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フランソワ1世の如く 1999年12月27日 mail from Milano

【無事つきました、ふ〜う】いよいよ、イタリアに入りました。

どーにでもなってしまえ、とばかりに入った陽気なイタリアは、少しばかり寒いが、パリ並みです。ここは北イタリアのロンバルディアですから、ローマなんかはもう少し暖かいのかも知れませんけれども。まあ、いずれにせよ、どうにかこうにか、辿りついたわけです。

【シャン・ゼリゼに見る大陸と英国の違い?】さて、私の旅行はどこまでお伝えしていたか、というと、ものごっつい悪天候のためにプロヴァンス地方へと行くことができないぞ、といわれ、パリ・リヨン駅は大混雑。うげーっとやる気をなくしてパリ観光もままならず、それ以前にチケットがとれていないぞ、という状況だったわけだ。

それでもまあ、一応義務感にとらわれ、シャン・ゼリゼを見ずしてパリにきたといえるのか!と病身に鞭打って(実際洒落にならんな)凱旋門までいってきた。研修旅行のときは、時間がなくて行ってない。うちの班くらいなもんだそーだ。エトワール凱旋門見てないのは。凱旋門は、まーそんなもんかな。今書くとそうなってしまうが、見るとまー、おー、パリだよパリって感じだった。凱旋門からコンコルド広場までてくてくと歩いたんだが、シャン・ゼリゼのイルミネーションは、基本的には街路樹につくんですね。これは、サン・ジェルマン・デ・プレのときもそうだったけど。やっぱり、ブリテン&アイリッシュの装飾法とは、ちょっと一味違う大陸風味ってとこなんでしょうかね……

ちなみに、26日になっていたので、日曜なのに結構お店がやっていた。Virgin(ヴァージン・メガ・ストア)もやってました。うーん、すごい。でも、覗かないのは、体調が優れないから。体調優れないのなら休んでなさいって……ああ、誰と話してんでしょ。

コンコルド広場に至るシャン・ゼリゼ大通り自体は、工事のようで、車は通れなかったのではないかと思うけれども、もはやあやしい。まあ、コンコルドを見ると、うーん、ここでダントンロラン夫人ルイ16世マリー・アントワネットも、そしてロベスピエールも処刑されちゃったのね……(註)とかぶつぶつとつぶやかずにはいられない。そしてまあ、そうつぶやかせるような感じで、ライトアップされていた。

処刑されちゃったのねコンコルド広場は「調和」の広場という意味だが、大革命の時にはギロチンが設置され、1,119名もの命が奪われたかなり血なまぐさい場所として有名。

【パリ発、、、憮然とする早朝と犯罪への着手】そして、先夜に窓口の人から言われたように5時45分に並びにゆくと、もはやすでにそこには100人は越すであろう行列ができている。先夜に払い戻しをしようとしていた日本人のおじさんの姿もそこにあった。や……おじさんじゃあないのかも知れないけどね。

1時間半近く並んで、「ミラノ行きに変えておくれ」と言うと、「満席だ」という無常な言葉である。では、リヨンからミラノ行きに乗るので、早めの便に変えてくれ、と頼むと、窓口のにーちゃんはとてもとても早い便に変えてくれた。7時発。ちなみに、発券されたのは6時58分。そんなん無理や!(ただ、実際には多分7時10分くらいまではいたのではないかと思う。)

仕方なく、憤懣をメールでばばっと書き送った後(送られた人、すんまへん)、ホテルをチェック・アウト。7時58分発のミラノ行きに実力行使で乗り込んでしまおーという腹である。失敗したら、ロンドンに帰るさ……とジャパセンで買ったパリ行きの往復の残りを握り締めて、いざホームへ。

2等車のところでものすごい荷物たちとともに、なんとか入り込むことに成功したのが、出発時刻を少し遅れた、8時十数分のことだろうか。

【ローヌ・アルプスを越えてイタリアへ】1時間くらいは、立っているような、腰をもたれているような姿勢ですごすが、だんだんと客室間の通路に乗車している人びとの間に無言の絆、というものが生まれてきたような気がしたので、「いいかな?いいかな?」という微笑みを浮かべつつ、少しずつ荷物を押し動かし、臨時椅子(TGVには空席ナシのために通路に4脚の劇場とかにありがちな座部を倒す椅子がある)のスペースを作る。ほとんどコミュニケーションはとらないものの、なんとなく、連帯感めいたものはあったのではないかと思う。

そう思ううちに、ローヌ・アルプスへとさしかかる。ルートとしては、今回通ったのは、パリシャンベリーモダヌトリノノヴァラミラノという感じのところである。シャンベリーを東に行くと、ジュネーヴローザンヌモントルーというスイス方面だ。

実際、リヨンのあたりから気になったものだが、河は緑色に濁り、水位は随分と高い。

ほんとは来れたんじゃないの?とか思っていたが、まあやはり難しかったのだろう。余程の暴風雨だったのではないか、と思う。木なんかが水面に顔を出して、あたかも溺れている人のようにすら見えると、猶のことだ。

シャンベリーでようやく、パリから乗ってやっと乗降できる通過しない駅になるのだが、このあたりはスキー客なんだろうな、という感じがぴんぴんする。空気はひいやりとして冷たく、駅に到着してからドアが開いて入ってくるこのひいやりとした空気は、悪くない。駅につくまでのしんしんとした冷たさは、あまり好きではなかったのに……

モダヌの街を最後に、イタリアへと入る。ここで多くのSNCF(フランス鉄道公社)の乗員が降りて、イタリアの国鉄だろうか、FSの徽章をつけた人びとが乗り込む。ここで、チケットないんだけど、買うつもりはあるけんね、と言うと、結局放置される。ちなみに、イタリアに入ったあたりから、なぜか通路にも暖房がつく。うーむ、なぜ?

じょんじょこ進んで行き、イタリア王国の初期の首都トリノを通り、更に進んで行く。フランスまでとイタリアからとでは、駅名表示のカードが違っていて、なんか面白い。それゃあ、国が違うのだから違うのは当然だろうが。イタリアのは、青いけれども、フランスのは、別の色だったと思う。

ノヴァラ、どこかで聞いた名前だと思ったら、フランス王フランソワ1世が神聖ローマ皇帝カール5世に負けた戦いの戦場だった。多分。こんなに、ミラノから近いところだったんだ、と改めて感心。フランソワ1世、負けたのパヴィア(註)だったかも知れないけど。でもまあ、フランソワ1世というフランス王が、おそらくパリからミラノ目指して進軍した気持ちに、今回はなってみた。何が何でも、ミラノに辿りつき、入城するんだ、という気持ちで、今回は電車に乗った、、、ので、なんだか知らないが、私は罪を犯した。

無賃乗車

うーん、結局誰に払ったらいいのかよくわからなかったんですよね。

パヴィア…実際、パヴィアでした。ノヴァラクストッツァとともにサルディニア軍がオーストリアに敗北したところでした。これで負けて、カルロ・アルベルト(Carlo Alberto. 1798-1849)王が退位。そのあとを受けたのが、イタリア統一の国王ヴィットリオ・エマヌエレ2世です。

【ミラノ着】ミラノに着き、とりあえずは平穏無事な日を取り戻せそうだ。レセプションのおやじさんは、パスポートをずっと預かりそうだったので、ほんとは必要事項を記録するためだから、結局ぱぱっと書いてもらって返してもらった。ドマーニの国とはいえ、流石に旅券を宿に預けるのは、モロッコで懲りている。

郵便局にいって、なんとか今迄保ってしまっていたカード4枚を投函。どれも、パリを発つ予定だった26日の朝に封がされているので、あたかもフランスから出される格好になっている。追って書きしてやりたいくらいだ(苦笑)

とりあえずは、明日明後日の自然はわからないにせよ、また無賃乗車しないように、チューリヒ行きの席の予約と切符は確保した。しかし……ミラノ中央駅はばかでかいぞ。

ミラノ……長いですね 1999年12月28日 mail from Milano

【一夜明けて】カノーヴァ・ホテルでの一晩は、少々騒がしかった。というのも、私が泊まっているのは181号室で8階のエレベーターホールに面しているのだが、エレベーターがうぉぉぉぉぉぉぉぉんと動く音、人がわやわや話しながら帰ってくる音、そういったものがまるぎこえなのである。ロンドンのフィッツロヴィアホテルの203号室、これは静かだった。パリのメルキュール・パリ・リヨン・ホテルについては、二晩別々の部屋(337号室と403号室)に宿泊したが、あまり防音性がないなあ、と思った。そして、今度はうるさい(苦笑)チューリヒのホテルはまた振りだしに戻ることを期待するなあ。

夕飯は、近くのピッツェリア・カッフェ・パステリア……となんでもござれなお店へ行く。駅前で手ごろな店というとここだったので、あまり営業努力をしなくても客は入ってくるのだろうか。でも、日本語メニューがしっかりあった……しかも見るなり渡された。ここであまり食欲がなかったので生ハムとリゾットという夕飯をとる。リゾットは、ミラノ風なのでサフランで色がついている。隣では、ピアスをつけた日本人のあんちゃんがミラノ風カツレツと格闘している。

そんな感じで、ミラノの夜は更けてゆくのであった(って、そんなに遅くまで出ていたわけじゃないですが……なんせ病人なんで)。

【ミラノ観光第一弾・ドゥオーモへ】まずは、ミラノ観光である。今日、28日は私のミラノにおける観光日、なのである。昨日はパリミラノの移動日。明日はミラノチューリヒの移動日。移動日は、うーんとうまくすれば観光できるが、失敗すると移動だけで全てを使い果たす可能性がある。夏は、かなりうまくいっていたように、今からすれば思うので、移動日にもいくつか散策することはできた。でも今回は、旅行運がからきし、という前提にたって行動しないと、えらい目にあってしまう、ということをこの数日で思い知っているわけなので、まあ控え目な行動をとりましょう、ということにしている。

ホテルからまずは中心部へと行かねばならない。ホテルは中央駅からは歩いて2、3分の至近のところにあるが、観光名所からは歩いて30分以上はあるのである。

少し肌寒い程度の気温、という感じだったが、中央駅共和国広場を結ぶ大通り、ピサーニ通り沿いにあった電光掲示板では11時頃の気温は2度、だった。まあ、そんなものか。

ピサーニ通りをひたすら進むと、トリムなどもくぐってゆく、何やら昔のミラノ市の境を彷彿とさせる門がある。多分、昔の都市国家ミラノというのは、この門の中のいわゆる中心部だけ、だったのだろう。ここからはマンゾーニ通りという通りに入る。

ダ・ヴィンチ像ずんずかとマンゾーニ通りを進んで行くと、左手に四人の若者に囲まれたひときわ大きな彫像が見える。ルネサンスを代表する人物、レオナルド・ダ・ヴィンチの像だ。周りの四人の若者たちは、それぞれダ・ヴィンチの弟子にあたる人びとだそうだ。そして、ダ・ヴィンチ像に向かい合う、通りの右手にある建物が、オペラの殿堂ラ・スカラ座であった。残念ながら、この日はまったく公演はやっていなかったが、これがスカラ座かー!と嬉しくなってしまう。うーん、公演がなくて残念。

スカラ座に着た記念に……と思ったが、あまり隣のショップには大して欲しいものがなかったので、通り沿いにあったカフェ・ラ・スカラでコーヒーを飲むにとどまった。あ、このカフェは別にスカラ座とは関係ないんですが……

スカラ座から今度はダ・ヴィンチ像の奥にあったショッピング・モール様のガレリア・ヴィットリオ・エマヌエレ(うーん、この国は何でも、この初代のイタリア統一の国王の名前をつけますね、、、まあ、ローマ帝国以来ひさびさの統一、と考えたらすごいことなんでしょうが……いまいち、この王様自体について「すごい」感は抱いたことがないですね……)へ入り、その先へと進む。出たところは、ドゥオーモだった。

ミラノのドゥオーモ【ミラノ観光第二弾・ドゥオーモ】ミラノのドゥオーモ、、、ドゥオーモ(大聖堂)とだけ呼ばれるくらいなので、この都市を代表する教会であることは確かだが、その外観は何かものすごい。フィレンツェのドゥオーモが柔らかく、華やかであるのに対して、こちらは何か荘厳で、どっしりとしている。白い外壁は無数の彫刻で覆われ、全体として屹立とした山のような外見である。フィレンツェのものとは、何か違った意味で、ものすごい建物である。実際、その建設は長期にわたったそうで、完成はナポレオンの頃だそうだ。

中はステンドグラスがまず見え、そしてさまざまな奇跡を描いた絵画が、ところ狭しと天上から吊るされている。そして、脇には告解所がいくつかもうけられており、各国の言葉を操る僧侶たちが世界中の信者の告解を受けている。日本語はなかったようだが。

思えば、ミラノは313年にローマ皇帝コンスタンティヌスによりキリスト教公認の勅令が出された当時の中心地。ローマ帝国にキリスト教が勝利した場所なのである。そこの大聖堂がものすごく荘厳な雰囲気を与えるようなものであるのも、あるいは無理もないことなのかも知れない。

このドゥオーモも、フィレンツェのドゥオーモ同様、屋上まで登ることができる。フィレンツェでは500段以上もの階段を生徒たちと一緒に登ったが、今度も、と思いきや階段は閉じている。では、リフトで、と思ったものの、結構時間がかかりそうだったので、結局登らず仕舞いだった。

【ミラノ観光第三段・アンブロジアーナ美術館】昼食もまた、日本語メニューが出てくるパステリアで食べる。もう、この国で日本語とお目にかかるまいとするのは、無理というものである。これだけ、日本人観光客がくれば、それはねえ……そういえば、ガレリアの近くで中国人たちが名前を漢字で書きます、という大道芸?をやっていたが、うーん、あれなら私らもできるなあ。

まあ、それはともかく次なる目的地はアンブロジアーナ美術館である。何がウリ、というと、下絵(カルトン)なんかが置いてあったりするのである。このロンバルディア地方の作家たちと、そしてティントレットヴェロネーゼティツィアーノなどのヴェネツィア派の絵画が中心。

いろいろとあったが、なんとなく印象に残っているのがブラマンティーノブラマンテのちっこいバージョン、のような名前だが、なぜ印象に残っているかというと、幼児キリストと聖母、聖人二人が左右に侍す、というありがちな絵の中で、ちょうど大天使ミカエルが描かれていたのだが、その足下に倒れる悪魔の死体が、なんか笑えてしまうのだ。ちょうど、マンテーニャの有名なキリストの亡骸が横たわっている姿を遠近法を使って描いたのを、逆にしたような構図で悪魔の死骸は横たわっているのだが、どうみても半魚人か何かみたいにしか見えないのだ。

あと、存外フランドル地方(現ベルギー)の画家、とくにブリューゲルの絵が収蔵されていたが、やはりブリューゲルという画家、ほんとうにこまごまと描くのが好きである。思わず、見ているこちらまでその細々と描く姿が目に浮かび、にんまりとしてしまうくらいだ。

ウリの一つであるカルトンは、ラファエロの「アテネの学堂」であった。これは、ヴァチカンのラファエロの間にあるものの下絵にあたるわけだが、多分明らかに下絵と実際の壁画が違う、というところが目に付いた。それは、ラファエロ自身の姿が下絵にはなかった、ということである。ぱっと、その場で描いたのかねえ……と思わせる。

スフォルツェスコ城【ミラノ観光第四弾・スフォルツェスコ城】さて、快適に旅が進むと愚痴も少なくなり、その分書く量(読む量)も増えてしまって、いるようだ。次なる目的地はこのミラノの支配者であったスフォルツァ家の居城であった、スフォルツェスコ城である。その手前にはガリバルディの勇姿が銅像として残されている。また、噴水が市民の目を楽しませている。

スフォルツェスコ城の濠は、今はもう草地になってしまっているが、いかにもルネサンス期の傭兵隊長からの支配者が居城としただけあって、要塞然とした構えである。

中に入ると多少広々とした庭がまず現れる。これを過ぎると、城美術館、とでもいうのか、市立美術館が現れる。この中は、ほとんど彫刻で、あまり私としてはよくわからないものが多かった。ただ、ミラノの支配者となり、そしてミラノを失った人物としても名高い公爵ロドヴィゴ・イル・モロとその妻ベアトリーチェ・デステの紋章をあしらった天井がある一角は、なかなか豪勢で往時の繁栄を偲ばせた。

彫刻はよくわからなかった、といったが、一個だけ、おおっ!と思ったのは、ネーム・バリューのせいかも知れないが、ロンダニーニのピエタである。ミケランジェロが晩年に作った作品であるが、私の印象はもっとずっと固いものなのではないか、と思っていた。感じとして硬質だ、ということだ。しかし、存外に柔らかな感じがある。そして、ほとんど刻まれていないような顔も、見ているうちになんとなく浮かび上がってくるような錯覚を覚える。

そんなピエタを見た後、2階の楽器の美術館ではヴェルディのピアノにへーえと興味をひく……があまり見ずにでる。

【ミラノ観光最終地・ブレラ美術館】アンブロジアーナ美術館にも置かれていたブレラ美術館のカタログ。ブレラ美術館はミラノの中でも最重要な美術館であるらしい。その名の通りのブレラ通りに面しており、下はアカデミア、つまりは美術学校?ともなっている、現在も生みつづける美術館かも知れない。

ここには先に例にあげたマンテーニャのキリスト像(「死せるキリスト」)などのほか、ラファエロの「マリアの婚礼」などもある。美しい絵が多かったが、くどくなるのであまり触れず、気になる点だけ触れておきたい。

それは、一つはかなり閉鎖されている区域が多くて残念であったこと。もう一つは、カルロ・クリヴェッリというヴェネツィアの15世紀頃の画家。この人が描く聖人たちは、なぜか知らないが目つきが悪い。何か、ものすごーく腹にいちもつ、にもつは持っていそうな雰囲気で、全然聖人らしくない。なぜでしょうかね。

というように、ミラノの見るべき場所を見て、帰ってきた。唯一ミラノで見逃した重要なものは、サンタ・マリア・グラツィエ教会の誇る「最後の晩餐」だろうが、これはめちゃ混みであろうから、パスである。

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