フェルドナード騒乱記 番外編
金光の糸
written by 夢寐
フェルドナード王国の第二王子リディストルはいつものように、父王の私室へと向かっていた。母である寵妃マディナの考えで、彼はほぼ毎日父を訪ねることになっている。王、フォーディーはめったなことでは子供に会いに来たりはしない。まだ幼いリディストルはそれを不思議に思うこともなく、ただこうして毎日のように父の機嫌を伺いに行く。
父の私室の前には、すっかり顔なじみとなっている衛兵がいた。彼が父の在不在を問うと、煌びやかな服装の兵士はすぐに戻られると思いますという言葉と共に彼を部屋へと入れてくれた。
普段なら父の存在に圧迫されて狭くさえ感じる部屋は、ひどく空虚な雰囲気で彼を迎え入れた。
リディストルはいつもの椅子に腰を掛けてみたが、普段と違う空気のせいか落ち着かない思いに駆られて立ち上がった。
きょろきょろとあたりを見回す彼の目に留まったのは、奥へと繋がる扉。一度も入ったことのない部屋がその向こうにあるはずである。
彼はしばし逡巡していたが、やがて静かにその扉に手を掛けた。
思いのほか滑らかに扉は開いた。
扉の隙間から中を覗き、誰もいないことを確認して恐る恐る歩を進める。
豪奢な、しかし落ち着いた色合いの調度が、春の陽光に照らされている。しかし、充分に明るいにもかかわらず、そこはなぜかとても寂しげな表情を湛えている部屋だった。
耳を澄まし、物音が聞こえないのを確認してリディストルは部屋の奥へと進んだ。
美しい幾何学模様の寄木細工で飾られた壁の中央に、彼の視線は向けられた。窓があるわけでもないはずなのに、小さな布が吊られている。
リディストルは精一杯背伸びをすると、その布の端をつまみ、そっと持ち上げた。
そこには、一枚の絵が掛けられていた。
少年の口から感嘆の溜息が漏れる。
描かれていたのは、ひとりの見覚えのない女性だった。
まず目に留まったのは綺麗な金色の髪。リディストルは思わず自らの黒髪に手をやった。艶々として、緩やかに波打つ黒髪は母と同じで、それはそれで気に入っているものだが、父や兄の金髪は彼の憧れなのである。
絵の中の彼女は澄んだ青い瞳をまっすぐ前に向けている。整った顔立ちは気品に満ちているが、冷たい印象はない。春の日差しに照らされるに相応しい穏やかな面立ちである。
絵の中の彼女は、我が子を抱くかのように優しい手つきで細かい装飾が彫りこまれた竪琴を手にしている。
リディストルはまじまじとその絵を見るうちに、額の縁に刻まれている文字に気づいた。
「えっと、わが……す、る……?」
読み書きは習っているが、複雑な飾り文字でかかれているため、彼には読み取ることができない。 せめて彼女の名を知りたいと思ったが、名前らしきところは一際壮麗な飾り文字であったため、彼はそれを諦めた。
リディストルはしばしの間、飽くこともなく絵に見とれていた。しかし、足音らしきものが聞こえたため、布から手を離すと彼は急いで部屋を出た。
「母上、ただいまもどりました」
彼の母であるマディナはいつもと同じように、自室で寛いでいた。艶やかな黒髪を高く結い、やや暗い色合いの青い瞳を微かな憂鬱に染めている。
日差しを避けるために吊り下げられた紗の布に焚きこめられている香が、リディストルの訪れと共に動いた部屋の空気に散り、辺りを香らせる。
「遅かったわね。何かあったのかしら?」
寝椅子に、もう六歳にもなろうという子供がいるとは見えない見事な肢体を預け、侍女に持たせた果実水の杯に手を伸ばしながらマディナは尋ねた。
「父上がいらっしゃらなかったのです」
答えてリディストルは母の傍へと歩を進めた。侍女の手を借りて寝椅子の端に腰を掛ける。
「ねえ母上。とてもきれいなひとの絵をみました」
杯を静かに傾けていたマディナの手が止まる。彼女はそのまま杯を侍女に手渡すと、上体を少し起こして我が子を見た。
「兄上みたいにきれいな金のかみをしていて、たてごとをもったかたです。リディストルもたてごとをひいてみたく思います」
心の内に、先ほど絵を見たときの思いが蘇る。兄や父に似た、憧れの金の髪を持つ女性。そして彼女の白い手に愛しげに抱かれた美しい竪琴。自分の黒髪が金髪になることはなくても、あんなに綺麗な楽器を持ち、自在に奏でることができたらいい。そう思ったリディストルはまっすぐに母を見詰めた。
しかし、返ってきたのは、彼の予想や希望とは全く反対の意思を持つ眼差しだった。日頃見ることのない、硬い視線。
「楽師にでもなるつもりですか」
母の冷たい声音に、少年は思わず身を竦ませた。
「でも、母上」
「王子としての自覚をもう少しお持ちなさい」
反論すら許さず、マディナは鋭い口調でそう続ける。
たしなみとして習わされている横笛は良くて竪琴が駄目なのはなぜなのか、貴族のうちにも竪琴を弾くものはいるのに王子だとなぜいけないのかなどという疑問が胸のうちに渦巻いている。しかしいつになく厳しい母の様子に気圧され、リディストルは小さく頷いた。
「わかりました、母上」
どことなく不満げな表情ではあるが、従順な態度をとる息子を見、マディナは再び寝椅子に上半身を預けた。
リディストルは沈んだ足取りで自室へと戻った。
母好みの華やかな色彩に包まれた、普通のものよりも一回り小さく設えられた調度が待つ部屋に入ると、そこには一人の老女が待っていた。彼付きの侍女頭、セーテである。
「どうなされました? リディストル様」
穏やかな声でそう尋ねられ、少年はいつものように彼女の隣に座り込み、そっと寄りかかった。
「母上に叱られました」
セーテは俯く彼の柔らかい黒髪を優しげな手つきで静かに撫でた。
心優しい彼の、使用人である彼女にまで丁寧な言葉使いを崩さないその物静かな態度が気に入らないらしく、実の母であるマディナは度々彼を叱る。その都度彼はこうして彼女に甘えにくるのである。子のいない彼女にはそんな彼が愛しくてたまらない。
「父上のおへやで、一枚の絵を見たのです」
ぽつり、と呟くような声でリディストルは今日の顛末をセーテに語った。
「だから、たてごとをひいてみたいと母上におねがいしたのですが」
いつになく厳しく叱られたのだと続け、彼は表情を曇らせた。
「おかわいそうに」
しんみりとした調子で言い、彼女はリディストルを抱き寄せた。今にも泣き出しそうな顔で、少年が彼女に抱きつく。
「リディストル様、セーテが竪琴をお持ちしましょう」
しばしの後、思い切ったような表情でセーテは彼女の主に言った。マディナは我が子に執着こそしているが、頻繁に様子を見に来るようなことはない。病でもない限りは呼びつけるばかりである。
「しかし母上が……」
少年の顔は今にも泣き出しそうで、セーテは胸に軽い痛みを覚えた。
「この部屋の中で、ふたりきりのときならば大丈夫でしょう。何かありましたら私も一緒に叱られてさしあげますよ」
ためらうリディストルに、にっこりと笑ってみせる。
「本当ですか?」
母によく似た彼の顔に華やかな笑みが浮かぶ。それが嬉しくて、セーテは彼を抱く腕に少し力を込めた。
「ええ。そう上手というわけではないですが、私がお教えしますから、一緒に練習しましょうね」
リディストルは幾度も頷き、嬉しそうな笑声をあげた。
彼女が彼の元へ竪琴を持ってきたのは翌日のことだった。
「いずれはきちんとリディストル様に合わせた大きさのものを手に入れてきますから、それまではこれで我慢してくださいね」
リディストルは慎重な手つきで、幾度もその糸を弾いてみた。描かれていたもののように華やかな装飾のついたものではなかったが、よく手入れされたそれが奏でる澄んだ音は絵を見て彼が予想していたとおりである。
彼はいささか大きすぎるそれを抱えたまま幾度もセーテに礼を言い、彼女は嬉しそうに彼の頭を撫でた。
翌日の昼下がり、セーテがマディナに呼び出されたため、リディストルはひとり竪琴を爪弾いていた。
手を休め、竪琴を脇に置いたその時、彼の耳に聞き慣れた音が飛び込んできた。彼の兄、アルディーンが友人のカイザードを相手に剣の稽古をしている音である。
兄ならば、あの絵に描かれていた人物を知っているのではないだろうか。そう考えた彼は、兄に会いに行こうと立ち上がったが、はたとその動きが止まる。竪琴をここに置いてはいけない。いない間に母や、母の侍女たちの誰かが来ては困る。
しばし悩んだ末、彼は自分の小さなマントにそれを包んで部屋を出た。
母の居室とは違う方角にある柱廊に出ると、奥庭はすぐそこである。
木剣のぶつかりあう音が近くなってくる。リディストルは林立する白い柱の影からそっとそちらを窺った。
春のうららかな日差しに、兄の金色の髪が煌いている。
彼は柱の後ろから兄を見ながら彼らの稽古が終わるのを待った。彼はたまにこうして稽古のさまを見に来るが、いつもどれだけ見ていても飽きることがない。
カイザードが何事かを告げ、アルディーンがひどく残念そうな表情を浮かべる。その表情で、今日の稽古は終わりらしいと知ってリディストルは奥庭へと降りた。
「リディストル」
目ざとくそれに気づいた兄に声をかけられ、リディストルは小走りに彼の方へと駆け寄った。
「兄上」
「どうした?」
汗に濡れた金髪をかきあげながらそう尋ねる兄に、彼はマントに包んでいた竪琴を出して見せた。
「とてもきれいな人の絵を見たのです。それで、どうしてもひいてみたくなって」
二人は顔を見合わせ、表情を曇らせたが、リディストルはそれには気づかなかった。
「母上には、楽師にでもなるつもりかと怒られたので、セーテにたのんだんです。だからないしょにしてくださいね」
言い終えて二人の顔を見、リディストルはようやく彼らの表情がひどく深刻なものであることに気が付いた。やはり王子である自分が竪琴を弾くのはまずかったのだろうかと考えた彼の表情が曇る。
「その絵はどこでごらんになったのですか?」
カイザードに問われ、リディストルは兄の表情を窺ったが、彼は無言で立ちすくんだままである。
「父上のおへやです」
どうやら問題なのは竪琴よりも絵だったらしいとはじめて気づく。見てはいけないものだから隠されていたのだとようやく思い至った彼は慌てて付け加えた。
「ないしょにしていただけますか?」
「ああ」
まだどこか呆然としたような表情ではあるが、兄が答えてくれたことに安心し、少年は小さな笑みを浮かべた。
「兄上はあのかたがどなたかごぞんじなのでしょうか」
綺麗な金の髪も青い目も、兄上にそっくりでしたと付け加える。聞いてはいけないことだろうとは思いつつも、リディストルは尋ねずにはいられなかった。
「なまえがよめなくて。たぶん、ナというもじではじまって……」
「リディストル様、その絵のことは誰にもおっしゃらない方がよろしいかと思います。マディナ様に叱られたくはないでしょう?」
カイザードが穏やかな声音で彼の言を遮る。その名を聞かなくても、宮廷に出入りする者はみな、リディストルほど幼い者でなければ彼女のことを知っている。今は亡き正妃、ナジェスィ。比類なき竪琴の名手であり、アルディーンの母であり、国王の最愛の妻であった彼女の名は、五年以上が経つ今でもまだその死の衝撃から立ち直れない国王のため、宮廷内で口に出されることはない。
日頃穏やかな彼の緊張した面持ちに、リディストルは再び表情を強張らせて小さく頷いた。
優しい春の日差しとは裏腹の、緊迫した空気が奥庭に張り詰める。
「リディストル様!」
緊張した空気を破ったのはセーテの声だった。
「お部屋から持ち出されませんようあれほどお願い申し上げましたのに」
彼女はリディストルが抱える竪琴を見、溜息をついた。
「ごめんなさい」
謝る彼の手から、眩い太陽の光を受けて輝く竪琴を受け取り、彼女はそれを慎重に布で包んだ。
「マディナ様がお呼びです」
「では兄上、失礼します」
竪琴の代わりに差し出された彼女の手を取り、そう言って二人に背を向けたリディストルの背を、兄の声が叩いた。
「リディストル」
柔らかい黒髪に包まれた頭を兄の方へと向ける。セーテもまたいささか不安そうな表情を浮かべて振り返った。
「上手く弾けるようになったら、私にも聞かせてくれ」
優しい声音と、穏やかな表情に、何を言われるのかと不安に強張っていたリディストルの顔が、安堵の笑みを浮かべる。
セーテは黙ったまま一礼し、再び彼らに背を向けた。
「セーテ、あの絵にかかれていたのは……」
尋ねようとしてリディストルは、母の部屋へと向かっていることを思い出し、口を閉ざした。
「リディストル様、いつかはおわかりになられる日が来ます」
ですから、それまでは。そう続けて老女はリディストルの手を握る手に力を込めた。
陽光も、彼女の手も、いつもと同じようにとても温かい。
無言のままでリディストルは小さく、しかししっかりと頷いた。
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| 本編情報 |
| 作品名 |
フェルドナード騒乱記
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| 作者名 |
夢寐
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| 掲載サイト |
The East Outskirts of a Bazaar
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| 注意事項 |
年齢制限なし
/
性別制限なし
/
表現制限なし
/
完結済
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| 紹介 |
王太子アルディーンと宰相の息子カイザードは、王の悪政によって緩やかに崩壊へと向かっているフェルドナード王国を、救うことができるのか。
錯綜する人々の思いがフェルドナード王国に戦を呼ぶ。
はたして二人の願いは、王国の行く末は……。
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