個人情報保護法成立の日、ひとつの決意
(2003年5月23日)
出典:反住基ネットワークML
 きょう、個人情報保護法が成立した。公権力が、公権力内に蓄積される膨大な個人情報の取り扱いには批判を許さ
ず、国民一般には法網をかぶせ、個々人の表現の自由に強大な執行者として介入する道を開いたこの政府与党案が、立法府においてさしたる議論もなく可決されていく光景は、目をそむけたくなるほどに無惨であった。
 いったん廃案に追い込まれた旧法案と、きょう可決された修正案には見るべき異同はなく、どちらも「政府・行政は間違わず、その政府・行政が個々人を保護してやるのだ」という尊大さにおいて共通していた。言い換えればそれは、個人を無力な存在、保護されるべき対象として矮小化する、旧態依然の権力的思考というものだった。
 このような法律の案を、権力的野心をむきだしにした官僚とうだつのあがらない一部の学者が作り、その多くが寝ぼけ眼の議員らが審議し、法律として成立させた――きょう起きたことは、それだけの話である。
 個人情報の取り扱いをめぐる法制化問題が課題となって以降、とりわけ旧法案の全容が明らかになった一昨年春からの情勢は、一般国民の側、個々人の側、市民社会の側でこそ、個人情報そのものと、その取り扱いの原則に対する認識が深まっていたことを示していた。行政および医療・電気通信・金融信用など、それぞれの実情に応じた法制化がなければ個人情報を実効的に保護できない、という主張はまさにそういうものとしてあった。個々人は無力どころか、自己と社会の関係性と制度を省察し、構想する主体として登場していたのである。
 この間に「9・11」「アフガン戦争」「イラク戦争」と世界は激動し、日本もまたそれに連動しつつ「経済不況」「米政府支
持」「北朝鮮」「有事法制」に揺れ動き、小泉政権はこの国を「強い国家」「戦争のできる国」へと強引に引っぱってきた。国策に従順な個人、保護されるべき無力な個人という公権力にとって都合のよい観念が、そのたびにこの社会に植えつけられようとしてきた。
 私たちはたんに一法案に反対し、廃案を求めてきたのではなく、このような人間観と社会観に対してこそ、拒否の意思を表わしてきたのだった。私たちばかりではなく、各分野の専門家や当事者たちが真剣に議論し、反対し、あるいは対案を示してきたのも、まさに自立し、成熟した個人としての意思の表明だった。
 いま私たちが目の当たりにしているのは、個々人と市民社会の側と、その向こうの行政府や立法府とのあいだに横たわる深い溝であり、この社会の民主主義が機能不全に陥っている現実である。その深淵の向こうで展開される気抜けた茶番劇に、私たちはいかなる感慨も抱かない。私たちはこれまで歩んできた道程の先を、私たち自身の足で歩いてゆくだけである。
   
 2003年5月23日
 個人情報保護法案拒否!共同アピールの会










   TOP   APPEAL-TOP   RAPPEAL-TOP