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その後の紅衛兵たち
毛沢東の忠実な兵隊であった紅衛兵たちは、その後、どうなっていたでしょうか。 ジャーナリストであり、国際問題研究家の小久保晴行氏は、自著「毛沢東の捨て子」たちのなかで、紅衛兵世代と会合し、海外崇拝の問題、当時のなれない肉体労働のほか、一時的には紅衛兵を海へ放り出し、殺害した事件もあったようだ。 しかし、下放した紅衛兵を見る世間の目は冷たかった、ケ小平は、「あの世代で地方に行った紅衛兵は使い物にならない」という発言もあったようだ。 さらに、造反した学生たちの評判も文革終了後、評価は一変した。 白紙答案を提出して一躍英雄になった張鉄生は、大學を受験した際に、全く答案用紙に答えがかけないため、思い切って、現在の知識偏重の教育体制の批判を行った文章で埋め尽くしたのである。ここまでなら、単なるこ生意気でいいわけ好きの受験生で終わるところであるが、この件が毛沢東の甥である毛遠新の耳に入った。 彼は、四人組と同盟関係があり、学力重視を打ち出していた周恩来と対立してたため、格好の攻撃材料になると考え、この「答案用紙」を地方紙に公開し、さらに人民日報まで転載され、一躍英雄にもなり、大学もフリーパスで入学でき、その後、全国人民代表大会常務委員まで出世することになる。 しかし、彼の栄光はここまでで、四人組が失脚すると同時に、刑務所行きの人生を送ることになる。 逆にいえば、当時は、知識人よりも農民の方がよほど、文化大革命の本質を取られていたのかもしれない。 農民はある紅衛兵に、現在は、劉少奇も打倒され、すべてが毛沢東派になったというのに、何故、戦うのだ。 何故、毛沢東は、派閥同士の喧嘩をやめさせないのだ。 この問題は、文革の本質を素朴ながらいがいとついているのかも知れない。 毛沢東が文革を死ぬまで継続させたのは、自分を凌ぐ者を登場させないということにあったのかもしれない。 常に、中国を内乱状態にして、政治の混乱を持続させて、最終的に自分が時の氏神の形で事態の収拾を図るということだったとも推測できる。 そのための道具として、紅衛兵を使ったのだ。
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