タペストリーの歴史的背景について 

 タペストリーは長年フランス古来の芸術美の伝承に、大きな貢献を与え続けている
もののひとつです。
 百年戦争までの中世の時代には、パリやイル・ド・フランスがタペストリーの創造
・生産の中心地でした。その後、町に起こる戦争や混乱から逃れる為に、タペストリ
ー職人達は北部に移動をし、”Ateliers d'Arras(つづれ織りのアトリエ)”を見出し
ました。しかし、その地からも追われ、フランドル地方に向かって行きことになりま
す。そして、そこは新たな中心地となっていきます。

 当時、血縁集団で構成されているタペストリー職人集団が作るものは、聖書の一場
面であり、その後、神話の場面やギリシャ・ラテン世界から伝わる話からの創造の産
物などを図柄としていました。

 15世紀末、ロワール渓谷地方にも職人たちが集まっていきます。そして、フラン
スの王達の保護のもと、評判高い制作活動がなされました。”Les Mille Fleurs(千種
類の花模様)”と称されるものは、今日、博物館で見ることが出来ます。当時として
は、その斬新さの魅力あふれる田園風景に、花の咲き乱れるロワール周辺を背景とし
、淑女・貴族・召使が浮れてる様子が描かれています。

 中世も終りになると、叙事詩の場面の絵柄が出現します。王や王子達は彼らの競技、
戦い、勝利さらには狩りの様子のタペストリーを作成させました。この時代には他に
類を見ない程の、多量の傑作が残ることとなりました。

 ルネッサンスの時代となり、イタリアの芸術家達の影響により、タペストリーは急
激に変貌していきます。それは、画法とタペストリーの結合です。ラファエルは遠近
法、豊かな縁取りと装飾、ルネッサンス風の濃い色彩をもつアラベスク模様等の備わ
った作品を発表しました。

 1530年前後、フランシスT世によりパリ近郊のフォンテンブローに最初の王立
のタペストリー工場が設立されます。また、1660年にはルイ王朝の宰相コルベー
ルがゴブラン(Gobelins)の王立工場を、そして、4年後にボーヴェ(Beauvais)にも
、ルイ14世の保護のもとに設立します。チャールズ・ル・ブランを総監督とし、8
00人以上の絵描きとタペストリー職人がパリのゴブラン工場に集まり、彼らのさま
ざまな才能とセンスに応じて、集団が構成化されていきました。このことは、これ以
前の血縁集団によるタペストリー作りとは明らかに異なるものでした。

 ルイ14世の死後には、より創作力に富んだテーマが中心となり、公的な、形式ば
った主題が姿を消していきます。それにより、タペストリーの織は美しい風景を伴な
ったよりロマンティックなものに変化していきました。

 フランス革命の時代はタペストリー製作者の創造的な才能を阻害することとなりま
す。しかし、1795年にはボーヴェ、オーブソン(Aubusson)、フェレティン
(Felletin)において再開し、19世紀まで、王立工場の偉大な画家達のデザインが複
製されてました。

 何世紀かの間に、タペストリーの織り方も変化していきました。1757年前後に
ジャック・ド・バウカンサン(Jacqes de Vaucanson )は低いロープ織機を発明し、
それをジェセフ・マリー・ジャッカード(Joseph Marie Jacquard1752〜1834)
は後に縦長へと改良しました。この織機は今日の、私達のステッチ、特にはアルイン
(Halluim)ステッチを製造する機械の基本方式となっています。この方式はその信頼
性により、タペストリー製造を近代世界への変革に導くことを可能にしました。

 今日、最初の主要な仕事がタペストリー製造者によって成されてから、500年以
上が経っていますが、どのような広さのお部屋でも室内装飾の本物のコレクターアイ
テムとしてすべての芸術愛好者に提供することができます。

 これらの芸術的な仕事である、織り職人の苦難の成果をどうぞご入手下さい。

(上記文章の全部または一部を無断で転記することを禁じます。)

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