小生にも云わせてくれ


良薬は口に苦くして利あり(H14.8.31)

権力への批判や抑制は、内部から起こるものと外部からのものとがある。日本における権力構造は、単純なピラミッド型のものよりもむしろ、二重構造になっていることが普通である。平安時代に起こった“院政”なる言葉が未だに頻繁に使われるのも、“院政”なる言葉が象徴する権力の二重構造が日本では珍しくないためである。
 国政では“院政”が未だ珍しくないが、地方自治体においては“院政”は起こりにくい。その理由は簡単で、直接選挙で首長が選ばれ、首長本人に絶大な権力が付与されるためである。つまり地方自治体では、単純なピラミッド型構造が普通である。
 単純ピラミッド型の権力構造においては、内部からの理非曲直を説いた批判は、どうしても諫言と云う形にならざるをえない。そして、諫言に対してどう向き合うのかは、古今東西の為政者にとっての永遠のテーマでもある。

孔子の言葉を綴ったもの(実際は後世の仮託)とされる『孔子家語』と云う古典がある。そこには、「良薬は口に苦くして病に利あり、忠言は耳に逆らいて行に利あり」との有名な言葉がある。
 諫言に関する、対照的な2つの故事を紹介する。共に古代中国のものである。

まずは『史記』周本紀や『国語』周語などに収められている有名な逸話である。
 紀元前9世紀半ば頃、周王朝十代の脂、(れいおう)は暴虐の君主として知られていた。その暴虐さゆえに、民衆が王の悪口を云うようになり、大臣の召公虎(しょうこう・こ)が「民は王の命令に堪えられません」と王に進言した。すると王は怒り、巫女を使って監視させ、それでも王の悪口を云う者は殺してしまった。
 当然ながら、当時は人権などと云う言葉は無く、発想そのものも無い。それ以来、民は黙ってしまい、道で行き交っても目配せするだけになる。王は召公虎に、「謗りを止めさせた」と告げるも、召公虎は「ふさいだだけです。民の口をふさぐことは、川をふさぐよりも危険です」と更に諫める。しかし王はそれを聞き入れず、結局、それから3年の後に王は追放されてしまった。

次に、『戦国策』斉巻の「鄒忌脩八尺」の話である。
 鄒忌(すう・き)は紀元前4世紀半ば、戦国時代の斉の宰相で、長身の美男であった。斉では、城北に住む徐公(じょこう)という人物が美男として知られていたが、鄒忌は徐公を見たことが無く、自ら正装した姿のほうが美しいのではないかと思っていた。
 そこで鄒忌は妻に「我と徐公とどちらが美しいか」と尋ねると、妻は「徐公は君に及ばない」と答えた。この時代において、“君”とは高位の者への敬称である。それでも鄒忌は半信半疑で、更に自分の妾と、来客にそれぞれ同じ質問をしたが、答えはいずれも「徐公は君に及ばない」と云うものであった。
 曾子の母の逸話ではないが、異口同音に、3人の立場の異なる者が同じ事を云えば、人間は信じてしまうものである。鄒忌がどうだったかは分からないが、客が来た翌日、その徐公本人が鄒忌のもとを訪れた。当然、初対面であるが、鄒忌は徐公の姿を眺めるうちに、自分が徐公の容姿端麗さには敵わないと思い、鏡で自らの姿を見て、徐公には遠く及ばないと感じた。
 鄒忌はその夜、そのことを考えていた。「妻が自分を優れているとしたのは私情に基づく依怙贔屓によるものであり、妾が自分を優れているとしたのは主人である自分を畏れてのものであり、客が自分を優れているとしたのは、自分に対して何か求めるものがあったからではないか」、これが鄒忌の想到した結論であった。

鄒忌はこの話を斉の君主である威王(い・おう)に話した。鄒忌は更に、「我が国は大国ですが、宮女や左右の側近らは王を依怙贔屓しない者がなく、廷臣は王を畏れない者がなく、領民は王に求めない者がありません。以上のことから、王は蔽(おお)われているのです」と述べた。
 威王は斉の名君として名高い君主であり、鄒忌の云うことをすぐに理解し、国中に「群臣や官僚で寡人(君主の一人称)を面と向かって諫める者には上賞を与える。書面により寡人を諫める者には中賞を与える。市井や朝廷での噂で非難をし、それが寡人の耳に達した場合には下賞を与える」とのお触れを出した。最初のころは諫言などが相次いだが、数ヶ月もたつと数が激減し、一年後には諫言しようにも云うことが無くなってしまった。それを聞いた近隣の国は斉を恐れ、朝貢するようになった。

故事の紹介ついでであるが、諫言について論じるのであれば、『貞観政要』を忘れてはならない。『貞観政要』は唐の太宗と名臣らの言行録で、東洋の帝王学のエッセンスが濃縮されており、日本では北条政子や徳川家康が愛読したとされ、現代においても経営者の必読書に挙げられることがある。
 中国史でも名君5指に数えられる唐の太宗は、諫言されることを好んだとされている。太宗は自分の前代に君臨していた隋の煬帝が暴虐を尽くし、諫言を受け入れずに佞臣ばかりを集め、結果として大帝国を瓦解させたのを自分の目で見ており、隋の煬帝の態度を反面教師としていたことが『貞観政要』には記されている。日頃の態度が厳粛であるために廷臣らが萎縮してしまうことに気付いた太宗は、廷臣の話を聞くときには顔色を和らげるように努め、廷臣らには「人に利あらざる有れば、必ず極言規諫すべし」と命じたと云う。太宗はまた、諫言を推奨するのみならず、自分にとって快くない諫言を受け入れることでも定評があった。

誤解をしてはならないのは、諫言を受け入れるとは、諫言された内容を云われるがままに盲目的に受け入れるということではない。諫言の内容が常に正しいとの保証があるわけでもない。批判を門前払いするのではなく、真っ正面から受け止めて対応すると云うことである。部下の人材に恵まれた唐の太宗と三国志時代の曹操とに共通する発想は、部下からの諫言を鏡とし、自らの志操をそこに映し出すというものであった。

長野県では「県民のこえホットライン」と云うシステムが昨年より導入されたが、これもまた一時期よりも数が減る傾向にある。しかし、件数は減っているものの、未だに質問や意見は絶えないところを見ると、云うことが無くなってきたからというわけでもなさそうである。一番素直な推測としては、最初は物珍しさで数が多かっただけと云うところであろう。ただ一方で、質問内容に対してまともに答えない、受理するだけで対応しないなどの問題点も指摘されており、それもまた客足が遠のいている理由の一つやもしれぬ。
 少なくとも、苦言を呈した者を晒しものにするような君主に対しては、臣下は諫言をしなくなり、最終的には周の脂、や隋の煬帝のような末路が待っている。紀元前842年に国中で暴動が起こり、脂、は王位から追放されてしまった。それと同じ事がいま長野県で起こっており、それが成功するか鎮圧されるかは9月1日にひとまず結果が出る。

なお余談であるが、最初に出た言論弾圧に関して召公虎の長い反論が出典には載せられている。その中に、「川をふさいで潰れれば、人を傷つけること必ず多く、民もまたかくの如し。是故に川を為す者は、之を決して導かむ」とある。この言葉には当時の中国における治水の思想が隠されている。


黙っていても尊敬される時代は終わった(H14.8.25)

作家の宮城谷昌光氏と云えば、最近では中国史をモチーフにした数々の作品で知られているが、その代表作の一つに『晏子』と云うものがある。新潮社から出されており、最近では文庫本も出ているので、目にした人もいるであろう。

同作品は紀元前6世紀に斉の国で活躍した晏弱(あん・じゃく)、晏嬰(あん・えい)の親子の活躍について描かれている。親子共に「晏子」と敬称されており、宮城谷氏の作品名もそこからとられている。なお前項で出てきた田氏の当主である田乞(でん・きつ)と晏嬰とは同時代を生きており、晏嬰が田氏の施策に関して君主を諫めたことや、晋の叔向(しゅくきょう)という賢人に斉の将来を憂えた言葉をもらしたことなどが記録に残されている。
 また、孔子は晏嬰の一つ下くらいの世代であり、孔子が若い頃に斉へ仕官に来て晏嬰に反対されたという逸話も残っている。
 晏子の2代は共に幾つかの逸話を残しているが、彼らの逸話を見るのならば「春秋左氏伝」があり、「史記」管晏列伝があり、晏嬰に限って云えば「晏子春秋」がある。小生が敢えてそれらの文献ではなく宮城谷氏の著作を取り上げたのには理由がある。

紀元前589年、斉は南方の大国である楚(そ)と結び、中原の大国である晋(しん)に戦争を仕掛けた。斉はいまの中国山東省、楚は今の湖南省から湖北省、晋は山西省から河北省にかけての一帯に割拠しており、いずれも大国である。当時の最強国であった楚は斉へ援軍を繰り出したが、色事に端を発した内紛が楚軍で生じたため進軍できず、見捨てられた格好の斉軍は晋の大軍の前に大敗を喫し、斉の将軍は戦死し、斉の君主もあわや捕らえられそうになる始末であった。晋軍は斉の国中を蹂躙して斉の首都を包囲し、斉は頭を低く下げて和睦を結ばざるを得なかった。その戦いのうち激戦は鞍という邑と華不注山の付近で行われたので、鞍の戦いとも呼ばれる。
 宮城谷氏の著作である『晏子』はそこから話が展開し始める。当時の斉の君主は頃公(けいこう)であり、決して暗愚な君主ではなく、むしろ隠れた名君とでも云うべきであるが、その大敗がずっと尾を引き、晋との講和の席では晋の君主を「王」と呼んで持ち上げ、卑屈な態度を取らざるを得なかった。それでも内政に力を入れ、敗戦国の斉を復興させた頃公に対して、宮城谷氏の鋭い感想が述べられる。

頃公はたしかに斉を復興させたが、ひとつだけ、もとどおりにできなかったものがある。それがなにかといえば、君主の神聖である。
−君主は神の代人である。
という信仰に近い意識が斉の人民にはあった。ところが鞍と華不注山での大敗を経験したことによって、神の代人が負けるはずがないという人民の信念が破壊された。
慧性をもっている頃公は、自身の神聖の失墜を、徳行によっておぎなった。君主が人民に近いところに降りたのである。このことは頃公の子孫に困難をのこした。寡徳の君主でも、臣下や庶民のみえないところにいれば、ぶじにすごせるのに、そうはいかなくなった。
斉は君主の徳量がためされる時代に突入したのである。

今の長野でも同様のことが起こっているようである。田中前知事が山間地で集会を開くと、「お偉い県庁から知事様がわざわざいらしてくれた」と感激する県民がいる。また、知事に向かって両手を合わせて拝む者もいる。そこには一種の、「おかみ信仰」に近いものがある。
 長野の山間地などでは未だ保守的な考え方が根強い。ここで云うところの「保守」とは、中央政界などでの政治思想による分類ではなく、昔からある考え方を守っていると云う意味である。彼らにとって、それまでは県政との関わりとなるのはせいぜい、時々顔を見せるだけの県議だけであった。そこへ、県政の代表たる知事が足を運べば、「知事様がわざわざ…」となるのも無理はない。知事が何を考え、何をしているかなどは二の次であり、とにかく知事と云う神聖な存在を間近で見て言葉を交わしたこと、それだけで感動なのである。
 山間地で田中氏の支持が意外に高いことが指摘されているが、それにはこういった田舎ならではの保守的な層に残っている「おかみ信仰」が少なからず関わっているものと思われる。皮肉にも、「おかみ信仰」のようなものは、田中氏が打ち壊すと主張していたものに他ならない。しかし結局はそういった層に支持されている。これまた一種の葛藤である。

「おかみ信仰」はしかし、いつまでも続くものではない。信仰が信仰たりえるには神秘性がある。キリスト教などが未だ勢力が強いのは、科学だけでは解明できない数多くのものを補っているからである。
 しかし、人間の生命や精神や存在を語りかける宗教と違い、「おかみ信仰」のような社会構造において自然発生した偶像は、情報の活性化など社会構造の変化によりメッキがはがされていく宿命にある。テレビが普及し、インターネットが普及すれば、神秘性は薄れる。
 その中で田中氏が未だ偶像たりえているのは、田中氏がマスメディアを操作して情報の流出を阻止していたことと無関係ではなく、つまりは情報の活性化を妨げていたからに他ならない。しかし表面上は「脱記者クラブ宣言」を出してカモフラージュがなされており、情報操作がなされているとは感じず、それ故に“信者”も疑おうとしない。
 そこで、信仰の対象たる神聖な知事が不信任をされると云う前代未聞の事態が発生した。田舎での「おかみ信仰」はどのように変質するのだろうか。

田中氏が再選されず、長谷川氏やその他の候補者が当選しようとも、20世紀時代の県政に戻ることはまず有り得ない。歴史にはダイナミズムがあり、知事職の神聖性は、少なくとも長野においては、既に失墜してしまったのだ。これまでのような、神聖性にあぐらをかいたような県政は最早通用しない。長野もまた、君主たる知事の徳量がためされる時代に突入しており、その手始めとして徳量が足りないとして前知事が不信任を突きつけられたのである。前例の通用しない時代に入っている中で、「20年以上前に岐阜県知事だけが…」などと前例に拘りすぎることもナンセンスである。
 田中氏や日本共産党が昔に戻ってもいいのかと大声で呼びかけているが、それこそ無用の心配である。県民は何も心配せずとも良い。誰が当選しようとも、大きな方向性は既に変えられない。むしろ方向性を変えると云うことで一番危険なのは田中氏が当選した場合かもしれない。

『晏子』については、また別の機会で触れたい。

注:一部誤字などを修正(H14.8.27)


“神学論争”のツケは誰が支払うのか(H14.7.29)

ダム検討委員会の席で、五十嵐教授が基本高水論争を“神学論争”と評したことがあり、新聞各紙がその表現を拝借している。いわば言葉が一人歩きしているのだが、この場合は半ば的を射ているので問題は無かろう。

基本高水の算出に当たっては、建設省(当時)の定めたマニュアルがあり、国も都道府県もそのマニュアルに則って計画を立ててきた。ところがそのマニュアルに基づく計算方法に異を唱える人がいる。検討委員会の中にも、大熊教授と高田教授の2人がいる。
 彼らが異を唱える大きな理由は、計算値が過大になるというものである。しかしここで、過大という言葉じたいが矮小と同様、相対的なものであることを失念してはならない。カバー率云々で騒がれていることについても、出された流量の評価が変わるだけのこと、同じものの重さを片やキロ単位で、片や貫目で表現していることの違いでしかない。

このような議論になって互いに譲らなければ、政治判断をする権限を与えられていない検討委員会はいつまでたっても話は進まない。多数決を取れば一応の結論は出るだろうが、多数決については物議をかもした経緯がある。さすがにこの議論の不毛さは委員の多くも感じているようであり、先般開かれた検討委員会においても、基本高水論争はひとまず棚上げして現行の数値の上でまずは代案を探ってみようという動きが主流になりつつある。
 大熊教授ら2人を除いたダム反対派の委員にとっても、カバー率の議論は一つの方便にしか過ぎず、結果的にダムでないのならばカバー率がどうであろうとも良しとする立場であることは、先の田中前知事の県議会答弁に対する各委員の感想を見ても明らかである。

結果として、田中前知事はカバー率の話題を避けるかのように基本高水論争を棚上げし、その上で具体的な代替案を模索するという方向性を提示した。それならば、1年近くを費やして繰り広げられたカバー率の論争はいったい何だったのか。この“神学論争”のツケは誰が支払うべきなのか。
 先日の検討委員会では、やはり基本高水の話が出て、大熊教授らは田中前知事が決めた方針に関して幹事会を攻撃していた。しかしそれはおかしな話である。その方針を定めたのは前知事本人であり、幹事会はその決定には関わっていないようである。

カバー率をどうするかとの議論は、学会で行われるべきものである。検討委員会での“神学論争”によって多くの無駄な時間や労力が費やされ、流域の人たちが振り回された。そのツケは、それを行政の場に持ち込んだ者が支払うべきである。つまりそれを主張して停滞させた2委員、そしてその2委員を任命した前知事が全て支払うべきである。

余談だが、中国古代に面白い話がある。春秋末期の斉という国に田氏という貴族があり、斉国で定めた計量器よりも一回り大きい計量器を独自に作っていた。厳密に云えば斉国の計量器は四進法であったが、田氏の計量器は五進法であり、最も大きい計量単位である鍾で換算すると、田氏の計量器の1鍾は斉国の計量器の2鍾に相当する。その上で、田氏は米を貸し出すときには大きい自前の計量器を使って計量し、返却して貰うときには国で定めた標準の計量器を使って計量したため、民の支持を得て斉の国の実権を握り、最終的には田氏の子孫が斉の国を簒奪してしまった。
 なぜ田氏が民の支持を得たかは云わずもがなであろう。帳簿上では同じ1鍾を借りて返したのに過ぎないが、斉国の計量器に換算してみれば、借りる時には事実上2鍾を借り、返す時には1鍾で済むのである。
 これと逆のこと、つまり小さな計量器を使って1鍾の米を貸し出し、同じ1鍾を返却する時には大きな計量器を使うということをする者がいたらどうだろうか。悪徳高利貸しとして糾弾されるに違いない。

国が標準的に定めた方法で50年確率相当とされる洪水を、大熊教授らは独自のカバー率を用いた算定方法で100年確率相当であると主張した。浅川では、標準的な計算方法では50年確率相当である330トン、砥川でも同様に200トンという数字を算出し、これらを100年確率相当であるとして公表した。悪意は無かったのに違いないであろうが、結果として大熊教授らは前述の悪徳高利貸しまがいのことをしようとしたのである。なぜ大熊教授らの主張が国土交通省や地元市町村長らから猛烈な反対を受けたかもまた、云わずもがなではないか。

そして、またもや余談。
 先の検討委員会で、宮沢県議が検討委員会における多数決に反対する理由として、「我々検討委員は多数決で選ばれたわけではないので多数決を採ることができない。知事や議会は多数決で選ばれているから多数決を採ることができる」と述べたと云う。
 まさにその通りである。


胡服騎射(H14.7.12)

改革を行うには、それを行うがための合理的論理性、一貫した決意、不断の努力、これらがいずれも必要である。
 胡服騎射(こふくきしゃ)と云う故事成語がある。胡(えびす:異民族)の衣服をまとい馬に騎乗しながら弓を射る、日本で云う流鏑馬を想像すれば良いであろうか。

紀元前4世紀の末、黄河流域の北部に趙(ちょう)という国があった。趙国の先祖は伝説の御者として知られる造父と呼ばれる人物であり、後に天下を統一した秦と同族であるとされている。春秋期には黄河流域の超大国であった晋の大夫であり、代々大臣職である卿になり、紀元前5世紀に魏・韓と共に晋から事実上独立して晋を三分した。
 趙は南に魏国、西に秦国、東に斉国と燕国、北方に広大なモンゴル高原と接している。魏とは一進一退を繰り返しており、秦・斉・燕は改革を行って国が強大化している。そのため、他国に負けじと趙が国力を増強するとなると、目は北方へと向けられる。晋の時代から、北方の異民族対策はこの地域の重要案件でもあった。馬に直接跨っている異民族と、馬車や歩兵隊の中原諸国では機動性が違う。

そして当時の趙は、後に武霊王(ぶれいおう)と呼ばれる人物が君主であった。武霊王は北方異民族の戦法である騎馬戦術を導入することを決断した。敵の利点を採り入れる、現代にしてみれば至極当然の発想であり、当時もその考え方はあったが、他の者はそれを行おうとはしなかった。それは、馬に跨るには今のズボンのようなものを着衣しなくてはならぬ。当時の中国大陸の服装は、今で云うところのスカートのようなものが常識であり、ズボンは胡服、いわば野蛮人の服装と云う認識でしかなかった。
 武霊王の主張は、単なる新戦術導入にとどまらない、中国大陸にとっては長年の常識でもある“中華思想”への抵抗でもあり、つまり文化革命的な要素を有していたのである。

文化革命ともなれば、人間の心理に起因する反発が避けられない。案の定、趙国では武霊王の決断に対して大臣以下朝廷が総反発し、武霊王を支持したのは側近の肥義という人物だけだった。武霊王はその現実に際してどう行動したかと云うと、肥義を参謀とし、一方で反対者への説得と云う気の遠くなるような作業に入るのである。武霊王は国王(厳密には武霊王の時には趙は王号を称していない)であり国家の最高権力者であるが、自分一人だけでは国が動かないことを熟知しており、云うことを聞かないから大臣をクビにすることは権限上できたのだがそれは最後まで実行しなかった。
 武霊王はわざわざ大臣の邸宅を訪れ、何度も説得を行う。大臣側にしても国のためを思っての武霊王の主張は理解しているが、感情的感覚的には胡服は受け入れられない。しかし結局は武霊王の説得に押し切られてしまい、胡服に同意せざるを得なくなる。武霊王の熱意や姿勢に触れ、武霊王や肥義らの説得を聞いているうちに、やがて朝廷でも武霊王の主張に同意する大夫がどんどん増えてくる。 

そして趙では、正式に胡服騎射の戦術を導入し、騎馬隊を編成した。その結果、趙は驚異的に軍事力が飛躍し、北方の3つの異民族を服従させ、燕国で内紛が生じた時にも鎮圧に乗り出し、当時最も勢いのあった秦国に対しても北方から咸陽(秦都)へ攻め込む姿勢を見せて牽制するなど、北方の超大国として君臨する。趙での成功を見て、やはり異民族に悩まされている秦や燕でもまた、胡服騎射の戦術を採り入れるようになった。
 この改革を断行した趙の武霊王は他にも逸話を残しており、戦国時代における一代の英傑として“胡服騎射”の故事と共にその名を歴史にとどめている。

『史記』における司馬遷の文は全体的に簡潔かつメリハリがあるとして評価が高いが、『史記』趙世家の“胡服騎射”の記事がある部分はその例外であり、司馬遷はかなり多くの文字数を用いている。そこには主に、武霊王が大臣らを説得したさまが長々と記されている。『史記』におけるこの記事の“異常性”を見る限り、司馬遷の時代においても、胡服は異端のような存在であったのだろうと推察する。

繰り返しになるが、改革を行うために最低限必要なものは、どのような必要性に応じて出されたのか、メリットデメリットはどうかと云ったような合理的な論理性による裏付け、改革を行う者の一貫した決意、そして他者への説得など改革推進のための具体的な努力である。これらのうちどれ一つを欠いても、それは改革ではなく改革の物真似でしかない。


幻の“代替案”、幻の“流域対策”(H14.6.27)

“ダム県会”と呼ばれている6月県会が6月25日から始まった。議会で知事は浅川と砥川について、ダム計画での基本高水を「当面の目標」として認めた上で、ダムではなく河川改修と流域対策で治水を行うという“枠組み”なるものを発表し、具体性がないとして議会側から反発を受けている。地元首長もまた具体性のなさを批判している。

ダム計画では毎年のように事業の見直し作業が行われており、その一環として代替案との経済性の比較が行われている。ここで云う“代替案”とは同等の治水効果を持つ、つまり基本高水がダム計画と同等の条件における他の方法を挙げており、一般には河川の拡幅、堤防の嵩上げ、河床の掘り下げ、遊水池や調整池、水路のバイパスなどが提示されていると云う。

昨年の2月県会で“脱ダム宣言”が出された時、議会側は知事に対して代替案を求めた。その時に知事は「代替案はある」と明言したが、そこで“代替案”として持ち出されたのが、ダム計画を肯定するための資料として作成されていたと思われる河川改修案であった。その時点では事業者側の作為も疑われたやもしれぬが、その後の検討委員会の議論の中で特に触れられていないところを見ると、特別の作為が感じられる代替案ではなかったようである。

知事は“脱ダム宣言”により、ダムによらない治水と云う“枠組み”を昨年2月に示した。しかし具体論は詰められることがない。見かねた議会側が、治水・利水の具体論を検討する場として検討委員会の設置を提案した。検討委員会の設置は議会側からも提案することができるが、委員会の運用は全て知事が決めるため、委員構成が偏向すると云う問題が生じた。そして1年近くをかけて出されたのが、ダム無しの答申である。ブラックボックスから出されたとか多数はおかしいとか批判を浴びつつも、知事の求める“代替案”は検討委員会から出された。しかし今度の6月県会で知事が示したのは、それらとは全く異なる“枠組み”であった。

知事は不信任案をちらつかせる県議会側を“オオカミ少年”だと揶揄している。しかし、代替案の存在のみをちらつかせたまま具体論を全く出そうとしない知事もまた“オオカミ少年”である。

知事には本当に代替案が存在するのだろうか。知事が出した“代替案”については、土木部長が発表前日に知事から知らされたと云うことを議会の質疑の中で明らかにしている。つまり土木部はその“枠組み”の作成には関わっていないと云うことになる。
 ダム計画と同じ基本高水を用いて、河川改修で50年確率相当の80%を見て、残りを流域対策と云うのが、知事が“代替案”として提示した“枠組み”である。脱ダム宣言から長い時間をかけて、散々議論をして、その結果出てきたのは、脱ダム宣言の浅川版、砥川版の言い換えでしかない。その気になれば、脱ダム宣言の出された昨年2月の県会で提示することができたのではと云うレベルでしかなく、あの“枠組み”を作るのに1年以上の時間と数千万円にのぼる直接経費をかけ、しかも出された内容と異なった素人発想的なものであったと云うのではシャレにもならない。県議会側の「今まで何をやってきたのか」という怒りは至極当然である。

それでも河川改修については具体的な数値が出されたので、すぐに県の土木部が対応し、知事答弁から数日のうちに“枠組み”における河川改修の概算事業費が算出され、議場で公表された。
 問題なのは“流域対策”の中身である。知事は森林整備、遊水池、浸透施設などの項目を掲げたが、これらは昨年からの検討委員会の中で調査が行われてきている。森林整備については専門のワーキンググループが立ち上がり、森林整備の可能性について調査をし、検討委員会に報告してきている。遊水池は当然ながら治水の専門家の間で検討したと思われるが、部会の報告書でも答申でも出されていない。もっとも浅川も砥川も遊水池を設けるだけの場所が無いことは、誰にでも分かる。浸透施設についても、それを強く主張する検討委員がいたので、恐らく検討されているであろう。

しかしそれでも、検討委員会からはダム代替案として、基本高水を切り下げた上での河川改修単独案だけしか出されなかった。議論の流れを見ても、既存の基本高水ではダムしか方法がなく、逆に基本高水を既存のものより抑えればダムは不要であるということでしかなかった。

検討委員でもあった共産党県議団の石坂県議は知事の提示した“枠組み”を理解することを表明し、県政会ほかの対応を非難しているが、それならば自ら、“枠組み”の詳細を出さないのだろうか。“枠組み”が理解できるのならば、どうして検討委員会の場でそれを提示しなかったのか。石坂県議は浸透施設の検討を強く主張した検討委員の一人でもあった。ここまでくれば支離滅裂である。

そして軽視されているのが利水の代替案。長野市の利水は全く無視されており、緊急性の高い岡谷市や下諏訪町についてもお茶を濁す程度のものしか出されていない。検討委員会の席でこの案を載せるよう唱えた泰阜村長の松島貞治委員ですら、提案に際して、利水代替案としては充分な案ではないことを断っている。知事は岡谷市長と協議することを明言したが、利水代替案に対して批判の語調を強めている岡谷市長と、いったい何を協議するのだろうか。

観念が先行して現実が伴わない場合にはどうすべきなのか。田中知事はソフトなマキャベリストだと自称しているが、マキャベリの著作を再度読み直すことを強く勧める。


矛盾(H14.5.5)

“矛盾”という言葉を生み出したのは、中国大陸が生み出した最大の政治思想家である韓非(?〜前233)である。韓非は中国が世界思想史に誇る“諸子百家”の集大成をした碩学であり、『韓非子』の作者である。厳密には『韓非子』が現形になったのは漢王朝以降であろうが、秦始皇帝が『韓非子』の思想を大きく取り入れていることをみても、『韓非子』の原形が現存のものとほぼ同じ内容で韓非により著されたことは間違いない。韓非の死後1700年以上が経過した大航海時代のマキァヴェッリの登場により初めて韓非の域に欧米が追いついたということを見ても、キリスト生誕より200年以上前に著された『韓非子』の完成度の高さはもっと評価されるべきである。

そんな堅苦しい話はさておき、楚の行商人が、売られている矛は貫くことのできないない盾が無く、また一緒に売られている盾はそれを貫くことのできる矛が存在しないと云う売り口上をしていたのに対し、見物人がその矛でその盾を突き刺したらどうなるのかと尋ねたところ行商人が答えられなかった、という話は誰しもが耳にしたことがあるであろう。韓非は例え話の名人でもあり、“矛盾”という言葉は不朽のものとなった。

“矛盾”の発案者である韓非がこの言葉を用いて主張しようとしたことは、絶対的君主権と法とはちょうど矛と盾との関係であって両者は並立できず、はっきり云えば君主と云えども法に従うべきであるというものである。これを体系化したのは韓非であるが、発想そのものは韓非のオリジナルではなく、韓非より少し世代が前の、趙の名将として知られる趙奢が「国の要人ほど国法を守るべきである」として、趙の宰相として絶大な権限を握っていた平原君を諫めたという故事がある。

現代日本においても韓非が用いた意味での“矛盾”は様々な場面で見られるが、その典型例と云えるのが“知る権利”と呼ばれるものと“プライバシー保護”との対立である。この両者は全くの対等であり、場面によってどちらが優先されるかを判断するというのが共通認識であろうが、“知る権利”にはマスメディアという強〜い味方がいるのに対し、“プライバシー保護”にはこれといって頼もしい味方がいない。裁判を起こすにしても、気力・費用・時間が揃っていないと踏み切れるものではない。

マスメディアは商売の都合上“知る権利”を強く主張し、“プライバシー保護”については配慮の言葉を一応は用意するが、自主規制と云う言葉で誤魔化そうとする悪癖がある。嘘を記事にしても裁判で負ければ高額のペナルティを支払わなければならないと云うのも詭弁であり、その記事によって伸ばした売り上げを超えるペナルティを課せられなければ意味がない。元記事は大々的に扱いながら訂正記事はとばし読みされるようなページの片隅にほんのちょこっとしか載せないと云う卑怯なまねを繰り返す。新聞の一面や週刊誌のグラビアを使った記事が悪意のある誤報であったならば、同じスペースを使って訂正記事及び反省文を掲載すべきである。マスメディアは己のプロパガンダの恐ろしさを気付いていないのか、目を瞑っているのか。

政府が提出する個人情報保護法案には幾つかの欠点がある。最大の問題点は、政府という公権力がマスメディアを規制することの弊害である。その一方で、マスメディア側からの一斉反発も、いかに文壇の重鎮が執筆活動を中断して出てきて御大層なことを仰ろうと、単なる権力どうしの喧嘩としか国民の目には映っていない。行政・立法・司法の三権とマスメディアの他に、マスメディアを現実に掣肘できる第五の公権力を作り育てるべきである。可能性としてはインターネットがある。

そしてまた、別の問題がある。
  田中角栄元首相のロッキード事件にしてもそうであったが、事件が発覚した後に「そんなことは知っていた」とする記者がいる。知っていたと云うのなら、彼らはどうして伝えないのか。“知る権利”とはマスメディアのものではなく、国民のものである。マスメディアには、国民の“知る権利”のために、取材等によって知り得た真実を曲げずに伝える責務があるが、彼らはその責務を本当に果たしているのだろうか。“知る権利”を主張する前に、マスメディアには自らが真実を曲げず隠さずに報道していると証していただきたい。


表現の自由について(H14.4.26)

一昨年の秋、ちょうど田中知事が就任した頃に、パソコン雑誌の『DOS'V USER』を有害図書にするかどうかということで、出版元の宝島社と東京都とが争ったことがある。同雑誌はパソコン雑誌の中でも比較的広く知られており、一部アダルトコンテンツがあったことから東京都の有害図書指定勧告を受けたわけだが、宝島社は表現の自由に抵触するとして東京都への批判を繰り返して抵抗し、同時に東京都の勧告に従ってアダルトコンテンツを縮小したライバル誌の批判も繰り広げた。結局東京都は同雑誌を有害図書に指定し、流通の都合で同雑誌は2001年の初頭に東京都だけでなく全国のコンビニや書店から姿を消した(同雑誌そのものは未だ残っている)。宝島社は現在、同雑誌を宅配で残しつつも、同雑誌に名前も内容も酷似した『DIGI USER』なる雑誌を出版しており、こちらはコンビニや書店に並んでいる。いたちごっこになるのであろうが、宝島社が石原都知事に否定的なのはこのことも一因になっているのではないかと思う。
 この『DOS'V USER』もそうだが、猥褻関連の騒動が起こるたびに出てくるのが“表現の自由”の問題である。また最近では、作家の和久峻三氏等のゴシップ記事をめぐり、『噂の真相』が敗訴になったのも記憶に新しい。

猥褻騒動が起こるたびに、とかく“表現の自由”を絡めて論じることにも疑問がある。極端な事例だが、ストリーキングはなぜ犯罪なのか。アラーキー等の表現者は、あれをどうして“表現の自由”だと評価しないのだろうか。現実にはストリーキングを行うと、恐らく猥褻物陳列罪とかで逮捕される。つまり軽犯罪である。そしてその犯人が表現の自由を唱えていたならば、普通の人ならば犯人は頭が大丈夫だろうかと思うであろう。

表現つまり芸術には、何らかのインスピレーションを得てそれを発信する側と、それを受信する側との両者の存在が必要である。そして発信者に必要なのは自前の表現する能力であり、社会的な特別の資格を求められないが、受信する側には社会的な制約が生じることがある。そして奇妙なことに、表現の自由が問題視される場合、発信側の事情でなく受信側の事情を理由に挙げられることが少なくない。

最近になり国会で青少年有害対策法案が話題になり、長野市でも類似の法案が検討されているが、青少年でなく少年には、酒もたばこも禁止されている。その理由は肉体面での成長に支障があり、成長過程での飲用は有害度が高いためである。猥褻物や暴力シーンを少年に禁じているのもこれと同様に、精神面での成長過程において有害であるためである。これらの因果関係は既に社会の共通認識になっている。しかし成長過程は個人差があり、個々に対応しきれないため、便宜上年齢で一律に定めているまでのことである。 

いずれにせよ、これらは受信側の都合である。
 受信側の都合により表現の自由が制約されると云うのならば、問題はむしろ発信側にあるのではなく、その両者を媒介する流通や店舗にある筈である。それをどうして発信側に制約を求めるのかが不思議でならない。受信側に渡される段階で制約をかければ済むことであるが、それを実行に移すに最大のネックは恐らくコンビニのバイト制度であろう。
 未成年が酒やたばこを求めた時に、コンビニの店員は建前上拒絶することになっているが、本当に実際に拒絶できるだろうか。酒やたばこを拒絶できないのなら、猥褻系雑誌の購入も拒絶できないであろう。ならばコンビニで18禁雑誌を特別コーナーに括ろうとも意味がない。そういった議論を等閑にしておいて、表現の自由に直結して語られることに疑問を感じざるを得ない。

最近話題になっている“マスコミ規制法案”は、上記と違い発信側の事情である。
 マスコミ規制法案などで問題なのは、どこまで適用されるのかという線引きが曖昧なことである。ならば明確に、政治家や公式秘書、公共団体の理事者、幹部官僚、商法上の企業役員などを明確に公人と定め、公人本人及び配偶者に対しては適用の対象外とすれば済むことである。 

そもそもそのような法律が出されること自体、マスメディア側に問題があることの証左である。マスメディアは権力なのであり、互いに監視し合うことが望まれているにも拘わらず、協定のようなものがあり、一部を除き記事の内容に関する相互批判が現実になされていない。信毎が捏造記事を流しても、他のメディアはそれを批判せず、検証すらしない。官公庁の入札における談合を批判しながら、自らも談合をしているのである。記事内容の相互批判もしくは検証をしようとしないマスメディアに、マスコミ規制法案を批判する資格はない。

自由を軽々しく唱える者が意外にわかっていない原理がある。自由には制約が伴うのである。理由は簡単であり、一つの自由が別の自由を制約する、つまり「自由」同士が互いに制約しあうためである。自ら自由を唱える者は、最低限のルールとして他者の自由を侵害してはならない。


今日の視角について(H14.4.12)

信濃毎日新聞夕刊には“今日の視角”というコラムがあり、毎週金曜日は野田正彰という人が担当している。野田正彰氏と云えば、少し前に県の衛生部職員の研修での講師として田中知事がわざわざ招聘したこともある大学教授であり、あえて分類すれば“田中知事に親しい文化人”の範疇に入る。

その文化人の野田氏、まともなことも勿論書かれているのだが、田中知事のお仲間の一人とあって、月に一度ほどは期待に違わず妙なことをお書きになる。

3月15日の同コラムでは、最近になって暴行傷害事件が多発しているという事例を幾つか挙げ、それをもって“これほども日本人の攻撃性は高い”と結論づけている。ムネオ騒動(当時は辻元氏の件は発覚していない)や雪印騒動は悪事がたまたま露呈したに過ぎないとし、信頼性の低い社会で欲求不満を抱く者は容易に攻撃性を発動するとしている。

4月12日夕刊では、“攻撃性の背後にあるもの”と云う題目で、シャロン首相に煽動されたイスラエルの執拗な攻撃性はホロコースト等の歴史的外傷体験(トラウマ)から来ていると仰る。パレスチナ側からの自爆テロについて全く触れていないところや、この先生が靖国参拝に関して示してきた見解などを見ると、「イスラエルが一方的加害者、パレスチナは一方的被害者」と云うのは恐らく改めて云うまでもない大前提なのであろう。読んでいて、この先生が何の専門家であったのか、小生は失念してしまった。

社会への不信による欲求不満やトラウマで行動心理を全て説明できる筈もない。イラクがクウェートへ侵攻したのはどのようなトラウマによるものであろうか、経済的なコンプレックスであろうか。ならば日本のマスコミの殆どが頬被りしている、中華人民共和国がチベットで行っている残虐行為はどのようなトラウマによるものであろうか。


中東問題について(H14.4.7)

日本では秘書給与ピンハネ疑惑が政界で猛威を振るっており、マスコミもそちらに報道のメインを置いている感があるが、3月末から中東情勢がかなり険しくなっている。一時期はサウジアラビアの仲介で和平のプロセスに入るかと思いきや、パレスチナ過激派による自爆テロ騒動が相次いでイスラエルが切れてしまい、軍事行動を起こしてアラファト議長を事実上軟禁するという事態に発展した。方向性としてはイスラエルに撤退させるというのが基本路線であり、イスラエルもサウジアラビアの提案に乗ろうとしたというからにはそれを検討していたのであろうが、パレスチナ側が挑発を続けている以上はイスラエルも撤退ができず、膠着状態に陥っていると云うところである。アメリカなどがパレスチナの過激派を抑えきれないアラファト議長を非難しているのもそのためである。

イスラエルに大きな影響力を持つアメリカの対応も二転三転、イスラエルの行動を支援するかと思えば批判に回るなど、中東問題のややこしさを如実に示している。アメリカ政府の中でも実力者のパウエル氏はどちらかというと慎重派であり、アフガン攻撃に際しても落としどころを用意してアラブ諸国の理解を取り付けていたが、政府の中には対アラブ強硬派もいるようで、アメリカの一貫性のない対応は閣僚同士のリーダーシップ争いなのやもしれぬ。

中東問題が、イギリスがいい加減に切りまくった約束手形に起因するということはつとに知られているが、その根元には宗教問題やユダヤ人問題が絡んでいる。云うまでもなくエルサレムを含めたパレスチナ一帯は、ユダヤ教徒、キリスト教徒、イスラム教徒のいずれにとっても聖地である。本来ならば第一次大戦直後に成立した国際連盟で共同管理すべき土地であったのやもしれぬが、歴史はそこにユダヤ人を入植させてユダヤ人国家であるイスラエルを建国させてしまった。厄介なことに、この3宗教は共に一神教であり、原則として排他的宗教である。3宗教の奉る神は形式的には同一でありながら呼称がそれぞれ異なっている。そしてキリスト教以外の2宗教には聖戦という意識が濃厚に残されている。(キリスト教の十字軍などの行為における「聖戦」は教義に基づくものではない)

問題はアメリカでなく、日本がこれから中東問題にどう関わっていくのかということである。はっきり云って面倒かつ危険かつややこしい問題である。関わり合わないで済むのならそれに越したことはなく、19世紀までの日本ならばそれで通用したであろう。しかし現在の日本は外形上はG8に名を連ねる世界の経済大国であり、一方で石油の大部分を中東に依存しており、もはや他人面して済まされる問題ではなくなっている。そしてまた、中東問題に関わりを持つアメリカとは事実上の軍事同盟を結んでいる。

この問題はアメリカですら利害関係を調整しきれないでいるように、世界の主要国のうちほとんどの国が何らかの形で利害関係もしくは宗教的紐帯に基づく関係にある。アメリカはユダヤ教徒の発言権が比較的強いとされている国だが、国内にはイスラム教徒も少なくなく、大義名分もないままイスラム勢力をあまり刺激することもできないというジレンマがある。そんな中で、宗教ということでニュートラルな立場にいるのが、建前は共産主義国である中国、ヒンズー教徒であるインド、儒教的な韓国、そして宗教色が玉虫色の日本である。日本にとってはアフガン復興会議に続き外交で存在感を示せる絶好の機会でもあったのだが、惜しむらくはこのチャンスに外務省でゴタゴタが起きてしまい、それどころでなくなってしまった。田中前外相も鈴木氏も、つくづく罪作りな政治屋である。

ところでこの問題、日本ではどれだけ当事者意識があるのだろうか。第4次中東戦争によりオイルショックが起こってから、まだ30年が経っていない。石油に替わるエネルギー源はどこまで確保できているのだろうか。またアメリカが軍事力を中東に投入した場合、軍事力を展開させるのがパレスチナにしろイラクにしろ、日本はどういう立場に置かれるのか。湾岸戦争のようにアメリカの言いなりになるのか、それとも軍事同盟を破って中立を決め込むのか、はたまた軍事同盟を逆手に取りアメリカを牽制するのか。現在の外務省の不甲斐なさを見ている限り、アメリカの言いなりになるという路線が最も可能性が高そうであるが、その時に現実問題として石油はどうなるのか。戦争反対とか正義とかのきれい事以前の問題として、現実的な社会生活を国はどこまで保証できるのだろうか。


危機管理意識について(H14.3.22)

つい先日、砥川のダム検討委員会部会で高橋危機管理室長が「ダムは壊れる」という発言をしたことが問題となった。砥川部会は一時紛糾し、結局は発言が不適切であったということで場は収まった。3月21日に県幹部の人事異動が発表されて驚いた。その高橋室長が危機管理室長と政策秘書室長とを兼務すると云うではないか。

政策秘書室の勤務が激務であると云うのは有名で、噂では月間の残業時間が150時間を超えているのが当たり前とか。地方公務員法では職務での超過勤務命令は認められているとはいえ、労基法違反を疑われてもおかしくないセクションであり、そのトップも命令する以上はそれなりの勤務態勢に入っているものと推察する。しかるに、危機管理室長を兼ねるというのはどういう事であろうか。政策秘書室長も危機管理室長も片手間で出来る仕事だと云うことか。

危機管理意識が希薄なのは日本人の特性の一つであると云ってもよさそうだ。歴史上の事実として、日本では他地域と異なり、街に城郭がなかったという特異点があることが指摘されている。日本とは違い、中国やオリエント、ヨーロッパは都市国家から歴史が続いている。城郭というコストの高くつくインフラを整備する理由はただ一つ、余所からの侵入・略奪を防ぐためである。侵略者はいつどこから誰が来るのか予想がつかないため、最低限の守りとして城郭は欠かせないのである。一方で日本では堀という防御システムは知られているものの、城郭の事例はほとんど見られない。

産経新聞3月20日の「正論」で曾野綾子氏が、日本では万が一の時の覚悟や備えが出来ていないとする辛辣な意見を寄せている。北朝鮮からテポドンが飛んできたらどうするのか、国会議事堂や官邸が襲撃されて政府首脳が全て瓦礫の下に沈んだ場合に誰が日本国の意思を代表するのかと云う問いかけは時々出されるが、日本人はそういう想定を苦手としている所為か、はたまた憲法論議と直結してしまう所為か、出てもすぐに立ち消えになってしまう。しかし「正論」での曾野氏の提案はもっと現実的である。難民の小型船舶が大量に日本へ押し寄せたらどうなるのか、ヨットやモーターボートやタンカーが乗っ取られたらどうなるのか、いずれも明日起こってもおかしくない仮定である。

難民が大量に押し掛けてきた時、人道上から水際で押し返すという訳にもいくまい。引き受けるにしてもそれだけの余力がある自治体は日本にそんなには無い。福祉施設や水道や保安などの増強が必然となる。土地も必要になる。ここでダム論とこじつけるつもりは無いが、他国に比べ水資源がさほど豊かでもない日本にとっては大問題である。ここでも出てくるのが、イザヤ・ベンダサンの名言である「水と安全はタダ」という日本人の感覚である。

昨年大騒動になった狂牛病対策にしてもそうである。日本は他国より対応がかなり遅れている。対応が遅れていると云えば、道路や河川や空港の整備も日本はかなり立ち後れている。しかし国民の大半は知ってか知らずか、それらはいわゆる公共事業として逆風が吹いている。ここに構造改革、行政改革の難しさがある。


代理母問題について(H14.3.19)

タレントの向井亜紀さんがレギュラー復帰を果たしたレッツ!という番組を自ら降板し、渡米の準備を進めているという。向井亜紀さんはプロレスラーの高田延彦さんと結婚したが、病に冒されて子供を産めない体になってしまい、いわゆる代理母を求めているというのは広く知られている。

代理母の制度は日本医師会では認められていない。長野県下諏訪町の根津医師はそれを不満に思い、独自で代理母の制度を始めたところ、医師会から除名されてしまった。根津医師と云えば、田中知事への献金や下諏訪ダム反対でも知られているが、最近は下諏訪ダム関係は武井医師に任せ、むしろ代理母騒動で知られるようになった。ダム反対つながりで意気投合したのかもしれないが、週刊ポストでも根津医師の代理母騒動は何度か好意的に取り上げられた。

臓器移植にしろ、この代理母にしろ、更に話題となったクローン技術にしろ、バイオテクノロジーの進歩の一方で倫理観という壁がある。倫理観とは言い換えれば人間の尊厳である。そしてしばしば宗教と直結する。20世紀は宗教が軽視された時代でもあった。宗教は既に人類の心の重しではなくなりつつある。

そういった倫理観に触れるテクノロジーは、しばしばそれの適用が求められていようともブレーキをかけられることがある。それはむしろ当然のことであり、なぜならばそれを用いるのは人間であるからだ。そのため、週刊ポスト等で展開されるような、「代理母を認めようとしない日本医師会はおかしい」的な論調には強い懸念を感じる。
 特に根津医師の思考は支離滅裂ですらある。自然が大事であるから人工のダムは反対と叫びながら、一方で自然にも医師の倫理にも背くことを堂々と行って恥じようとすらしない。東俣川の自然をそのままにと云うのなら、人間界の生命誕生の摂理もそのままにしていただきたい。

アルバート・アインシュタインは特殊相対性理論・一般相対性理論という20世紀最大級の発見をした。しかしその発見に基づくテクノロジーの進歩で、20世紀半ばに原子力爆弾が造られ投下されて多くの犠牲者を出した後、彼はその発見を後悔したと云う。テクノロジーの制御無き進歩が自然社会を大きく破壊していることは改めて述べるまでもない。

向井亜紀さんのような悩みを持つ女性、そしてその伴侶たる悩める男性は少なくないことは十分予想できるし、その行動を制止するつもりもないしその権利もない。しかし一つ忘れてはいないだろうか。子供は神からの授かりものであるということを。人類は神を自らの手で葬ろうとしている。いや、神は葬られることはないから、そのような幻覚に率先して陥ろうとしていると云うべきか。しかし現実には生命の管理は神が行っている。いつか大きなしっぺ返しがやってくるのは間違いない。


部外者が見た田中知事像(H14.3.18)

部外者が見た…と云っても、田中県政を絶賛する方々はどちらかと云うとお仲間や友達だらけであるし、批判する側も県内の実情をある程度知っている人ばかりである。立場等のしがらみのない、当事者でなく純粋な第三者として、しかも識別能力を有している人の田中知事評価というのはあまり聞こえてこないのだが、珍しいところに記事が落ちていた。

週刊ポストで、漫画家の弘兼憲史氏が連載している「回文塾」というコーナーがある。その名の通り、回文(上から読んでも下から読んでも同じになる文章・語句)を読者から募集し、優れたものを掲載するというコーナーであるが、3月22日号に掲載された第10回では、「うかつにダムをひくこと 国費を無駄に使う」というものが紹介され、ダムの絵と小太りの田中知事の絵が描かれていた。
 弘兼憲史氏と云えば「人間交差点」「課長島耕作」「加治隆介の議」など数多くの作品を生み出している人気漫画家であり、その夫人もまた有名な漫画家である柴門ふみ氏である。政治漫画を連載しているとはいえ、当人は山口県出身で東京都在住、長野県政のことは恐らくTV報道以上のことはご存じないであろう。

その弘兼氏による田中知事評は同誌によると以下のとおりだそうな。

田中県知事はどこか小泉首相と共通するところがあります。正論を通す。どんなに反対されても自分の考えを曲げない。民衆から高い支持を受けている。そして、経済をガタガタにへこませる。正体がよくわからない。
古くは寛政の改革の松平定信、美濃部達吉元東京都知事なんかもこのタイプかも知れません。確かに公共事業には無駄なものがあります。ケインズ理論によると景気回復の為には公共事業による財政出動が有効となっていますから当面の景気対策にはいいでしょう。しかしその後、作ってしまった巨大なモノがどんどん赤字を生み出してゆくことは少なくありません。田中さんのダムがそれにあたるかどうかは我々にはわかりませんが、当事者である長野県民の中には異論を唱える人も数多くいますし、財政が逼迫していることもまた事実です。“白河の清きに魚もすみかねて、元の濁りの田沼恋しき”という落首がふと頭をかすめたのは私だけでしょうか。

巧みに一般論で片づけているが、田中知事に対して批判的な論調である。引用の最後にあったのは、松平定信政権の末期に出された有名な落首であり、朱子学に凝って実情にそぐわないきれい事ばかり行って政治や社会を停滞させた老中松平定信(“白河”藩主)を痛烈に批判し、賄賂が横行した弊害はあったものの経済政策を行って社会を活性化させていた田沼意次の時代のほうがはるかにまともだったと云うものである。余談であるが、田沼意次は印旛沼等の開拓事業や外交問題への先見性のある対応、平賀源内などの登用などで日本史で再評価がなされており、松平定信の株が下がっていくのとは対照的に、最近ではかなり評価が高くなっている。また松平定信は8代将軍吉宗の孫であり、佐久間象山を抜擢したことでも知られる松代藩主・老中真田幸貫の実父でもある。

仲間同士で褒め合って、時には誇大広告も行い、互いの評判を高め合うというのは乱世にしばしば見られる常套手段でもある。中国史に名高い諸葛孔明もまた、それを利用して知名度を高め、劉備に知られるようになったとされている。有名な三顧の礼も、実際には諸葛孔明側が劉備を何度も訪問して就職活動を行ったというのが真相ではないかとも云われている。仲間内の誇大広告にはくれぐれも騙されぬよう気を付けねばならぬ。


アップルラインで起こった飲酒運転車による交通事故について(H14.2.25)

長野市の国道18号、通称アップルラインで、飲酒運転をしている車両がパトカーに追跡され、横から出てきた車に衝突して、ぶつけられた車に乗っていた若い男女が亡くなるという痛ましい事故があった。
  場所は国道18号、柳原の跨線橋から北に約1qほど、村山北交差点と大町交差点のほぼ中間、長野の市街地側から見て鈴与と宇佐美の大きなガソリンスタンドが道路の左右に並ぶ先の小さな交差点であり、その交差点から北へ20mほどの西側のフェンスを破り、田圃へと車が転落し炎上した。事故が起こった日の朝にそれを知らずにたまたま現場前を通ったが、歩道の先に並ぶフェンスが15mほどにわたり倒され、転落防止のためのロープが張られており、歩道にはたくさんの花が飾られていた。そして田圃は一部黒くなっていた。

話が奇妙になったのは、遺族が飲酒運転をしていた土木作業員だけでなく、警察の追跡にも過失があったと騒ぎ出してからである。信濃毎日新聞にも数日にわたって特集記事が組まれていた。結論は曖昧のままだったが、裁判所は警察にも過失があったとする遺族の訴えを退けた。

色々と騒がれたこの一件だが、その割に触れられていない疑問点がある。小生は疑問に思ってあちこち調べてみたが、具体的に触れている記事は見あたらなかった。
  亡くなった2人の乗った乗用車が道に出たところを、国道を走る飲酒運転の車にぶつけられたのである。これは通常ならば、交差する小さい道路から国道に出てきた側に非があるのではないのだろうか?たまたまぶつけられた側が死亡したから、ぶつけた側が飲酒運転の上スピード違反をしていたから誰も気に留めていないだけで、国道に横から出てきた側には非がないのだろうか?
  現地の、国道に交差する幅4m弱の道路には止まれの標識が設置されていない。しかし国道側の中央車線が連続していることを改めて取り上げるまでもなく、どちらが優先交通かは云うまでも無かろう。

2月25日の信濃毎日新聞に、松本市の男性が交差点での直進優先という秩序を無視したドライバーが増えていることに対して嘆き憤る内容の投稿をしていた。まさにここで云いたいのはこのことである。亡くなった2人の車は交差点の秩序という交通ルールの初歩を無視していたのではないだろうか?
  フェンスを破って田圃に転落したということから見て、横から出てきた車両は、道路の真ん中近くまで出ていた筈である。従って、交通ルールを無視したのでないとするならば、2通りのことが考えられる。1つは横から出てきた側の車両が国道に出るときに目測を誤った、もしくは瞬間的にしか交差点の状況を確認しなかったという推測である。飲酒運転をしていた車両はパトカーに追われ、相当のスピードを出していた。そのため目測を見誤ったということは考えられる。もう一つの可能性は、飲酒運転の車両がパトカーの追跡をくらますべく消灯して走っていたのではないかということである。

真相は分からない。しかしそのいずれにしても、それをもって追跡していた警察の過失とするのは無理がある。遺族のやりきれない気持ちは分からないでもないが、筋違いの逆恨みはいかがなものか。

先日、夜も10時を過ぎた頃にそこを車で通ったら、女性が2人、既に修復されたフェンスの前にしゃがり込み、花を添えて手を合わせていた。故人の肉親か、はたまた近所の人だろうか。そして田圃の車が落ちて突っ込んだと思われる場所一帯は、未だその時のまま黒くすすぼけたような色をしている。
  遺族の方々には、故人の霊を慰めるためにも、不必要な騒ぎは控えてもらいたいものだと思う。


『広辞苑の嘘』について

2001年秋に光文社から発行されたこの本、話題になっている。

広辞苑は間違いだらけである。記された語釈は要点から逸れている。うっかり信用したら恥をかく。勘違いした説明が多いから、真面目に受け取ろうものなら、頓珍漢を演じるおそれがある。火の用心、広辞苑用心。  −と同書の帯に記されている。
  一読してみたが、なるほどと思わされることが多い。単に、辞典としての欠点である誤用があるというだけでなく、出版元である岩波書店特有の偏向イデオロギー色が随所にみられるという指摘は、この著者2名ならではの鋭いところであろう。
  著者は谷沢永一氏と渡部昇一氏。谷沢氏は司馬遼太郎フォロワーの第一人者としても知られ、これまでにも数多くの著作がある。最近では扶桑社の歴史教科書を絶版せよという趣旨の本を出しており、長野県では話題となった潮匡人氏著の『田中知事の真実』のあとがきも書いている。渡部氏もまた著作が多く、日本とドイツで活躍をしている。

ただ正直なところ、渡部氏があとがきに記しているように、広辞苑は広く出回っている割に、意外に使われていない辞典でもある。というよりもむしろ、渡部氏のあとがきの冒頭部は、そのまま読後の小生の感想そのものであった。
  簡単に語彙を調べるのならば国語辞典が、漢字を調べるには漢和辞典があり、人名を調べるには人名辞典、歴史上のことについては歴史事典や年表、その他専門知識ということならばそれぞれの専門書や百科事典がある。小生の書棚にも広辞苑はあるが、渡部氏のあとがきを読んで思い返してみればたしかに、せいぜい月に数回くらいしか使わない。他の辞書等で事足りるからである。

ただし同書にも勇み足がある。特に中国史をバッサリ切り捨てている谷沢氏の解説は、やや筋違いなところと事実誤認とが入り交じっている。現代のシナ人が定義の不明瞭な“漢民族”の直系かどうかなどはどうだっていいことであるし、三国志時代に全体人口が激減したというのも認識不足。そもそも中国大陸における“中華”とは民族(血)ではなく思想による旗印であるし、四書五経や諸子百家で知られる昔の漢民族の代表選手に孔子がいるが、その子孫は代々丁重に扱われて現在にまで至っており、その一人である孔健氏などは日本でも知られている。やはり思想民族であるユダヤ人は血統的にイエスの頃とは全くの別系統が入っているとされているが、それと同じこと。岩波書店の賛美する“中華思想”に辟易とはいえ、それこそ嘘はいけませんな。

先述の『田中知事の真実』のあとがきを読んだときにも思ったことだが、谷沢氏は最近ピンぼけ的な著述がいくつか目に付くようになっている。ただこの書物では、さほど目立たなかった。

注:「歴史教科書」→「扶桑社の歴史教科書」に修正(H14.2.23)


アニミズムの問題・宗教の問題

アメリカが裁判が盛んな国とは聞いていたが、柔道での“礼”が宗教ではないかという理由からやめるべきだと訴えを起こしていた人がいたということを先日知った。

柔道場に入るとき、出るとき、礼をする。これは柔道だけでなく、武道の道場ではほぼ当たり前のこととなっている。確認をしていないが、“道”という言葉を用いているところなどから、これは恐らく禅の精神がもとになっているものと予想される。
  禅は仏教であることは云うまでもない。しかし、禅の精神が背景にあるというだけで、宗教的だから排除せよという議論はちょっとおかしいと感じる日本人は少なくないのではなかろうか。欧米の精神である自由・平等や、基本的人権などというものは、キリスト教の精神が背景にあることは誰もが知っているが、それを排除せよという議論は出されているだろうか?
  第一、それを嫌と感じるのなら、柔道をやらなければよい。そういった仲間同士、いや同志で新たな“柔術”を拓き、柔術場を作り、仲間内で楽しめばいい。誰もそれを否定しないし、それは個人の選択である。

アニミズムについて考えるべき問題がある。
  先日、子息が昔使用していた教科書を整理していたところ、音楽の教科書に「大地讃歌」なる楽曲が入っていた。合唱のための曲らしいが、この歌詞はまさにアニミズムの世界である。このような唄を小中学生に歌わせていたことを知ったのも初めてだった。
  これこそ、厳格な宗教家からクレームがついたらどうなるのだろうか。何せ義務教育である。嫌と感じていても避けられない。子供達は合唱をあまり好まないから、クレームを出した人だけ歌わなくてもよいというとするのも“なぜあの子だけ”というような問題が生じて、いじめの種になることが考えられる。
  小中学生に独立した宗教心を条件設定するのはおかしいと云う人もいる。しかしそれは日本ならではであり、イスラムの世界に限らず、欧米でもいや日本でも、熱心な宗教徒の家に生まれた子供は、幼くてもしっかりした宗教心を持っている。そして日本の外から多くの家族が移住してきている現状、そして将来を見ていると、これからの日本の小中学校には、そういった子供達が増えてくることが考えられる。
  アニミズムの世界は音楽の時間でなく、社会の時間に教えればいいことである。音楽と社会の授業の違いは、社会科は「ああいう考え方もある」として物事を客観的に捉えるが、音楽はなし崩し的半強制的にそれを行わせるというところにある。しかも歌を歌うことは、歌詞の内容によってはそのまま宗教行為になる。「大地讃歌」を学校で歌わなければならない必然性はどこにもない。
 そこまで来て、ある連想をした。−−−小中学校の教員といえば日教組であり、日教組の思想といえば左翼系、日本の左翼系といえば共産主義、共産主義といえば宗教の否定、といって人間の心にある宗教心を全て消すことはできないから、従ってアニミズムの世界。少々飛躍もあるのだが、大地讃歌のようなアニミズムが受け入れられているのも、日教組による一種の洗脳ではないか−−−単なる思いつきであり、論理的にも飛躍があるので説明を求められても現段階では何も云えない。ただマルキシズムが宗教(はっきり云うとキリスト教)の否定をするために進化論を積極的に擁護したのは歴史上の事実であり、学界では未だ単なる有力学説に過ぎない進化論を、日本ではあたかも真実であったかのように学校で教えているのも事実である。20世紀後半の日本は世界で最も成功した社会主義国家であるという揶揄があるが、まさしく然り。

味の素騒動などにより、イスラム教徒やユダヤ教徒が食材を“選ぶ”ことが日本人にも広く知られるようになった。つまりそれだけ相手への配慮が求められているのだ。個人的な嗜好は別にして、同じ日本人という意識でこれまで済ませていたものが、これからは済まされなくなってくる。

注:一部修正。

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