聖ガニメデ女学院

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1時間め:転校生
<聖ガニメデ女学院正面>
 中央が学院長室、職員室、一般教室などのある第壱棟。細い釣鐘塔が上空へ伸びている。
 左右に伸びる棟 (第壱棟左翼と右翼。一般教室がある) には1階に窓がなく、両端の円柱形の塔 (向かって右側が左翼の巽塔、左側が右翼の坤塔) に続く。

 ガニメデ (ガニュミード):ギリシア神話ではトロイの王子であった美少年で、大神ゼウスが黒鷲に化けて天界へさらい、自らの給仕係にした。木星 (ジュピター=ゼウス) の第7衛星 (木星最大の衛星) にその名が冠せられている。しかしこの話は、ギリシア神話や木星とは直接の関係はない。

 この話の舞台は某県山間に位置する聖ガニメデ女学院という全寮制の女子高である。名前からするとミッション系 (キリスト教系) の女子高のようだが、実際は切支丹 (キリシタン) 系の宗教法人が運営する学校である。

 西暦1549年にイエズス会のフランシスコ・ザビエルが鹿児島に来日して布教したカトリック教は、九州を中心に全国へ広がっていった。しかし江戸時代になって、カトリック教の教えが当時の封建社会の考え方に合わないことや、新教国のオランダがスペイン・ポルトガルの領土的野心を幕府に密告したことから、1612年を皮切りに江戸幕府から禁教令が出され、宣教師の国外追放や教徒の弾圧が始まった。

 1637年には天草四郎を中心に島原の乱が起こるが、その鎮圧後、教徒はかくれ切支丹として潜伏し、江戸時代の約250年間、ひそかに信仰を継承していった。しかし本来のキリスト教とは完全に隔離されていたため、この間に土着の信仰と融合して独特の宗教体系が作られていた。

 明治6年 (1873年) に切支丹禁制は撤去され、国外からキリスト教があらためて入ってきた。しかし某県の切支丹教会はあまりにも教えの内容が異なる欧米のキリスト教への改宗を拒んだ。

 明治30年にこの切支丹教会の教首、上屋敷五郎左衛門 (洗礼名ゐゑづす) は、ギリシア神話やローマ神話を取り入れた新しい神話・宗教体系の構築・整備を実行した。その中でガニメデは婦女子に徳を授ける聖人とされた。

 五郎左衛門の娘婿の上屋敷徳憲 (洗礼名やぬす) は信者のバックアップを得て多角経営に乗り出し、その一環として大正2年に聖ガニメデ女学院を設立した (設立時の校名は聖ぐわにめで高等女学校)。この特徴は全寮制であり、外界と完全に隔離して良妻賢母となるべく婦徳を涵養する高等女学校として、中産階級以上の令嬢を入学させた。宗教団体が運営する学校であるが、もちろん生徒とその親がすべて信者というわけではない (宗教の時間はあるが、基本的に信教は自由である)。

 しかし民主主義が啓蒙された第2次世界大戦後の昭和では、さすがに自分たちの娘を「外界から隔離」して文字どおりの箱入り娘にしようとする親は激減し、この女子高に入学する生徒は、良家の令嬢ではあるが、わけがあって親元から離されたような少女が大半となった。

<聖ガニメデ女学院第壱棟>
 上部にあるのは少女の横顔像と日月のモニュメントで、本学院のシンボル。釣鐘塔の尖端には日本の塔にある相輪に似た飾りがついている。

 校舎は近くの村から少々離れた山林の合間にある、洋風と和風の入り交じった独特の建物である。もともとは出入り口は正面玄関のみで、出入りは父兄を含めて厳重に管理されていたが、現在 (昭和40年) ではいくつかの非常口が設けられており、「完全に隔離」されているわけではない。

 この女学院の制服は深紅のセーラー服である。一見華やかであるが、その分人目につきやすく、生活指導に都合が良いという理由で選択されたものである。現在なら制服にあこがれて入学する生徒もいそうなものだが、学校自体があまり人目に触れないところにあるので、全国的な認知度はほとんどない。

 話は昭和40年4月に始まる。この女学院の正面玄関の前に、紺色と白の、他校の制服を身につけた少女が一人で立っていた。

 その少女は、肩までかかる栗色の髪をはらって聖ガニメデ女学院の第壱棟の校舎を見上げた。

 石造りの城塞のような堅牢そうな建物。特に東西に延びる棟は、窓があるのは2階以上で (3階は屋根裏部屋)、1階には窓も戸口もなかった。

 「昔は本当に女の子が閉じ込められていたのね。」と、その少女は思った。

 その少女を第壱棟の学院長室の窓から、深紅のセーラー服に身を包んだ2人の少女が見下ろしていた。

 「見て、真理!よその学校の制服を着た子がいるわ。」

 垂れ目ぎみで気の弱そうな少女、絵里が、窓の下を指さしながら勝ち気そうな少女に向かって声をかけた。

 真理と呼ばれた少女は、窓ふきの手を止めて指さされた方を見下ろした。

 「ほんとうだ。他校から公用で来たのかしら?…それとも転校生?…いずれにしても妙ね。」

 「何が妙なの?」

 「こんな山の中の、バスが日に2往復しか通わないところへ、公用にしろ転校にしろ、女子高生が一人で来るなんてあまり例がないわよ。…転校生だとしたら、そうとうわけありって感じね。」

 そう言った真理がこの女学院に入学したのにも事情があった。

<真理>
 本名:館岩茉莉子、17歳の高校2年生。しかし普段は「真理」で通している。

 真理の本名はもともと中村茉莉子だった。

 茉莉子の母親は東京で芸者をしていた。茉莉子は父の顔も名前も知らずに育ったが、しらふの時でも酔っぱらっている時でも美しい母親は茉莉子のひそかな自慢だった。

 茉莉子が母親の職業にあこがれたのも自然の成りゆきだったが、小学生の茉莉子が母親の三味線に手を伸ばした時、その手を母親がはたいた。

 「池田の総理大臣が所得倍増計画ってもんを打ち出してんだ。これからはどんどん世の中が変わるよ。お前はもっと違った人生を選びな!」

 そう言っていた母親は、茉莉子が中学生の時に30代の若さで突然血を吐いて、あっけなく死んでいった。

 途方にくれる茉莉子。ところが突然高級車での迎えがやって来た。

 茉莉子が案内されたのは、臨終の床にある、顔に深いしわがいっぱい刻まれた老人の枕元だった。

 老人は茉莉子の手をとると、静かに目を閉じた。

 その日から茉莉子の名字は館岩になった。しかし老人〜父親〜は死に、後に残ったのは父親の正妻の老婆や腹違いの兄弟 (既に中年) の冷たい視線だった。

 中学校を卒業すると、茉莉子はすぐにこの学校へ押し込められた。その時から茉莉子は自分の名を「真理」と記すようになったが、似たような境遇の少女の多いこの学校で、もともと母親に似て勝ち気な性格の真理は、水を得た魚のように生き生きと学生生活をおくり始めた。

 真理たちが窓の下を見つめていると、学院長室に明石清子教諭が入ってきた。やせぎすの初老の女性で性格はきつく、生徒たちからはひそかに「明清<ミンチン>女史」と呼ばれていた。もちろん「小公女」が出典である。

 「あなたたち、学院長室の掃除は終わったの!?」

 「は、はい。…一応終わりましたけど。」

 「ミ…、いえ、先生、誰か来てるようですけど。」

 ミンチン女史も窓に寄ってきて下を見下ろした。

 「あら、本当だわ、転校生の小津さんね。」

 そう言ってミンチン女史は足早に学院長室を出ていった。

 残った真理と絵里は顔を見合わせた。「やっぱり転校生なんだわ!」

<昭和ミニコラム>
  • セーラー服:幅広で背中側が四角いえりの下に三角ネクタイを巻き、開いた胸元に胸当てをつけた丈が短い衣装。その独特のスタイルは安政4(1857) 年にイギリス海軍が制定した水兵服に直接のルーツがあり、各国の海軍にも採用された。日本では明治5(1872) 年の海軍服制によって水火夫の常服として定められた。19世紀頃からイギリスで男女の子供服のデザインに取り入れられ、男児は半ズボン、女児はスカートとの組合せで着られた。日本では、大正10 (1921) 年に福岡女学院でエリザベス・リー校長が女学生の制服に採用して以来、都市部の高等女学校を中心に広まり、女学生の制服として認知されていった。そして太平洋戦争後も新制中学校の多くで制服として採用され、女子生徒の制服の代名詞となった。

  • 所得倍増計画:昭和35 (1960) 年7月に池田勇人内閣が成立し、同年10月に所得倍増計画と経済成長率9%などの施政方針を表明した。そして日本の高度経済成長が始まった。ただしこの話の舞台である昭和40 (1965) 年の日本は前々年の金融引き締めなどにより一時的に不況に陥っていた。

  • 小公女:イギリスの女流作家フランシス・ホジスン・バーネットが明治20 (1887) 年に雑誌「セント・ニコラス」に連載した小説「Sara Crewe or What Happened at Miss Minchin's」が原形で、明治38 (1905) 年に大幅加筆して「A Little Princess」として出版された少女小説。日本では明治26 (1893) 年に若松賤子訳で「セイラ・クルーの話」というタイトルで雑誌「少年園」に連載されたが、訳者が死去して中断。その後、明治43 (1910) 年に藤井白雲子訳で「小公女」というタイトルで出版。内容は、インド生まれのセーラがロンドンのミンチン女史の経営する寄宿舎付学校で教育を受けるが、父の死の報を聞き、不遇な境遇に落ちるものの誇りを失わず生きていくというもの。

 

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