上方落語の起源
江戸時代中期に、京都の初代露の五郎兵衛や大阪の初代米沢彦八が道端に舞台を設け、自作の噺を披露して銭を稼いだ「辻咄」(つじばなし)や「軽口」(かるくち)が落語の起源といわれています。
寛政から文化にかけては浄瑠璃作家から転じた芝屋芝艘や、京都から大阪へ下って御霊などの社地で噺を演じた松田彌助が台頭しました。
彌助一門には松田彌七、2代目松田彌助や「桂一門の祖」初代桂文治がおり、とりわけ初代文治は大阪で初めて寄席を開き、また声色鳴物道具入りの芝居話を創始したことで知られています。
文治は3代目、4代目と東西に並立するが、上方4代目の弟子である桂文枝は文治を継がず、以来上方桂一門は文枝を止め名としました。
初代文枝は「三十石」などで人気を博し、その門下の初代桂文之助(のち2代目曽呂利新左衛門)、2代目桂文都(のち月亭文都)、初代桂文三(のち2代目桂文枝、晩年桂文左衛門)、初代桂文團治も人気・実力ともに高く、「四天王」と称されました。
平成の落語
一気に現代にまで話を戻しましょう。
平成に入っても、落語、漫才などいわゆる「お笑い(芸)」に対する世間の関心は下がらなかったが、「MANZAIブーム」以降、お笑いの主舞台は寄席から放送メディアに移りました。
その反面演芸番組は減少し、有力落語家のバラエティ番組への起用が相次いだのです。
この結果、落語家は「お笑い芸人」という抽象的名称の下に漫才師・漫談家・コント芸人と観客・視聴者レベルでボーダーレスとなり、落語の独自性を示す機会は狭まっていったといえるでしょう。
放送タレントとしてのお笑い芸人(を希望する人材は多いものの、具体的に落語の世界に入る者は、昭和40年代に比べると少なくなっているという暗い現状もあったりします。