あこがれのハワイ航路(初めての海外出張?旅行?)
  
初めての海外出張が30年前1970年、例によっていろいろな、失敗。みてね!
 
 初めてのカラーテレビカメラ発表から半年、六月にアメリカヘ出張することになった。このカメラはアメリカでも売れに売れた。まさにベストセラーカメラである。
 
それまで売るものが無く困り切っていたアメリカの販売会社は、これで息をふきかえした。そのお礼にと出張費を向こう持ちで招かれたのだ。電話では「靴も服も買ってやる。裸で来い!」と、すごい勢いである。
 
しかしまさか裸で飛行機には乗れない。でもそれぐらい、あちらでは嬉しく思っていたのだろう。アメリカ流のジヨ−クと受け止めておく。
 
出張はアメリカで毎年、業務用テレビカメラの展示会があり、その視察をかねての出張だ。当時は今の給料から比較して航空運賃は十倍以上で現地の円ドルレートも三百円と、まさに外国旅行は、歌にあるように、あこがれのハワイ航路だった。
   
 東京〜ニューヨークは今のように直行出来ずアラスカで給油の為に中継をする。
真夜中、フェアバンクスに着いたが、今のように飛行機から空港ロビーに行くにもアコーデオンのような通路も付かず、六月とはいえアラスカの凍る様な外気、雪の付いた大地を歩いて空港ロビーまで行く
 
東京は、もはや夏の気配、でもここはまだ冬なのだ。
再びアラスカからカナダの上を飛んだが、全く人家はなく、森、湖の連続であった。
手の付かない大自然、いつかこんなところで暮らしたいな、と思った。
 
 着陸地ニユーヨークが近くなり、窓から下に家が見えるようになった。住宅地のようだが、きちんとした区画の緑の敷地の中に家があり美しかった。日本のようにゴミゴミしてはいない。
 
 ドシン!とニユーヨークの空港に飛行機が着いたとき「ああ、とうとう俺もアメリカに来たのだ」と感動がじわじわと実感となって湧き出してきた。
 
 展示会はニユーヨークよりずうっと南のマイアミにて行なわれた。アメリカにおける業務用テレビカメラ展示会で年一回、世界中からカメラが集まる。
 
 ここでの宿は超一流ホテルのそれもスイート(新婚用のデラックスな部屋)に泊まる。
俺のためにこんな散財をさせてと恐縮していると、そうではないのが次の日にわかった。
 
 まず朝食前、七時にセールスマン、デーラーが集まって販売会議である。
それで広いロビーのある部屋数の多いスイートをとったわけだ。
 
 夕方展示会が終わると部屋に客が集まって来るのでスイートのロビーで接侍、俺もブロークンな英語で夜遅くまでお付き合いをする。

展示会場には放送用ビデオで有名なA社が俺のカメラを自社ブランドで出している。
思えば俺の入社時A社を手本に放送用ビデオを作っていた。

そのA社が自社製カメラを使わず俺のカメラを採用したのだ。
A社を抜いた!という気持ちは小さく世界のA社が認めてくれたという、喜びが大きかった。
今までの苦労が報われる思いで技術屋の幸せをかみしめる。
 
 数日間にわたり目いっぱい働いた忙しい展示会も終わったので、夕方ドックレースを見に行く。ドックレースというのは、電気で動くヌイクルミのウサギが先を走り、何匹かの本物の猟犬がその後を追う。犬が競馬の馬の代わりだ。
 
昼は暑いし会社を終わってからのほうが人が集まるのでドックレースはナイターなのだ。 そこで暗いシーンに強い俺のカメラが使われているというので見学に行く。
見ているだけでは、つまらないので賭けてみたらと言われ馬券ならず犬券を買った。
 
競馬などやった事が無い俺の初めてのギャンブルである。お付き合い程度と二ドル券を二枚買った。一緒に行ったデーラーがその券をみて笑った。そして競犬新聞?を得意そうに広げ「この新聞を見てみろ、その犬は病気上がりでコンディションが悪い」とのたまう。
 
 しかし走ってみると、これがなんと一着、百十ドルニ枚、約七万円の大穴になった。
有頂天になった俺は、晩飯をオゴルとわめいた。
 
 しかし皆は俺に「騒ぐな、券をしっかりキープしろ、いや私が換金してくる」等なかなか親切。  さすが強盗の多い国、皆用心深い。
 
かなり遅い晩飯だったので腹がへり、レストランでは、テーブルに出ていたサービスのツマミをガツガツ食べ、ビールをガブガブ飲んでいたら料理が出来上がる頃、満腹になり次から次と出てきた料理が食べられなくなってしまった。心配したコックが、なにか味付けが悪かったか聞きに来た。
 
 マイアミを引き上げてから、各オフィスを回った。最後にシカゴからロスアンジェルスに向かう日が土曜の朝であった。土日の休日を楽しもうと、俺はロスアンジェルスに直行せずに途中のデンバーで降りて一泊した。義妹にあうつもりが連絡が付かず。不安だったが単独行だ。
 
 車をレンタルし、そしてロッキーの山中へと入っていったのだ。四干米を超えるロッキーはこの時期、七合目位までしか車が入らず、この上は白銀の世界だった。

沈黙する針葉樹の美しい森、小鳥のさえずり、そして雪。どの辺まで上がったか定かでないがロッキーの雪を踏んだということで満足した。
 
 現地調達のバスケットシューズに滑り止めのマニラロープを巻いた程度の装備では、まあこんなところかな!
 
 土、日曜を山で過ごし、月曜の朝一番機でロスアンジェルスに着いた。タクシーの運転手に行き先を書いた紙を渡す。地名の発音は以外に難しく、間違ったところへ連れていかれることも多いのでこの方法が一番良いと教えられた。
 
 オフィスヘ着いたら所長は目を丸くして驚いていた。シカゴオフィスからの連絡で、その飛行機を出迎えたが乗っておらず、丸二日間消息不明だったので皆は俺が誘拐されたか、強盗にでもあったかと心配していた。ごめんなさいオフィスのみなさん。
 
 日本への帰りは当然ロスアンジェルス〜東京で直行便はこの当時でもあった。しかし初めての海外旅行なのでハワイで一泊してやれと思った。
そこでロスアンジェルス〜東京のチケットをロス〜ハワイ〜東京に変更した。
 
今の格安チケットと違い、この当時は若干の交渉は必要であったが変更はきいた。
 ハワイが近ずき飛行機の窓から眺めるマリンブルーの海に浮かぶ、白い珊瑚礁と波に縁取られた美しい島のただずまいに心がおどった。
 
空から見る島は日本には無い原色の世界だ。外へ出ると、むっとするような熱気が身を包み、ああ、やはり南国だ、と思った。
 
 さっそく島を一周すべくレンターカーを借りる。黄色のエンジンばかでかスポーツカーだエンジンを掛けてバックに入れてアクセルをふむ。
 
 突然、車はすごい勢いでバックし、やしの木にぶつかった。あっという間の出来事で俺は腰が抜けた。本当にびっくりして立てなかったのだ。
 
 レンター力屋は俺をシートから助けあげてくれた。体が震えているが何でもない。
 
アクセルレスポンスの速いスポーツカーなど借りたのが大失敗。車は保険に入っていたので約百ドルの弁償で済んだが、ハワイー周の夢はシラケ、ホテルでゴロゴロしていた。
 
退屈なのでミヤゲ店へ行き、そして旅の記念にと、免税店でオメガの時計を買った。
 
目玉のようなシャレたデザインの時計でその頃の週刊誌によくPRされていた23万円のが400ドル(12万円)だ。
 
俺と女房のペアを買ったら、もらった報奨金と小遣いがきれいさっぱりと無くなった。
この自動巻の時計は30年経った今でも正確に時を刻んでいる。
 
憶れのハワイ航路はこれで終わりである。
一人旅に慣れた俺はもう人でゴチャゴチャのハワイヘ行くこともないだろう。
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