トップ > SF > トリのために > 第60稿「恐怖と欲望と」



「お別れを言いに来たのよ」

70-2号室で彼女に出会った。
闇の女。
テーブルに腰掛けて俺を待っていた。
夏の日差しが差し込む部屋の中に
浮いているかのような
黒く塗りつぶしたその姿で。



第60稿
「恐怖と欲望と」




「もうすっかり普通の体に戻ったのね」
「私たちの世界へ来てくれると思っていたのに」

彼女は俺のほうに振り返って言った。
「でもこれで...」
「よかったのよね」
影がかかったような彼女の顔は
そう、姉さんの顔だった。

「言わないで!」
「私が言うから...」


そうだ
彼女が「死んだ俺の姉さん」だった
あの雨の日に俺を抱きしめて事故に遭うまで
それまで一緒に暮らしていた姉さん


「私が知っていることすべてを」
「話してあげる」
「それが私があなたにできる最後のこと」
「これって本当の意味で冥土の土産よね」



「ちょっとここのカードキー貸しなさいよ」
俺が70-2号室のカードキーを取り出すと
それを両手でクニクニと反らせながら姉さんは始めた。

「私はあなた...テツにね、兆候が出てきた時」
「欲望を吸収してしまう兆候が出てきた時に」
「姉としてあなたのもとに来たのよ」
「それはテツが5歳の頃かな」
「私は13歳だった」

私は恐怖を吸収してしまう病気で
あなたが欲望を吸収してしまう病気だった
私があなたのもとに来たのは
帳尻を合わせるためよね
恐怖と欲望と

あなたは覚えていないでしょうね
私とあなたの担当医があなたの叔父さんだったってこと
そう、三上先生はあの頃まだ学生だったわ
どこか外国の有名な医大で新しい病気について研究していたのよ
その病気のこと解るの先生だけだったから
飛び級に次ぐ飛び級でそのまま大学の講師になったけれどね
その新しい病気こそが
私たちの持っていた病気
ある特定の感情が際限なく膨れ上がってしまう病気

「あなたはあの頃」
「もう自分の中に抑えておけないくらいの欲望を吸収していたわ」
「それが悪魔という人格を産み始めていた」
「そしてその人格があなたの体を離れて」
「恐ろしいものが生まれようとしていた」

「だから私の恐怖をそれに植え付けることで均衡を取り」
「そして分離を計ろうとした」
「悪魔を」
「先生の用意したクローン体に移そうとした」

「そう、だけど私はそれに失敗した」

「悪魔だけを移すはずだった体」
「これ以上、欲望を吸収することのないように仕上げられた体」
「心の無い体」
「足の動かない体」
「死んでもらうための体」
「クローン体」

「その体に」
「あなたの心まで移してしまった」
「心」
「欲望を吸収する心を」
「心の無いはずの体に」


「そして、トリは生まれた」
「あなたが」


「死んでもらうはずの体を」
「簡単に死なすわけには行かなくなった」

「父さんと母さんと車に乗って」
「そのことを伝えに三上先生のところへ行く時だった」
「私の中の恐怖のバランスが崩れて」
「欲望が私の心を黒く染めて」
「恐ろしい力で」
「車が燃え出した」

「それじゃあ、みんな」
「みんな俺の欲望のせいで...」

姉さんはその黒い手で俺の手を握った。
「それは違うの」
「本当にすべて私が犯した間違い」

「だからあの時あなたに叫んだのよ」
「車の中で私」

『あなたは悪くない』
『お願い強く生きて』

「姉さん...俺」

「いいの」
「話の続きを聞いてくれる?」

「うん」
俺がうなづくと姉さんもうなづいた。

「つまり」
「あなたは本当の三上 哲ではなく」
「クローン体で悪魔だった」
「だけど」
「その心は本物だった」
「紛れもなく三上 哲だったのよ」
「だから三上先生はしばらく時をおく事にした」
「ちょうど私の恐怖も手伝って」
「欲望を吸収する病気はしばらく治まってくれた」
「あなたは普通の生活に戻った」
「医者に通う事も無く」
「施設の手伝いをしながらそこに住み、学校にも通った」
「そしてまた三上先生は現われた」
「訪問が始まった」

「訪問...」
「姉さん」
「訪問って何なんだ?」
「何でラボは生まれ、死んでいかなくちゃならなかったのさ!」

「あなた自身でその答えを出して欲しいな、姉さんは」
姉さんは俺の手を離し、窓のほうに顔をやった。
外を眺めているのではなく、何か別のものを見つめているようだった。

「もう、行かなくちゃ」
「本当にさよならだね」

「私ね、思うんだ」
「本当に可哀想なのは誰だったんだろうって」
「私が本当に待っていたのはあなたじゃなくて」
「オツの方だったのかもしれない」

「心が空っぽのまま生まれ変わったオツ」
「彼は必死に心を埋めていった」
「自分が自分になるために」
「三上 哲を調べ上げ、三上 哲であろうとした」
「自分こそが本当の三上 哲であるという呪縛から抜け出せずに」

「末には世界を救おうと」
「幻想まで見た」
「WSは幻想だったのよ」
「理想郷だったのよ」
「オツなりの家だったのよ」
「家族だったのよ」
「擬似だとしても」
「たとえそれが擬似だとしても」

「だから彼」
「ラボが自分のもとに来た時」
「どう思ったんだろうね?」
「天使が下りてきたように見えたんじゃないかしら?」

「私はオツの元にいくことにするわ」

「きっと」
「そう」
「これで...」
「よかったのよね」

「姉さん...」

「じゃあね」
「カードキー返すわ」
「やっぱりなんとなく」
「このカードキーって好きになれないわね」



闇の中に
姉さんは消えていった。

姉さんはやっぱり俺の姉さんだった。
他の誰でもない。
姉さんだった。



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