ダム考

ダムの議論はどこか感情的・直感的になされていることが見受けられる。そこで、冷静なダムの議論をしてもらうべく、以下のように私見を述べる。ダム反対論が声が大きくなっているように見受けられるので、いきおいダム反対論側への批判の傾向となっているが、以下をもって一般論的に「ダムこそ是」とするという意図は全くなく、個人的にはダム論は個々の議論だと思っているので誤解なきよう。

関連するページ

topmenu


ダム考

ダム建設に関する議論について色々考えることがある。

平成以降でのダムに関する主要なエポックは以下のものであろう。

そして以前から疑問に思っていることだが、ダム建設の是非に関してダムごとに是々非々だとする意見の人のことを、なぜかダム推進派とジャンル分けして溜飲を下げる方々が少なからずいらっしゃる。高知県のダム問題に関連して橋本知事を罵倒した田中康夫知事はその典型例であろう

公共事業も淘汰される時代に入っている。ダム事業は大規模プロジェクトであり、一般の公共事業と違って、事業が始まる段階で淘汰が行われている。それを広い意味での「是々非々」と見るならば、「是々非々」でダム建設が始まっているということであり、従って「是々非々」=ダム推進派という図式になるのだろうか。
しかしここで使われている「是々非々」というのは、あくまで現時点評価である。事業が始まった時には必要性が高かったかもしれないが、社会情勢の変化により不要となったダム事業というのもある。「脱ダム宣言」で既に工事中のダムが対象外になったことや浅川ダムの本体発注中止などのように、ダムの工事が本格的に始まってしまえば中止は事実上できないが、ダムの工事が本格的に始まるまで定期的に現時点評価を繰り返し、評価が下がって「不要」もしくは「優位性が無い」と結論が出た時に中止という判断をする、というのが「是々非々」である

そしてダムを是々非々で個別に議論するときのキーワードは、必要性・妥当性・優位性の3つであり、必要性というところでは関係する地域の住民の意向というものが関わってくる。本当に治水事業が必要なのか、その事業には費用対効果がどれだけあるのか、他の方法よりも優れているのか。そしていずれも、金額などの指標は算出することができても、数値はあくまで判断材料でしかない。

改めて云うが、冷静な議論を望むところだ。


アメリカでのダム事情を考える

6年ほど前、アメリカの水資源開発ダム関係者のお偉いさんであったビアードさんとかいう人が云ったとされる「ダムの時代は終わった」発言だが、アメリカよりも日本でより大きく騒がれているというのは、相変わらずの「アメリカがくしゃみをすれば…」の構図故であろうか。

同発言があって理論武装に迫られた建設省(当時)やダム関係団体は、HP上などで自らの主張を積極的に行うようになった。当然アメリカでの実情も調査をしている。そのため、どう評価するかは別にして、データは国土交通省ウェブなどで得られることができる。
曰く…

アメリカでは未だ42のダムが工事中である。(日本は100、中国は330,インドは650が工事中)
現在のお偉いさんは「ダムを造るのかと尋ねられたら造ると答える」と発言した。
アメリカと日本とではダムの貯水容量が桁違い(アメリカのダム貯水容量は日本の約20倍)であり、ダム整備のピークを超したアメリカと整備中の日本とを単純に比較するのはおかしい。
アメリカで撤去されたダムは確認されただけで460以上あるが、日本でも、老朽化や不用と化したとの理由で撤去されているダムや堤が確認されただけで300以上ある。
アメリカで撤去しているダムは高さ15m以下の、日本で云うところの堰に当たるものがほとんどを占めており、半分以上は高さ5m以下のものである。
アメリカで撤去しているダムは大半が治水以外の観光等の目的で造られたもので、現在は使われておらず、少数民族関連で撤去が決まった一部を除き、治水・環境上むしろ撤去すべきと判断されたものばかりである。…

一時期は盛んに引用されていたビアード氏の発言も、こうした一連のPRの中で最近は存在感が薄れてきているようだ。
ところで、「アメリカでは…」と云い出すダム反対論者から、ダム貯水容量の違いなどについて触れているのを聞いたことがない。自分に都合の良いところだけを声高に云い、都合の悪いところをすっとぼけるというのは一種の戦術なのやもしれぬが、そればかりだと自らの論説の信憑性が薄れるだけである。


ダム検討委員会での利水の検討に異議あり

イザヤ・ベンダサン氏の「日本人は水と安全はタダだと思っている」という言葉、ダムの是非をめぐる議論の中で改めて実感させられることがある。

現代の日本では、水は水道の蛇口をひねれば止められていない限りいくらでも出てくる。料金はタダでこそないものの、市販されているペットボトルの水に対してかなり割安であり、美味かどうかはともかく最低限の品質保障もある。これが世界においてどれだけ恵まれた環境であるかは、ここで改めて云うまでもなかろう。
ところで21世紀は水の時代であると云われている。「20世紀は石油を巡って戦争が起こったが、21世紀には水を巡って戦争が起こる」とする人もいる。日本は陸地で他国とつながっていないため、水利権を巡って他国と諍いを起こすということは当面なさそうだが、将来には海水をめぐる争いや、渇水による国家間の水の売買、果ては科学技術を駆使しての雨雲の取引などというものも生じるやもしれない。

雨はパターンこそあれ、常に同じようには降らない。これは経験に基づく常識であり、ダムという水溜めの装置が編み出されたのも雨が恒常ではないためであると云っても過言ではなかろう。雨は地球上の水の循環の一翼を担っているが、近代以降の地球環境の変化に伴い、水循環のメカニズムにも歪みが出始めてきた。
降雨量の総量は大きく変わっていないのだが、降り方が極端になってきている。降るときにはどっと降るが、降らない時にはほとんど降らない。
水瓶であるダムの水位も慢性的に下降気味である。手元にデータはないが、どこでも近くにあるダムのダム湖を見てみるがいい。ダムの常時満水位と呼ばれる線がくっきりと風景の中に浮かび上がっており、ダム湖の水位がそこに至っていることは滅多に見られない。

世界各国は21世紀の水資源戦略を立てている。トルコは水資源確保のためユーフラテス川水系に数多くのダムを建造中であり、下流のシリアと水資源開発をめぐって戦略が対立している。中国もしかり、「ダムの時代は終わった」とするアメリカでもカリフォルニアなどで水資源開発のダムを未だ建造中である。

日本ではどうだろうか。国や地方では、水資源の戦略を立てているだろうか。
水資源をビジネスととらえて戦略を立てる自治体も、おそらくこれからは出てくるだろう。いや、既に出てきているかもしれない。たとえば客観的に見て、長野市などは数多くの水溜めダムに水利権を持っており、比較的水資源の豊かな自治体である。それでも長野市は浅川ダムからの新規取水を希望している。これが市民の総意なのか、市当局の時代を先取りした戦略なのかは分からないが、遠からず来る筈の地方自治の時代の幕開けは、地域間の競争がおおっぴらに解禁されることを意味している。競争には、税収の元となる人口や企業といったパイの奪い合いや観光客・行楽客の誘致合戦も含まれている。

前置きが長くなったが、ダムの検討委員会で利水の検討が行われている。しかもワーキンググループと称する利水検討のスタッフの大半は、ダム計画に直接関わってくる地域の外の人間である。その“よそ者”が検討委員会のワーキンググループという肩書きのもと、「あんたの市町村はこれだけ水があれば十分だ」と横から口を出してくる。
ここまでくると、まさに失礼ではなかろうか

ダムの検討委員会において、利水の方法としてのダム建設の是非を問うている分には別に構わない。ダム計画がダメとなったら、それに相当する別の水利権を模索すれば良いことであり、ダムを否定する以上は検討委員会の利水部門でそれを援助する、つまり具体的な代替え案を提示するという道義的責任もある。

そもそも市町村や市町村組合などが主管している上水道計画の数値について、たかがダム事業の是非を検討しているに過ぎない県の検討委員会が容喙することそのものがおかしい。市町村の水道計画の数値は市町村やその議会で議論すべきものである。
市町村等での水道計画の事業化のために県から補助金を出してほしいという要望・申請に対して、県が計画の数値を照査して「その計画には援助できないよ」と断る、というのとは話が違う。事業と計画とは異なるのだ。事業とは戦術であり、計画とは戦略である。多目的ダムの利水事業とは、市町村が水道計画という戦略を立てて、それを遂行するために多目的ダム事業という戦術の共同実施を県に持ちかけたものである。従って県ができるのは多目的ダム事業という戦術に対しての判断だけであり、それを県が市町村等の上水道計画という戦略にまで踏み込むと云うのは主権侵害に他ならない
基本計画は事業者が主体となって行うべきものであり、県の検討委員会は何の権限があって余所様の基本計画にケチをつけるのだろうか。それとも県は、市町村のことを県の出先機関だとでも思っているのだろうか?

水道計画の基本となる水需要の今後の伸びというものは、政策を含め様々な要素によって左右されうる。今後、日本の人口が全体的に自然減の傾向にあるとはいえ、日本の全地域が一律に減るわけでもないし、日本の外交政策が変わって外国の難民や移住民を大量に日本各地で受け入れるということが近い将来に起こるかもしれない。
検討委員の中でも特にダム反対派で知られる日本共産党の石坂県議も、こと利水の議論については歯切れがあまり良くない。政治家として立場というものを弁えているからであろう。


カバー率の議論

ダム検討委員会の中で、カバー率をどうのこうのという議論が結構長い間展開されている。何が何だか分からなかった砥川部会の宮沢部会長は、国土交通省の担当官に見解を尋ねている。

「カバー率」とはそもそも何なのだろうか。小生が素人ながら文献等を見て分かった限りのことを整理しておく。
ダムを含めた河川の計画を立てるとき、主目的は洪水防御であるため、過去の洪水がどんな程度で、その時の洪水流量はどのくらいだったのかということを調査する。しかし洪水流量の資料はさほど整備されておらず、その代替えとして雨量資料を用いる。

  1. 雨量資料のピックアップ
  2. 計画降雨量の設定(確率計算)
  3. 雨量の引き伸ばし
  4. 流出解析(雨量→流量への変換)
  5. 他方法による流量の検証

大まかに、上の流れに沿って基本高水流量の設定が進められる。
この作業を進めていく中で、降雨が時間的に偏りすぎているもの、引き伸ばし率が2倍を越えるものなど、計画論として不適なものが出てくる。そうして出された幾つものシミュレーション流量のうち、不適の烙印を押されていないものの中で最大を採るというのが、現行の河川計画で用いられている手法である。不適なものを含めたとき、決定数値はシミュレーション流量の大半をカバーして(つまり上回って)おり、その結果がだいたい60〜80%くらいに落ち着いているというのが、国土交通省の示した見解である。
例えば、30の雨量資料をピックアップして流出解析を行い、その途中で半分の15個が途中で不適と判断されたとする。合格した15のうちの最大値を計画高水流量として採用し、それが30の中で上から7番目に高い数値であったとする。この時のカバー率は、採用値が24の洪水シミュレーション値をカバーできているので、24/30=0.8つまり80%ということになる。
つまり、『河川砂防技術基準(案)』で示されているカバー率とは結果的に出てきている数値という解釈であり、出された資料は100%使うという意味で、大熊委員らの主張との比較で、俗に「カバー率100%」と表現しているのである。

大熊教授や高田教授らの唱えている方法は、先にカバー率を定めてふるいをかけ、その中で更に不適を落として、残った中で最大値を採るというものである。こちらは出された資料を一定率で落とすという作業が含まれ、当然ながら国土交通省の方法よりも決定値は低くなる。しかしカバー率の数値を定めるという判断が加わるため、その判断の正当性、合理性などが問われることになるのは云うまでもない。

簡単に云えば、「カバー率」という言葉が異なった意味(と云うより、何に対するカバーなのかという違い)で使われているのが混乱の原因であったのだ。
そして解釈の違いであると云う以上、どちらが正しいかという議論は恐らく不毛なものになる。

ただ一つ、国土交通省の見解のように結果的にそういう数字になるというのならともかく、カバー率を先に決めて計算するという大熊教授らの方法については、判断が途中で入るため、なぜカバー率をその数字に決定したのかと云う判断根拠が求められるのは云うまでもない。『河川砂防技術基準(案)』に60〜80%とあるが、それだけをもって根拠とするのは説明になっていない。ふつう、60と80では数値が根本的に変わってしまうからであり、なぜ60でなくて80なのかと云うような説明は欠かすことが出来ない。


天井川

ダム検討委員会での治水の議論でもキーワードの一つになっているのが天井川というものである。

天井川というのは、簡単に云えば河床(川底)が周囲の土地よりも高いような河川のことで、だいたいは扇状地で多く見られる。土砂を多く押し流してくる河川に多いという特徴もあり、結果的に築堤護岸になっている。検討委員会の俎上に乗っている河川では、浅川、砥川、角間川(夜間瀬川)などが典型的な天井川である。

河川改修には様々な方法があるが、築堤護岸の天井川では禁じ手とされる手法が嵩上げであると云う。理由は簡単で、洪水が堤防を乗り越えて堤防がやられてしまえば、嵩上げしたほうが被害が甚大になるためである。断面は同じでも、堀込みのほうが河床が低い分だけ被害は小さくて済む。そのため天井川で河川改修を行う時には、普通は掘り下げを検討し、次に拡幅を検討するのがセオリーとなっている。浅川では天井川解消のため掘り下げの大工事が行われており、JRの上に浅川の橋がかかるという異様な事態がようやく解消された。砥川の場合にはご存じのように、諏訪湖があるため掘り下げができないという実情がある。

そして厄介なのが、天井川の周辺に井戸などがあって、周辺との利害関係が生じて掘り下げができない場合である。温泉街を周囲に抱えている角間川(夜間瀬川)がこれに該当するらしいが、どのような議論が行われるのか注目したい。


基本高水

基本高水とは簡単に云うと、ある条件のもとで想定される最も大きな洪水が来たときに、河川を流れる水の最大量のことである。「最も大きな洪水」と云うのは実際には最大流量の大小で決められているから、もっと簡単に云えば、「ある条件のもとで想定される、河川を流れる洪水の最大流量」と云うほうが正確である。
なぜ冒頭のような回りくどい云い方をするのかといえば、それは洪水発生時の降雨量などから流量を解析するに当たり、その洪水を用いるのが適切なのかという検証を行う必要があるためである。

基本高水は、正式には「きほんこうすい」もしくは「きほんこうずい」と読むらしいのだが、「洪水」と「高水」とを混同しないように「きほんたかみず」と一般に呼ばれている。「洪水」と「高水」は意味も混同しやすい。たとえが悪いが、「売春(ばいしゅん)」と「買春(かいしゅん)」のようなものだと云うことだろう。
基本高水という言葉は直感的にわかりにくい。基本高水は計画高水に対応する言葉であり、基本という言葉の使われかたが洪水氾濫を前提としているせいかもしれない。『緑のダム・人工のダム』の著者である岡本教授は、基本高水のことを「設計大水」と呼んでいるが、こちらのほうが感覚的に分かりやすい。

一般に計画を立てるときには、目的と手段を明確にさせなければならない。
治水計画を立てるとき、まず目的を定めなければならない。洪水氾濫は人命や資産を奪うものであるが、その規模がどのくらいまでを想定したら良いのかが最初の判断になる。どんなに頑張っても事実上の上限がある。どんなに費用を投じても、ノアの洪水のような大地を呑み込むような洪水には対応できない。それこそ家を方舟で造っておかなくてはならないという結論になる。

ノアの洪水のような、人類史上でも1度あるかないかというような洪水の対策まで行うことはできない。どこかで妥協しなくてはならない。いつ来るか分からない洪水の対策のために、河川空間を大きく取りすぎて平常の生活空間が窮屈になるというのも問題である。また、治水事業は地域間バランスが最もナイーヴな公共投資でもある。そのため河川計画は水系単位で立てられるべきであり、工事実施基本計画と呼ばれる水系単位での治水計画が立てられ、更に平成9年の河川法改正により、基本計画である河川整備基本方針と実施計画である河川整備計画との二本立てになった。ダム検討委員会で盛んに取り上げられる河川整備計画とは、まさにこれのことである。

治水計画は昔は洪水実績により立てられていた。実績によるものなので、誰の目にも目的がはっきりしているのだが、たいがいの場合、それを凌ぐ洪水がやがて起こり、洪水と治水対策とがイタチゴッコになる。江戸時代までの治水対策はまさにそうであり、記録が残っているものを見てみると、同じ場所で改修と氾濫とを繰り返している。短い時には、改修が終わった直後に洪水により越流し氾濫していることもある。
洪水氾濫の実績ではなく、河川流量の実績がはっきりと数字や記録に残っているとは限らない。水位はあくまで目安に過ぎず、河床の状況などにより誤差が大きく生じうる。基礎にした“実績”がその河川にとってどんな程度であるのかが不明確であり、治水工事を計画的に行うという観点からすれば、特定の“実績”を用いるというのは非効率的であることから、欧米から確率法を導入して計画が立てられるようになった。

確率法を取り入れる最大のメリットは、治水対策の整備状況を河川ごと、区間ごとに相対的に比較できることにある。
具体的にどのレベルまで整備すべきかというのは、河川事業全体の予算とのバランスもあり、日本では大河川を除き、おおよそ1/100を一つの上限として整備を進めてきているが、ダム技術センターの公表資料などを見る限り進捗は芳しくない。アメリカなどでは1/200〜1/500で河川の整備が進められているのに対し、日本では平均して1/30程度という。

浅川ダムや下諏訪ダムのダム反対派は、計算値は信用できず実績値を用いるべきだと主張している。しかし洪水の歴史は、計算値については判断を下していないが、実績値を用いる方法に対しては非効率であるという事実を示している。委員の中に公共事業論を専門にしている人がいる筈だが、ダムの維持管理費に関してはしつこく言及するのに、これに関してなぜコメントしないのかが不思議である。また、洪水実績つまり洪水時の流量については資料があまり揃っていないということも事実である。
なおついでに云わせてもらえば、下諏訪ダムのダム反対派が用いている160×1.25=200と云う計算式の1.25とは何であるのかが分からない。どこにも数値の根拠が無く、つじつま合わせに逆算で出てきた数字を係数として用いているだけではないかと思われる。
ダム検討委員会の議論の序盤に、大熊教授が基本高水の解説をしたのも、計算値を使うべきであるという見解で委員会が確認していたためであったと認識していたのだが、いつの間に実績値を用いるべきと“先祖帰り”をしてしまったのだろうか。もっとも実績値採用を唱えているのは、脱ダム派委員の中でも学者でない委員ばかりのようであるが。


基本高水によらない「長野モデル」とは?

検討委員会の中で五十嵐委員が「基本高水によらない」ものをと提唱したという。基本高水は治水計画の基本であるため、基本高水によらない治水計画とは事実上の無計画ということに他ならない。恐らくそこまで認識しての発言ではないのであろうが、仮にも自ら望んで委員になった以上、軽率も甚だしい。自らの不見識を恥ずべきである。

検討委員会の席で、国の基準に縛られることなくという発言が出ている。現状としては河川法があり、それに基づいて河川整備計画という枠組みがある。これが例えば道路などならば、地域の実情に応じて規格を調整するということはあり得るだろうし、実際に道路構造令通りに道路整備の設計が常になされているという訳でもなさそうである。

しかし河川の場合には、上流と下流の関係がある。道路を走る車は運転者の意思によりルートを変えることができるが、河川ではそんな訳にいかない。長野県は上流にあり、下流には新潟県や愛知県、静岡県、群馬県、山梨県、岐阜県がある。そのために簡単に地域独自という訳にはいかず、どうしても水系を意識した体系的な治水計画を立てざるを得ない。そのため道路構造令の道路規格が変更することはあっても、河川法の河川整備計画の精神は恐らく簡単には変わることがない。

ところで新たに出された基本高水に従って整備をすると決められた時、この数値には誰が責任を持つのか。恐らく国土交通省はこれまでの検討委員会での議論の経緯からしてOKを出すまい。形式的には田中知事の責任になるだろうが、田中知事は責任を取ることが殊の外嫌いなようだから、恐らく国土交通省が悪いと云い出すであろう。くれぐれも「長野モデル」という言葉に塗る泥は少な目にしていただきたいものだ。


浅川の千曲川合流について

浅川では千曲川合流点付近の内水氾濫が問題になっている。検討委員会でも何度か出てきている中野市立ヶ花の狭窄部は昨日今日に出来たものではない。また、飯山市にある千曲川のダムを撤去しろとの意見も浅川ダム反対派からは出されているが、それは基本的に関係ない。千曲川のダムとは、飯山市北部にある西大滝ダムのことだと思われるが、千曲川は浅川合流点から西大滝ダムまで自然に流れており、西大滝ダムから浅川合流点までの距離が長いため、西大滝ダムによる水位上昇も考えにくい。もし西大滝ダムを撤去せよと主張するのならば、洪水時における浅川合流点での千曲川の水位上昇と西大滝ダムとの因果関係を明らかにすべきであるが、そういった具体的作業は等閑にして感覚的に云っているだけであり、「電力会社からお金を貰っているからダムを撤去出来ない」などと云うに至っては邪推もいいところである

では、浅川の合流点付近の氾濫はどうして起こるのか。
浅川と千曲川の合流点とほぼ同じところで、西からは鳥居川、東からは松川と篠井川が千曲川に合流している。更に昔は、中野市北部を流れる夜間瀬川もこちらへ流れていたとされている。つまりここは、もともと水が集まるところなのである。明科町の犀川と高瀬川の合流など、盆地の中を流れる川の最下流でしばしば見られる地勢でもある。水が集まり、しかも直下流には狭窄部があると云うのでは、洪水時にこの周辺の水位が容易に上がることは火を見るより明らかである。立ヶ花の狭窄部は自然地形によるものであり、解消するとなると大規模な開発工事になる。なおこの場所には北陸新幹線の橋梁ができる予定になっている。

ところで現在、篠井川流域下流の広大な農地となっている一帯は、昔は沼地であったとされている。つまりここは、かつて天然の遊水池であった可能性が高い。しかし沼地の開発が恐らく江戸時代に進められ、千曲川の改修で堤防が造られ、20世紀末には更に土盛り構造の長野自動車道ができてしまい、その遊水池メカニズムは完全に過去のものとなった。一方で篠井川でも洪水時には水位が上昇し、浅川の合流点と同様に樋門が現在設置されている。

浅川ダム計画は内水氾濫の抜本的対策にはならないが、それでも洪水の時間差をつけて水位が一気に上昇するのを緩和する役割を果たす。一部でダムが出来るとピーク時間が遅くなりかえって逆効果だとする意見があるが、浅川と千曲川・犀川の流域とを一緒にしてはいけない。浅川ダムのピークのズレはせいぜい数十分間、千曲川のピークは降雨の後からもっと後であり、問題にならない。
面的な総合治水は検討委員会で散々検討されたであろうが、結局何も示されなかった。浅川ダムが中止となれば、浅川の内水災害を防ぐ現実的な手だてとしては、どこかに遊水池を造るという以外には無い。しかし現実的に可能であった数少ない適地には、浅川ダムを造るという前提で新幹線の車両基地が出来てしまっている。

ダム計画を中止したとき、浅川の内水氾濫を防ぐ、もしくは緩和する具体論はどうするつもりなのか。少なくともダム反対派の示しているものは何ら治水対策にはなっていない。


ダム中止時における返還金(H14.8.19)

ダムに限らず、地方自治体が国庫補助をもらいながら目的外使用をした時には、国が国庫補助の金額を返還するよう求めることができる。これには地元の事情による事業の中止も含まれる。ただしそれが、地元での評価監視委員会などにより決められた場合にはその限りではない。
これが、事業費返還の基本的なルールである。

では、こんどの長野県のダムではどうか。
浅川ダムを例にしてみれば、浅川ダム計画では付け替え道路や下流の河川改修などを含め、既に200億円以上が投資されている。これらは浅川における治水計画に基づいており、国と県と地元市町がその計画に合意した上で事業が進んでいる。治水計画には、計画規模と対策手法との2つのことがあり、計画規模とは基本高水流量、対策手法とはダムや河川改修といった方法のことである。
従って、計画規模もしくは対策手法を変える場合には、国庫補助を出している国に対して説明の責務がある。また多目的ダムである場合には、市町村長など共同事業者への説明も求められる。これらはあくまで責務としてのものである。単純に補助金を貰っているということを差し引いても、河川整備計画の問題がそれとは別にある。そこでは市町村長の意見や流域の意向が表に出てくるため、やはり説明が求められる。

長野県でのダム中止について考えるとき、幾つかのポイントがあるが、一番問題になると思われるのは、ダム中止に至った経緯である。
これまでダム中止が決まっているのは、長野県だけではない。例えば、不信任劇に絡んで田中前知事の稚拙な方法を批判した鳥取県の片山知事は、議会や地元の合意を得てダム計画を中止したことを明らかにしている。
片山知事はダムが嫌いだからダムを中止したのではない。時点修正の結果、ダムと云う方法が最善の対策ではなくなり、他の対策のほうが安上がりであることがはっきりしたためにダムを中止し、それ故に議会や地元も合意したのである。まず第一に行政サービス面で説得力のあるダム中止の理由があり、次に議会や地元市町村などとの合意形成や調整があり、その上でダム中止の結論が来ている。
これは片山知事の行ったことが特別なのではない。これまでダム中止の結論が出されたものは、みなこれと同じような手順を踏んできている。なぜならば、治水対策を立案実行する責務が河川管理者には課せられているためである。

長野県でのダム中止はどうであったか。
先代の時に事実上決まっていた大仏ダムの中止は別にして、田中前知事は脱ダム宣言により下諏訪ダムの中止を宣言し、今年6月の県会で浅川ダムと下諏訪ダムの中止を正式に宣言した。
昨年2月の脱ダム宣言において、下諏訪ダムの中止の理由を問われた田中前知事は自然環境への負荷を理由に掲げたものの、結局のところ説得力のある説明をせず、ダム検討委員会に委ねてしまった。その検討委員会は設立時点から委員構成の問題があり、約1年かけて議論を重ねたものの、結局は多数決でダム中止との結論、つまり最初の委員構成により結論が決まってしまう格好になった。
長野県議会や市町村やダム案に反対していない側があくまでダム計画に固執しているのではない。彼らは口をそろえるように、ダムを中止するのならば現実的な代替案を示せと主張しており、彼らがダム中止に反対しているのは、ダム案に代わる合理的かつ現実的な治水対策(及び利水)が提示されなかったためである。この時点で、説得力のあるダム中止の理由と云う条件、そして合意形成と云う条件もまた満たされていない。それでいてダム中止との結論が出た。これでは「結論ありき」と云われてもやむを得ない。

自然環境への負荷を掲げるのは一つの理由ではないかと云われるやもしれぬが、ダム建設によってどれだけの自然が破壊されるのか、またダムの代案として出されている河川改修などでは河川の自然環境が破壊されないのか、人間社会と自然環境とでどうバランスを取るべきなのか、そういった議論はこれまで殆どなされていない。
ダムが自然破壊だと云うのならば、スキー場もゴルフ場も別荘も道路も自然破壊であり、護岸を改修することも、山から石を運ぶことも木を伐採することも、石碑などを建てることも自然破壊であるとの理屈がつく。コンクリートが負荷だと云うのならば、コンクリートをほとんど使わないロックフィルダムならば良いのかと云うことになる。「自然環境への負荷」とか「自然破壊」とかの言葉は聞こえが良いが、それだけに観念的情緒的に使われる傾向にあり、言葉の定義を明確にしないままの悪者論は事の本質を見誤るだけである。

国土交通省の河川局治水課長は今年の6月、長野のダム中止について、「基本高水を下げるのなら合理的な理由を、ダムを中止するのなら代案を」と述べた。結局のところ、この言葉が全てを物語っている。
共産党などから、これまで事業費返還の事例は無いとの意見が出ているが、それは単純に、これまでのものは事業中止に当たって合理的な説明や合意形成がなされているためである。今度の長野の事例は、これまでのものとは事情が異なるため、前例だけで判断することはできない。
小生なりの結論を云えば、ダム中止の合理的な理由やそれに至るまでの経緯を説明できないのならば、事業費の返還を求められてもやむを得ないと思う。宮崎哲弥氏のように「踏み倒せ」との意見もあるが、実際に返還を求められた場合、道路などで多額の国庫補助金を貰っているということもあり、現実問題として踏み倒すことは無理である。そうならないためにも、もし田中氏が再選したならば、その能弁さを生かして、是非ともダム中止の合理的な理由、そして現実的な代案を、国や市町村や県民に提示し、分かりやすい言葉で解説していただきたいものである


「正論」9月号記事「ダムとはなんぞや」(H14.8.19)

8月1日に発売された「正論」9月号には、中西輝政教授による論文のほかに、「ダムとはなんぞや」とのレポート記事がある。脱ダム宣言のほかに民主党の緑のダム構想、更にそれに対する国土交通省や日本河川協会の反論が掲載されている。両者を見比べると、共に一般論としてであるが、ダムを不要とする側が理想論的であるのに対し、ダム必要論側は現実論を述べているのが対照的であることに改めて気付く。結構面白いので、ご一読されたい。


「治水・利水対策推進本部」について(H14.9.7)

知事不信任の騒ぎの中で注目されていなかったが、7月11日に「治水・利水対策推進本部」なるものが設置されたことが長野県から発表された
この推進本部は、7月25日に開催された第15回の検討委員会の議事録によると、「枠組みを具体的に治水・利水対策を実施する」(青山総務部長の解説)ための組織であるらしい。つまり、検討委員会でダムによらない案が多数決で採択され、それを受けて県が独自にダムを除外した枠組み案を作成し、それを実施するための組織を作ったということである。

不信任を出される前、田中知事は自ら治水・利水ダム等検討委員会の委員を集めながら、そこでの検討内容を足蹴にするかのような行動を取った。
繰り返しになるが、ダムを含めた治水事業では、標準的な方法で導き出された基本高水流量に対応できるようにすることが事業の目的であり、ダムはあくまでその一手段に過ぎない。検討委員会が多数決と云う荒技を使うまでして出した結論は、目標値である基本高水を低くしなさい、そうすればダムは不要ですと云うものであった。
結論の方向性ありきとかの話は別にしても、検討委員会がその結論にならざるを得なかったのは、脱ダム派学者が1年近く取り組んでいながら、従来の基本高水流量の数値のままではダム以外の適切な方法が提示できなかったためである。そのため、過大論を宣伝して基本高水の引き下げに躍起になった。
つまりぶっちゃけた話、「ダムと云う手段を否定するために、基本高水流量と云う目的値を変更し従来計画を否定した」と云うのが検討委員会の結論であった。

ところが田中知事は、従来の目標のままで、ダムという手段を否定しての検討を行うために組織を立ち上げたのである。しかも構成員は県職員のみであり、知事が検討委員会のために集めた脱ダム派の学識経験者もそこには加わっていない。
「そんな虫のいい案が出てくるものか」と云うのが、半年以上に亘る基本高水論争に四苦八苦した多くの検討委員の本音であろう。第15回の検討委員会の議事録を見ていても、それに類する意見が複数の委員から出されている。

田中知事が検討委員会から出された答申をなぜ足蹴にするかのような態度を取ったのか。答えは簡単で、基本高水論争に巻き込まれるのを避けるためである。それ以外に、わざわざ案まで出されているものを受け取っておきながら、全く白紙の状態で検討し直すと云う判断をする理由が見あたらない。田中知事は検討委員会の論議を注目していたと述べているが、注目して見ていたのは内容ではなく、むしろ基本高水をめぐる“神学論争”であったようである。
ここで答申を尊重するのならば、誤魔化しではなく正々堂々と、財政面の事情から浅川や砥川では当面のところ答申で出された基本高水流量に対応する治水対策しか行わない(つまりダム中止)と宣言すべきであり、それを国土交通省に説明し、流域に再度諮れば、結論も責任の所在もはっきりしたのである。カバー率の話で他者を説得できないとするならば、「50年確率規模相当」と付け足せば良い。

それはさておき、この組織が立ち上がったことで、改めてはっきりしたことがある。以前より指摘はされていたものの、治水・利水ダム等検討委員会が、条例の本来の精神を骨抜きにされ、住民参加、学識経験者参加を装うための儀礼組織、御用委員会に過ぎないことがここに明らかになったのである
地元住民や首長らが参加する部会の議論が、学識経験者や県議会議員らが参加する委員会では軽視され、更にそこでの議論が知事の前では無視される。検討委員会や部会で調査し議論されたことが、「枠組み」の中では殆ど生かされていない。ここでも利水の話が等閑にされている。一見民主的を装っているぶん、従来の御用委員会よりもタチが悪い。これではまさに、治水・利水ダムの検討委員会ではなく、“ムダな検討委員会”である。
委員長以下、委員らはここまでコケにされて、よくもまあ怒らないものだ。否、実は怒っている者もいる。

検討委員会で導き出せなかった「従来の基本高水によるダム代替案」が、県職員だけの検討チームの中から出されるとは常識的に考えられない。
となると、「治水・利水対策推進本部」での結論は見えている。ただの時間稼ぎであって棚上げ放置状態になってしまうか、もしくは「しなの牛問題」のように世論からフェイドアウトさせてしまおうとするか、はたまたお茶を濁すかのような非現実的な案が出されるかのいずれかであろう。そしてこれまで議会を悪者にしていたように、今度は、合理的な案を出せない責任を県職員に押しつけようとするのだろうか。

topmenu  上へ