日韓サッカー文化論
 
 盧 廷潤(ノ・ジョンユン) 著  二宮清純 監修
 講談社現代新書

 目次 
 序文 開拓者 そして国際人〜監修者
 
 第1章 初の韓国人Jリーガー

 第2章 韓国サッカー選手はこうして作られる

 第3章 ヨーロッパ体験〜オランダ体験で得たもの

 第4章 日本のために 韓国のために

 講談社 2002年4月20日 初版
 660円(税別) 162p

 この本は、韓国人として初めて日本にやってきたJリーガーであり、’94年アメリカ大会、’98年フランス大会と、2度にわたってサッカー・ワールドカップに出場した盧廷潤の書いた本である。
 著者が初めて日本にやってきたのは、Jリーグが始まった’93年である。それ以後1シーズンををのぞき、プロ・サッカー選手としての生活のほとんどを日本で過ごしてきた。彼は’90年に初めて韓国代表に選ばれ、’92年のバルセロナ五輪にも出場するなど、将来を嘱望されたエリートだった。それだけにプロ・サッカー選手のデビューを韓国ではなく、外国の、しかも当時は「格下」でよりによって「先祖代々の宿敵」である日本のプロサッカーチームであるサンフレッチェ広島に入団を決意した時、韓国のサッカー協会関係者はむろんのこと、マスコミからも散々叩かれ、中には彼のことを「売国奴」と罵ったところもあった。だから彼は来日時、「失敗したら次はない」という悲壮な決意で日本にやってきたのである。
 彼がプロ・サッカー選手としてのキャリアを日本でスタートする決意をしたのは、できたばかりのリーグだったことと、ジーコやリトバルスキーなど、往年の名選手のプレーしているJリーグで、自分がどれだけ通用するかを試したかったからだそうだ。またこれからは英語の他に外国語をマスターしたいと思っていた筆者は、日本語の習得に情熱を注いだ。ひらがなとカタカナは1日でマスターし、カラオケで好きな曲の歌詞を日本語で書いてもらったりして、1年でほぼ日常会話に困らない程度の日本語をマスターした。そして2年後には、不自由なく日本語を自在に操れるようになったという。「韓国語と日本語は文法もにていて、単語も同じのがたくさんあった」とはいえ、生半可な努力ではできないことは確かである。
 彼はもともとDFの選手だったが、スピードに優れていたので日本ではFWとしてデビューし、2年目の’94年にはステージ制覇を成し遂げる(残念ながら、日本一にはなれなかったが)。だがその後はクラブ財政の逼迫もあってフロントと対立するようになり、’98年のシーズンからオランダに活動の拠点を定めることになる。
 サッカーをするようになったのは10歳の時と比較的遅かった。先生に勧められたのがきっかけだったが、医者か銀行員になって欲しいと思っていた母親はこれに反対だった。だがめきめきとサッカーの腕前を上げてゆき、エリートコースへの道を進んでいくのである。
 大学に進んでオリンピック代表に選ばれた頃、彼の運命を変える出会いがあった。日本サッカーの育ての親と言われ、日本サッカーがメキシコオリンピックで銅メダルを獲得した陰の功労者といわれたデットマール・クラマー氏との出会いである。これまでは厳しい上下関係、何かあると体罰を加えられるというスパルタ環境に身を置いていた彼から見ると、これはカルチャーショックだった。クラマー氏の薦めで一度はドイツでプレーを考えたのだが、徴兵制度がネックになっていて実現しなかった。
 韓国には徴兵制度があるが、これはスポーツ選手にとっては最大のネックである。最大で2年半を軍隊で過ごさなければならない。スポーツ選手として一番活躍できる年代にわざわざ軍隊にいく人間はいない。政府もその点を承知してい
て、既に実績のある人間は軍隊のチームにはいることで徴兵の代わりにしようという制度もある。さらにはアジア大会の優勝、オリンピックでメダリストになったら徴兵を免除する制度もあるのだが、この場合は向こう5年間は外国でのプレーはできないという条件が付くのだそうだ。徴兵を免れるために自分のカラダに細工をしたり、裏金を積んで徴兵免除工作をしたりという不正は絶えない。筆者はたまたま、腰の骨に異常があったとかで兵役免除になったが、こういうところに南北間の対立が影をさしているのである。「政治」が影を指しているのかと思うと、なんだかやりきれない。 
 ’98年、意を決した筆者は5シーズンを過ごしたサンフレッチェを退団し、テストを受けてオランダリーグのブレダNECに入団する。だがそこはケガとの戦いとの連続で、両足半月板損傷などに苦しむ。同じ年に開かれたサッカーW杯に韓国代表として出場したが、ケガが災いして1試合だけの出場だけにとどまり、チームも1次リーグで敗退する。
 だが海外では「W杯出場」というのは一種のステータスだそうで、たとえ1試合だけでもW杯に出たら、地元の人間にとっては英雄になるのだという。彼自身、この本の中でW杯前とあとでは見る目が違ったと書いている。またこのオランダ滞在中にキムという韓国人の医師を知る。膝のケガの治療で行ったのだが、彼が行う治療は効果テキメンで、ずっと苦しんできた膝のケガがオランダ滞在中にあらかたよくなった。筆者は現在も、ケガをするとキム医師の治療を受けにドイツまで渡っているそうである。そのシーズンは2ゴールをあげ、結構な数のアシストを記録したが、オランダに根深く残る人種差別には我慢できず、愛車を壊されて携帯電話をとられたのがきっかけで日本への再来日を決意するのである。
 再来日後はセレッソ大阪の中心選手として活躍し、’00年の前半には優勝まであと一歩のところまで行ったのだが、最後の試合でVゴール負けし、2度目の優勝はならなかった。だがそのシーズン後半は主力FW・西澤のスペイン移籍とエース・森島の故障で思うような成績を残せず、さらに翌年も低落傾向から抜け出すことはできなかった。その責任をとる形で彼はセレッソ大阪を退団する。いったんは韓国に帰国して母国のKリーグでプレーすることで話がまとまりかけたが、リーグの規則に反するということでこの話は壊れてしまう。だがすぐに救いの手がさしのべられる。J2降格の危機に瀕していたアビスパ福岡から声がかかったのである。セレッソ大阪を見返したい一心で福岡での活躍を誓ったが、チームの主力選手に故障が相次ぎ、運にも見放されたアビスパはJ2降格の憂き目にあう。だが筆者はチームメートに「1年でJ1に戻ろう」と声をかけたのである。そう、彼はチームの中では精神的支柱として、チームになくてはならない存在なのだ。
 最後に筆者は、韓国と日本のサッカー界についても触れている。
 韓国についてはだんだん環境がよくなり、ドラフト制度も撤廃されたので魅力的なリーグになり、日本や外国で経験を積んだ選手や指導者がKリーグに戻り、それが将来に大いにプラスになるだろうと触れている。
 日本のサッカー界については、小野や中田、川口など海外でプレーする選手について、海外でプレーした経験は何物にも代え難いという反面、素質に恵まれながらもチヤホヤされてそれ以上延びない選手が多いと、苦言を呈する事を忘れない。そのための対策として、生存競争に勝ち抜くことの大切さを教えることが大事だ、厳しい環境に身を置き、自分を追い込み、より上を目指す気持ちを持ち続けることが成長につながるのだと筆者は指摘する。それと並行して審判のレベルアップが重要と説き、審判のレベルはその国のリーグのレベルに比例するという。だがルールとして縛るのではなく、時にはファンのことを考えたルールの適用も訴えている。
 最後に、この本を読んでみると、筆者の性格の良さがひしひしと伝わってくる。広島時代にお世話になった人とはいまだに交流があるという。ボランティア活動にも熱心な彼は、本の売り上げをすべて恵まれない子供のために寄付するといっているそうだ。筆者の願いが届く事を願ってやまないのである。








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