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文化大革命は、何故10年間も継続したか文化大革命を学習している私に、ある日本人が質問をした。 「何故、文化大革命も10年間も続いたのでしょう。誰か止めることが出来なかったのですか?」 実は、この質問は、核心をついたものであり、私も咄嗟には答えることが出来なかった。 そもそも文化大革命とは、劉少奇・ケ小平などの「実権派」と呼ばれる人々の一掃を図るために、 毛沢東が1966年に発動したものであった。 当時、毛沢東は、相当に危機的な状態であった。何故ならば、人海戦術で大量製鉄をし、農村を人民公社に移行させ、食料の大増産と工業化を一気に進めてしまおうという「大躍進政策」を取っていた。 5年後に、イギリスを抜き、10年後にはアメリカを追い抜こうと当時は、意気込んでいた。 人民公社については、後に詳細に記述するが、簡単に説明するば、農業の協業化さらには、農村の行政機関も一体化するものであった。しかし、実際は、鉄は実際に用いることが出来ない屑鉄を大量に生み出し、他方、食料については、鉄の生産にあけくれていたことと、自然災害なども加えて、なんと、2000万人の餓死者を出す悲惨な結果に終わった。 このことは、毛沢東の権威を著しく損ない、党の権限は、劉少奇・ケ小平などの毛沢東批判派にうつっていた。だから、当初、毛沢東は、実権派をつぶせばそれで良いと考るのは、当然のことと言えるだろう。 では、中国は極めて長期間、何故ありもしない敵を内部につくりあげ、闘争にあけくれたのであろうか。 その秘密は、「文化大革命」の指導理論である「革命継続論」にあると思う。この理論は、社会主義革命は、既存の王朝、ブルジュワ政府を打倒するだけでは完了しないというもので、革命を果たせば、内部の資本家に肩入れする人々を打倒しなければならないという考えであった。この革命継続論は、国民党の残党、一部の地主を粛清するために、しばしば利用されていたが、文化大革命時代には、「革命継続論」の普及活動を全世界にも展開したのであった。 毛沢東の発案であるこの思想は、右派にも左派にも簡単に利用できるもので、毛沢東を支える道具にもなるし、また逆にゆさぶる道具にもなるもので、体制側にも非体制側にも恐い思想なのだ。 さらには、当初から中国共産党に対する不平不満が往々にしてあった。例えば、現在でも中国の新聞紙上を賑わす共産党幹部の腐敗の問題が、中国人民にとっては大いになる怨嗟の的であった。 発動したのは、毛沢東であるけれども、別の側面では、中国人民の腐敗幹部に対する反旗ということもあった。この毛沢東理論と民衆の不満が混在し、誰も止められない永久革命を続けることになったというところではないだろうか。 |
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