『エルドラド』
(3)
「ここまで来たら大丈夫かな。」
丁度城内で、先ほどの集会場とは逆位置にあたるテラスに出ると、サーシャはふわとマリアを降ろした。彼女の背の小さな翼を見つめて、言葉を切って微笑む。
「サーシャ、一体なんだったの?」
「さあ、なんだろう。」
マリアに覗き込まれて、サーシャはふいと顔を背けた。恋人の幼いしぐさにマリアは背伸びをし、手を添えて自分のほうを向かせる。しぶしぶとサーシャも彼女に視線を合わせたが、曖昧に微笑むばかりで言葉を継がない。
「生涯の伴侶に嘘をつくつもり? そんな方の元へはお嫁にいけないわ。」
「嘘をつきたくないから、黙るんだよマリア。」
少し膨れたように見上げてくるマリアに、サーシャは苦笑いして首を振った。静かに耳元で『ごめんね。』と囁くと、いからせていた肩を降ろしてマリアが溜息をつく。
「仕方がないわ、今は聞かない。あなたは強情ですもの、機を待つわ。」
「あは、はは……そう。」
おっとりと喋る、けれどその実内容は鋭いマリアの声にサーシャは笑みをちょっと引きつらせた。けれど、すぐにいつもの穏やかな表情に戻って、そっとマリアの手を取り、繋ぐ。
「堕天の国の方とはお会いになられたの?」
「うん。」
テラスを吹き抜ける風に髪を遊ばせて、二人はまるで世間話でも交わすような軽い調子で喋った。そう、と頷くマリアに、サーシャはそのまま沈黙してしまう。
「弟殿下には……?」
「怒ってたねぇ。」
あは、と軽くサーシャが笑う。マリアは少し悲しげに俯いて、それに気が付くとサーシャは彼女の頬に手を伸ばした。あたたかい、とマリアが瞼を閉じる。
「彼は潔癖症だから。最近とみに気が立っていてね、僕も気にかかってはいたんだけれど――……。」
でも、とサーシャは目を細める。指先にすべらかな肌の感触。マリアにこうやって触れることこそが、サーシャにとっての幸福だ。
「でも僕には、祈るしかもうできないから。彼が僕とはまた違った道を選んで、歩むことを。
そうして祈りながら信じているしか、できないからね。」
でもそれくらいじゃ彼は僕を許してはくれないかな、とサーシャは呟いた。マリアは黙って彼を見守っていたが、サーシャは一度だけ、彼女ではなくエルドラド城の上階を見上げて、目を瞑る。
「全て彼におしつけていってしまう――それは僕の罪。」
「サーシャ……。」
天を仰ぐサーシャの横に寄り添って、マリアが取られた手を握り返す。ゆっくりと、瞼を上げてサーシャはいっそ清々しげに微笑んだ。
「でもきっと、このまま僕がこの国に居残る方が、エルドラドに影響を与えてしまうことになるだろう。それはだけは許せない――…だから、これが最後の此処での僕の務めだ。」
「………。」
「僕を墜としたのは君だよ、一緒に来てくれるね?」
きゅ、と軋むほどにマリアの手を握り締めて、サーシャは泣きそうな顔で笑んだ。本当に、どれだけ罪を重ねるか分からない――…けれど、それでも、欲しいものは君だけ。
マリアが花が綻ぶように淡く微笑んだのを見つめて、サーシャは彼女の身体を抱きしめるとそのまま空に躍り出た。
半分が地上に辿り着く前に力尽きて死ぬ。
運よく着いても、力をなくすための儀式で翼を落とせば、そのショックでもう半分が死ぬ。
翼を落とせば、天人として培ってきたアイデンティティが崩れゆき、狂い――…死ぬ。
あるいは、魔に目覚めて堕天使になってしまうものもいる。
いったい、彼のシャンバラでもう一度こうして君を抱ける可能性は、どれほどなのだろうか。気の遠くなりそうなほど低いその数値に、けれどサーシャはそれに賭けるだけしかなかった。
「う………。」
チチチ、と耳元で何かが囀る声がして、ローズは首を左右に振った。重たい瞼をなんとか薄く持ち上げると、滲んだ視界一面に緑色が映る。魔界の黒闇でもなく、天上の白光でもない。では、此処は……? とまだうまく働かぬ頭を無理やり回転させるが、ズキンと突き刺す頭痛に阻まれローズはもう一度瞼を閉じた。
此処は――……。
肺いっぱいに空気を吸い込むと、嗅ぎ慣れぬ匂いがする。少し苦味のまじった、甘さも含むそれが野草の香りだ――と気付いたのは、そのまま4〜5分たってからだった。
「じゃ、此処……地上? いったいなんで……。」
このまま地面にうずくまっていたい気分をなんとか押しやって、ローズは立ち上がる。身体の節々が痛いどころか感覚まで曖昧なほどしびれてしまっており、すぐに歩くのは無理だと悟って傍の木に背中を凭れ掛けた。ぱた、と埃をはたこうと髪や衣装を触って、ふと指先に絡む蒼い靄に気付く。それも、もう片手には冷たい雫。
「なにこれ。変な光。」
ぽい、と指先で放りながら、再びぼんやりと今の自分の状況に思いを馳せた。目許を拭った指先が濡れている、泣くような夢でも見たのだろうか。
「―――……。」
いいや、夢じゃない。夢じゃなかった――……と、ローズは身体中に絡む蒼い靄を見据えながら、目を伏せた。フィーだ。フィブロ皇子が居た。けれど、何故……? ローズの願いどおりに彼が玉座へついていたならば、ああも気安くあんな場所に来れる筈がない。
では矢張り、あれは夢か。
いいや、そんなはず―――……。
「……。」
現実だ。ローズは甘美で悲しすぎるあの一瞬を、首を振ると痛々しげに胸を抱いて肯定した。後もう少しで、彼の腕に抱かれることが出来たはずだった。けれど、叶わなかった。
ローズは自嘲するような笑みを口元に浮かべて、虚ろな瞳で目前の緑を見据えた。何を今更後悔することがあろうか。これこそが、ローズが交わした血の契約。もう二度と逢わないと、逢わないからあの人の心だけは永遠に自分のもの――…と。契約が無理やりに破られそうになったから、贄にしていた己が血が暴走したのだろう。いや、現在この身体に魔力は宿っていないから、フィブロ側の魔力が暴走したのかもしれない。自分が気付いた時ではなく、フィブロが気づいて後に魔洸が発したのだから、おそらく後者の考えで正しいのだろう。フィブロより自分のほうが力が劣っていたから、ローズが弾き飛ばされたのだ。
「……それにしても、地上なのは分かったけど一体どのあたりなのよ。」
いてて、と肘やら膝やらの擦り傷を、魔力無しでは回復することも出来ずにローズは立ちすくんで途方にくれた。ようやく歩けるくらい痺れは取れたが、右に行けばいいのやら左に行けばいいやら。目前にはうっそうとした森が広がっているばかりだ。人の影など、みじんも見えない。
「そもそも一体どれくらい気を失ってたのかなぁ、ずいぶん眠ってたんだろうなぁ、なんせなーんにも力がないんだもんっ」
ぶつぶつと声を張り上げて愚痴を言いながら、ローズはずるりと木に縋りついた。もう、何かにひっついていないと、いつまでも思考があの人を追ってしまうような気がして。
「だいたい人をこんな目にあわせといて、あの男はどこへいったのよ――……」
はた、とサーシャの顔が頭に浮かび、ぐっと拳を握り締めた時だった。ばさ、と背後で羽音が響いて、ローズは反射的に振り返る。うっそうとした森は、あちこちに暗闇を孕んでいてちっとも目が利かない。鳥か、とも考えたが、鳥にしては大きすぎる音だった。
「狼とか、虎とかじゃぁまさかないとは思うけど……さっきの音だと。」
じり、と足元の砂を踏む。こめかみを冷や汗が流れるが、綺麗さっぱり魔力を失った身体では、気配を察することもままならない。
「なに―――…ひっ!」
辺りを伺うために、視線を少し遠くへ投げかけた一瞬だった。ローズの首筋に冷たい硬質のものが当てられる。鋭く研がれたそれは、確認のために目をやらなくても、鋭利な刃物であることが窺われた。
「な―――……。」
息を飲んで、言葉を切る。そのままローズは首に押し当てられている刃へ視線を移した。太い孤の形をしているそれは、見事な純金の細工が施された大鎌だ。柄が上方に伸びており、ローズの背後にやや傾いている。おそらく木の上に停まって鎌を垂れさせているのだ――まさか、鳥がそんなことすまいが――……と、ローズは唾を飲んだ。
もしや大公が言っていた堕天使の類だろうか。しかし、それにしては間合いを図るばかりで襲い掛かる様子が無い。
「―――……汝、翼を捨てし天人か。」
「……?」
不意に鎌の主が、頭上からローズに静かな声をかけてきてローズは蒼の目を見開く。聞こえてきた声は、まだうら若い少年のものである。いかにも理に聡そうな、しっかりとした口調だ。いっそうに正体がつかめずに、ローズは沈黙してしまう。
「纏う聖の気、また混じっての魔の気。汝、それとも混血の児か。
肯か否か、すみやかに答えよ。」
頭の上から重ねてものを言われて、ローズはさっきまでの怯えもどこへやら、震える拳の意味が変わってきた。ただでさえサーシャのことで機嫌が悪かったのに、またこの無礼者はなんなんだ。
「汝――…」
「るっさい!!!」
「―――!?」
ぐい、とローズは鎌の柄に手を掛けて、力いっぱいに引いた。普段から家事・日曜大工の仕事を一身に負っているだけあって、てこの原理にも力技にも優れている。すっかり虚を付かれた声の主は、鎌に引っ張られる形で放り上げられる。
「お、おっも……。人に偉そうな口利く前にダイエットしたら!?」
ぜーはー、と荒く息をつきながら、ローズは暗闇の中で煌いている金色の鎌めがけて声を張り上げた。鎌はふわふわと宙に浮き、その向こうに黒くぼやけた人影も目に入る。そうしてその影の背には、大きな翼。
「逆らう……か。」
「べー。」
静かに声が響いて、ローズは舌を出す。かちん、ときたのか人影が鎌を握りなおすのが見えた。
「げ、うそ。まさかまたそれで襲いかかる気?」
無礼にもほどがあるわよ、と唇をもごつかせ、ローズはじりじり後ずさる。きらり、と金色が鈍く光るのが目に入り、ぞくりと背を震わせると反射的に駆け出した。
「待て、堕天使!」
「―――…はぁっ? ち、ちが……っ」
背後からとんちんかんに呼び止められて、ローズは木々を避けて走りながら振り返る。相手は背の大きな翼が災いしてか、葉や枝に引っかかってなかなか間を詰められないようだ。翼があるのもよしあしなのね、と口笛を吹きつつ余裕をかましたローズだったが、それがまずかった。つん!と足に木の根が引っかかって、前につんのめる。
「うわ……っ」
「わあ!?」
ドスン!
「………。」
落ち葉と枯れ草を盛大に巻き上げて、二つの人影が腐葉土の上に倒れこむ。目の前で星が飛ぶような痛みを感じて、ローズは頭を振るった。
「いた、いたたぁ……。」
ずる、と身体を起こすと、自分の上に何者かの身体。逃げようともがいても、相手は石のように動かない。
「ちょっとお! 立てないじゃないのっ」
ぺちーん! と景気良く相手の頭を張ると、その身体ももそもそと上半身を起こした。線の細い体つき、声の通りにまだ随分と若い少年のようだ。目に痛い背中の白い翼は、天人特有の。
「あれ……。」
「ン?」
顔を上げた少年の表情は、木々の影で暗く見えなかったが、少年の視線を胸元に感じてローズも自らの胸に視線を落とす。胸……を見たはずなのだが、何故か視界にクローズアップされたのは見知らぬ掌。
「おんな……のこ?」
呆けたように少年が呟く。張り詰めていた口調も緩んでしまい、掌はそのままに視線を次はローズの顔に向けた。蒼硝子の瞳が、みるみる間に見開かれてゆく。
「なにすんのよ!!」
掌の次は脚が飛んだ。蹴り飛ばされそうになるのをすんでのところで避けると、少年は重心をローズの上から退かした形になる。その間にするりと華奢な身体をくぐらせて、ローズは再び立ち上がると今度は振り向かずに走り出した。
少年は、今度は追いかけようともせず座り込んだまま、小さくなってゆくローズの背中を見つめていた。