ベトナム・カンボジア間、中越間の武力対決という事態
に対して、日帝本国内の左翼の間で「カンボジア・中国支
持」「ベトナム支持」「スターリニズムの破産」「民族共
産主義の破産」等々の論議がなされている。しかし、問わ
れている問題の核心点は、このような皮相な次元にあるの
ではなく、より根源的な次元にある、と我々は考えている。
中・越・カンボジア間の事態は、単にマルクス・レーニン
主義の原則からの逸脱というものではなく、マルクス・レ
ーニン主義の内在的矛盾の実践的帰結そのものであり、マ
ルクス・レーニン主義が、世界帝国主義を打倒し、民族国
家を廃止し、過渡期人類共同体を建設する世界革命の展望
を切り拓き得ないという点で、根底的に破産しているとい
うこと、ここに問題の核心点がある。
15世紀初頭から開始された、西欧諸帝国による非西欧世
界への侵略・植民地化という、地球を被い尽すかたちで形
成された、世界的な収奪システムとしての世界帝国主義に
対して、1917年革命は(根本的限界をはらみながらも)
いずれにしろ、一つの現状変更を迫った。ロシア帝国の広
大な図版と人口が、世界帝国主義の有機的関連から離脱し、
非資本主義的社会の建設へと向かうかに見えた。しかし、
ロシア帝国の権力を収奪し、その遺産を継承したロシア共
産党・ボルシェビキ(レーニン→スターリン→フルシチョ
フ→ブレジネフ)は、対内的には、原始共同体破壊・農業収
奪・高度工業化路線、対外的には国益主義・平和共存に
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よる世界革命への敵対路線によって、一旦は、世界帝国主
義の政治経済システムへと再統合・再包摂し、本格的世界
過渡期の開始を阻止する反革命的安全弁へと転化した。
世界帝国主義の新旧植民地支配を部分的に打倒した中国、
そしてインドシナ三国における革命戦争の過渡的勝利はど
うであったか。これら、世界帝国主義の被植民地化周辺部
における革命戦争は、もちろん、マルクス・レーニン主義
の立場に立つという中国共産党やベトナム共産党などの存
在を無視して考えることはできないが、皮肉なことには、
まさに、マルクス・レーニン主義の原則を逸脱することに
よってはじめて、これらの地域のマルクス・レーニン主義
者の党と臣民は、過渡的勝利を得ることができたと言えよ
う。すなわち、工業プロレタリアートに依拠した都市にお
ける一瞬の蜂起によって権力を収奪するという原則に反し、
被植民地農民に依拠した農村解放区拡大型の革命戦争の
路線を採用することによって、はじめて過渡的勝利を得た
のである。
しかし、事実上、マルクス・レーニン主義の原則に反し
た路線によって過渡的勝利を得ているにもかかわらず、中
国共産党にしろ、ベトナム共産党にしろ、マルクス・レー
ニン主義批判というかたちで、それをはっきりとレ論的に
総括せず、逆にマルクス・レーニン主義の空疎な権威でも
って自己正当化しようとしている。そこからもろもろの矛
盾が沸き出し、植民地革命としての一国権力奪取後は、結局
ソ連共産党の路線と同一の路線を採用することになるので
ある。すなわち、対内的には原始共同体破壊・農業収奪・
高度工業化路線、対外的には、国益主義・平和共存による
世界革命への敵対によって、世界帝国主義の政治経済シス
テムへの再統合・再包摂をもたらし、本格的世界過渡期の
開始を阻止する反革命的安全弁へと転落してしまうのであ
る。
中国共産党の「反ソ・連帯」外交路線は、ソ連共産党の
外交路線と同様、とことん世界革命に敵対する反革命路線
であるが、「反ソ」の主要な戦略的意図は、中国共産党の対
内路線が、ソ連共産党の対内路線と全く同じもので在るこ
とを隠蔽しつつ、USA帝・日帝・EC諸帝から国内高度工業
化のための経済援助を最大限ひき出すことにある。中国共
産党の対内路線と対外路線は相互に規定し合っており、そ
の反革命性は、71年ベンガル革命戦争への敵対、72年USA
帝ニクソンとの握手によるベトナム革命戦争への敵対、73
年チリ・ファシスト反革命政権の即時承認、75年FNLA
支持によるアンゴラ革命戦争への敵対、78年モブツ政権支
持によるザイール革命戦争への敵対、78年日中条約、日帝
・天皇の反革命犯罪の免罪、日帝の軍事大国への激励、79
年米中条約によるUSA帝との密通等々として物質化され
ている。
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この中国共産党の対外路線の反革命性に比較するならば、
ベトナム共産党の反革命性は影の薄いものであるが、たと
えば、ASEAN諸国との平和共存のために、ASEAN
諸国内の革命勢力の援助は行なわないことを、ASEAN
諸国に保証するというかたちであらわれている。ベトナム
共産党も、中国共産党と同様の対内路線、すなわち原始共
同体破壊・農業収奪・高度工業化路線をとっているが、中
国共産党が西側諸帝国からの援助によってそれを実現しよ
うとしているのに対して、ベトナム共産党はソ連の援助を
主力としつつ西側諸帝国からの援助もひき出そうとしてい
る点で、両者は違っている。
カンボジアのポル・ポト派共産党の対内路線は「都市解
体」「貨幣廃止」「農業集産主義」というように、従来の
マルクス・レーニン主義の路線とは一見異質のように見え
るが、本質的には変わりないと推定される。たとえば、キ
ュー・サンファンの『帝国主義はカンボジアを如何に後進
化させたか』の論文における問題意識は、あくまでもカン
ボジアの高度工業化路線を前提しつつ、世界帝国主義の政
治経済システムに従属的に統合・包摂されている限りでは、
カンボジアの高度工業化は不可能であるというものであり、
高度工業化それ自体は否定しておらず、ましてや原始共同
体復権志向は全くない。また、カンボジア共産党創立17周
年記念集会の演説でポル・ポトは、「われわれは農業を基本
とし、農業による蓄積資本で漸進的に工業を興し、農業後
進国であるカンボジアを短期間で近代的農業国に、次に工
業国に変えていく」と述べている。すなわち、一見極左的
な農業集産主義は、工業資本蓄積のための、官僚制独裁権
力による強権的な農業収奪のシステムと言えよう。
1917年以降の歴史は、マルクス・レーニン主義の勝
利の歴史ではなく、マルクス・レーニン主義の破産の歴史
であったと総括できる。中国・ベトナム・カンボジアは、
マルクス・レーニン主義によって、植民地支配から解放を
勝ち得たのではなく、マルクス・レーニン主義に反して、
その過渡的勝利を得たのである。そして、今、中国・ベト
ナム・カンボジアの各国共産党は、マルクス・レーニン主
義の路線で「社会主義建設」を行なおうとすることによっ
て、過渡的勝利を無にしてしまい、国益主義的民族主義的
に対立しつつ、本格的世界過渡期の開始を阻止する反革命
的安全弁へと転落している。我々は、このことからなによ
りも、マルクス・レーニン主義によつては、世界帝国主義
を打倒し、民族国家を廃止し、過渡期人類共同体を建設す
る本格的世界過渡期の展望を切り拓くことはできないとい
うことを確認しなければならない。
現下世界革命の核心点――それは世界帝国主義を打倒し、
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民族国家を廃止し、過渡期人類共同体を建設する本格的世
界過渡期の展望を切り拓く総路線とは何か? として問わ
れている。すなわち、それは〈帝国本国――植民地〉の階
級闘争の止揚を、帝国主義侵略勢力と被植民地原住民勢力
との対立闘争の止揚によって制約し、その総体を原始共産
圏と文明圏との対立闘争の止揚によって制約し、非工業化
=原始共同体・農業共同体復権を志向する永続的世界共産
主義革命として問われており、日本帝国の具体的状況にお
いては、日本帝国を撃ち滅ぼし、日本国家を廃止し、反日
共同体を建設する〈撃帝廃国反日建共〉路線である、と我
我は確信している。そして、1974年8月30日三菱重工
爆破攻撃というかたちで開始され、75年2月28日間組爆破
=キソダニ・テメンゴール作戦を一つの頂点としつつ、本
年3月19日東レ常務宅爆破=第二次女工哀史作戦へとひき
つがれている反日武装闘争こそ、〈撃帝廃国反日建共〉路
線をつき出しつつある、と我々は考えている。
3月19日の東レ海外事業担当重役斎藤光豊宅に対する爆
破攻撃に関して、次のような声明文が発せられた。「反日
武装戦線は、第二ジ女工アイシ作戦トシテ日帝侵略企業東
レのシュノウ(第一級の帝国主義者)ニタイシバクハコオ
ゲキヲケッコウシタ 日帝権力マスコミはキソ研究所に対
する爆ハ作戦を隠蔽している 東レは全国抵抗武装軍(F
ARN)の要求をスミヤカニスイコウせよ 反日武装戦線」
(毎日新聞3/26夕刊より)
この第二次女工哀史作戦は、エルサルバドルのFARN
の二度にわたるインシンカ(東レが出資)日本人重役の捕
捉作戦を、日帝本国人への戦闘司令として受けとめ、日帝
中枢を武装攻撃する事実行為で日帝本国人としてのオノレ
の歴史的現在的反革命性を実践的に自己否定し、被植民地
人民の戦闘に、日帝本国内から呼応・合流し世界革命の展
望を切り拓いていく闘いである、と我々は考えている。
東レは、1974年11月25日東アジア反日武装戦線“狼”
によつて爆破攻撃を受けた帝人、そして未だ武装攻撃を受
けていない旭化成とともに、俗に合繊ビック・スリーと言
われている。1926年1月、第一次世界帝国主義植民地
争奪戦によって巨利を得た日帝の中枢的独占企業=三井物
産は、その余剰資本を利用して、当時欧米諸帝国で、日本
製生糸を圧迫するほどの勢力となりつつあった人絹工業を
日帝本国内に扶植することをめざし、東洋レーヨン株式会
社を起した。
1928年1月生産を開始した東レは、帝人など日帝の
他の人絹会社とともに、中国大陸や西欧諸帝国の植民地を
中心に世界各地に輸出し、1933年には、東レを含めた
日帝の人絹生産高は、独、仏、伊、英を完全に抑えてUS
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A帝に次ぐ世界第二位の地位にのし上がった。
1937年7月日帝反革命軍の中国大陸心臓部への本格
的侵略にともない、スフ生産が国策として注目されるや、
東レは、いち早く、人絹糸製造設備をスフのそれに転換し、
日帝の国策に応じた。同年7月、東レは、三井物産との共
同出資により、朝鮮慶尚南道に38万坪の土地を購入し、朝
鮮レーヨンを創立し、日帝の朝鮮植民地支配の一端を担っ
た。
1939年3月第二次世界帝国主義植民地争奪戦ぼっ発
以降は、日帝の外貨獲得の第一線に立って、輸出を活性化
し、オーストラリア・インド・中央アジア・アフリカ方面
まで侵出した。1941年から1945年にかけては、生
産設備を兵器生産に転用して、日帝海軍のために魚雷等を
生産した。さらに三洋油脂を創立し、日帝反革命軍が東南
アジアで掠奪してきた資源をもちいて、航空機用高級潤滑
油を生産し、企業をあげて侵略戦争への軍事協力を行なっ
た。
戦後、中国・インド等への輸出再開によって、いち早く
海外レーヨン市場を開拓した東レは、日帝の化繊貿易の一
端を担って外貨の獲得に実をあげ、その後のUSA帝の朝
鮮侵略戦争による輸出増加の基礎を作った。1950年の
朝鮮侵略戦争において、東レは欧米化繊生産国が軍拡に集
中し、世界的にレーヨンの供給不足、価格上昇をきたした
機会をとらえ、活発に海外市場に侵出し、輸出を大巾に伸
長させ、ボロもうけを行なった。
日帝の合成繊維産業は、戦後驚異的な高成長を遂げ、U
SA帝に次ぐ世界第二位の座を確保したが、この高成長を
終始リードしつづけたのが、ほかでもない東レであった。
現在東レは、韓国、香港、アフリカ、北米を最大の輸出先
として、世界20ヶ国に合繊輸出を行なっている。
戦後の東レは、海外合弁事業に関して、産業界全体の先駆
者と言われている。1951年香港のトライロン社に資本
参加して以降、東南アジア、アフリカを中心に次々に販売
・生産会社を設立し、現在合弁会社は50社を越え、その傘
下の従業員は約4万、海外投融資残高は約5百億艶に達し
ている。投資先は、タイ、韓国、台湾、インドネシア、ケ
ニア、アイルランド、香港、マレーシア、エルサルバドル、
コスタリカ、フィリピン、ブラジル等20ヶ国以上におよび、
東南アジアでは一大グループを形成し、東南アジアを対米
輸出の供給基地としている。東レは、海外投融資残高で日
帝企業中第5位に位置し、海外生産高では、松下電器に次
ぐ第2位にあり、文字どうり日帝の中核的独占企業と言え
よう。
東レが悪どいことをやつているのは、エルサルバドルに
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おいてのみではない。たとえば、タイにおいては、三井物
産・帝人との共同出資による「トーレ・テトロン・タイ」
や帝人との共同出資による「タイ・テトロン社」などをつ
くり、タイ人労働者を低賃金で酷使しており、その結果タ
イ人民の反日闘争の標的となっている。
1970年代にマレーシア政府と州当局が外国資本の誘
致策として開発したマレーシア・ペナン工業団地には、20
数社の日帝企業が侵出しているが、この中で主力を占めて
いるのが、東南アジア最大の染色工場をもつ東レであり、
ここで東レは、合繊・紡績・染色・縫製など7つの合併工
場を経営し、8千人もの労働者を雇用している。このペナ
ンで1977年6月、工場排水のため魚がとれなくなった
魚民が、工場汚水たれ流し反対の闘争に立ち上がった。オ
スマン村長さんの談によると「汚水を流しているのは、ナ
ンシン、ペンファイバー(以上東レ系)、カネボウ、バイ
キング(スウェーデン系)、パームコオイル(USA系)
などの工場」であり、ペナン消費者協会が調査したところ
によると、プライ団地の10工場(うち5工場は日帝系)の
工場排水から水銀、カドミウムなどの重金属が高濃度で検
出された。ところが、1977年7月1日東レ海外企業管
理部は、現地調査で「重金属は検出されなかった」とウソ
の発表を行なった。
日帝の中枢的独占企業=東レの反革命性は歴然としてい
る。これ以上東レが侵略反革命を押し進めるのを許容する
のか否かが問われているのである。反日武装戦線は、3・
19第二次女工哀史作戦をもって、東レ攻撃の火ぶたを切っ
た。
世界革命を口にする日帝本国人は、まずなによりも、オ
ノレの歴史的現在的反革命性を痛切に確認し、自己否定し、
日帝の新植民地主義侵略、支配下の人民・戦士たちの反日
(武装)闘争に呼応し合流しなければならない。そうする
ことではじめて、世界革命勝利の思想的物質的前提条件が、
国境を越えて形成されるのである。
一九七九年六月五日
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