ファドゥーツへファドゥーツ(Vaduz)とは,すなはちリヒテンシュタイン侯國(Fürstentum Liechtenstein)の首都たる都市のことである.瑞西と墺太利に挾まれた山間部にある小国で,國土面積160平方キロメエトル.とはいへ,それでも欧羅巴で第四に小さな國であるのだが.最小がヴァティカンで,モナコ,サン・マリノに續いて,といふところであろうか. さすがに,其の儘チューリヒ直行で行けるといふものではなく,チューリヒからサルガンス(Sargans)といふ街まで電車で行き,其處からはバスに乘って,といふことになる.墺太利と挾まれてゐるだけあって,やはりチューリヒから乘る電車も國際電車.墺太利の維納西驛行きの電車である.ただし,チューリヒの次の停車驛が,このサルガンスであるのだが. サルガンスへ行く途上も,チューリヒから南東側に細長く擴がるチューリヒ湖(Zürichsee),そして小さくヴァーレン湖(Walensee)と,またしても湖が車窗を占める.またしても,水浴をする人や,長閑に牛が草を食む草原,そして今度はゆったりというよりも,がっしりといふやうな表現が似合ひさうな山が目に入ってくる. チューリヒからほぼ1時間で,サルガンスへと到着.このサルガンス,本當にとりたてたものはなさそうなのだが,一つだけ,城があるやうなのであった.ただ,確とみたわけでもなく,シュロス(Schloss)といふ文字を見ただけの話なので,何とも言へない. このサルガンスからは,ポストバス(Postbus)といふバスがファドゥーツに延びてゐる.もちろん,ポスト,といふくらゐで郵便局に關係してゐるもののやうで,郵便局と同じく黄色でホルンのマアクがついてをる.以前に瑞西を訪れたときにも,一度だけ,ブルック(Brugg)といふ街からハプスブルク城を見に行ったときに利用したので,まったくの初めてといふものでもなかったが,やはりどことなくあやしげである. とりあへず,先に乘客たちが乘り込んでゐるので,しばし待ってゐると,おもむろに出發した.ゆったりと,實にゆったりと,バスは進んでゆく.途中から,バス停の表示がリヒテンシュタイン・バス(Liechtenstein Bus)となった.實に市内の普通のバスといった面持ちで,そしてまたまさにそれらしき樣子しか見せないにも關らず,このバスは不圖國境を越えてゐるのである.その邊りの彊界の曖昧さのやうなものが,まさに欧羅巴といふ感じを受ける. 註 彊界の曖昧さ…とはいへ,この曖昧さ故に,問題なくリヒテンシュタインに入國出來たのもまた眞實である.隨分と緩んでゐたらしく,今日は旅劵を持たずに國境を越えてゐたのである. サルガンス驛から出ておよそ20分程で,ファドゥーツ中央郵便局前のバスターミナルに着く.ファドゥーツには鐵道駅がないから,といふのもあるのだろうが,やはりポストバスだけあって,郵便局が中心であるやうだ.ところで,料金のはうだが,前拂いの要求もなく,さては始發からの乘客は後拂いか,と思ってゐたものの,拂はうとしても制止されてしまった.しかし,歸りの代金はしっかり支拂ったので,よく仕組みがわからない仕舞である. リヒテンシュタイン美術舘(Kunstmuseum Liechtenstein)リヒテンシュタイン侯爵家は,13世紀頃からの墺太利豪族であるやうだが,もともとはこの邊りとはまったく縁もゆかりもないやうである.18世紀初め頃に,この家のヨハン・アダム・アンドレアスがファドゥーツとシェーレンベルクの統治權を購入し,ハプスブルク家の陪臣の地位から,一諸侯の地位への向上を目指し,實現していったものであるとのことだ. この侯爵家がコレクションした美術作品を中心にしてゐるのが,リヒテンシュタイン美術舘である. ただ,では現在の展示の中心は,といふとどちらかといふと現代美術,いはゆるコンテンポラリィ・アアトといふものが中心であるやうに思ふ.今囘も,“Migration”といふコンテンポラリィ・アアトの展示が中心となってゐた. ぼくにとって,“Migration”といふのは初めて訊く藝術であるのだが,リヒテンシュタイン美術舘の案内から,簡單に見ると,要するに斯ういふものらしい.曰く,
"Migration"は新しい現象といふわけではない.いつも移住(migration)する人々はをり,そして移住は疫病,戰爭,飢饉,迫害などのさまざまな原因から起こるものだが,そこにはいまだ構造的變化が齎されるのである.過去三十年のグロオバリゼエションと冷戰の終結とは,人々の生活,政治的經濟的構造に,個人間の關係や個人生活のスタイルへの觀點に與へたのと同樣の深刻な影響を與へた. 註 Migration…假に「移住」と譯したが,おそらくそれでよいと思ふ.英語では,國外へ出て行く移住(emigration)と國内へ入って來る移住(immigration)とが區別されてゐるため,その両者を合はせた考へが,そして入られたり出られたりする國家中心の從來の用法(im-migationとe-migrationの違ひ自體は,要するに國家にとって,といふ考へだ)を排したより個人的な考へが,Migrationであるのだろう. さて,その作品だけれども,パターンとして多いものは,既存の地圖に何かしらの加工を,たとへばどこかしらに何か塗ってあったり,あるひは世界地圖(メルカトル圖法)の國が國旗で塗り分けられてゐるといふやうなものであった.正直,餘りわかった氣のしない,何の意味があるのだか不明なものばかりで,その邊りの雰圍氣からして,實に「コンテンポラリィ・アアト」らしい感じが漂ってゐる. そのほかに,この「Migration」のコーナーには,フンベルト(Nicolas Humbert)とペンツェル(Werner Penzel)といふ人の合作で,「三つの窗 ロベルト・ラックスへのオマアジュ(Drei Fenster, Hommage an Robert Lax)」といふ作品が展示といふか,上映されてゐた.これは,映像作品で,三つのスクリーンに,別別の白黒の映像が流れてゐる.それと,關聯があるのか如何かはわからないのだが,音聲が聞こえる.この音聲がひたすら,不思議な言葉を二度づつ發音するのである.たとへば,「草の音,草の音(leaf sound, leaf sound)」「波音,波音(wave sound, wave sound)」など.別に音だけでもなくて,何か憶えてゐるのがその言葉だったから,たまたまここに引いたまでのことである. 一言で言ふと,かなりシュウルであった.しかし,シュウルではあるし,意味もさっぱりわからないものではあったけれども,おもしろくないわけでもなかった.2,3分の間,或ひはもっと長かったかもしれないが,頭を空っぽにしながら(それでも,英語の意味を日本語に吟味してしまふところが,少し哀しいのであるが),ぼおっと映像に目をやりつつ,そのわけのわからない發音を聽いてゐた.考へてみると,發音練習のテープだとかCDとかいふものも,語學の學習といふ目的が失はれてしまふと,かなりシュウルであり,やや不気味な響きをもったものかもしれない. リヒテンシュタイン侯家のコレクションは,ファン・ダイクなどがあったのだが,殘念ながらそれほど感銘を受けるものはなかった.さすがに,仏蘭西ブルボン家だとか,羅馬ヘ皇だとかのコレクションしたものと較べれば,遜色があるのも致し方ない.現代美術も多少あったのだが,エルンストやカンディンスキイなどは現代美術と言ってもクラシックの部類に入るもののやうで,そろそろ見てもわけがわからないと思ふよりも,わけはわかる氣もしないが何がしかおもしろく,そしてきれいなものだなあ,と思はれた. 郵便博物舘(Postmuseum des Fürstentums Liechitenstein)昼食は,ホテル・レアルの中にあるレストランのオ・プルミエ(Au Premier)で攝る.今囘は,維納風のチキンカツにポテトを副へたものである.待ってゐる間,ぶんぶんと蜂が飛んでゐるのが氣に懸かる.生垣やら,卓子近くの花だとかに惹かれてゐるやうであるのだが. 昼食を食べてから,リヒテンシュタインといへば,の切手に關する博物舘を覗きに行く.ここもまた,獨逸語のみの表記. 昔,郵便配逹の人々が使った装備品などの展示(もちろん,この中には瑞西をはじめとして欧羅巴の多くの國の郵便局のマアクとなってゐるホルンも展示されてゐる)や,切手の元デザインなどが多數展示されてゐる.ただ,さほど切手に興味があるわけでもなかったので,ざっと見で濟ませてしまった. ところで,このファドゥーツの街は,何か妙に普通の欧羅巴の街に比しても現代美術的な彫刻が多い.目拔き通りであろうシュテットレ通り(St. Städtle)には,珍妙な彫像が此處彼處に點在する.何か,ぼくは行ったことがないが,箱根彫刻の森美術舘といふのはこんなだろうか,とも思ふ.思ふがまあ,森にあるのであれば良いかもしれないが,普通に通りにいろいろあると,おもしろいはおもしろいが,多少邪魔くさくもある.何より,あまり感心するほどのものはないといふのが,現代美術音痴のぼくにとってはいたいところだろうか. ファドゥーツ城(Schloss Vaduz)切手にはさほど興味は惹かれなかったが,このファドゥーツの街を見下ろす樣に建ってゐる,リヒテンシュタイン侯の居城には氣を惹かれる.切手マニアではないが,輕い歴史マニアであるのだから,仕方が無い.ハプスブルクの城も小高い丘の上に建ってゐたが,こちらは小高いどころではなく,聳え建つといふ形容が似合ふやうな,そんな樣子である. 12世紀には建てられたといふのだが,さすがに實踐でといふか,實戰でといふか,城郭が必要であった時代の城だけあって,その後の豪奢さや絢爛さを誇示するための城舘構造とは違って,堅固そのものといふ外觀である. このファドゥーツ城へと行くには,歩行者の場合にはかなりの傾斜のある道を,えっちらおっちらと登ってゆかねばならない.とりわけて,シュテットレ通りからまづ外れてゆく道は,かなりの傾斜度で,登るのももちろん,下るのはなほのこと怖いやうなところであった. 昨日に引き續いて,今日もまたハイキングめいたことをしてしまってゐたのだが,今囘は割り切って,好きな歌を聽きながら,そして誰も周圍にゐないときには唄ひすらしながら,登っていった.これが,案外樂であるのだ.聲を出しながら,といふことで少し力の入りやうといふものも違ふのかもしれない.その邊りは,なんともいへないが,山登りのときに歌を唄ひながら,といふのも何かで聞いたやうな氣がするが,それも同じことかもしれない. たまたま,CDは自分で編集したものを持って行ってゐたのだが,ランダム演奏にしてゐたところ,「たん」の曲ばかりかかって,なほのこと良かった.「たん」の曲では,たまたま最後の城が見えてゐる當たりなどで,「ブギトレ」がイヤホンでは鳴ってゐて,心愉しく城へと近づいた.餘り,荘嚴ではないかもしれないが,どうせファドゥーツ城には入れないのだし,へばりへばり辿りつくよりも,「みっともないって みんな言ふけれど だって仕方ないじゃん だって好きなんだもん」と唄ひながらいった方が,ずっと氣持ちがよい. 註 「たん」の曲ばかり…ちなみに,興味がある向きのために敢へて書くと,「ハニパイ」「ブギトレ」「大発見」の順である.略すのは餘り好きではないが,わかる人にわかる書き方をすると,多分さうだと思ふが,正しい略し方か如何かは知らず. 本當に,「たん」の存在はぼくの中では隨分大きくなってきたなあ,とも思ふものではあるが,やはりこの人の聲がぼくは大好きなので,ちょっと艷のある,明るいトオンの聲で,隨分山道やら坂道やらを行く足取りも輕くなるものである. 註 「たん」…昨年は別な呼稱であったが,今年はとりあへず斯う表記した.だって仕方ないもん,だって(この人のことを)好きな(人が公共の電波を使ってさう呼びかけたっていふのではこれはもう從ふしかない)んだもん,といふことである.わからない人は,わからないでよいことであって,世の中の物事の半分以上は,知らなくても害はないことである. 歸り道などにはとりわけさう思ったが,斯うして簡單なハイキングコオスのやうな處での人との觸れ合ひは,割合ぼくとしては好きなのである.ただ,「やあ」と呼びかけて,「城はこっちなの?」「そうだね」とか,あるひはそれもなくてただ,笑顏でサムアップだけであるとか,そんな實にさりげなく,そして言葉少ななコミュニケイションは,ぼくのやうな見知らぬ人との間ではなかなか言葉が出ない人間にとって愉しいものである. 歸路のアクシデントさて,とサルガンスへの歸りのポストバスを待ってゐる間,ふと腹部の邊りに觸れると,一瞬痛みが走る.激痛といふほどではないが,でも自然にはありえないであろうといふやうな,痛み.厭な感觸を覺えつつ,シャツをまくりあげてみると,何やら……蜂の針が刺さってゐる.どうやら,晝のレストランにゐた蜂であるやうだ.ただ,本體は見當らなかったので,どこかで既に落ちてゐたのだろうか.とりあへず,焦る.何しろ,蜂に刺されたことなど,振り返ってみれば記憶にはないからだ.そのうへ,何の蜂であるか,本體もないのでわからない.ただまあ,ミツバチかジガバチの類であろうとは思ふ.クマンバチやらスズメバチのやうな,刺されて大きなことになるやうな蜂ではなかろうから,そこはまあ,今落ち着いてみれば安心できることである. さうは言っても,とりあへず焦って薬局に行くが,何といへば良いのかわからない.頭痛でもなく,腹痛でもなく,しかも蟲に咬まれたのでもなく刺されたのである.よくわからなくて,結局Beeといふ單語だけが通じたやうだが,蟲刺されのムヒのやうな痒み止めの藥を買って(渡されて),それで仕舞とした.が,焦ったものの,それほど腫れたりといふやうなこともない.まだ,一日と經ってゐないので何ともいへないが,何か違和感ばかりがあるままで,目だった兆候といふものはない.何より腹部であるから,案外皮下脂肪の厚さで助かってゐる面もありそうな氣もする. そんな樣子で,とりあへずファドゥーツを後にした. ちなみに,夕飯は近くの店で濟ませた.檸檬味のソウスを使った鶏肉とタリアテッレ.ちょっと酸っぱ過ぎる氣はする.ここで,日本で替へてきた路銀が盡きた.恐るべき物價でもあるが,まあ,確かに後先餘り考へず使ってゐるのも確か.前日のインターラーケン行きの切符代で半分近く消えたのが痛かった.ではあるが,ここで緊縮財政をしても何の愉しみかわからないので,まあ別に控へるといふものでもない.氣をつける,くらゐはしたいが. |