ふりーだ・かーろ

フリーダ・カーロ

Frida Kahlo

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メキシコは数多くの芸術家を輩出しているが、女性の画家で彼女ほど多くのエピソードを残し世界に知られたアーティストはいないだろう。世界にメキシコの伝統を美術としてひろく紹介した彼女は、自身の身体的弱点をカバーするにも役立ったメキシコ伝統衣装を彼女のトレードマークにみずからもライブでメキシコを象徴していった。

彼女が生まれたのは、メキシコ市の南にあるコヨアカン。出生証明書には、1907年7月6日生まれとあるが、彼女は1910年7月7日に生まれたと言っていた。フル・ネームは、マグダレナ・カルメン・フリーダ・カーロ・カルデロン Magdalena Carmen Frida Kahlo Calderon、3女として生まれた。

6歳の時、急性灰白髄炎にかかり、右足を痛めた。高校では、手におえないおてんばとして男子生徒顔負けで活発ぶりを発揮。ちょうど、彼女の通っていた高校の壁画をディエゴ・リベラ Diego Riveraが手がけていた。

ところが、1926年9月17日、旅行中のバスが路面電車と衝突する大事故にあい、脊柱を3箇所、肋骨、右足などに損傷を受け瀕死の状態に陥る。この事故で子供の産めない体になっただけでなく、奇跡的に回復した彼女の残りの人生を短く、苦痛にさいなやまされるものへと変えてしまった。

メキシコの3大巨匠のひとり、ディエゴ・リベラと知り合うのは、彼がロシアから戻り文部省の壁画にかかっていた1927年。その2年後、『象とハト』とよばれた見た目での体格の差と、彼女22歳に彼43歳の大きな年齢の差をもったカップルが誕生する。

ディエゴの女性癖から長くはもたず、彼女の妹とディエゴの関係が発覚し終止符へとすすんでいった。フリーダの常にメキシコ伝統民族衣装をまとっている姿が、彼女のトレードマークとなったが、メキシコ的な服装をすすめたのは、ディエゴだった。

1939年、前年のニューヨークでの個展に続き、パリで行われたメキシコ展に出品。Vogueのカバーに載るなど彼女の知名度があがっていく。

以後いくつか行われた展示会の中で、メキシコで行われたのは1953年、近代美術館のみ。展示会のオープニングは、救急車の到着、そして彼女が担架にのせられて会場に到着するところからはじまる。

この年、事故の傷のいくつかが悪化し、右脚を壊疽のため切断。

そして、翌1954年7月13日、コヨアカンのカサ・アスール (青い家)でその生涯をとじた。

シューレアリストとして評されていた彼女だが、彼女自身は彼女が描いたものは現実を表したものだとコメントしていた。

毒舌、芸術家としての才能、カリスマ性、私生活も男女問わずのスキャンダルな生涯を駆け足で送った彼女の、実は燃え尽ききれないほどのディエゴへの愛も多く作品になっており、ジョークか本気か悩まされる彼女の言動は、まとっていたメキシコ民族衣装同様、メキシコを象徴するのかもしれない。ある人たちにはいいかげんにしか見えない、彼女の言動は彼女の苦しみ、悩み、葛藤、そして喜びを表現する手段のひとつであって、そのベールの中には生死をかけた生き様が感じられるようにも思われる。

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