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「第29稿:極楽鳥」


電車は進む。
俺は車椅子が邪魔にならないように開かない側の乗車口の端に位置を取った。
人々はドラッグストアの棚に陳列されたセール対象の商品みたいに、
夕暮れの電車の中でごった返していた。

会社帰りの社会人達。
青春に忙しい学生達。
裕福な買物帰りの人々。
家族連れもいる。
赤ん坊から老人まで、様々な人が乗っている。

俺はそのどれでもない。
まぁ、当たり前のことだ。
だけど、大きな隔たりを感じたのも事実だった。



それにしても、前にこんな混雑した満員電車に乗ったのは何時だっただろう?
湿気で曇った乗車口の窓に映った俺の顔は薄汚くぼやけて見えた。

そこで、ふと気づく。
あれ、何時、俺は赤く髪を染めたっけ?
ここ最近、髪の手入れなんかしていなかった。
それは前まで、ラボがやっていてくれたことなのだから。
あれからずいぶん経つのに俺の頭は髪の生え際から全て赤い。

汗が頬を伝った。
なぜだ?
...今まで、それを当たり前の事みたいに感じていた。
なんで、今までそんなことに気づかなかったんだ?
こんなの全然当たり前の事じゃないのに。
それに、なぜその当たり前に感じていた事に
今になって急に違和感を感じたんだ?

ラボが消えたことは、俺に自分自信をあらためて見つめなおす事を強いたみたいだ。
俺は案外自分のことに無頓着だったのかもしれない。
俺の中の何かが、確実に変わってきているのだ。
あのマンションで経験してきたことを通じて。

俺はもう一度、窓に写った赤い髪の俺の顔を見てみた。
そうか、これが今の俺か。
認めてみよう。
気づいただけましだ。
もう、俺は以前の俺じゃない。
そうだ、あのマンションと一緒だ。
何が起こっても不思議じゃない。

「ふ」「し」「ぎ」「じゃ」「な」「い」
窓に映った俺の顔の後ろに写っていた顔の口が
その言葉をなぞるように動いた。

俺はゆっくりと首だけを振り返した。
後ろを少し見上げるように。

「ご」「く」「ら」「く」「ちょ」「う」
「極楽鳥が来るわ、次の駅で降りて」
そのスーツ姿のキャリアウーマン風の女性はそう言った。
何を言っているんだ?
誰だ、この女は?
「極楽鳥?」
俺が返すと、女は少しだけうなづいた。
「何のことかよくわからないんですけど」
「それに僕は次の駅で降りるわけにはいかない、そこに用事はありませんから」
「あなたは誰なん...
俺の質問の途中に、その女はそれを遮るよう軽く手を突き出して言った。

「トリさん、もう一度言います」
「次の駅で降りてください、いいですね?」

「わかった」

その後、その電車で事件が起こった。
とある男が包丁で人を刺したのだ。
その刺した男は覚醒剤をやっていたようだ。

そして、刺された男は赤く髪を染めていたという。
俺が行くはずだった駅で降りようとしたところを刺されたらしい。
結局、軽傷で済んだらしいが
犯人の男は執拗に彼の目を狙っていたらしい。

詳しいことは俺にもわからない。
その刺された男は少なくとも車椅子には乗っていなかった。
それよりも、あの女性は誰だったのだろうかが気にかかっていた。


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