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第20回ひがし広島の史跡文化財を歩く会の参加記録 |
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(西国街道を歩く)
平成14年4月29日 |
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| ※この地図は、国土地理院長の承諾を得て、同院発行の2.5万分の1地形図を複製したものをパンフレットに掲載したものを、スキャニングして掲載したものです。 |
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| 出発地点の築地神社です。受付と開会式が行われました。 |
右の石碑は藤原春鵲(ふじわらしゅんじゃく)の頌徳碑(しょうとくひ)(東広島市指定史跡)、乃木希典(のぎまれすけ)の揮毫による碑文。 |
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東広島市指定史跡藤原春鵲(ふじわらしゅんじゃく)の碑
昭和53年11月15日指定
藤原春鵲は、長崎の池田玄彬のもとで、医学の指導を受けました。長崎ではとくに種痘研究を行い、2年後に帰郷して上三永村で家業の医者を継ぎました。嘉永5(1852)年に、当時の賀茂郡代に新たな天然痘治療の意見を上申するとともに、施療法を考え、賀茂郡内で種痘を無償で行いました。
慶応2(1866)年の大飢饉では金75両を、さらに文久元(1861)年の飢饉時には米を出して、多くの人々を救済しています。
慶応2(1866)年の第2次長州戦争の際に広島藩で応変隊が編成されていますが藩命によって医長となり軍医勤務を行っています。
この功徳碑は、こうした藤原春鵲の業績を称えたものです。
碑文は、旧東京第一高等学校教授塩谷時敏の撰文、乃木希典の揮毫によるものです。
明治6(1873)年上三永村に小学校創設、その経費の過半を負担。
明治17(1884)年春、その徳行・孝義に対し緑綬褒章が贈られる。 |
| ↑クリックすると大きな解説板になります。 |
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築地神社の境内の様子、鳥居の向こうには拝殿が見えます。
祭神は、品陀和家命(ほんだわけのみこと・応神天皇)、帯仲津彦命(たらしなかつひこのみこと・仲哀天皇)、息長足媛命(おきながたらしひめのみこと・神功皇后)の三柱をお祀りしています。 |
↑築地神社の拝殿です。この拝殿には、藤原春鵲の絵馬が奉納されています。 |
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呼岩(おうむ岩)岩伏山にある呼岩は、岩に向かって声をかけると答えるような声が聞こえるという不思議な岩として、古くから知られた名所です。 |
↑『藤原春鵲父を呼岩にてなぐさめるの図』明治26(1839)の春、中島一正氏奉納。
藤原春鵲の功徳を絵馬にしたものです。安芸津にある名所、呼岩(おうむ岩)に自分の父親を連れて行き景色を望ませるという話を描いたものです。親孝行で兄弟とも家族仲が良かったといわれています。
藤原春鵲は、医者として社会事業家tしても活躍しているが、「父母ニ事ヘテ孝養怠ルナシ」と、芸備彰徳には書かれている。
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| 受付の様子です。東広島アザレアフェアリーも受付に参加してくださいました。 |
↑境内の中は続々と参加者の皆さんで溢れて来ました。 |
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| 開会式の始まりです。 |
司会の栗本さんと副会長さんです。 |
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| 来賓の上田東広島市長さんから、励ましのお言葉を頂きました。 |
来賓の荒谷東広島市教育委員会教育長さんから、意義あるこの会についてのお話がありました。
昨年と今年を併せて、東広島市内の西国街道を完歩することになるといったお話がありました。 |
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←いよいよ出発です。先頭は東広島市観光ボランティアの徳永さんらの案内で参加者が続きます。築地神社の参道を歩いて鳥居をくぐって、西国街道へと歩を進めます。
今年の参加者は、天候も良かったおかげか、300余名の参加がありました。
↓この日は、比較的涼しく、軽快に歩くことができました。 |
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| まず、最初に案内を受けたのは、荒谷土居屋敷跡です。周囲の田んぼはかって堀になっていたそうです。 |
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↑荒谷家の墓地と、中世荒谷屋敷の創造図です。
↓コースは左に折れますが、荒谷家墓地は正面のこんもりとした森の中にあります。 |
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| 国道2号線を渡って、茗荷清水の近くを通って、三永石門を移設してあるところに向かいました。ここには始めの関所を設け、スタンプを押してもらいます。 |
↑関所の入り口では、代官に扮した皆さんが出迎えてくれました。 |
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茗荷清水跡
茗荷清水は、岩の間から冷たい清水が湧き出て古くから幕末のころまで往来の旅人ののどを潤した。江戸時代には『音に聞こえし茗荷の清水、三原御前酒にもおとるまい』と歌われるほど、美味しさが称えられた。
現在は、水はあまり出ていない。
この茗荷清水のあたりの山林が賀茂泉酒造の所有であったことから、酒銘を賀茂泉と名づけたといいます。 |
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| 通行手形を出して、スタンプを押してもらいます。各関所は、ページ末に記載しました主催、協賛の各団体の皆様のご協力によって運営されています。 |
復元された三永の石門です。明治の初頃、西国街道にかわる国道2号線とするため、掘削工事をすることになったが、農業水路が通っており、アーチ式の石門を造りその上に水路を通した。昭和53年国道2号線の拡幅工事のため、約100m西のこの地に復元された。 |
←かつて、中国駅伝もこの石門をくぐって、たすきをつないでいきました。
→石立て神社は、祭神は伊邪那岐命(イザナギ)、地上から建てられた石が御神体。昭和29(1954)年に築地神社へ合併されたが、そのまま元の場所に鎮座している。
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| 石の御神体 |
道は石立て神社を過ぎて山中に続きます。日向一里塚跡へ向かいます。 |
←日向一里塚跡(ひゅうがいちりづかあと)
東広島・呉道路建設に伴い発掘調査が行われ、西国街道の両側に周囲に張石をした直径6mの一里塚跡が出土した。一里塚は主要街道の一里(約4km)ごとに両側に土を盛り上げて塚をつくって、松などを植えて標識としていました。
現在は盛り土がされ、道路に埋め戻されている。かなり離れたところに仮の石碑が設置されていますが、東広島・呉道路完成時には、正式な石碑が作られるといいます。
発掘された写真には、当時の街道とその両脇の一里塚の張石が、いっしょに写った人間と大きさが比較されてとても解かりやすいと思います。
写真上の方に建設されている道路の下にトンネルが作られていますが、そのトンネルが、西国街道のルートを残すために作られたものです。もちろん当時はトンネルではありません。
現在このあたりは、工事中のため立入ができません。 |
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旧山陽道松子山峠の石碑。
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この松子山峠にいたる道は、とても険しいのぼり道になっており、西国街道の中でも特に険しい。
西の小箱根の異名があるほどの峠越え。その道には水が湧き出てぬかるんでいました。道々に土嚢や木を並べて、歩きやすくしてくださっていました。準備して下さった郷土史研究会の皆様に感謝です。
この険しいところの写真が余りないのは、写真をとるほどの余裕がなかったということです。いやあ、ほんと辛かったです。
(><)
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中国一と言われた、吉土實村松子山國道筋の嘉古松(かご松)の写真。
枯れたかご松は、現在賀茂泉酒造の門の扉になっている。
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枯れたかご松のあとには、地元有志によって『かご松の碑』が建てられました。今日はこの大名行列も駕籠を下ろして休んだことにちなんで、この石碑のもとで昼食と休憩をとりました。 |
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| 松子山の浄水場、貯水場。田万里川の最上部にあたり、昭和30年より上水用として利用される。 |
牛万長者の物語所縁の神社。
日頃から牛にやさしかったほうろく売りの男が、その牛が死んで金にかわって長者になったという物語所縁の神社。 |
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| 左は、紀年の石碑、右手は、今宮神社(牛宮神社) |
今宮神社を過ぎて、しばらく歩くと、西條四日市(現在の西条の町並み)が見えてくる、ここまでくるとようやくゴールが目の前に届く気持ちになる。 |

いっしょに歩いてきたワンちゃんもしばし、この歌謡坂一里塚で足を止めます。 |
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| 歌謡坂を過ぎて、さらに西条の街中まで街道は続く |
↑街道並木松の切り株 |
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| 丁度、この切り株の横に、恩師景山和彦先生が農作業をされていたので、記念に一枚。 |
↑枯れる前の街道並木松の写真。 |
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さて、もう目の前には西条の酒蔵や煙突がみえてきました。結構、険しかった街道もゴールは目前です。足はだんだん軽くなるはずですが、思うように進みません。皆さん、日頃から歩きなれていらっしゃるようで、軽快に進んでいらっしゃいました。途中いっしょに歩いた方は、昨日は三瓶山に登ってきたといわれる方も有り、これぐらいで、へこたれてはと自分にカツをいれて歩いた次第です。
(><)辛い!!
しかし、辛い道でしたが周りの皆さんと話しながら歩きますと、その辛さを忘れてとても楽しい道中になりました。
皆さん、文化財を見て楽し、街道を歩いて楽し、健康作りに更に楽しい、毎回遠くからこの29日の会を楽しみにされている気持ちがとてもよく解かったように思いました。 |
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| 吉土実(よしとみ)に設けられた関所で、通行手形にスタンプをもらう。 |
→右手の保育所の奥に廃大林寺がある、まっすぐに行けば現在の酒蔵通りになります。 |
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路地の奥に、地蔵堂が見える、廃大林寺です。
現在は地蔵堂があり、本尊は地蔵菩薩(秘仏)で、境内には六地蔵、脇八十八(江戸末期の土与丸村の庄屋)の頌徳碑(しょうとくひ)があります。
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酒造会社、賀茂泉酒造の酒蔵が左手に見える。
賀茂泉の銘は、旧山陽道に面した田万里の蔵元所有の山林に『茗荷清水』があり、その親しまれた湧き水にちなみ、『賀茂泉』と命名された。 |
蔵に連なる賀茂泉酒造の前垣家の門の扉は、松子山のかご松が枯れたとき、当時の当主が、それを惜しんで、当家の門の扉に、かご松を板にひいて、往時のかご松をしのんだという。 |
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| 賀茂泉を過ぎ、酒蔵通りを途中右に折れ、酒蔵の小路に入り、賀茂鶴酒造本社横の本陣跡に向かう。 |
本陣跡、復元された本陣の門。 |
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| 本陣の北側には、安芸国分寺がある。 |
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四日市御茶屋跡
広島藩の本陣。
明治になって、賀茂郡役所がおかれた。 |
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本陣から西の小道を抜けると、北西に御建神社、教善寺が望めます。
教善寺の庫裏は、志和の八条原城の文武塾講堂を移築したもので、八条原は広島藩の隠れ城ともいわれ、官軍とともに幼い帝を迎え体制を建て直す目的で築いた城といわれています。
さらに進むと、JR山陽本線西条駅前のロータリーに出ます。この日は、JR西条駅から、臨時便のバスがでて、駅前から、築地神社近くまで運んでいただきました。芸陽バスの皆様お世話になりました。
この駅前から、ブールバールが西条街中を通って、三ッ城古墳横を通って鏡山城の横を通り、国立学校法人 広島大学まで通っています。
現在、西国街道は、西条の街中を酒蔵通りと名づけられ、多くの観光客が訪れる観光ポイントになっています。西条駅周辺もだんだんと整備され、各所に解説板も取り付けられ、毎月10日には、観光ボランティアの皆さんが定期的に酒蔵通りを案内して下さっています。
駅前には観光協会の駅前案内所も設けられ、パンフレットなど手に入れることができます。10月になりますと周辺は酒まつりで町中が賑わいます。
酒蔵通りは、10月から翌年3月まで、蒸した酒米の白い蒸気と、醗酵の進んだ酒の香りが漂います。 |
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| 西条駅前を左に曲がり、ブールバールを100mほどいくとゴールの中央公園に設けられた、四日市関所に到着。 |
どうも、これまでの関所の中で、一番あやしげな代官が出迎えてくれた。ここに入れば、ようやくゴールだ。 |
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| 関所のテントでは、東広島アザレアフェアリィーがお出迎え。 |
最後のスタンプを押してもらうと、完歩のしるしの記念のタオルがもらえました。 |
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| 続々と完歩の皆さんが到着します。 |
会場には、江戸時代の大名行列の予想図が掲示されていました。 |
←これが、通行手形です。裏面には各関所の通過の証拠のスタンプが並びます。
今回、街道というくらいなんでもっと歩きやすい道かと思っていたのですが、松子山越えのことは聞いてはいましたがこれほど険しかったとは流石に思ってみませんでした。今回は300名余りのみなさんと2匹のワンちゃんが見事あるかれたようです。また、来年の29日が楽しみです。 |
※第20回ひがし広島の史跡文化財を見て歩く会(西国街道を歩く)平成16年4月29日を支えてくださった皆様に感謝いたします。
主催:東広島郷土史研究会 協賛 西条ロータリークラブ、東広島ウェストライオンズクラブ、東広島観光協会、東広島青年会議所、東広島21ロータリークラブ、東広島ライオンズクラブ、東広島ロータリークラブ(50音順) 後援 東広島教育委員会、東広島市商工会議所、広島中央農業協同組合、中国新聞社、中国放送(株)、(株)広島テレビ、東広島リビング新聞社、(株)プレスネット(順不同)
ページ内の解説は、今回のパンフレット、東広島の歴史事典(いづれも郷土史研究会編)を出典としたものです。 |
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