ブレイブハート Braveheart

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ランダル・ウォレス Randall Wallace著作。映画の監督、制作、主演はメル・ギブソン。音楽はジェームズ・ホーナー James Horner、衣装:チャールズ・ノッド Charles Knode。

王不在となったすきをつき巧みに貴族を翻弄しイングランド占領下となった13世紀末スコットランドに、ふたたび自由と独立を取り戻そうとエドワード1世のイングランドに立ち向かう愛国の勇士ウィリアム・ウォレスの愛と闘争の物語。

ウィリアム・ウォレス(メル・ギブソン)は、果敢にイングランドに抗する父の子として1270年頃生まれる。まだ彼が幼い頃、家族が処刑されたあと、叔父とヨーロッパ各地を転々としたあと、初恋の彼女 ミューロン Murron (キャサリン・マッコーマック Catherine McCormack) を慕って故郷にもどってくる。彼女が少年ウィリアムに渡したあざみの花(スコットランドの国花)がふたりの再会で印象的。

ただひっそりと初恋の彼女と暮らそうとしていたウィリアムを愛国の戦士に変えたのは、最愛の新妻を惨死へとおいやったイングランド軍だった。愛するひとを失った悲しみは、彼個人の恨みや復讐ではなく、これ以上スコットランド人がイングランドに苦しめられないための自由と独立を勝ち取る戦いへと彼をむかわせていく。

ストーリーの後半、ウィリアムをイングランド側からささえる強力な人物が登場する。エドワード1世の後継者の妻、皇太子妃イサベル(ソフィー・マルソー)。

このブレーブハートがスコットランドのイングランドからの独立運動に根ざす愛国心ドラマ、そのアメリカ版がパトリオット

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(映画を観たあと気になった史実)

11世紀前半に建国されたスコットランド王国は、1285年3月アレクサンダー3世 (在位 1249-1285) 落馬死から王不在となり、ノルウェイ王妃となっていた若干3歳のプリンセス、マーガレットがスコットランド王女として即位。続く1290年、エドワード2世とマーガレットの婚約がとりまとめられたあと、9月にノルウエイからスコットランドに帰航中のマーガレットは7歳で急逝してしまう。スコットランド王位継承者の選出にすかさず介入したイングランドのエドワード1世(在位1272-1307)は、継承者候補すべての貴族にイングランドへの従属を誓わせたあと、ジョン・ベーリオルあるいはジョン・ベイリャル John Baliol (1250-1315) を王位につけエドワード1世のスコットランド傀儡統治がはじまる。ベーリオルは、イングランドからの重圧を避けようと、対仏戦のためスコットランドからの徴兵要求があった1294年、逆にフランスのフィリップ四世と同盟を結んだ翌1296年にはイングランド北部に侵攻するも失敗しエドワード1世に降伏。その後イングランドの本格的なスコットランド統治がすすめられ、イングランドのジョン・ド・ワーレンが代理統治者としておかれた。

ウィリアム・ウォレスは1270年頃Elderslieで生まれたと言われる。ウォレスの父、Malcolm of Elderslieはイングランド王エドワード1世に服従しなかったため、長男とともに処刑されてしまう。残った妻と次男ウィリアムはダンディ Dundeeの親戚のもとへ逃げ、ウィリアムはそこで人数を集め始める。貴族のサポートを得るためにすでに北東部で反旗を翻していたサー・アンドリュー・マレー Sir Andrew Murrayと手を結び、ゲリラ戦を開始する。

ラナク Lanarkの教会で、Marion Braidfuteとウィリアムは結婚したとされる
1296年7月ウィリアムは戦時休暇中のラナク Lanarkで、ラミントン Lamington領主の娘 Marion Braidfuteと出会い、彼女と恋に落ちる。その時彼女は18歳。イングランドから派遣されていたラナーク地方の長官がいかに悪業の限りをつくしていたかを、弟を惨殺された彼女から聞かされた。ウィリアムは軽率な暴動を避けていたが、イングランド兵の挑発が続き、ある日曜の朝、彼らからウィリアムとマリオンの間に生まれた娘はサン・ニコラスの司教がマリオンをてごめにしてできた娘だと言い出したため、ついにウィリアムはぷっつん。ウィリアムは加わった仲間たちとともにイングランド兵たちを殺してしまう。事態を知った長官はマリオンを捕らえ処刑する。 ⇒ 
William Braveheart Wallace 700

なかなかウォレスを捕らえられないイングランド勢はスコットランド貴族をつぎつぎに処刑していった。スコットランドの南西で大暴動が勃発、ウォレスは北へ逃れ小規模な軍勢を結集する。1297年にはダンディを包囲できるほどの軍勢となっていった。

ウォレスがはじめてイングランド軍に大勝した1297年9月のスターリング・ブリッジでの戦いは、重装備された歩兵60,000と予備隊8,000のイングランド軍に対峙したウォレス軍は武器らしい武器ももたない40,000人と馬180頭だったにもかかわらず、橋一本(スターリング・ブリッジ)がかかったフォース川を敵陣との間においた丘Abbey Craigに陣取ったことでイングランド勢に攻撃を躊躇させ有利に戦えたため勝利した。戦いには勝ったが、親友だったアンドリュー・マレーが戦傷がもとで11月に死亡してしまう。この勝利でナイトの称号とスコットランドの守護者の肩書きが授けられる。

1298年、イングランド王エドワード1世が大軍を率いスコットランドに侵攻、フォルカーク Falkirkの戦いでウォレスは敗れる。ウォレスはいったん逃げることができたが、グラスゴーの北でラルフ・デュ・ハリバートン Ralph de Halliburtonの裏切りからダンバートン Dumbartonの長官、サー・ジョン・スチュワート・メンティース Sir John Stewart of Menteith経由イングランドに引き渡される。逃亡中、スコットランド独立へのサポートをフランス、ローマにもとめるが不首尾におわっている。

そして1305年8月23日、忠誠を誓ったことのないエドワード1世に対する反逆者として生きたまま四つ裂き(八つ裂き)の刑となり、頭はロンドン橋、手足はニューキャッスル、ベリック Berwick、スターリング Stirling、パース Perthへ四散されその後の反乱者への見せしめとなった。 ⇒ ロンドンのサン・バーツ病院の壁にとりつけられているウォレス記念碑

このあと、1306年にロバート1世としてスコットランド王位を宣言した、ベーリオルの甥ロバート Robert de Bruce (1274 - 1329) は、1307年6月イギリス軍に勝利。このあとエドワード1世がふたたび陣頭に立ってロバート討伐に進軍しようとするが、軍なかばでエドワード1世は亡くなる。1314年にバノックバーン Bannockburn の戦いでエドワード2世率いるイングランド軍に勝利する。1323年、ローマ法王ヨハネス22世はロバートをスコットランド王として認知、また、教会内で親イングランド派だったジョン・カミンを刺殺した(1306)ことから法王クレメンス5世が罰していた破門も解かれた。イングランドがスコットランドの独立を承認したのは、1328年5月。

エドワード2世がフランス王(フィリップ4世、在位1285-1314) の娘、イザベラと結婚したのは、イングランド王として即位した翌年1308年1月。つまり、すでにウォレスは処刑されたあとだった。しかし、イザベラは、1326年9月エドワード2世に謀反を起こしている。エドワード2世は、王位剥奪された1327年暗殺された。

UK NOW 英国政府官公庁:スコットランド

Sir William Wallace - Britannia Biographies

 

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