気にスラスターをふかす。一瞬にして音もなくロックの部屋の前に降り立った。
 そして、ドアのノブにゆっくりと手をかける。一瞬それをためらい、愛は大きく息を飲んだ。この先に、一体どんな現実が待っているのか、愛にはわからない。
 しかし --
 いまは、たとえなんであっても受け入れることが出来る。
 もう・・・、私は・・・。
 そして、溜息を一つ漏らすと、勢いよくドアを開け放った。
 ドアを開けてから流れ込んでくる光景に、愛はもう一度息を飲んだ。
 ベッドに弱々しく横たわるロック。もう既に彼の瞳に生気はなかった。何も考えていないような表情。さっきのドリッカーのような顔の状態。いずれにせよ、普通にはないような顔だった。
 そして、その足あたりに、低く泣き声を響かせるロールの姿があった。倒れ込んだように重なり、髪は乱れている。ロールもまた、非常に疲れた格好をしていた。
「・・・やあ・・・。愛ちゃんか・・・。お帰り。」
 そういって、弱々しくではありながら優しく微笑んでみせる。
 その声を聞いてから、愛はそのまま硬直してしまった。しかし、硬直したままでは、一体誰がロックに声をかけてやれるというのだろう。
「どうして・・・。」
 結局 --
「どうしてそんな身体に・・・。」
 こんな答え方しか --
「・・・。」
 こんな答え方しか、私には出来ない・・・。
 そんな愛の言葉に、ロックはまた寂しげに微笑んだ。瞳には揺らめくような光がある。
 まさか・・・涙。いや、悲しみか・・・。
「僕と・・・との約束が・・・きた・・・みたいだ。」
「え・・?いま、一体何の約束って。」
 それきり、ロックは黙ってしまった。
「兄さん!」
「ごめん、愛ちゃん。少し・・・寝かせてくれ・・・。明日になったら、また・・・。」
 そこでロックは深くせき込み、飛び起きたかと思うと、洗面器に向かって思いきり吐血した。その後もしばらく咳は続き、ロックは支えとしてベッドを押さえつけている自分の手を赤く染め上げた。ベッドは、すでに血だらけの状態だった。
 そのまま、ロックは崩れ落ちるようにベッドに横になった。敷布は既にぐちゃぐちゃであり、今のロックの行動でさらに程度がひどくなっている。たとえそんな動作がいくら続いているとしても、側で倒れ込んでいるロールは動きはしない。どうやら、疲れはてて寝ているようだ。
 愛をいきなり喪失感が襲った。
 なんのために今、自分はここにいるんだろう。何故、この人を救ってあげるために何かをすることが出来ないんだろう。これじゃあ、なんのために覚醒したのかがわからなくなる。誰かを、誰かをこんな時に救ってあげる力が、自分には・・・。
 すでに、小さな寝息を立ててロックは眠っていた。
 しかし、その目にはその光を象徴するかのような、眩い涙が流れていた。
 やりきれなくなった愛は、憤然と身を翻し、そのまま部屋をでていった。
 
「どうだったの?」
「兄さん・・・もう動けない。咳込んでは大量に吐血しているわ。このままじゃ・・・・・・。」
「そう・・・。このままじゃ、やばいってわけね・・・。」
「ドリッカーは?」
「寝てるわ。体中のアルコール濃度が尋常なものじゃない。ナノマシンが分解するのにも、もう少し時間がかかりそうよ。」
 最悪だ。
 ほんの数日前までは、あんなにも幸せそうな日々だった。それが・・・、今では、自分達で自分達の首を締め上げることになっている。
 一時の休息も、もはや、これまで。
 後数日たてば、自分も死ぬというのに・・・。これでロックが死んでしまえば、ロールも、ドリッカーも、耐えられないような苦しみに押しつぶされそうになることになる。自分がそんな思いを抱くことを考えて、愛は身を震わせた。まだ・・・後数年保ってくれればよかったのに・・・。
 覚醒したから、寿命が少し延びるとか・・・。そんなことはないか。と愛はため息をついた。しかも、死んでしまえば、再生してから記憶を取り戻すまでに数百年の年月を必要とする。
 こんな、こんな荒んだ状況で、自分は自分の思考に別れを告げねばならない。
「アリア・・・。」
「?」
「私・・・身体が飛んでいきそう・・・。今にも霧散してしまうかのような・・・。」
 そういってみると、さっきから深刻そうな顔をしていたアリアが、より一層深いものに彩られた表情をした。
「もう・・・、あなたは自分の身体を支えることが出来ない状態にあるのかもしれない・・・。」
「え?」
「つまり、もうあなたの身体、腐り始めてるってことよ。」
 腐り始めているって・・・、そんな。と愛は信じられないような顔をした。・・・。よく考えてみれば、確かに最近身体が妙に柔らかいような気がする。しかし。
「そんな・・・腐ってるって。それじゃあ、今私が私の身体をむしり取ろうとしたら、そのまま壊死した細胞を引き剥がせるってこと?」
 そんなバカなことが・・・。
「試してみなさいよ。あなたの身体がどうなっているか。」
 冗談かと思っても、アリアの顔は真剣そのものだ。そんなバカなことが、もし実際に自分の体の中で起きているのだとしたら・・・。
 愛は、自分の手の甲の皮を指で摘んで引っ張ってみた。すると、そのまま紙の裂けるような音と共に、皮が引きちぎれた。しかし、そのまま引き剥がしては問題があるため、とりあえずはそのまま手の甲に擦り付けておく・・。
 本当だった。本当に、自分の身体は・・・。腐っているとも少し違っていたが、とりあえず壊死していることだけはわかった。正常に機能していると思っていた身体が、まさかこんなにもボロボロになっているとは・・・。
「私が死ぬって、本当だったんだ。」
「今更・・・、何いってるのよ。」
 アリアは、もはや言葉を選ぼうとはしていない。今まで、自分達よりより優位な点に立ち、必ず言葉を類推してきたアリアが・・・、全く余裕のない顔をしている。
 つまり、これはアイリスの計算外の展開ということだ。
「ロック君が死ぬ・・・。でも一体・・・?何故そんなにもはやく・・・。愛。何かそんなきっかけ・・・。なんていうか、その、今まで無理してでも生きていなければいけない理由って、彼にあった?」
「・・・。」
 そんな理由・・・。多分ないと思うが・・・。?あの言葉・・・。
 さっきロックの部屋にいる間に聞いた言葉を思い浮かべ、愛は眉をつり上げた。
「そういえば・・・。さっき、[ 僕と、何かとの約束 ]っていってたわ。なんのことかは、別に聞いてないんだけど。というか、聞き取れなかったのよ。」
「約束・・・?」
 どうやら、アリアにも思い当たることはないらしい。どちらにせよ、アリアがロックと会ったことがあるのは、後にも先にもアイリスの精神世界の中での一回だけ。後は、まるっきり顔も見ていない。
 アイリスじゃあるまいし、アリアがそんなことを知っていると期待する方がそもそもおかしいというものか・・・。愛は、ため息をついた。そういえば、自分もアイリスとは、確か一回もあったことがない。
「一体、これからどうすれば・・・。」
「アイリスは・・・、この事態を予想していたのかしら・・・。」
 アリアが、爪を噛みながら呟いた。確かに、観測者であるアイリスが、それくらいの事態を認識していないわけがない。そして、これからどうするかを少しは考えているはずだろう。
 このままでは・・・、何もできないままに自壊するだけだ。
 ならば、少しでもあがくしかない。
「アリア・・・。」
「え?」
「いってみよう。アイリスさんのところへ・・・。」
 東京、上空。
 東京の夏の日差しはそんなに強くないものの、何となく暑くて仕方がない。
 一人の男は、そこで一度だけため息をついた。
 単に年数だけでいえば、自分が一度死を経験してから二千八百年近くたっている。しかし、今自分の周りに存在する環境が、自分の生きた時代から八百年近く前の状態だ。八百年でこうも変わってしまうとは、正直、驚きを隠せない。
 記憶は・・・、もう戻った。あの記憶・・・。
 地獄のような記憶。しかし、甘く切ない記憶・・・。
「リーナ・・・。」
 男は、呟いた。
「お前の娘さん、元気そうだな。」
 男は、そう言うと共にその場から消えた。
 
「そういえばよく考えてなかったんだけど、アイリスさんを呼ぶにはどうすればいいの?」
「何言ってるのよ・・・。あの子は観測者よ。どんな時であろうと、どんな小さなことであろうと、あの子が知らないことは何もないわ。けど・・・。」
 アリアは、そう言ったところでしばらく沈黙した。
「それが、あの子の抱く最大の問題でもあるんだけど・・・。」
「え・・・?」
「ほら。来たわよ。」
 今いるのは自分達の家の上空。アリアも自分の力で宙に浮くことが出来るので、愛が支えてやる必要は全くない。
 アリアがそう言った瞬間、自分達の目の前に黄金の光が現れた。その光はどんどん拡大し、その中にアイリスの姿が見て取れる。アイリスはそのまま自分達を光の姿のままに誘導し、高層ビルの上まで連れていった。
「何か用ですか?皆さん?」
「・・・わかってるくせに。すぐに本題に入りましょう。」
 アリアがしゃあしゃあといってみせると、アイリスは少しだけ微笑し、すぐに顔に緊張を走らせた。
「確かに、今回の事態はとても異例です。今まで元気だったロックさんの身体が、何故こんな短期間で衰弱してしまったのか、それは、あの人の身体に埋め込んであるナノマシンと、それにそんなプログラムを記憶させてしまった、ある人物のある一言にあります。」
「ある・・・一言?」
「それが、あの・・・兄さんの言ってた、約束って奴・・・?」
 愛の質問に、アイリスは重々しく頷いた。
「それは、後々に・・・。愛さん、あなたが見極めていくものでしょう。」
「じゃあ・・・。」
 アリアが口を開きかけると、アイリスは手の動きでそれを制止した。そして、大きくため息をついてみせる。
「とりあえず、愛さんはドリッカーさんを慰めることを・・・。今一番荒んでいるのはあの人です。女遊びをさせてでも構いませんので、とりあえず、彼の精神を安定させるようにして下さい。」
「ちょっとまってよ。」
 今の深刻な言葉の中に、一文節だけ変な言葉が入っている。
「女遊びってなんなのよ女遊びって。私にあいつと寝ろとでも言うわけ?」
「あなたが望むなら・・・。やっぱり、異性の方が慰め合いやすいですから。」
 (ちょっとアリア!)
 小声で愛はアリアに話しかける。(え?なに?)(アイリスさんってまじめそうな顔してて実はこんなだったりするの?)(まあ、昔から変なことばかり知っている子だったからね・・・。)
 あからさまに変な話である。見た目純朴で中身が変なのってのは道徳に反する。
 そうやって二人一緒に呆れ返っているところへ、愛の身体を何かが襲った。
「ぐっ!」
 苦しい・・・?なんなのだろうこの感覚は・・・。締め付けられるような想いの悲しみを、物語るかのような痛み・・・。
 その痛みと共に、愛の全身に散らばったナノマシンが光りだした。そしてナノマシンは・・・悲しみに震え続けている。
「アイリス、これは・・・。」
 怪訝な顔で呟いたアリアの顔を、アイリスは悲しそうに見つめた。
「リーナが・・・泣いているのです。」
「え・・・?」
「あの人が・・・彼女の近くにいる。ライトにつぐ、世界第二の機械工学者が。」
「・・・山内が?一体何でこんなところに・・・。まさか!?」
 アリアが目を細めた時点で、アイリスは静かに頷いた。
「あの人は・・・リーナと、エデンに呼ばれたのです。いつかある戦争のために。」
「・・・・・・なんてことを。あの人まで巻き込むなんて・・・。それじゃあ、ミストも!?」
「そうです。」
「相変わらず好き勝手やってくれるじゃない。エデンの奴・・・。」
「この地球でただ一つ。人間達の奉った神であるエデン。エデンは近いうちに、また新たな戦乱の灯を人間達の中にともそうとしています。」
「ライトはそれが嫌であの子達を作った。でも、結局それは彼の一時的な願望に過ぎなかったのよ。彼はその後の責任を考えなかった。けど・・・・・・。」
「あの人は・・・それでもあの子達のために・・・。」
「わかってるわよ!」
 アリアのすさまじい一喝にアイリスは押し黙った。
「それのおかげで、一体何人の人間が死んだと思ってるの!?ゼロも、ローズも、ジュノも綾も、そしてリーナも、全て死んだのよ!そして、ドリッカーやロック、ロールに愛も、一生のうちにはけして消えない傷を負うことになった!それだけじゃないわ!一体何億人という人間が、あの人間の気まぐれで死んだのよ!!だから私は、あなたとライトが結婚すると言ったとき、正直賛成できなかった!けど・・・。」
 そこでアリアは、何も言えなくなったように俯いた。自分が感情まかせに文句を言っていること、エデンの理不尽さを、アイリスにぶつけていたことに気がついたからだ。大人げない自分。それゆえにライトと分かり合えなかった自分。一見ちゃらちゃらした人間を装っていたとしても、ライトの研究チームの中でもっとも世話を妬いていたのは、紛れもないアリアだった。
 しかし、彼女に、人のために一生をただ捧げられるような、そんな想いはなかった。
「アリア・・・。それでもあなたは私とあの人の結婚を黙認してくれた。私はあなたとずっと一緒に生きてきたけど、あなたが私怨に身を焦がして行動していたことは見たことがないわ。だから気を落とさないで。リーナがあんなことになってもちゃんと生きていられたのは、あなたのおかげみたいなものだもの。」
「アイリス・・・。あなたはいつもそうやってきたものね。でも・・・。」
 自らの体の中の悲しみにうめき、片膝をついてしまった愛を見て、アリアは呟いた。
「あの子達の悲しみは・・・。誰にも拭うことが出来ないわ。でも・・・その悲しみに溺れているからこそ、あの子達は自分を、そして誰かを守ることが出来る。そのためにも私は、今この戦線を離脱するわけにはいかないの。」
「あぁぁぁああっ!!」
 愛の叫び声が、その場にこだました。
 いたい・・・。
 悲しみが全身を支配する。
 ここにある自分の全てが何かの存在に泣いている。
 泣いているのは・・・誰?
 少なくとも私じゃない。
 そんな思考の中に、光に満ち溢れたビジョンが入ってくる。
 光色の涙・・・。形容できないものを双眸から流した人間。
 お母さん?
 リーナの姿だと少しだけ・・・少しだけ理解できた。
 自分の中のナノマシンが、感情に震える。母を兼ね添えた存在が。
 何に泣いているの・・・?答えて、お母さん。
 何を求めているの?
 それは・・・この近くにあるの?
「あの人が・・・。」
「え?」
「あの人が来る。」
「あの人?」
「この近くにいる・・・。っ!」
 泣いた。今かすかに嗚咽が聞こえた。
「私を見つけて・・・。早く。」
 だめだ。母さんは我を失っている。
 その人への・・・想いなの?これが・・・人の想い。
「だめ!母さん!それは・・・。」
 それは幻影。けど、そんなこと言えない。
 わけのわからないままに、愛はその思考空間からブラックアウトした。
 パシュッ という音と共にナノマシンの悲しみは消えた。母の悲しみと、自分の悲しみが絶たれて、お互いに孤立した感覚が蠢く・・・。
 流れ落ちる涙と喪失感をふりきり、愛は勢いよく立ち上がった。
 振り返ると、アイリスとアリアがただ直立していた。
 二人とも、何かを一心に見つめていた。その先には・・・一人の男がいた。
 いかにも粗末な感じだ。よれよれのカッターシャツに、黒無地のネクタイ。それにまたアイロンもかけていないようなスーツのズボン。顔は日本風で、無精髭が所々に残っている。それでいながら、いかにも優しそうな目が自分を見ていた。
「あなたは・・・?」
「・・・おほー。さすが、リーナの娘さんだ。あいつそっくりだな。」
 そう言って男は優しそうに微笑んだ。何かから変われているような気がした、愛の気持ち悪いほど白い頬が、桜色に染まった。
「あんた・・・記憶が戻ってたの?」
 後ろでアリアが信じられないように呟いた。
「おうよ。お前と違って少し時間がかかったんだけんども、今じゃあ完璧さ。それも、そこにいるアイリスちゃんのおかげなんだろう?時空を転移できる能力まで熨斗つけてくれてさ。」
 優しい・・・。何か違うけど。わかる。
 ふと、愛の身体を別の力が支配した。
 足が・・・勝手に動いていく。愛の制御を聞かなくなった身体は、ゆっくりとその男のところへと近づき・・・そして抱きついた。
「あれ?あれれれ?どうしたん?この子。」
「あなたを求めているのよ。その子の中の、リーナが・・・。」
 ふと気付くと、愛の身体が少し大きくなって髪が焦げ茶色に染まる。ルビーアイが、澄んだ緑色になった。
「リ、リーナ・・・。おまえ・・・この子の中に・・・。」
 揺らめいた緑色の瞳。安堵したような表情・・・。愛の中のリーナが今激しい喜びに震えていた。
 男は、そのリーナの姿にため息を一つついた。それが・・・偶像だということをわかっていたから。だから、抱きしめることもしなかった。
「リーナ・・・。いつまでもその子の体の中にいたら、その子がいつまでも幸せになれないだろう?お前や俺達が生きた時代は既に終わっているんだ。だから・・・すまねえ。今ここでお前を抱きしめるわけにゃいかねえよ。」
「・・・わかってた。」
「ならなんで・・・。」
「もう一度・・・もう一度だけ会いたかったから・・・。」
 そう言ってリーナの姿は消えはて、残された愛は気を失って倒れた。その身体を、アリアが優しく抱き起こす。
「すまねえな。変なとこ見せちまって。でも、俺の本当の目的はこれだったのさ。これ以上、俺達がWULAに干渉する権利はない。リーナの・・・リーナの心を静めるために、俺はもう一度・・・。もう一度だけ過去の幻影にすがった。でも、それももう終わりだ。」
「あんたはいつもそうだったわね・・・。」
 アリアがしみじみ呟く。
「ずぼらなような顔してて、実は繊細で責任感が強い。あの時、リーナがあんたに惚れたのはよくわかるわ。そのリーナのために・・・ね。泣かせるじゃない。」
「お前には、そんなことないのかよ。」
 その言葉を聞いて、アリアは自嘲じみた笑みを浮かべた。
「あればいいなとは、思ったけど。やっぱりダメね。いい男がいないもの。」
「そりゃあそうだな。お前に釣り合う男なんて万に一つもいやしねーよ。で?俺達の後輩は元気でやってるかい?少なくとも、この子に関しちゃあもう長くねえみたいだけど。」
 その一言にアリアも、側で傍観していたアイリスも、俯いてしまった。
「あの子達の命は・・・。もう、次の時まで。」
「・・・そうか。あんたも大変だな、アイリスちゃん。」
「ちょっと、いつまでアイリスのことちゃん付で呼ぶつもりよ。いつまでも若いままじゃないんだからね。」
「わかってるよ。全く忙しいなあ俺達。どっかにミストが生きていたりするのかい?」
「ええ・・・。あの人はまだ顔を見せてはくれませんが。この世界のどこかにいます。」
「え?教えてくれないの?」
「ええ、あの人のためにもね。あの人はまだ記憶が戻っていませんから。下手に私達が接触するより、時にまかせた方が気が楽です。」
 倒れた愛の頬は、まだ薄く桜色だった。
 ・・・・・・。
 既に、日は傾き始めていた。赤い光が彼等の横顔を照らしていく。
「私達・・・一体いつになったら安息の時を掴むことが出来るんだろう。」
 先程の自嘲の笑みを浮かべたままで、アリアがぽつりと呟いた。
「それは・・・死するときに。」
 アイリスが悲しい顔で即答する。男も答えはしないものの、そんな顔をしていた。
 時に縛られた存在。時を時の使者達が選び、そして時が作られていく。後に残るものもなく、新たに作られるものは案ずることもできない。
「でも、たとえ安息が掴めないとしても・・・。俺達は、俺達の選んだ時を進んでいる。つまり俺達は心のどこかで、安息ではなく混乱を望んでるってこった。だから早々に諦めれば少しは前向きに生きていけるかもしれないぜ、アリア。」
「・・・そんなことは百も承知。けど・・・。」
 ビルの上を、少し強めの風が吹き抜ける。アリアはその風によって乱れた髪をかき上げてから、思いきりため息をついた。
「少し・・・疲れたかなぁ・・・。」
 その呟きも、風の音のかき乱されて、聞こえることはなかった。
 意識を取り戻した愛と、アイリスと男との会話を済ませたアリアは、すぐに家に戻った。少し時間がたちすぎたために、ロックとドリッカーとロールのことが心配になってきたからだ。
「アリア・・・あの人一体誰なの?」
「ああ、あのずぼらそうな男?」
「そ。」
「元同僚。エホバ研究チームで、ライトと並んでAIプログラムを組んだ天才工学者の一人。名前は・・・氏の方しか憶えてない。山内よ。」
「山内・・・って、あの車の中で話してくれた人?母さんの恋人だっていってた・・。」
「その通り。よく憶えてたわね。」
 アリアのその言葉に、愛はジト目でアリアを睨み付けた。
「そんな顔してる暇無いのよ。何とかしてドリッカーを慰めて、ロックの体力を回復させないといけないんだから。」
「でも・・・。」
 アリアが力んだように呟いたことに対し、愛は何となく意志の抵抗を感じた。
「アイリスさんが言ってたのよね・・・。兄さんは何かの言葉がキーワードになって、今まで生きてきたんだって・・・。ということは、もう兄さんには生きる理由が無いってことなんじゃない?だったら・・・。」
 死なせてあげるべきなんじゃないかという言葉を、愛は口に出すことが出来なかった。また・・・自分は何かを失う。でもそこから手に入れるものは?一体、自分の死と、このロックの死で、私は・・・・・・何を得るの?
 しかし、得るものは失った後 --
 失った悲しみの過ぎ去った後に --
 得たという実感すら得ぬままに --
 忘れた頃に気付く。だから・・・。
「私は理由無きままに戦い続ける。」
 戦うのに理由がいる --
 それが戦争なら、
 戦うのにいるのは感覚だけ --
 それが
 
「自分との戦い」
 
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