『其の地、緑の。』
(1)
「……もう、いったいなんなのよ。なんだってわけ。」
短期間で次から次に、矢継早にいろんなことが起こって、パニックのあまりローズはぐすぐすと鼻を啜りながら道なき道を歩いていた。追っ手の気配も既に無く、森はどっちへ歩いても暗いばかり。それがいっそうにローズの精神を不安定なものへとする。普段は気丈を装っているローズだが、それだって自分のこういう危うさを隠すための、必死の処世術なのだ。けれど魔力は奪われるわ子供の姿にされるわ、踏んだり蹴ったりの事件ばかり起こるわ――では、そうかっこつける余裕なんて1mmもない。
「あたしがなにか悪いことでもしたかってーの!」
どん!!とその辺の木の幹に拳をあてる。けれど、自分の手が痛いばかりで気も晴れやしない。じわ、といっそう溢れてくる涙を飲み込もうとして、ローズは喉を詰まらせた。
「こらこら、じょーちゃん。こんなとこ泣きながら歩いてたら、たちの悪い狼さんに喰われちまうぜえ?」
「っ!?」
ははは、と不意に笑い声が聞こえて、ローズは顔を上げた。先ほどの少年とはちがう、今度は大人の男性の声。クスクスとからかう様な笑みが木々に木霊して、ローズの神経を四散させる。『ここだ。』と、また笑んだ声が聞こえた。
「今度は何者よ、あたしに何の用?」
ぐ、と目を擦って強気な声を張り上げ、ローズは目前の闇を見据えた。ゆらり、と漆黒のビロードのようなものが揺れて、次の瞬間、どこから現れたのか黒髪の精悍な青年がローズの前に立ちはだかる。赤い瞳と口元には余裕げな笑みが浮かべられており、ローズは一歩後ずさった。
「そりゃこっちのセリフだっての。」
何者? と首をかしげ返されて、ローズは『はあ?』と眉根を寄せる。う〜ん、と黒髪の男は考え込む素振りをすると、『ちょっとこっちに手ェ出してみ。』とローズに手招きをした。
「な、なによ。」
言われるがまま、何故か素直にローズは腕を伸ばす。妙に警戒心のない相手の雰囲気に当てられたのと、またローズ自身が自分について正しく説明できなかったというのもある。差し伸べた手をまじまじと見つめると、男は自らの手もその上に翳した。
「こっちだな。こっちから、懐かしい匂いがする。」
「え……?」
訝しげにローズが首をかしげている間に、ローズの片手から白い紙切れがスルリと引き出された。『そら出た。』と満足げに男が笑んで、ローズははっと目を見張る。
「あの時の聖歌……!」
「んん?お前、天使だったのか?」
レヴィンから渡された楽譜を男がまじまじと見つめるのを眺めながら、ローズはふるふると首を振った。ま、そうだろーな、と男が頷く。
「魔力の匂いもするもんな、お前。ごくごくうすーく、そうだな……あんたの内側から匂うんじゃなくて、残り香がついてるって感じだ。じょーちゃん、名前は?」
てきぱきと考察をする男にさりげなく名を聞かれて、ローズは思わず口を開いた。サーシャから名乗るな――……といわれていたが、それは天上でのことだ。ぽつり、と小さな声で呟く。
「ローズ。」
「ほー。」
薔薇の花だな、と男は笑って、ローズに楽譜を返してくれた。いいのか、と首を傾げると、お前のもんだろ、と笑みを向けられる。
「いいや、懐かしい匂いがしたもんだから――昔の知り合いが訪ねて来でもしやがったのかな、と思っただけだ。多分そいつの母国の歌だろ。」
「そうなの?」
「多分な。」
ローズの問いかけにテンポよく答えながら、『おっと』と男は顎をさする。こっちの自己紹介がまだだったな、と。
「オレはクルシファー。呼ぶときはそのまんま呼び捨てでいいぜ。
で、ローズ。あんたなんでこんなとこに居る? そんな天の気やら魔の気やらごっちゃな状態でほっつき歩いてたら、いいとこ堕天使狩りの餌食だぞ。」
「もう会ったわよ。」
ふてくされたように答えるローズに、クルシファーは『おやま。』と笑った。軽々しく笑い飛ばすようなその様子にローズはジト目をくれたが、相手はおかしそうにくつくつやるばかりだ。
「よく逃げられたな、あんたは運がいい。大抵のやつは無残にやられちまうからな――……ほら。」
「……え?」
こっちだ、とクルシファーが指差す先に、すえた匂いを放って干乾びている黒い塊があった。良く見ると、ひとのような、鳥のような、どっちともつかずの形をしている。
「あれ―――……。」
どくん、と心臓が跳ねて、ローズは口元を押さえた。吐き気――、吐き気がする。
「狂った堕天使は、ああやって処分されちまうのさ。慈悲深い天界――…なんていうけど、なんだかなぁ。」
クルシファーは見慣れた様子で、ぽりぽりと頭を掻く。その身体に隠れるようにローズは身を寄せて、息を止めた。
「あ……? おいおい、大丈夫か?」
ちょっと慌てながらクルシファーはローズの肩を引いて身体の向きを返させたが、なんとか頷きはするもののローズの顔色は冴えない。
「おい、ローズ?」
ローズ自身、首を傾げる。天使の死体――……ならば、食欲をそそられこそすれ、このような風に嫌悪を覚えることなどないはずだった。なんでだろう、と疑問が頭を過ぎるも、考えれば考えるほど吐き気が膨れ上がってきて、立っている事すら辛くなる。
「―――……。」
もう、いや。一体何が起きているというのだろう。
勝手ばかりやらかして、サーシャは自分を放ってなにをしているのか。
フィー…フィーは、あのあと無事だったのだろうか。
あの無礼千万な少年は何者なんだろう。
分からないこと、ばかり―――……
「……あーあ、泣いたまま気ぃ失っちまった。」
ひょい、と手を翳して倒れこんだローズの身体を宙に浮かせ、クルシファーは『さてどうしたもんか。』ともう片手を腰に当てる。
「ただの人間にも見えっけど、なんか違和感覚えんだよなぁ。」
そう呟いて、パチンと指先を鳴らした。ひらめいた、とばかりに目を細めて笑む。翳す掌を両手に増やして、なにやら小声で呪文を呟くと、スゥとローズの身体が掻き消えた。そして、さらりと黒髪を風に靡かせると、自らも姿を消す。
「違和感覚える奴は、違和感覚える者同士。ってな。」
クルシファーが再び姿を現したのは、同じ森の中、一軒だけぽつんと建てられた小さな山小屋の屋根の上だった。森の精か山の精でも棲んでいそうなほど、古ぼけて質素な家。けれどかろうじて煙突からぽつぽつと煙が上がっており、誰かが住んでいるのだということを窺わせる。
闇ばかりが支配していた森に、朝の日差しが少しずつ射していく。冬の近い地上は日が出てもまだしばらくは肌寒かったけれども、一日の生活水を汲むために小屋の家主がガチャンと扉を開け、玄関に出てきた。
「喰い合いとかは流石にしねーだろ。じゃあ、まあ大丈夫ってことで。」
疲れた疲れた、と伸びをしてクルシファーがまた姿を掻き消す。小屋の家主が、『声が……?』と顔を見上げて辺りを伺うも、居るのは鳥と虫ばかりで視線を戻す。そうして、足元に転がっている『何か』に気が付いて、動きを止めた。
ぼろぼろの衣装、けれど随分と高そうな布地のものを纏った金髪の子供が、玄関の前で横たわっていた。すぅすぅ、と静かな寝息が聞こえるが、眉間に皺が寄っている。怖い夢でも見ているのか、目じりに涙が溜まっていた。
「………。」
しばらく呆然と子供を見つめていた家主だったが、早朝の空気の冷たさに肌を震わすと、どうしたもんかと溜息をついてから玄関の扉に置き石をした。そうして扉を開いたまま固定すると、いかにも迷惑ものを背負い込まされたという表情で子供を抱き上げて再び小屋の中に姿を消す。
既に姿は見えなかったが、クルシファーのささやかな笑み声が鳥たちの鳴き声に混じって森の中に小さく響いた。