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少し寂しいジュネーヴ 2000年1月2日 mail from Genève

【ジュネーヴ到着】チューリヒの朝は8時に起きるつもりであったというのに、結局目覚めたのは9時。まあ、別段急ぐこともないので、ようように起きる。チューリヒ中央駅から3時間かけて、ジュネーヴ行きである。列車は30分に一本ほども出ている。途中、ビール/ビエンヌ(Biel/Bienne 独/仏)などの街あたりを過ぎた頃からか、フランス語圏に入ったようで、ドイツ語、フランス語、イタリア語の順の車内アナウンスが、フランス語、ドイツ語、イタリア語の順へと変わった。いよいよジュネーヴについたのは、3時過ぎ。正午過ぎに出たのだから所要時間3時間は本当だ。

ジュネーヴ・コルナヴァン駅チューリヒ中央駅ほどの明るさはない。実際、ホテルでもチューリヒのブリストルホテルでは直接照明もあって部屋はかなり煌煌としたものであったが、一方のジュネーヴでは間接照明方式をとっているため、大変薄暗い。

【ジュネーヴをさまよう】コルナヴァン駅やホテルはレマン湖の上、ローヌ川の右岸にある。(レマン湖から見て右、ということ。川の右岸、左岸の見方がいまひとつわからない、、、ご存知のかたは、是非ご教示願いたい。)

左岸のほうに、旧市街があるため、まずそれでは左岸へと行ってみようではないか、と思う。あわよくば、美術歴史博物館なども見てみたいものだ、と思いつつ。しかし、てくてくと歩いて、ローヌ川の中に浮かぶ小さな島ルソー島ルソーの像がある……ミレニアムを迎えたあとだったためか、旗を持たされていた……若干あはれ)を見たり、ほろほろと寄り道をしていると、あっという間に時間は経ち、日は暮れる。

グラン・テアトロ結局、宗教改革者カルヴァンが長い間いたというサン・ピエール教会を外から眺めて、ぐるりと戻ってくることになる。宗教改革の碑を見たかったのだが、なぜかこれが見当たらず、かわりに近くの公園で大きなチェス盤を見る。子どもたちが遊んでいたが、この大きなチェス盤でチェスをやるのも、結構面白いかも知れない。その先には、ジュネーヴのグラン・テアトル、つまり歌劇場とヴィクトリア・ホールというコンサート場とがあった。

ここで普通に動いておけばよいものの、変な動きをして、さ迷う。とはいえ、それほど深刻ではない。ジュネーヴ・コルナヴァン駅に辿りつく交通手段はたくさんあるのだ。そこで、ほろほろとさ迷い歩く。どうにかこうにか、ローヌ河岸に辿りつく。

全体としての印象だが、チューリヒに比べて賑やかさに欠ける。確かに、ローヌ河岸、とくにモンブラン通り沿いにはロレックスをはじめさまざまな高級時計の店が並び、銀行の建物が並び、そして有名ブランドの店が並ぶ。でも、ひと気は少ない。チューリヒでは、1月1日であろうとも、晩御飯どきには随分と人通りがあったものの……

よく考えると、それも当然かも知れない。チューリヒは、スイス最大の都市なのである。いっぽうで、スイスはカントン(州)ごとに直接民主政をとる、近来まれな国なのである。そう考えると、チューリヒのあの賑やかな感じは、スイスでは精一杯の賑やかな感じであったのかも知れない。ただ、間接照明といい、町並みといい、ジュネーヴではそこはかとなく寂しさを感じなくはない。

ジュネーヴ国連潜入失敗! 2000年1月3日 mail from Genève

【国連は空しく……】さあ、ジュネーヴで迎える初めての朝は、意外に疲れていたのか、8時に起きるはずがぬうぬうとベッドの中で1時間……9時になってようやく這い出すことになる。そのまま着替えて朝食をとり、普段ならば部屋へ戻って一休み、というところを即座に出かける。10時からの国際連合ヨーロッパ本部のガイド・ツアーに行こう、という腹積もりである。

バスに乗り、国際連合ヨーロッパ本部へ。しかし、受付の門は閉じ、誰もいない。国連自体は、流石にもう仕事を始めているため、横の職員通用門は出入りがある、、、が、訪問客の門は閉ざされたままである。しばらくしてしびれを切らし、通用門から入ろうとして制止される。当然か。

赤十字赤新月博物館結局、今日は訪問客は受け付けていないのだそうだ、ということが判明。しかたないので、国連の向い側にある赤十字・赤新月博物館へと行く。赤十字・赤新月博物館は、AVを駆使したなかなかハイテクな博物館で、赤十字活動の歴史と実際を紹介する、というものである。もちろん、国際赤十字協会の創設者であり、第1回ノーベル平和賞受賞者であるジャン・アンリ・デュナンがこのジュネーヴ出身故、あるわけだが。赤新月、というのは、イスラム圏における赤十字のことである。露土戦争の際に始まったそうだが、赤十字だと、どうも十字軍を想起してイスラム教徒にとってはあまりいい印象がない、ということで赤新月が用いられるようになったのだそうだ。

なかなか、年代を経るに従って、赤十字活動を紹介する写真なども見ていて、うわっっっとなるものが増えてくる。最後には、現在の赤十字活動を紹介するブースとなるのだが、やはり対人地雷へのリハビリ活動や、ストリート・チルドレンへの支援など、なかなか見ていて身につまされるものが多かった。

ところで、若干興を殺ぐ、というか真剣味を失わせるのが、この博物館の音声アナウンス(日本語版)である。日本語のネイティヴ・スピーカーではないな、おまえは!というくらい、イントネーションがヘンなのである。うーん、二世さんとかかしら、、、だったら礼金くれたらおれがいれたるよ、と思わないでもなかった。

【ジュネーヴ宗教改革の地へ】さて、こうして午前中を過ごした私は、旧市街地へと出かけてゆく。旧市街地、レマン湖のほとりにあるメーフェンピック(スイスのレストランチェーン店)で昼食をとる(日本だとモーベンピックという名前みたいですね……ウムラウトは気にしないのかな)。何か異様に社交的なおじさんの隣だった。メーフェンピックの名は、スイスにくる前からなぜか知っていた(ちなみに、実はスイスのチェーンではなくて、ドイツのみたいですね、、、誤解してました)。なぜか、と思うとダブリンで私がよく行くパスタ屋が、ちょうどこのメーフェンピックの系列店だったからだ。

サン・ピエール教会北塔からの眺めジュネーヴ旧市街地の中心部、丘の上には、サン・ピエール教会が聳える。このジュネーヴの大聖堂であり、カルヴァンによる宗教改革の中心地でもある。ここでゆっくりと教会内を見物する前に、このジュネーヴの街を一望することができるサン・ピエール教会の北塔へと登る。北塔は、螺旋階段を延々と153段登ってゆく。まあ、フィレンツェドゥオーモに比べれば、3分の1程度である。とはいえ、一歩一歩が狭い螺旋階段は結構登りづらかった。途中、時計塔と北塔とに分岐し、再び螺旋階段が続く。最上段まで登りきると、ジュネーヴレマン湖アルプスが一望できる。なかなか清々しい感じを与える。隣に見える時計塔もまた、なんとも言えず風情がある。

さて、サン・ピエール教会である。サン・ピエール教会は、かなり古い、12世紀頃にはもう建立が始まっていたらしい。様式としては、ロマネスク様式だろうか……うーん、建築様式がいまひとつわからなくなってきたぞ。中には、カルヴァンの使っていた椅子なんかもあるが、イタリアの教会のように絵画があったりなんだり、という装飾性には欠ける。

ただ、改革派教会としては、ステンドグラスなんかもあって、存外まったくの無装飾でもないようだ。シンプルではあるが、落ちついて、いかにも教会らしくてよいのかも知れない。まあ、私がかつて通っていた教会は、カトリックではなかったから、そのほうが見慣れている、というだけかも知れないけれども(私が幼少の頃訪れていた教会というのは、どうもルター派だったようです。)。ちなみに、この教会にはアグリッパ・ドービニェの記念碑があった。ドービニェはフランスの貴族であり、改革派の信徒であったが、同時に当時のフランスを代表する詩人でもあった。丁度、ロンサールがカトリック側を代表する詩人であったように。

サン・ピエール教会の向いには、スコットランド改革派(長老派)のカルヴァン礼拝堂がある。ジョン・ノックスに始まる長老派の礼拝堂でもあったが、何よりもすべての改革派の信徒に開かれた礼拝堂であったようだ。当時、カルヴァン派の信徒たちは各地の王侯たちから禁教を受け、亡命を余儀なくされることが多かった。そうした各地の改革派信徒たちが、それぞれの様式で礼拝を行えるように、どこの礼拝堂と特定しなかったのが、この礼拝堂なのだそうだ。

礼拝堂をあとに、昨日も近くを通った宗教改革記念碑を訪ねる。昨晩は暗くてわかりにくかったが、現在周辺を工事しているようで、幌が被せられていたのだ。記念碑の左右には、ルターツヴィングリの名が刻まれている。

記念碑自体は、おおよそ100メートルほどもあるのだろうか。中央には、ファレルカルヴァンノックスベーズという四人の宗教改革家の像が並ぶ(ファレル、ベーズは寡聞にして知らず)。両脇には、さまざまなエピソードや言葉が刻まれ、その間には宗教改革、改革派の中から著名人が選ばれ、像が6つほど並ぶ。その中で私がわかったのは、ユグノー戦争中にサン・バルテルミの虐殺(註)でカトリック側により惨殺されたコリニー提督、ピューリタン革命の指導者クロムウェル、くらいであろうか。

サン・バルテルミの虐殺…フランスにおける16世紀のユグノー戦争(カトリック派と新教派との争いが貴族の党派争いとリンクして発展した内戦)時に起った事件。1572年にナヴァール王アンリ(後にブルボン朝の始祖となるアンリ4世)とフランス王妹マルグリット・ド・ヴァロアとの結婚式が行われるため、カトリック派と新教派が一旦休戦してパリに集結したが、聖バルテルミの祝祭日に新教派が大虐殺にあったというのがこの事件の概要。犠牲者の中には、新教派のリーダーであったコリニー提督もいた。

【プチ・パレ、近代美術館へ】こうしたものを眺めた後、英国庭園へと行く。ジュネーヴ一栄えるモン・ブラン通りに面し、有名な花時計だとか国家記念碑などがあるのが、この英国庭園である。花時計は、冬は少し寂しい。

英国庭園で、茫洋とレマン湖を眺める。

モン・ブラン河岸沿いにある、ブリュンスウィック記念碑、というものも訪れてみる。1804年に生まれ、71年にジュネーヴで亡くなったブラウンシュヴァイク・リューネブルク公を記念したものらしいが、この人物が何をした人物かは、皆目わからない。ただ、この人物の騎馬像が妙に立派であったことしかわからない。

さーて、4時近くであるが、どうしたものかな、と思って「地球の歩き方」をめくってみると、大概の美術館、博物館が休館である中、近代美術館であるプチ・パレはやっていることがわかった。プチ・パレは、思わず見過ごしてしまいそうな、こじんまりとしたもので、住宅地にあった。あまり知らない名前が多いが、印象派と新印象派の画家たちの絵が沢山ではないが、豪奢な部屋の中に飾られている。そして、あまり大きくなく、音楽が流れっぱなしになっている。どうも近代美術、現代美術というと、身構えてしまう私であるが、この仕組みは存外いいもので、リラックスしてみることができた。

プチ・パレただ、この美術館の有するたくさんの近現代の作品はあまり見ることができず、ポール・デルヴォーという画家の作品が大量に展示されていた。どこかで見たことがあるような、ないような、そんな感じの作品である。印象的だったのは、デルヴォー(94年に亡くなっている)の制作風景がビデオで流れていたのだが、低い鼻歌を歌いながら、ひたすら塗ってゆくのである。うーむ、画家とはこうしたものか、と思いつつ、しばらく眺めた。

まあ、このような感じで、ジュネーヴの日は暮れていった。ちなみに、コルナヴァン駅の地下で面白いものを見かける。自動販売機なのだが、ショーウィンドー一面が自動販売機で、さまざまなレンジ食品やら缶詰などが買えるのである。

旅行記終る…… 2000年1月4日 mail from Genève

ついに今回がこのスイス旅行記最終回です。

最初はユーロスターに乗れずにパリへ行けない!とか天候不順でリヨンに行けない!とかいろいろとあり、こりゃあ果たして無事に済むのだろうか、と筆者をして畏怖せしめたこの旅行でありましたが、ミラノ到着以降は順調に進み、とうとうこの日を迎えることにあいなったわけです。

さあ、あとは怖いのはカードの明細くらいだ(苦笑)

【国連潜入成功!の巻】前日に侵入をまんまと阻止された国際連合ヨーロッパ本部。再びチャレンジ、とあいなった。とりあえずはついてみたものの、日本人らしき人が何やら揉めているのだかコミュニケーションをとっているのだか、窓口でひっかかっている。面倒だ、と思い、ナシオン広場へと少し散歩(見捨てるなよ、、、)。

壊れた椅子ナシオン広場に何を見に行ったかというと、来る途中のバスで見た一本だけ脚の折れている椅子、のオブジェ(巨大です)。なんだろう、この巨大な椅子のオブジェは、、、と見ると、横に「壊れた椅子地雷を大地からなくそう」という看板が。昨日、赤十字赤新月博物館でも同様なキャンペーンが行われているのを知ったが、そうした対人地雷への反対運動の一つであるようだ。

国連ヨーロッパ本部の近くには、アリアナ美術館というものもある。これは、陶磁器専門の美術館であるが、生憎陶磁器にはそれほどの興味はなかったので、これはパスする。で、再び国連へ。

ゲートをくぐり、旅券を見せ、空港や船着き場のようにボディチェックを受けてから入る。訪問客は、そのまま土産物屋というか、本屋というか、そういったものがある建物へと進まされる。英語のガイド・ツアーで回るが、まずはプロモーション、ではないのだろうが紹介ビデオ。1999年はこんな活動をした、みたいなもので、もしかするとこの年初になったから初公開かしら、とも思わせる。コソヴォや東ティモールなどがとりあげられ、アナン事務総長が何度も出てくる。

ジュネーヴの国連ヨーロッパ本部は、流石にNYの本部とは違い、総会などは行われない。しかし、主要な専門機関の多くはこのジュネーヴにもあり、さまざまな特化した問題についての会合が行われるのだそうだ。ちなみに、国連に加盟している国は188カ国。していない国、というのは、今年は2カ国だけなのだそうだ。

それは、スイスとヴァチカン。従来はそれに加えてキリバス共和国が未加盟であったのだが、昨年加盟したために加盟国が実は1カ国増えているとのこと。知ってました?

では、なぜ加盟していないスイスにヨーロッパ本部があるか、というとこれは国際連盟時代の名残だそうだ。まあ、いちいち移すのも大変、ということなのでしょうね。国際連盟時代には、最初ロンドンに本部を置く、という案もあったのだそうだが、結局はヨーロッパの中心に位置し、比較的平和(中立?)の伝統の長いこのスイスに本部が置かれたのだそうだ。ちなみに、もっとも古い経済社会理事会の専門機関もまた、ジュネーヴにある。国際労働機関(ILO)である。

残念ながら、仏のブリアン外相が独のシュトレーゼマン首相を歓迎したり、日本の代表が脱退表明して帰ったりした連盟時代の総会会議場は見ることができなかった。もしかすると、ないのかも知れないけれども。ただ、現在使われている評議室などは見学できたが、なかなか大きい。ちなみに、クラシック・コンサートもできるのだそうだ。

そんなふうに、おおよそ1時間ほどかけて、国際連合ヨーロッパ本部を回った。パスポートが気になって、ついついすばやく出てしまったが、もう少しせっかく潜入したのだから、いろいろと見て周るべきだったかもなあ、と思いつついったんコルナヴァン駅へと戻る。

【美術歴史博物館】先日行けなかったもう一箇所が、美術歴史博物館である。旧市街の外れにあるこの博物館は、1階が古代の遺物を扱い、2階が美術館となっているものである。古代の遺物、つまりはエジプトやギリシアやローマの文物については、もういいかげんそれほど見たいという気力はなかったので、2階より上を見る。

まずは、中世から近世にかけての武具類が展示されている。スイス傭兵たちがよく使ったというハルバード、つまり矛槍なんかは、実にさまざまな形のものがある。また、煮詰めて固くした皮に鋲が打たれているブリガンディンというよろいは、実は名前は知っていたが初めて見たものだった。

剣なども、ゆうに2メートルはありそうな長い長い剣なども展示され、傭兵国家であったスイスを彷彿とさせた。(なぜか後のイタリア王家となるサヴォイ王家のカルロ・エマヌエレ1世のものが多く展示されていた。肖像画もあったし……)その他、目を惹いたのはサン・ピエール教会から収められたステンド・グラスなどであろうか。ステンド・グラスだけではなく、天使が描かれた壁画なども収蔵されている。宗教改革の波が押し寄せたせいだろうか、とも思われるが、逆に言うとよく残っていたものだ、という気もする。

銀器などはあまり興味もなくとおりすぎると、現代芸術のあとに、突如として中世風の絵画が出現する。壁に食器やら瓶やらが貼りついたものを見せられたその先にまっているのが、如何にもルネサンス頃とでもいうような宗教画である。これは仰天だ。やはりサン・ピエール教会にあったコンラート・ヴィッツという画家の「奇跡のすなどり」や「聖ペテロの脱出」などがある。「聖ペテロの脱出」は、ペテロを導き出す天使の翼が黒かったため、しばらくの間、違う画題だとばかり思っていた。誘惑だとかそんなものかと。つまりは、黒い翼で悪魔と思ってしまったわけですが。

レンブラントだとか、ラファエロだとか、一枚、二枚くらい著名な画家のものが混ざっていて、気を抜けないものであるが、この美術館の誇るのはコローのコレクションを除くと、あとはホドラーだとかタンゲリージョヴァンニ・ジャコメッティなどのスイス人画家たちである。なので、あまり知らないが、ホドラーの絵は、何か強烈なものを感じた。多かったせいかも知れない。

こんなふうな形で、ジュネーヴをゆっくりと眺め、そして旅行の最終日(明日もあるけどさ……)を締めくくった。

思えば、最初の本旨からは大きく外れてしまった旅であった。本来、ニーチェについて辿る旅であったのだが……まあ致し方ない。全体的には、ミレニアムを迎えたチューリヒの街、これはなかなかいい街だったなあと思う。また来たいものだ。

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