<<鬼神 織田信長>>

応仁の乱と織田家

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「永享の乱」と「嘉吉の乱」によって、せっかく南北朝統一された足利政権の権威がゆるぎはじめた、とうとう1467年には、当時将軍職にあった足利善政の継嗣をめぐる争いを中心に、将軍が政務総覧を行う室町幕府のその補佐する将軍に次ぐ三管領にあった斯波・畠山両管領家の家督争いへと広がり天下を二分する11年もの長期にわたる内乱、応仁の乱の勃発となった。

【応仁の乱と三管領】

足利家氏が陸奥斯波郡に下り斯波氏を称した足利の支流である斯波氏は、足利尊氏によって越前・若狭の守護職を拝し、1362年足利義詮(よしあきら)の時、斯波義将(よしまさ)は管領と改称される。義詮の子将軍義満の1398年以後、細川・畠山とこの斯波の3氏から管領が任命されたことから三管領と呼ばれるようになった。ところが、1460年代、義廉(よしかど)と義敏の家督を争いに細川・畠山がからみ、応仁の乱のあとには、越前は朝倉氏、遠江は今川氏そして尾張は織田氏といった守護代に分国を奪われていった。

もと武蔵国秩父の豪族であったことから秩父氏ともいわれた畠山氏は、当初平にしたがっていたがのちに源頼朝の有力御家人となった。しかし、1205年北条時政によって滅亡。畠山重忠の妻が足利氏に嫁し、その子孫が再興した。将軍義満時代に、河内・越中・能登・紀伊の守護となって三管領のひとつにつくが、畠山持国が甥の政長(弥三郎)を養子としたも、のちほど妾腹の義就に家督を与えようとしたことから、政長細川勝元を後ろ盾とし、山名持豊(宗全)の援をうけた義就と家督争いがおこり家臣団が分裂し対立する。政長系畠山氏は、紀伊国に本拠を置き根来寺衆と結んで、河内国を本拠としていた義就系畠山氏と争い続けた。その間に勢力を伸ばしてきた三好長慶と畠山氏の重臣・遊佐長載教に紀伊畠山氏(政長系)は実権を奪われていく。

畠山政長側についた細川氏は、足利義季が三河国八名郡細川郷に住み細川を姓とした足利の支族。同属の細川高国を破り細川管領家を継いだ細川晴元(はるもと)は、家臣の執事として和泉、河内、摂津を支配していた三好長慶の下克上で、1549年(1552年?)に京都を追われ細川管領家は滅亡した。なお、阿波の守護であった三好氏も、その家老であった松永久秀に実権を奪われている。

一方、畠山義就側の山名氏は、室町時代の守護大名だったが、南北朝時代、足利義満に仕え、南朝との戦いで戦功をたてて和泉・丹波・美作(みまさか)・因幡の守護となった。このとき一族で全国66国の6分の1である11国までを領したことから、六分一殿と呼ばれるほど強勢を誇ったが、一族の内紛そして義満との反目から1391年の明徳の乱を起こし敗死、領地も伯耆の2国のみが残った。1441年嘉吉の乱で山名持豊は赤松氏を討った功で播磨・石見(いわみ)を、同族の教清は美作、教之は備前を得て、明徳の乱で失った勢力を回復していった。ところが、応仁の乱で足利義尚(よしひさ)を擁立し、西軍の総帥となったが、1473年陣中で没してしまう。

応仁の乱では、管領細川勝元が養子の義視(よしみ)をたてて、斯波義敏畠山長政らと東軍となり、実子義尚の西軍には山名宗全斯波義廉畠山義就に分かれ、京都を主戦場として、将軍の権威失墜と荘園制の崩壊から戦国時代へと突入していった。

【織田家】

尾張地方は、足利一門の三管領家のひとつであった斯波家が、越前、信濃、遠江、尾張国の守護職を兼任していたなかの領地のひとつであった。
斯波家の被官として、朝倉家、織田家、甲斐家がそれぞれ越前、尾張、遠江の守護代として置かれていたが、応仁の乱以後、斯波家は没落の一途をたどる一方、朝倉家は独立し、織田家が実権を握るようになっていった。

もともと織田は、越前の「織田の荘」の荘官、そして越前二の宮劒神社(つるぎじんしゃ、福井県丹生郡織田町織田153字金栄山)の神官としても代々仕えてきた家柄だった。
信長は藤原を名乗っている時期もあったが、中世以降崇敬した武人に平もあったこの劒神社を氏神として崇め、寄進・保護を行い、そして当初彼自身も平を名乗っていた。

室町応永7年(1400)、管領家越前守護であった斯波義教義重)が尾張の守護を兼務することになった。義重は、応永12年(1404)ごろ、鎌倉街道と伊勢街道の合流地点であった清洲に、下津城の別郭として清洲城を築城した。なお、下津城は文明8年(1476)焼失してしまった。

応永5-6年(1398-9)頃、この劒神社神官の子息のひとり「常昌(つねまさ)」という人物が、斯波氏にその家臣として取り立てられ尾張へ派遣されたと劒神社には伝えられる。この常昌が、尾張の初代守護代となった斯波兵庫助将広の子あるいは同族と思われる織田伊勢守入道常松または(信広郷広)と同人物かどうか。守護代常松斯波義重と在京していることが多く、尾張には又代(小守護代)として織田出雲守入道常竹がおかれた。尾張への入部にあたって、平手氏を同行し内政を請け負わせ、信長の頃にはすでに織田氏に被官していた。(*平手一族はのちに野口と改姓している)
この常松の系統は、のちの大和守(清洲)、常竹は伊勢守(岩倉)といったふたつの流れを織田家につくっていったようだ。

織田伊勢守家は、当初岩倉城に拠点をおいていたが、応仁の乱によって織田家もふたつに分かれていき、織田嫡流の尾張守護代、織田伊勢守敏広は西軍の斯波義廉に味方し、一方小田井城主・清洲の同族織田大和守敏定は、東軍の斯波義敏につくのだった。

文明10年(1478)将軍義政織田大和守敏定を尾張国守護代に任じ「凶徒」斯波義廉織田伊勢守敏広を討つよう指示する。以後、敏定敏広の対峙・和議が繰り返されるうちに敏広が没し、敏定が勢力を固めていった。直轄領を除く尾張八郡はその後も、敏定の流れをつぐ尾張南部清洲派と、敏広の尾張北部岩倉派で互いの領地の侵食・奪回を繰り返していく。いったん尾張情勢が安定をみせた1500年頃、今川に奪われていた遠江の奪回をはかった守護斯波氏は敗退し以後守護としての権威も失墜し、守護代である織田家が台頭していく。

信長の祖父、弾正忠信定(信貞ともかく)は、清洲大和守織田家の当主が達勝の時代に、代替わりによる清洲織田家の脆弱化を保護するとともにさらなる結束をはかるべく設けられたと思われる三奉行のひとりとしてあらわれている。永正元年(1504)頃清洲三奉行の信定は、商都津島湊に近い勝幡*に二重堀、室町武家館風の立派な城を築城し居城として構えていた。この頃にはすでに彼の中島郡において対津島防衛しうるほどの勢力をつけていたようである。信定は、古来伝わる八門遁甲(はちもんとんこう)という方位学を用いたり、大永4年(1524)には津島の土豪新田家の四家のひとつ、大橋家に娘を嫁がせたり、武略・政略を行使して津島を手中におさめていった。

*古来塩畑(しおはた)と呼ばれのち勝ち旗を意する「勝幡」(しょばた)と改名されていた土地に砦を築いた。

信長の父、三郎信秀は永正9年(1512)この勝幡にうまれ、天文二年(1533)の頃弾正忠家を継ぐ。この頃、弾正忠家は朝廷に四千貫の寄進を行っている、大永六年(1526)の連歌師宗長の日記にみる商業都市として栄えた津島湊は津島神社の門前町として隆盛を極めていた。宗長には宿寺であった松尾山清泰寺で信定と信秀は会っている。津島五か村(米の座、堤下、筏場、今、下村)が統合されたのは信秀の時代で、津島と信長は共存共栄の形をひろげていった。当時、京都と関東を結ぶふたつあった幹線道路のひとつがこの津島を経由した街道だった。

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(引用・参考リンク)


旺文社 日本史事典(昭和51年、初版第13刷発行)
http://www.tanutanu.net/history/index.htm (日本史の研究)
http://home.att.ne.jp/sky/kakiti/shisaku.html (私訳信長公記、年譜)
http://www.sm.rim.or.jp/~runapark/WinnersCircle/project2/seiwagenji.html  (清和源氏の系図)
http://www.intacc.ne.jp/HP/oma/kaigenji.htm (甲斐源氏と武田氏)
http://www.bushinavi.com/~unuma_1988/ (応仁の乱、要約)
http://www.interline.or.jp/~masaki_t/rek_main.html (畠山氏、系図)
http://www.page.sannet.ne.jp/kotatu/index.htm (「こたつ城」戦国年表、武将一覧ほか)
http://www.city.anjo.aichi.jp/kakuka/tosyo/tosyokan/ANJLIB/Kyodo/Siro/index.htm (安祥城)
http://homepage1.nifty.com/saizou/ (北陸史)
http://www.town.ota.fukui.jp/nobunaga/nobu1.htm (信長の肖像)
http://www.tannan.co.jp/ota/sougou.htm (劒神社)
http://members.tripod.co.jp/twt/ (尾張の城)
http://www.tkcity.net/~mamesuke/siseki/aiti.htm (史跡めぐり、愛知県)
http://www2.odn.ne.jp/kiyosu/ (清洲町ホームページ)
http://www2c.airnet.ne.jp/m-ito/sight-seeing/genr/gct_kiyosu.html (清洲城)
http://www.city.iwakura.aichi.jp/ (岩倉市役所ホームページ)
http://www.na.rim.or.jp/~magnet/hideyo1.html (岩倉城の写真)
http://homepage1.nifty.com/sira/n_index.html (津島、浪合記)
http://nagoya.cool.ne.jp/yomagi/ (森平さんの津島史、詳しい)
http://www.syba.co.jp/wahoo/tera/turugiho/rekisi.html
http://www.fmfukui.co.jp/fgnet/ota/meisho.html
http://www.matsusaka-u.ac.jp/~c00241/kope.html (織田一族のはじまり)
http://www.jade.dti.ne.jp/~value/nobunaga.html (織田家、信長の勝幡城生誕説)
http://www.jade.dti.ne.jp/~value/nobunagawashobatadeumareta.htm (津島、信定、信秀)   
http://www.kamnavi.net/en/etizen.htm (伊部氏が奉じた神剣が御神体)
http://info.pref.fukui.jp/bunsyo/nenpyou/chrn24.html (福井県史 年表)
http://www5b.biglobe.ne.jp/~yoropara/sg01.htm (信長公記 関西訳)
http://www.aichi-c.ed.jp/contents/syakai/syakai/owari/owa004.htm (勝幡城跡、付近簡易地図)
http://www.asahi-net.or.jp/~AV8S-MED/Sumibon/ENSEN/syobata/syobata.htm (勝幡駅、写真)
http://homepage2.nifty.com/yagi_m/amatsushima/ (勝幡城、佐織町)  
http://members.tripod.co.jp/twt/shiroato/saori.htm (佐織町の城跡、勝幡城詳細)
http://members.tripod.co.jp/twt/oda/nobusada.htm (信定)
http://member.nifty.ne.jp/mizunohyuga/aichi/aichi.htm 愛知県地名変遷


鬼神:織田信長
織田信秀(信長の父)の時代

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