候補者ではなくその周囲でのことなど、知事選に抵触しない範囲で述べさせてもらいます。
注:日付を入れました。(H14.8.27)
選挙におけるネット論争については様々な意見が出されているが、ちょうど折りもおり、面白い記事を見つけた。
朝日新聞の朝刊では、「声」と題するコーナーで読者の意見を載せている。そこにあった読者の投稿から2つの意見を抜粋する。いずれも今度の長野県知事選に絡んだ内容である。
まずは8月21日付けの朝刊から。
「ネットの論戦 選挙も認めて」 高校教員(長野県52歳)
長野県知事選は告示され本番に入ったが、なぜか逆に静かになってしまった。というのは告示前は盛んに交わされていたネット上での議論がやんでしまったからだ。県警がネットでの選挙違反も摘発すると報道されたためだ。
たしかに選挙について議論すれば特定候補への支持や批判が出るのは当然だ。しかし、それを違法な手段による宣伝や誹謗中傷と言うべきなのだろうか。ネットの場ではマスコミに報道されない様々な情報が得られ、またそれを基に活発な議論が展開していた。
公職選挙法は文書の掲示や頒布など厳しく制限している。表現手段が規制されるから告示になると議論がなくなって、一般の有権者は全く受け身になってしまう。選挙違反を恐れると自ら発信することが実際上不可能となる。本来選挙こそ活発な議論がどこでも巻き起こるべきではないのか。そうした闊達な議論の表現手段を封じ込めると、ものを言うのは組織力である。それが選挙で選ばれた議員や首長と世論とのずれを生む一つの原因ではないか。
今回の知事選で問われていることの一つに、民意をどう反映するかということがある。選挙が民意を本当の意味で反映するためにも選挙法の改正を求む。
これに対して、8月25日付け朝刊には、このような投稿があった。
「誹謗と中傷のネット閉じた」 主婦(新潟県上越市46歳)
友人の長野県議会議員のサイトを3人で管理している。知事不信任案が可決されてから掲示板には毎日30件以上の書き込みがあった。が、ほとんどがこの女性議員への誹謗・中傷でうずまった。建設的な意見が書き込まれると、すぐに感情的な反対論で埋め尽くされるという状況であった。
とうとう議員である彼女の学歴がターゲットになり、「裏口入学であったことを知らない選挙民はいない」とまでの書き込みがなされた。「事実無根」として削除せざるをえなかった。
この国の民主主義はどうなっているのか。これが民意というものか。21日の「ネットの論戦、選挙も認めて」とあったが、政治に関しては未熟だと感じざるを得ない経験であった。
知事選挙の始まりと同時にサイトは一時閉鎖した。千件の書き込みを印刷した束が机の引き出しにある。誹謗・中傷がほとんどという資料である。意見を出し合い論争していく国になることを祈るのみである。
上記の2者の意見であるが、それぞれ投稿者の背景が透けて見えている。
長野県政に関心がある者が読めばすぐに判ることだが、後者のものは諏訪市の金子ゆかり県議のウェブサイトがアタックを受けてパンクしたことを指している。金子県議のサイトは現在、この投稿をした主婦名義の個人サイトになっている。
金子県議のウェブサイトの掲示板に限ったことではない。Yahoo!掲示板の関連トピックや2ちゃんねる掲示板の関連スレッド、更にはテレビ出演したことにより広く知られるようになった浜県議のウェブサイトにあった掲示板などでは、不信任に賛成した県議を誹謗中傷する投稿が、それも特定ハンドルネームの投稿者から次から次へと書き込まれていた。
浜県議のウェブサイトは、やはりアタックを受けて一時閉鎖に追い込まれ、更にそれを以て“敵前逃亡”などといわれのない中傷をされていた。
Yahoo!掲示板や2ちゃんねる掲示板(ここでは固定ハンドルが少ないが)では未だそれが続いている。
6月県会が始まった頃から、関連するインターネット掲示板では投稿数がどこも激増した。Yahoo!掲示板では、約2ヶ月間で6000件以上、一日平均で100件を超える投稿がなされているトピックもある。
上記投稿者のうち後者はサイト運営者としての感想であるが、前者は恐らくそういったインターネット掲示板の参加者であったのだろう。
しかし、いやしくも高校の教職員ともあろう者が、誹謗中傷の取り締まりを表現の自由への制約と短絡的に結びつけ、選挙違反を恐れて投稿できないのはおかしいから法改正しろとはどういうロジックだろうか。この人は、これまでインターネット掲示板では議論と称して何の不自由もなく誹謗中傷の投稿ができたのに、県警のせいでそれが出来なくなってしまったのが悪いとでも云いたいのだろうか。
候補者の政策論や政治的スタンスに対する批判ならば恐れることなく堂々と行えば良いだけのこと、それを以て官憲に制約されると云うのなら、その時にはそれこそ高校教員の“組織力”で闘えばいい。
それとも官憲が信用できないと云う意識が先にあり、その主張の方便としてこの話題を取り上げているだけなのだろうか。
前者の投稿は、自己の“組織力への抵抗感”を必要以上に正当化しようとする余り牽強付会に趨っているようにさえ感じられる。この教員が高校で何を教えているのかが気になるところである。
組織力に関しては賛否両論がある。組織とはある種の利害関係を共にする集団であり、組織の利害関係が政治や政策に絡んでくるときには、組織として動くことは十分にあり得ることであって、現実には全面否定することはできない。県議会各会派や連合長野が長谷川氏を推し、日本共産党及び系列団体が田中氏を推しているのもそのためである。
しかし一方で、組織による締め付けは別の問題である。それは組織の前に個人があるためであり、組織の都合以上に個人が優先するのは当然のことである。
そもそもこの高校教員という投稿者は、未だ盛んに投稿がなされている2ちゃんねる掲示板やYahoo!掲示板のことを知らないのだろうか。更に云えば、昨今の組織力が以前ほどうまく働かないという情勢を見ても明らかなように、一時代前の物の見方しかできていない。それとも、“組織力”を行使されては拙い立場の方であろうか。
県警がなぜネット上のものを取り締まるに至ったかは、信毎報道に「HPや掲示板にさまざまな評価が書き込まれ、関係者に嫌がらせのメールが送られたことを踏まえた」「名誉棄損や、明らかに相手をおとしめる公選法違反(虚偽事実の公表)」とあり、浜県議や金子県議のウェブサイトで7月に何が起こったかを知る者としては当然の措置であると思う。
表現の自由は国民の権利であるが、本来、自由・権利と責任・義務とは常に表裏一体である。責任を追及されると困るような自由は行使しなければいい、ただそれだけのことである。“誹謗中傷”の言葉には、言外に“虚偽事実の公表”がある。たとえネット上であろうとも“虚偽事実の公表”が県警の追求の対象となるのは当然のことである。
ネット上は新たな空間かもしれぬが、けっして治外法権が適用される聖域ではないのだ。日本では自由や権利をはき違えた未成熟な見解が跋扈していることへの怒りと失望感が、金子県議ウェブサイトの管理者の投稿から感じられる。
インターネット上での問題は、直接的な名誉毀損に当たる誹謗中傷だけではない。選挙に関係のない個人情報が流出し、結果として関係者へのいたずら電話、脅迫電話などに至っていることがある。
不信任に賛成した県議や、前知事を批判して対立候補として名の上がった人に対して、嫌がらせ電話や脅迫電話が寄せられたことは全国ニュースにもなった。それらの大半は県外からのものであったと云われている。また有名な某ジャーナリストによる、ある候補者はベンツに乗っているから市民派ではないなどとする、情報を発した側の良識を疑いたくなるようなアジテーションもあった。
金子県議ウェブサイトの管理人の云うとおりやもしれぬ。
かつて日本は12歳の少年並と評されていたことがあったが、未だそれが変わっていないのだと、田中県政そして今度の選挙を通じてつくづく実感させられた。
余談であるが、7月5日の不信任劇から知事選に至るまで、“民意”と云う言葉が非常に安売りされた。ちょうど真夏真っ盛りとは云え、民意、民意と、蝉でもあるまいにと思うくらいであった。
“民意”の語は、「自らの意見の形容詞」ではなく、あくまで選挙結果を示す抽象的な言葉である。県議らが唱えた「民意を問う」ならまだしも、「私の意見は民意だ」などとする者は、“民意”の語彙を理解しておらず、まず疑わしい。軽々しく使わないでもらいたいものだ。
この話題は知事選とは直接の関係が無いのだが、ダム問題などで知事選に絡めてしばしば取り上げられ、全国ニュースにもなったので、いちおうここに挙げておく。
下諏訪町長選で当選を果たした大学教授の高橋氏は、早々と脱ダムに関連する幾つかの姿勢を打ち出している。信濃毎日新聞の記事によると、高橋氏の考えは以下のようである。
新町長がどのような政党に属しているかは、このさい関係がない。問題は、ここに掲げられたことが果たして可能なのかと云うことである。
上記のうち、1については後述する。2と3は河川管理者たる県が主導権を握っているために「望ましい」との表現になっているのであろう。下諏訪町長と云う立場上から発言内容が後で問題になりそうなのは4である。
ここで疑問がある。
高橋氏はダム検討委員会及び砥川部会での議論の経過を知っての上で、上記のような発言をしたのだろうか。
上記3を見る限り、高橋氏は、6月県会で当時の田中知事が示した方針で良いとの見解であると思われる。ならば、砥川で河川改修を220トンの流下能力のある断面に改修しなくてはならないが、砥川の場合には下流に諏訪湖があるため、護岸嵩上げか拡幅かのどちらかを選択しなくてはならない。どちらの選択肢をとるにしても、砥川流域は多くの痛みを伴うことになる。
ところで、流域対策との言葉を持ち出した以上は、下諏訪町でも積極的に“流域対策”の具体案を出してみてはどうだろうか。
3ですら痛みを伴うとなれば、2は更にそれの上を行くことになりうる。
検討委員会の席で、脱ダム派の学者委員が「砥川は放水路だ」との迷言を吐いたことがあった。この委員は馬鹿正直なのであろう。図らずも、今の砥川では上記2のような改修は非現実的であると言外に認めているようなものである。放水路は水を流下させることに特化したものであり、そこには自然環境も親水もへったくれもなく、とても観光に使えるシロモノではない。外から人を引きつけようとするには、どうしても断面を大きくして、何らかの“化粧”をしなくてはならない。
観光の足しになるかどうかは分からぬが、砥川ではワカサギが放流されている。ワカサギの生息環境への配慮との点から見ても、現況以上の「放水路」にする訳にもいくまい。
もっとも砥川については、今や全国区の知名度になってしまっており、どのような形で改修を行おうとも、各地のダム反対派の市民団体にとっては格好の観光コースにはなるやもしれぬ。
流域対策の図が出てくるのはいつになるか分からないが、2や3を受けて河川改修の図が具体的に出てきたとき、話は1に戻る。
かつて流域でのアンケート調査を行ったことがあるが、そこでの結果は、ダム反対の割合が6割を越えていたが、ほぼ同じ位の割合で基本高水を理解していないとの答えも出ていた。アンケートを行った時とは条件が異なってきている。具体的な痛みが明らかになっても、民意は下諏訪ダム反対のままなのであろうか。
今後のなりゆきが注目される、と云うといかにも無責任だが、そうとしか云いようがない。話が全然煮詰まっていないまま進んでしまっているので、代替案が出される頃に騒ぎが再び起こることがかなり高い可能性で予想される。
ところで岡谷市長は、高橋氏の上記4の発言を受けて、ダム取水には拘らないとの見解を明らかにした。無論、岡谷市が新規水源を諦めたわけではなく、必要分を下諏訪町が譲ってくれると云う話が出てきたことを受けてのものであり、それが実現できるのならば、砥川の治水には関わりをもたない岡谷市がダムに拘る理由は何もない。
そこで再度確認すべきことがある。本当に下諏訪町には水源が、岡谷市に1万トンを与えることになっても猶、余裕があるのだろうか。もしあると云うのならば、それこそ、これまで下諏訪町が新規水源1千トンを下諏訪ダムに求めていたのは何だったのかと云うことになる。
行政の長となった以上は、無責任な言動は許されない。
許されないはずだったのだが、最近では無責任な言動をしても簡単に許してしまう者も少なくないようだ。許す側も無責任なのだろう。
長谷川氏への批判の中で、長谷川氏がかつて県の評価監視委員会の委員であり、浅川ダムなどの再評価で継続を認めたと云うことが取り上げられている。正直なところ馬鹿馬鹿しい、しかもたちの悪い言い掛かりに類するものであるが、簡単に思うところを述べておく。
公共事業は動き出したら止まらないと云うのが最大の欠点だと云われてきた。時のアセスと云うような概念も持ち出され、5年などの一定期間ごとに事業の必要性を検証することが決まり、長野県でもそれを受けて評価監視委員会が設置された。
評価監視委員会は何をするのか。簡単に云うと、その時点において、事業の必要性があるかどうか、未だ目的達成の最も有力な手段であるかどうかなどをチェックするのである。
そして長谷川氏は以前にその委員会の委員であり、その時の委員会が、あくまで「その時点」での意見として「継続可」との判断を出したに過ぎない。
その評価が出された時と現在とでは経済状況も変わっているし、ダム建設をめぐる社会情勢も大きく変わっている。更に云えば、審査して可否の判断をするだけの委員会と、方向性を自ら打ち出す行政とでは立場が違うし、当然ながら判断条件や判断項目も異なる。
よしんば当時、長谷川氏が委員会内で積極的にダム事業の継続を訴えたとしても、それはあくまでその時点での委員会としての判断であり、今現在、知事候補者としてどう考えているかとは別問題である。
同じ事柄であっても、条件が異なれば評価も異なってくるのは当然のことである。
ましてや長谷川氏の場合、ダム継続を決めた委員会は当時提示された条件のもとで継続を決めたのであり、今の長谷川氏は現在出されている条件を自分で見て、話し合ってから決めるとしているのであって、基本的なスタンスそのものは変わっていない。
カテゴライズをしようとすればするほど、説得力が褪せている。
これを以ておかしいとするのならば、かつて田中康夫氏が新幹線建設に反対し、軽井沢で立木トラストをしていたことについてはどうなのだろうか。失職前の田中康夫氏は、知事として新幹線整備促進の姿勢を示しており、自身もまた新幹線を頻繁に使用していた。これらは広く知られた事実であるが、これこそは矛盾ではないのだろうか。
日本共産党の方々は吉村県政時代の借金増加を非難するが、その借金により造られた高速道路網などのインフラ整備の恩恵に浴してはいないのだろうか。上伊那選出の小林伸陽県議は吉村県政時代の借金増大を厳しく批判しているが、県議会等で長野へ来る時には、紛れもなく吉村県政の頃に造られた長野自動車道などを用いていないのだろうか。
不透明なまま知事選出馬を辞退して長谷川氏と政策協定を結んだ花岡氏について、あまり消息が聞こえてこない。
一連のことから表舞台に出にくいのかと思いきや、8月26日発売の『週刊読売』に関連する記事が掲載されていた。
告示を前にした8月7日に、花岡氏の母親が倒れて緊急入院していたのである。花岡氏は迷い、知事選出馬を諦めて母親の看病を選んだという。恐らく告示直前まで迷ったのに違いない。
これならば、急な出馬断念も、それ以降姿をあまり見せないことも、合点がいく。
さて、事実関係が出たところで、花岡氏を散々こき下ろしてきた日本共産党などの対応が楽しみである。日本共産党系の県労連の関係者が公職選挙法違反で花岡氏と長谷川氏とを告訴し、それに対抗して花岡氏らは悪質な選挙妨害だと抗議した。同党県議団長の石坂県議のウェブ日記が人気を博しているが、そこにも花岡氏辞退に関して公職選挙法云々が明記されている。
これに対して、母親のことは別問題だと云うかもしれない。長野市長らが問題なのだと云うかもしれない。もしくはもっと別の、巧みな言葉を用意しているかもしれない。あるいは無視するかもしれない。
事実関係が明るみになってからの花岡氏への対応は、日本共産党などの花岡氏をむやみに批判した者らがどこまで人間性を持ち合わせているかの試金石になりそうである。
注:一部修正(H14.8.27)
「新潮45」9月号は珍しく、店頭からすぐに姿を消した。その原因が、これに掲載された日垣隆氏の寄稿によるものであるとされている。
これまでの日垣氏の発言履歴を見ていれば、日垣氏が田中康夫氏に特別のシンパシーを感じており、その縁もあって県の委員会の委員にも推挙されたそうである。日垣氏の著したものを見るときには、それを承知しておかなければならず、「新潮45」9月号における論調においても然りである。
ところで、寄稿の最終部分には、日垣氏による小林照幸氏批判が出されている。文面を一々あげつらうのも馬鹿らしい、同業者へのケチつけとしか映らない。
小林照幸氏は、長野市出身のノンフィクション作家で受賞歴もあり、政治に関しても「政治家やめます」という本を著しているが、一方でサンデー毎日など毎日系のマスメディアを中心にしてこれまで田中氏批判を1年以上繰り広げている人物でもある。
小林照幸氏の田中氏批評は別記にも載せている通りだが、長谷川氏の主張とおおむね重なる。そこらが田中氏擁護の日垣氏の癇に障ったのであろう。しかし「新潮45」9月号における小林氏批判の文面は、本当に作家なのかと疑いたくなるほど稚拙であり、あれによって一番損をしているのは日垣氏本人と、この程度の人間しか熱烈に支援できない田中氏である。
付記:(H14.8.26)
文面をあげつらうのも馬鹿らしく思ったが、これだけでは原文を読んでいない者にとってチンプンカンプンであるため、補足する。
日垣氏は「吉村政権時代に批判せず、どうして田中政権にのみ批判するのか」としているが、これは田中氏擁護の論調のなかでしばしば用いられているレトリックである。更に、小林氏を何の論拠もなく「吉村−池田後援会」の仲間呼ばわりしているが、これまた田中氏擁護の論調でしばしば用いられている二項対立論である。これらは同時に話題そらしの常套的手段でもあり、云うまでもなく田中県政への問いかけに対しての答えにはなっておらず、煙に巻いてその場をしのぐための詭弁でしかない。
田中県政の比較対照は吉村県政なのだろうか。過去のものと現在未来のものとを比較することは、特に現代のように年単位で社会の価値観が変わっていくような時代においては意味がない。そもそも小林氏も吉村県政については最初から批判的である。田中氏擁護論においては、比較対照として吉村県政や池田氏を露骨に持ち出してきた段階で、その主張を疑ってみるべきであろう。
もっと云えば、「吉村−池田後援会」なるものが悪の元凶であるかの如き表記をしているが、それらのうち銀行や建設会社など、少なからぬ部分が田中康夫後援組織に合流していることを、日垣氏は知った上で「吉村−池田後援会」なる言葉を用いているのだろうか。もし知らないと云うのであれば、『週刊朝日』8月16・23日合併号の吉田司氏のルポをご一読されたい。長野市最大手の建設会社会長のインタビューが掲載されている。
「吉村−池田後援会」と云う言葉を旧体制派の象徴の記号として持ち出してきた段階で、日垣氏の底が見えている。繰り返すが、これによって最も大きな痛手を食らうのは日垣氏本人である。
多くの県民が良きにしろ悪しきにしろ長野県政に関心を抱くようになったのは五輪帳簿焼却問題が全国ニュースとなり、その流れの中で田中氏が知事選に出馬してからである。日垣氏は大きな誤解をしているようだが、県民の誰もが常に県政に関心を抱いているわけではない。県民がもっと県政に関心を抱いているのならば、田中前知事の支持率低下はより著しくなっていただろうし、もっと早い時期に不信任を突きつけられていたであろう。
注:一部修正(H14.8.27)
日本共産党長野県委員会が9日に発表したと云う談話がウェブ上で公開されている。本来、小生には関係のないことであるが、内容があまりに身勝手である上に事実関係にも疑問点があるので、ここで指摘しておく。(原文)
付記:ここに引用した「原文」は、2002年8月23日時点のものである。
国民を苦しめているから小泉首相の不信任は当然であって、県政を混乱させている知事への不信任は暴挙とする。むしろこちらのほうが暴論である。県議会の主流会派が多数の議席を有していることもまた民意の現れである。
地方自治体では首長が絶大な権限を握っており、議会がそのチェックを行うことになっている。首長は議会を解散する権利を持っており、一方で議会は首長に不信任を突きつける権利を持っている。
「不信任が暴挙」であるとの主張は、議会が暴走したと主張することに等しく、それに対する措置は議会解散である。議会解散の選択肢を選ぶことができたにもかかわらず、それを選ばずに失職したことは、他ならぬ不信任を突きつけられた前知事が、県議会の不信任が“暴挙”ではなかったことを自ら認めたことになる。たとい本人が口先で否定しようとも、自らの判断でそれを選択した以上はそう見なされるのである。
それが地方自治体における政治権力の基本的なメカニズムである。
これは初歩的なことがらである。
それを理解しての主張であるならば日本共産党の主張は嘘で塗り固めたものであり、県民を欺くものである。理解していないのならば彼らは政治に関する素人集団ということになる。素人がプロになりすまし、尤もらしく県民を欺いたことになる。
いずれにしても、日本共産党の主張は県民を欺いている。政治家になるより先に地方自治の精神を学んでから出直して頂きたい。
田中氏が知事になるに際して掲げた公約は、あくまで「公共事業の見直し」であって「ダムの中止」「厄介な事業の棚上げ」ではない。これこそは「恥も外聞もなく嘘で塗り固めた」身勝手な主張である。(公約の履行不履行に関する詳細は別文に譲る。)
「田中前知事は公約を守っていただけ」とする日本共産党の主張に対しては大きな疑問を持っている。日本共産党は当初、田中前知事に対して、前知事の公約であった五輪帳簿焼却問題を明らかにするよう何度も追求していたが、脱ダム宣言が出された後、なぜそれを追求しなくなったのか。(これらは長野県議会サイトや日本共産党長野県連のサイトを見れば確認いただける)
五輪帳簿焼却問題その他については、前知事が事実上“公約を裏切った”ことについて、どうして触れようとしないのか。
「県政の主役は…オレたちだという態度」と云うのは、日本共産党長野県連の議員らがそう感じていたというだけのことである。知事が県民から選ばれているのと同様に、県議会議員もまた県民から選ばれているのであり、片方が県民を代弁し、もう片方が代弁していないと一方的に決めつけるのはおかしな話である。県議会が民意を代表していないと云うのならば、日本共産党長野県連が擁立して長野県議会に送り込んだ5人の代表者もまた民意を代表していないことになる。
一部県議が再度不信任を出すと主張していることについても、県議会にはそれが制度として認められている以上、それを以てして「民主主義の制度を踏みにじる」ものではない。ちょうど田中氏のとった「失職→再出馬」との対応が法に抵触しないように。
どうしてもおかしいと云うのならば、不信任直後の選挙で同一人物が再選された時における不信任議決を制限するよう法改正を求めるべきだ。因みに田中氏のとった「失職→再出馬」との対応については、法の精神からみておかしいので見直そうと云う動きが出ている。
委員会の設立の条例は県議会の立案により定められたとして話題になった。それは事実である。
しかし同時に、その条例の運用は全て知事の裁量に任されている。これまた事実であり、この条例の企画立案をした竹内県議も、ここで批判の対象になっている杉原氏も共に、それを認めている。結果的にそれが悪用されたのである。
条例の精神ではなく、前知事による運用がデタラメであったことが各方面から指摘されており、杉原氏らもまたそれを指摘しているのであって、それへの対抗として条例そのものを批判することは、いくら日本共産党の5県議だけが同条例案に反対したからと云っても、筋違いである。
検討委員会の議論が公開されていたとするが、ただ単に公開されていただけであり、外部からの当然の指摘は無視ないし軽視された。最後の草案作成の過程が非公開であったことには触れていない。また議論のルールも場当たり的・恣意的であった。
委員であった石坂県議は、治水計画の基礎となる流量資料の不備と、それに起因する計画の不十分さを盛んに主張していたが、同じ資料から作成したものが科学的であると断言するのは自己矛盾である。
更に云えば、第14回の中でダム無し案に決める時、採られた方法は日本共産党が日頃批判する“数の横暴”によるものであった。あれを「民主的な討論の結果生まれてきた」と涼しい顔で主張するに至っては、ご都合主義も甚だしい。
この議論に関して、詳しくは別文に譲る。
「本当の理由がダムにある」とは抽象的な文面であるが、少なくともダムの代替案に関する前知事の対応が無責任かつ不誠実であったというのが引き金になっていることは事実である。
不信任の本当の理由がダムにあるかどうかのことと、県民がどう思っているかとは別問題である。
数字については杉原氏の正式な対応を待つ。
幾つかを例示しているが、例示したものがどれだけ具体性を伴うものであり、また成果を上げているかについては触れられていない。むしろ商工業の関係者からは怨嗟の声が聞こえており、土木業者を木こりにとの発想もまた非現実的であると現場から声が挙がっている。
前知事は県庁内にセクションを設置し、議論する委員会を設置した。しかしそれを以て「対応した」とするのでは子供騙しである。そのセクションが設置されたのはいつなのか。
BSE対策は不況対策ではなく、ただの応急処置である。
BSE騒動の陰で消えていった「しなの牛」プロジェクトの失敗は誰が責任を取るのか。
ダム中止ありきの議論の是非は別として、ここではダム中止を前提としての話とする。
ダム中止により考えられる費用負担は、代替案の事業投資、国庫補助金の返還、市町村等への負担金の返還、関係者への違約金などが挙げられるが、別文で載せているので簡略にする。
代替案について、前知事は当面ダム計画と同じ基本高水でとの方針を示している以上、ダム計画と同程度の治水・利水の代替案を提示する責務がある。浅川については別文で載せているが、ダムを中止して遊水池を造るという話になれば、杉原氏の主張は満更嘘ではないどころか、かなり現実的なものである。代替案で出されている数値にはそれなりの根拠があり、逆に遊水池以外でどれだけの実効性のあるものが出されるのか。
緑のダムや貯留施設でダム規模の20%相当の流出量を稼げるのならば、どうして1年かけて議論してきた検討委員会や部会の中で出されなかったのか。これに関して合理的な説明が全くなされていないのが実態である。夢物語を並べて聴衆を欺くのは、それこそやめていただきたい。
以上より、この言葉は、まずは発した日本共産党の関係者自らが噛みしめていただきたい。
この文面のタイトルでは、杉原氏の主張を「恥も外聞もなく嘘で塗り固めた」としている。
求人倍率の項目で「悪くいうためには、どんなデタラメでも平気で並べ立てる」として杉原氏を非難しているが、日本共産党長野県委員会名で出された杉原氏非難の文面こそが、「どんなデタラメでも平気で並べ立てる」の格好の見本になっていることに、日本共産党長野県連の関係者は気付いているのだろうか。
これを真っ先に主張したのは当事者である県議会であるが、中央でも少なからずいた。
まず強烈にこれを主張したのはテレビのコメンテーターとしても知られる自民党参議院議員の舛添要一氏。スポーツ新聞では「馬鹿」呼ばわりでバッサリと切って捨てており、自身のウェブサイトでもまた批判している。
舛添氏の場合、テレビ出演により名前を売ったという共通点があるだけに尚更、田中氏のポピュリズム的要素を激しく攻撃している。
舛添氏だけではなく、何人もの政治評論家が同様の論説を述べている。
その代表格が、舛添氏ほど論調が強烈ではないものの、テレビ画面や雑誌などあちこちの場で述べている岩見隆夫氏である。岩見氏の主張は単純明快であり、小生も容易に同意できるものである。
首長と議会と云う2つの権力が車の両輪となってバランスを取って行政を進めるのが地方自治の姿であり、暴走が起こるようであれば2つの権力が「不信任」「解散」という方法により互いを掣肘し、民意を問い直すシステムになっている。不信任が出された以上は、首長は自らが正しいか議会が正しいかをまず自ら判断しなくてはならず、自らが正しいと思うのならば議会を解散し、自らに非があると認めるのならば議会を解散せずに自ら身をひくことになる。もしどちらにも非があると思うならば、議会を解散すると共に自らも身をひくとの選択肢もあろう。
この権力のバランス構造で想定していなかった事が、今度の「失職から再出馬」と云うものであった。良きにしろ悪しきにしろ、これまでの政治家は、不信任を出されると議会を解散するか自らが引くかで筋道を通していたが、恐らく自己の選挙戦術のためにその筋道が反故にされた。
問題なのは、これが法の上で問題がないと云うことであった。法が目的を達することが出来ない、つまり法の不備である。それ故に、田中氏失職の直後には自民党長野県連の宮下元厚相らが法改正に言及し始めた。
岩見氏にしろ舛添氏にしろ、田中氏のとった対応が法に触れていないことは充分に承知している筈であり、これまでも無論のこと、法については言及していない。
そんな中で地元の田中氏擁護論者から岩見氏の見解に異論を唱える者が幾つか出ている。しかしそれらの論調は、田中氏のとった行動が法に触れていないとの一点張りである。つまり2つの権力による車の両輪と云うところを起点としている岩見氏らの主張に対する反論は未だなされていない状況である。
週刊朝日8月2日号の読者感想の欄である「前略・お便りクラブ」に以下のようなものがあった。なお週刊朝日では、どちらかと云うと田中県政批判のスタンスで記事が書かれている。
■「田中知事の『敵役』県議6人衆の意外な素顔」(7月26日号26ページ=投稿者名省略)
不信任のニュースに接しながら、両者の対立がいま一つわからなかったが、記事で氷解に近づいた。それは脱ダム派と土建派の激突などという高邁なものではないという点。「英語やイタリア語ができて、日替わりのベルサーチのスーツで出勤、そして卓越したコピーライターとしての能力」と、田中氏のアンパンマンぶりを評したくだりに、図らずも対立そのものの重厚で深刻でない“軽さ”を感じた。平たくいえば、キザな男が田舎ものを小ばかにしている図である。田舎芝居は列島各地の県政に健在なことを知った。
田中県政における知事と議会との関係は、まさに「キザな男が田舎ものを小ばかにしている図」の言葉に尽きるであろう。その背景には都会へのコンプレックスや中央に依存せざるを得ない財政の現状がある。
昨年秋に週刊誌「AERA」で田中康夫氏の実像に踏み込んだレポートを寄稿した吉田司氏は、知事不信任の後、幾つかの雑誌に寄稿をしているが、その中で吉田氏は、マスメディアの介在を含めた広い意味での「都会へのコンプレックス」というものが田中県政を読み解く重要なキーワードであることを指摘している。それは県議側だけでなく、当時知事であった田中康夫氏についても然りである。