チューリヒ滯在の記 臨三國之彊の卷 2003年08月13日分(四日)

バーゼルへ

バーゼル(Basel)行きの電車は9時丁度に出るといふのに,今朝はゆったりとしてゐたのでいはんことではない,朝御飯をかけこんで,そのままチューリヒ中央驛へと向かふ.あはてた甲斐もあって,5分ほど前には着き,無事切符を買ひ,電車に乘り込む.

バーゼル瑞西國鐵驛

ところで,朝御飯なのだが,基本的にぼくは此處に來てからはほぼ同じものだけしか攝ってゐない.すなはち,コオンフレエク,フルウツにヨオグルトをかけたもの,オレンジのジュウス,そして珈琲.今朝は珈琲だけは省略したが,あとはいつも通りである.これに,まあ他の旅客であればパンなどをつけるのであろうが,ぼくは左程パンといふものは好きではないので,これを食はない.さすると,斯様なメニゥに落ち着くよりほかにはないのである.

バーゼルまでは,およそ1時間ほど.名前からすると温泉場と思しきバーデン(Baden)を過ぎ,昨日の話にも擧がったブルックを通り,さらにそしてラインフェルデン(Rheinfelden)といふ街を過ぎると,バーゼルに至る.瑞西の北部国境にある都市である.さういへば,昨日は昨日で墺太利国境といふか,越境してリヒテンシュタインに入ったのであるが,なるほど斯様に瑞西といふ國がさまざまな海外からの人間の流入を受けやすいのも宜なるかな,といふものである.

そのやうな,國境の都市であるだけに,このバーゼルには三つの國鐵驛がある.街の南側には,瑞西國鐵と佛蘭西國鐵の驛が,そして北部には獨逸國鐵の驛が,あるのである.

今囘は,二つほど目指すところがあって,まづ一つは,この三國國境のモニュメントがライン河の河畔だか河の中にあるといふのをこの目で見ること.もう一つは,バーゼル大學を見ること.この二つを逹すれば,とりあへずは良しとする,そんな心持でバーゼルに入る.

バーゼル歴史博物舘(Historisches Museum Basel Barfüsserkirche)

まづ,このバーゼルはチューリヒの樣に市内をトラム,要するところの路面電車が走ってゐる.今囘は,三國國境は中心部からやや外れたところにあることも考慮して,このトラムを多用するため,一日乘車劵を購入した.基本的には良いチョイスではあったのだが,あとで微妙によくない結果にも繋がったやうに思ふ.

トラムに乘ったり歩いたりと,ふらふらしながら最初に訪れたのは,エリザベートヘ會(Elisabetenkirche)であった.このヘ會は,ネオゴシック形式で作られてゐるさうだが,19世紀に作られたとかで,さして關心を惹くほどのものでもなかった.

續いて,通りのうへで近い歴史博物舘を訪れる.現在,改装中であるやうで,思ひきり入り口のフロアが工事をしてゐたり,あるひは行く道を違へると人夫の人とはちあはせたり,また突如として轟く工事音など,隨所に「工事中」を感じさせるものがあった.ではあるが,係員の人も割合と丁寧で,獨逸語圈のこの地域としてはもはやそれは當然であるなあ,と半ば諦めてゐる獨逸語表記に,少しでも助けとなるやうに,博物舘の英語ガイドブック(本來は展示品のカタログ的な存在であるが)を貸してくれて,これの説明を見なさいと言ってくれた.ただ,次第にかういふ博物舘のパタンを思ひ出して,だいたいのところを飮み込んで解釋できるやうにはなったので,さほど見たわけではないが,やはりかういふ心遣ひは嬉しい.

地階には,バーゼル市民生活のことなどの展示があり,やはり殘るといふ點では殘りやすいからもあるのだろうが,金屬器がさまざまあった.ほかに,大學が皇帝からかヘ皇からか認可を受けたときのであらう,特許状(チャアタア)の印章などもあり,また市政は基本的には有力市民たちによる自治で成りたってゐたらしく,その顧問會議の部屋であるとか,市長(ブルガマイスター)の肖像畫などによって,バーゼルという自治都市の樣子がほんの少しだけわかる.

ただ,やはりかういふところに來ると嬉しくなって見てしまふのが,武器類.瑞西だけに,傭兵の國でもあるからか,さまざまな武器が展示されてゐた.両手持ちの剱とハルバルド(鎗の柄の部分に斧のやうな刄物をつけたやうな武器)がもっとも多いやうで,あとはアルバレスト(アルムブラストArmbrust正しいのだろうが,多分誤って傳はったこちらの方がかずっと馴染みがある)といふ弩などが氣になった.

そのほか,このバーゼルに關聯の深い人を集めた肖像寫眞のコオナアでは,今囘大學を見たいと思ふきっかけでもあったニーチェのほか,ブルクハルト,バッハオーフェン,そしてこれはああさうだったのか!と思った人であったが,數學者オイラーがバーゼルに深く關はりを持ってゐるのだそうだ.

註 關聯の深い人…ニーチェについては,後でも述べるが,彼は長い間バーゼル大學にゐたし,生沒にはかかはらないにしても,深いつながりのある土地ではあった.一方,そのニーチェの友人でもあり,『イタリア・ルネサンスの文化』や『ギリシア文化史』を著した文化史學者ヤーコプ・ブルクハルトはこの街で生まれ,死んだ.『母權論』の著者として有名な社会學者バッハオーフェンもまた.この街で生まれて死んだ.

註 ブルクハルト(Jakob Christopher Burckhardt. 1818-1897)…バーゼル生まれの歴史學者.神學と美術史をベルリン,ボンで學び帰郷.「バーゼル時報(Basler Zeitung)」紙の編集者を勤めた後,バーゼル大學の歴史學教授.『イタリア・ルネサンスの文化』『ギリシア文化史』など.
註 バッハオーフェン(Johann Jakob Bachofen. 1815-1887)…バーゼル生まれの法學者・歴史學者.獨逸・英吉利・佛蘭西など各國で學び,1841年からバーゼル大學ヘ授となり,バーゼル刑事裁判所判事も勤める.母權制に關する理論を唱え,親族關係の科學的研究を創始した.『母權制』など.バハオーフェンの表記が一般的.
註 オイラー(Leonhard Euler. 1707-1783)…バーゼル生まれの数學者.ヨハン・ベルヌーイに師事した後,露西亜のサンクト・ペテルブルク科學學士院ヘ授.1738年に片目の視力喪失.1741年に伯林へ移り,伯林學士院の主事となるが,1766年に再び露西亜へ戻った.18世紀數學界における巨人的存在で,純粹數學・應用數學・物理學・天文學のあらゆる分野について八百を超す論文・著書を著した.とくに『無限小解析所論』や微積分學・代數學の論文などは1世紀の間ヘ科書として用ゐられ,πなどの表記はこんにちまで使われてゐる.
註の註 ベルヌーイ…ヨハン(Johann Bernoulli. 1667-1748)とヤコプ(Jakob Bernoulli. 1655-1705)のベルヌーイ兄弟もまたバーゼル出身の數學者.ヤコプはバーゼル大學ヘ授となり,初めて「積分」という言葉を使ったほか,『推論術』は確率論に重要な貢獻をした.ヨハンは阿蘭陀へ渡り,フローニンゲン大學ヘ授となったほか,後帰郷してバーゼル大學ヘ授にもなった.微分方程式を研究し,曲線の長さと面積,等時曲線,最速降下線を發見した.(以上,歸國後の註)

そのほかにも,著名人のメダリオンを澤山展示してゐるコオナアがあり,どうやらメダリオンの製作者がこのバーゼルの人であったとしか考へられないやうな,さまざまなメダリオンの數數.墺太利のハプスブルク家からも,伊太利の小君主からも,また人文學者として著名なピエトロ・ベンボなどからも依頼されてゐる.思はず,一つ一つ見てしまった.

また,階上にはバーゼルの大聖堂にあるものを展示してゐるコオナアもあった.

市立美術舘(Kunstmueum Basel)

そのあとは,美術舘に行こうと思うが,トラムにばかり乘ってゐるので,都市自體への關り方が,線的ではなく,實に孤立した點の寄せ集めのやうなものになってゐる.案の定,道を惑って,反對方向の市庁舍(Rathaus)の前まで來てしまふ.この市庁舍前の廣場は,マルクト廣場といふのだが,確かにその通りで,マルクト,すなはち市場がさまざまに立ち竝ぶ.見たところ,青物が多いやうだ.

だが,とりあへず間違ひは間違ひなので,トラムで戻って改めて市立美術舘を目指す.割合と洒落た建物の前に,ロダンの「カレーの市民」の群像がある.一度見つかれば,わからないはずがないほどわかりやすい,美術舘である.

ボドマーの作品 in 市立美術舘

まづ先に特別展示のやうなところから見たのだが,ボドマー(Walter Bodmer)といふ抽象的な藝術家と,何か普通に描いてゐても,心ここにあらず,といったやうな繪を描くステュッケルベルク(Ernst Stückelberg)といふ畫家の作品が,一階には展示されてゐた.

ボドマーの作品は,基本的にはこの,針金めいた造形,これだけである.さまざまなようになってはゐるものの,基本としてはこのやうなものである.だから,もうひたすら,このやうなものが展示されてゐると言ってもよろしい.擧句は繪畫になっても,やはりこの針金樣の繪である.もはや,とりつかれてゐるとしか思へない.だが,さうは言ふものの,この針金樣のものも,かう立て續けに出されると,何かおもしろいもののやうな,そんな氣になるのだから人間といふものは不思議だ.

ステュッケルベルクのはうは,ボドマーのやうに一樣といふものでもない.基本的にはこの人は畫家であるやうだが,人物もやれば,傳説・~話などを題材にしたものもやるし,風景も,といふ具合だ.ただ,最初のはうに展示されてゐた人物畫が,何かすべて,精彩がないといふか,生氣がないといふか,そんな感じであったのが,逆に印象的だった.展示も奧のはうに行くと,別にさうでもないのだが.

これらは九月迄の特別展示であるが,一方常設展示は,といふと割合と良いものが多かった.昨日のリヒテンシュタインの美術舘とは,正直な話比較にはならない.規模もさうだが,内容も.

まづ,このバーゼルで沒した瑞西の北方ルネサンス期の代表畫家,ヴィッツ(Konrad Witz)の繪がある.割合と,ボッシュやブリューゲルなどのネーデルラント系の畫家の筆致に似てゐるやうな氣がするが,この人の割合とよく見かける「聖クリストフォロ」など,ヴィッツ自身とその影響下にあった畫家たちの繪が竝んでゐる.

そして,ホルバイン(子)(Hans Holbein d. J.)の繪が竝ぶ.ホルバインといふと,エラスムスやモアなどの肖像畫,「大使たち」と通稱される繪など,基本的には人物畫,世俗畫といふ印象が強い.確かに,ここでも肖像畫などが多いのだが,たとへばキリストの臥する姿や「マリア昇天」などの宗ヘ畫も描いてゐたのだなあ,といふことに何か新たな面を見た氣がする.ちなみに,バーゼルだけあって,エラスムスの肖像畫(本物といふか,繪畫自體は確かロッテルダムにあったかと思ふ)のメダルに直されたものは展示されてゐた.

同じく,北方ルネサンス期といふと,ごくわずかであったが,ルカス・クラナハ(Lukas Cranach)の繪もあった.以前は,どうもクラナハの繪は好きになれなかったのだが,今日はそのやや歪つでさへある女性の躰を見て,ふとセクシィだなあと思った.ルーベンスやあるひはルノアールのやうな豊滿な躰の女性たちにはまったく感じない,そこにあるといふやうな「肉」の感じが,クラナハの繪には漂ってゐた.これは,同じやうであっても,佛蘭西のフォンテーヌブロー派の人々の描く女性たちには,セクシィは感ずるものの,そこにあるといふ「肉體」といふ感覺は覺えなかったから,何かまた違ふものなのだろう.

バロック期では,ルーベンス(Peter Paul Rubens)とレンブラント(Rembrandt Harmensz Van Rijn)などが目を惹いたが,言っては惡いかもしれないが,ルーベンスもレンブラントも,割合と水準の良いものがどこにでもある,といふ印象を免れない.もちろん,良いのは良いのだが.

そして,印象派あたりから,またこの美術舘は,といふか瑞西の美術舘が,と言ったはうがよいのかもしれないけれども,力を帶びてくる.ドガ(Edgar Degas),ルノアール(Pierre Auguste Renoir),セザンヌ(Paul Cézanne),スーラ(Georges Seurat)など.どれが,といふよりも,印象派はその集まったところがまた,美しいやうに思ふ.アルジャントゥイユの水路を描いた黒っぽい作品などが,ちょっと印象派としては毛色が變はってゐるなあ,と思ったのだが,これは誰のであったか忘れた.

この邊りになると,足も疲れ,心も見疲れてくる.さうした,ちょっと疲れた心持に,妙に心地よかったのが,ピカソ(Pablo Picasso)やブラック(Georges Braque)らのフォービズム(野獸派)の作品.意味自體はもうどうでも良くて,何かどっしりとした質感のやうなものが,妙に良いのである.

最後に,ジャコメッティ(Alberto Giacometti).この人も,何かの一つ覺えのやうに,あの針金細工のやうな人物像をひたすら作り續けた人であったけれども,繪でもさうだ,といふだけでなく,實は人間以外でも針金細工のやうなものであった,といふのは見て思はず笑いかけてしまった.多分,猫のやうなものを作ってあったのだと思ふが,頭の部分の丸みが辛うじて「ああ,猫だろう」と思はせるのであって,胴体も四肢も針金である.そんな繪を描く人をぼくは一人,テレビで見て知ってゐるが,あれは實をいふと,本當の意味で「畫伯」であって,いふなれば,ジャコメッティの再來とでもいふべきものであったのだ,といふことを今日はじめて知った.

ライン河畔で晝食,そして三國國境のモニュメント(Dreiländereck)

シュピッツから見るライン河

晝をもう食べないとくたくただ,と思ひつつも,それでも一度の食事,多分バーゼルではこの食事だけだろうから,やっぱり美味しいところで食べないと損した氣になる,などと,數年の間に考へも隨分と變はるもので,はるばると食事の爲にトラムでライン河を渡る.ライン河を渡ったところにある,ホテル・ベスト・ウェスタン・メリアン・アム・ライン(Hotel Best Western Merian Am Rhein)に併設する,シュピッツ(Spitz)というレストランである.

ここでは,久しぶりに魚料理を食べる.フライした魚とワイルドライスをサフランソースで,といふものだが,肝心の魚が何なのか,よくわからない.白身魚ではあるのだが,そこまでだ.なかなか美味しかった.美味しいついでに,麥酒を二杯飮み,そのあとにさらにカンパリに浸したソルベ(シャアベット)を食べたのがいけない.まあ,そのほろ醉ひ自體がいけないわけではないのだが,外は何しろ暑い.暑くてへとへとの中に,醉ってをるからますますへばりやすい.そんな状況の中で,三國の國境を見に行こうといふのだから,大概無茶である.

ちなみに,このレストランの傍を流れてゐるのもライン河ではある.實際,地元の若者と思しき人人が,泳いだりもしてゐる.だが,三國の國境といふのは,この傍ではないのである.支流といふわけでもないし,よくはわからないのだが,とにかくここではない.

三國國境のモニュメント 裏側が獨逸國境

そこで,とりあへず此處迄來たトラムを其の儘乘り繼いで,終點まで行く.終點は取り立てて何がある,といふやうなところでもないのだが,そこからさらにライン河傳ひに路を進める.この邊りで,早速照りつける陽射しに,やや氣力が吸い取られ,醉ひのためにややだるさを覺える.そこを辛抱して,何とか進んで行くと,とりあへずライン河が大きく擴がった邊りに突き当たる.この邊りには,大きなコンテナなどを扱ふ運送業者の廣いコンテナ置き場などもあったりして,いかにも國境といふ雰圍氣も漂いはじめてゐる.だが,モニュメントは見えない.

そのまま,表示に從って河沿いに歩く.カッと照りつける陽射しを,半ば咒ふやうな心持である.路は照り返し,河にはボオトなどが澤山停泊し,對岸もひっそりとしてゐる.あれは,果たして獨逸だろうか,佛蘭西だろうか.こちら側だけ,瑞西の國旗が翻ってゐるが,向かい岸には何もない.そもそも,國の彊なのか,瑞西がさう思ってゐるだけなんじゃないのか.

さう惡態を内心でつきながら,歩いてゐると,何やら建物が見える.そして,その建物の脇ほどに,觀光案内書で見たやうな,モニュメントがある.確かに,瑞西と佛蘭西の國旗をあしらったものがある.どうやら,今まで見てゐた對岸は佛蘭西であったやうだ.そして,このモニュメントの奧側が,獨逸といふことらしい.

餘りにも草臥れたので,モニュメントのすぐ傍にある建物で休憩する.國境を見るためにあるのではあろうが,軟弱な日本人の心に返ったぼくとしては,硝子張りで冷房がキンと効いてゐる中で,冷たいものなり暖かいものなりを飮みながら,パソコンでも打ちつつ,國境を眺めて一人悦に入りたいものだとは思ふものの,さういふ考へは瑞西の人にはないらしく,河沿いではあっても風がさほどもないので大して涼しくもない中で,炭酸水をぐびりぐびりと飮む程度で我慢した.

大聖堂(Münster)と大學(Universtät Basel)

エラスムスの墓

一旦市内に取って返して,續いて足を運んだのが大聖堂.このバーゼルの中心となるヘ會である.バーゼル自體は,もともとはバーゼル司ヘといふ聖諸侯の領有する地であった爲,當然その御座所たるこの都市には大聖堂が必要である.大聖堂は12世紀に建てられたものを基にしてゐるさうで,實際にはその後の再建などもあるから,その頃の建物ではないにせよ,なかなか古いものではある.ただ,内部の装飾品の多くは,既に述べた歴史博物舘へと移されてゐるため,さして見るほどのものは殘されてゐない.

では,ここには何が,といふと,實はエラスムス(Desiderius Erasmus)の墓があるのがこの大聖堂なのである.

エラスムスといふと,ロッテルダムの生んだ世界的な,少なくとも全歐的な人文主義者(フマニスト)である.『愚~禮贊』によりヘ會の腐敗を批判したことは,宗ヘ改革への一つの切り口を作ったことにもなったが,あくまでもフマニストは過激を好まず,宗ヘ改革派からは日和見と見られ,體制側からは改革派同樣の反體制と思はれ,かなり苦しい立場に追い込まれたといふ.そのエラスムスが,バーゼルに墓所があるとは知らなかった.

隨分と探して見つけてから,大聖堂を後にする.今度は大學である.

バーゼル大學には,ニーチェ(Friedrich Wilhelm Nietzsche)が長年ゐたので,まあ大學構内には入れないにしても,せいぜい外から見てみよう,といふ心になるのである.そこで,大學は街外れのシュパーレン門(Spalentor)の近くであるやうなので,とりあへずそこまでトラムで行ってから歩いてみる.すると,確かにこじんまりとはしてゐるが,バーゼル大學は確かに今も大學として普通に機能してをり,ああ,ここがバーゼル大學か,と淡い感動を持って周圍を歩き回った.

さて,見るものも見たし,といふことで驛に戻ろうとするが,なかなか直行のトラムがない.そこで,まあ歩けばよいだろう,などと思ったのだが,一日トラムにしか乘ってゐないと,バーゼルといふ街の方向感覺といふもの自體は皆無なのである.あらぬ方向に歩き,そのうへ表示にも騙されて,とんでもない回り道をして,漸う驛へと辿りつく.おそらく,この旅の中で,バーゼルほど,脳内の地圖としては不完全なものもないだろうと思ふ.それくらゐ,バーゼルは孤立した幾つかの點の集合體でしかなく,きっちりとした實線で結ばれるところのないものであった.

チューリヒでの夕食は,時間的にも良い頃,19時頃にチューリヒに戻ったので,そのまま歩いてツォイクハウスケラー(Zeughauskeller)といふ,昔は武器庫であったといふビアハレに行ってみた.今囘,チューリヒのリマト河左岸で食べるのは,考へれば初めてである.