『江田島第一報』から『錨のしずく』まで
−75期の軌跡−

 品 田   毅(75期)

1.はしがき
75期は、昭和19年度海軍生徒採用として、昭和18年の正月年があけるとまもなく召募された。今回記念誌に75期の軌跡をたどり記録することになったので、全般について十分に知るところではないことを承知の上で、筆者の独断ではあるがその軌跡を残したいと思う。

2.召募の発端から入学まで
 昭和18年の正月は1月2日のニューギニアのブナにおいて日本軍全滅のニュースで幕開けとなった。続いて2月1日、日本軍ガダルカナル撤退、陸軍省は「撃ちてし止まむ」のポスターを配布、英米語の雑誌名禁止、一方1月21日、中学校の修業年限を4ケ年に短縮、大学予科、旧制高等学校の修業年限は2年とされ、戦時態勢が一層強化された時である。そして4月18日、連合艦隊司令長官山本五十六海軍大将がソロモン群島上空で戦死、6月5日国葬が挙行された。またアツツ島の日本軍全滅。とあわただしくきびしい戦況が知らされた時であった。
筆者は、中学4年を終る2月に旧制高校受験をひかえ、猛勉強中であった。そこへ学校で武山海兵団で体験入隊の行事があると告げられ、海にあこがれていたので早速応募した。1週間、すっかり塩気をふきかけられ、旧制高校の入試には落第したのを機に兵学校受験を決意した。山本長官は筆者の郷里小千谷にほど近い長岡出身、長官の仇を討たなければという闘志が湧いた。多くの75期もこうした決戦場への思いを込めて奮い立った。
 願書提出は、昭和18年5月31日〆切。パンツ1枚の写真を貼って出願したのを思い出す。6月25日から7月5日まで身体検査、これに合格しなければ試験も受けられなくなる。やっとの思いで通過し、7月31日から8月3日まで学術試験、7月31日 数学第1回、8月1日 数学第2回、英語理科物象第1回、8月2日 理科物象第2回、国語漢文、8月3日 歴史、作文の順でおこなわれた。海軍生徒志願者心得に「試験ノ成凍著シク不良ナルトキハ爾後ノ受験ヲ停止ス」とあったごとく、毎日午前受験をして夕方発表を見にいき、朱線で消されなければ、次の日受験するという身の細る思をして、最後までいけば翌日は口頭試問、これでやっと解放。採点の結果と身許検査を勘案されて11月3日「カイヘイゴウカクイインテウ」の電報を受け取る。数日後、江田島への第一歩を印することができた。しかし、入校式の前にさらに身体検査、体力測定があって、これで不合格となった者も若干いたという。残念ながら合格できなかった者のうちには、現在、準75期としてクラスの行事に参加している人もいるという。クラスのキズナは今にも及ぶ。
12月1日、入校式、井上成美校長の「海軍兵学校生徒ヲ命ズ」をうけて「今般海軍兵学校生徒二採用相成候二付テハ自今誠意ヲ以ッテ海軍ノ規律二服従シ、将来海軍兵科将校トシテ其ノ本分ヲ堅守スルコトヲ誓フ」との宣誓書、誓約書を提出、晴れの三号生徒となったのであった。入校生徒数は公表されなかったが、約3,500と伝え聞いた。
3.江田島第一報
 19年1月、朝日新聞社が、75期の入学者のうち100人余の文を「江田島第一報」として世に送った。75期が入校直前の約1週間、兵学校周辺の民家(クラブと呼んでいた)で準備教育のため生活した中で、井上校長より「入校二際シ家郷へ送ル文」を書くよう宿題が出された。この中から選んだ(誰がどうして選んだものか詳細は不明であるが分隊監事が提出したものを新聞社で選んだといわれている)約100余の父母へあてた決意文集である。それぞれ誠意をつくし真情を込めて書かれており、銃後の国民の志気を高めた。終戦後入手し時々読みかえすが、祖国と両親への思いの綴られた珠玉の文に心うたれるものを感じる。
4.入学者の出身校など
 戦後75期会を結成するにあたって一人一人を掘りおこし、名簿を整理した際、出身中等学校を調査し、まとめた出身中学校名簿がある。これによると出身校は国内各都道府県のみならず、朝鮮10校39名(中でも京城中学は15名) 満州6校16名関東州5校23名 樺太3校5名 北支那1名(天津日本人中学)を含め585校3,296名となっている。これらの中で、多数の期友を出しているところを拾って見よう。
 
 まず、都道府県別の校数と人数は別表1のとおりになっている。ただこの数字は期友全部が判明しているわけではないので、若干の誤差を生んでいることをご承知いただきたい。


 この表で注目すべきは東京都の人数(校数)である。46都道府県からぬきん出ている。人口集中地区であるから当然のようではあるが、例えば10年ほど前の昭和9年と比べると著しく多い。戦局の悪化と共に奮起した結果と見てよいであろう。
 中学校別では、都立四中47名がもっとも多く、以下湘南中44名、都立六中39名、都立一中38名、麻布中36名、横須賀中、呉一中各32名、横浜一中、小倉中各31名、済々贅28名、神戸一中27名、仙台一中、岡山一中、鹿児島一中各26名、北野中、広島一中、都城中各24名、都立八中、熊本中、鹿児島二中各23名まででベスト20になる。1枚で20名をこえるのはあと5校ある。また逆にたった1名の合格校は142枚あり割合は24.2%を占める。これも時局の然らしめる結果と云えよう。
 ここで一寸話題をかえて志願者心得に目をうつすと「志願者ノ資格(一)年齢 大正13年12月2日〔海軍経理学校は大正11年12月2日〕ヨリ昭和3年12月1日マデニ出生ノ者」として一応年齢の制限はあるが「(二)学歴 制限ナシ」となっていたのをご記憶になっているであろうか。学歴に制限はなくて「(三)学力 中学校第四学年第一学期修了程度ヲ標準トス」となっていた。このことは3学年分の男子、およそ200万人のうちから選出するということであり、いわゆる人口の5%程度が指導者層を形成するという社会学者の説にしたがえば10万人が対象となるが、そのうちの3,500人を採用するということになる。なぜこの数字にするか海軍当局もよく考えたのであろう。戦後に人材を残すためと考えていたという詰もあるが…。

 この「学歴制限ナシ」に該当する人が75期に存在することを最近になって知った。海軍工廠で働いていて、発起し兵学校を受験したのであるが、中学校に在学したのは数日で、ほとんど通学したことがなかった由、それで合格し75期となっている。まさに制限なしのよい例である。この条項に当てはまる人がいたということを75期の一員として、筆者は誇りに思う次第である。本人の氏名は省略するが、戦後は東京高師の2年に編入し、戦後を理数科の教職に従事した。
 本報告では、原則として氏名を出さないつもりであるので、ご了承を。ただ、すでに故人となっている場合と本人が著書を出版するなど著名な場合は氏名を記すこともあるということをお断りしておく。さて、これから入校するわけであるが、入校中のことについては、今更軌跡をたどる必要はないであろう。
5.戦後の75期

別表2 75期の職業別分数(昭和44年度名簿による)

 将校生徒とは将来部下を統率し、率先して大任に当たることを任務としている。その75期が時間的には不十分であったとはいえ、最後の一号として終戦と共に卒業資格を得て社会に出ることになった。そして、社会の各分野においてすばらしい活躍をすることになる。前頁に昭和44年虔の職業別名簿から統計を作ったものを示す。(別表2)
 なぜ昭和44年にしたのかというと、丁度75期が中堅社会人として大活躍をしている、いわば油ののり切った時期を選んだわけである。
 終戦後ただちに父母のもとへ帰されたが、いわゆる外地の者は帰るところもなく苦労した由で期友のところで世話になったりしたとの事だ。また、帰るなり父の仕事の手伝いで農業を継ぎ、土地の有力者になっていったり、種々の道を歩く。統計を見ながら75期の軌跡を筆者なりに追及してみたい。
 人数として最も多いのは、教職である。この項はいろいろな形で教職としてつとめているものが入っている。例えば医師であっても大学等に勤務すれば教職に入れてある。細かく分類していないが、大学教授および高校教師が多い。いわゆる公職追放に抵触しなかった最高学年であり、戦後さまざまな追放をうけ人材不足のところへ進出した結果であろう。
 筆者は、東京都立高校に勤務していたので特に記すが、75期は小学校、中学校、高等学校あわせて30名ほどを数える。数としては必ずしも多くない。東京という広い職域のある場のためであろうが、すこし目を広げてみると当時の都立高校の教員には、海軍・陸軍士官から帰った人が極めて多かった。兵学校関係だけでも75期〜78期をあわせると、どこの学校にも一人はいるような勢であった。昭和50年代に都立高校の校長・教頭および教育委員会関係者で会を作り、陸軍にも呼びかけたところ、合計100名を越す勢いで都立普通科高校の約半数が関係しているほどであった。当時、海陸軍が多くの人材を集めていた結果が出ていた。
 さて、次に多いのは国家公務員、公社、公団関係である。賀陽宮治憲王は戦後外交畑で活躍された。また、ご承知の如く三好達が最高裁長官となったのを筆頭として各省庁の部課長、公社、公団の責任者などで活躍した者が多い。特に海外で『緑の革命』に活躍した高瀬国雄は良く知られるところである。

 医師は地域の大切な医療の担当者であり、人数も多いが、なかでも研究の方に進まれた人は国際的な知名人も多い。特に最近物故された小坂二度見は岡山大学の麻酔科を充実、拡大させたのみならず、最後は学長室にZ旗をかかげ、その旗の意義を教職員に語りかけ奮闘し、その話を江田島の幹部候補生学校、第一術科学校生に病の身をおして講演に行き、まもなく他界した話はどうしても記さねばならないと思い、特記する次第である。
 次に商社、貿易、商店関係であるが、物資に乏しく、広く海外との交流で生きていかねばならない日本にとって、これこそ今後行くべき道と定め商社関係に進んだ人も多かった。なかでも日本の代表的企業三菱関係には多くの期友が集い大きな活躍をしたと聞いている。例えば三菱レーヨンで出したタバコのフィルターを三菱商事に勤務していた期友と組んで東南アジアにおおいに売りまくった話などまことに痛快である。水産関係では、戦後の水産講習所の学生として応募した者が多く、食料不足の折、北に南に大活躍だった。
 北洋で九死に一生を得たという詰もよく聞く。その他の各種職業にもほぼ同数百数十名准ずつ分散しているのも興味深い。
 ただ政治家、とくに国会議員は1名しかいない。それも野党議員だけというもの75期らしいと思う。
 地方政界には地域の選良、市町村長など多い。山形県の農協職員をつとめたのち、町長となった館林茂樹は、最上川の川風を生かして風力発電による町づくりをめざし実行したところ、全国の注目するところとなり日本の風力発電のさきがけとなった。風力発電推進市町村全国協議会会長として環境にやさしいエネルギーの推進に貢献した。
 ジャーナリスト関係では、小学館の林四郎は異色週刊誌を成功させ、朝日新聞の篠原宏は「海軍創設史」「陸軍創設史」の名著を残した。服飾デザイナーうらべまことも忘れられない。NHKでは名アナウンサーとして初見弘と共に名をあげた篠田英之介は「わが師父井上成美」「海の墓標」など詩人・作家として才筆をふるったが、惜しまれつつ早逝してしまった。
 ここでどうしてもふれておかねばならないのは、海上自衛隊との関係であろう。戦後、多数の期友が引揚船に乗船し、大きな仕事をしたのはご存知のことであるが、筆者は興味あるデータを見せてもらった。それは総理府海上保安庁海上警備隊第1期学生会名簿である。総計231人が参集していてうち173名が兵学校出身、このうち75期が最も多く32名となっていた。海上自衛隊の基礎となった組織でこの地位をしめていたのである。
 海上自衛隊で活躍の期友も44年名簿では157(5.0%)と多いが、なかでも吉田学は海上幕僚長をつとめ、現在水交会会長として成果をあげている。以上のように期友が各分野で大活躍し、戦後復興に大きく功績した事はご同慶のいたりである。
 さて、最後に表題にかかげた「錨のしずく」についてふれておかねばならない。この本は関西地区在住の諸兄が原稿を集め編集したもので25名の期友の軌跡が述べられ、貴重な資料となっている。戦後50年を過ぎ、すべてが歴史の果てに消えていきそうな時、こうした記録を残しておくのも大切な仕事であると思う。
6.おわりに
 75期の軌跡をあとづけるにあたって昭和30年代に苦労したクラス会結成と全国総会の軌跡を外すわけにはいかないが、すでにクラス会誌「古鷹」として発刊され、年1回出していたのにゆずりたい。ただし、情報化の時代期友の動向を早く知らせたいので、ここ2年は年2回発刊している。その中で「ごきげんよう宜候」と名づけ、期友1人1人のエッセイを書いてもらっているのが、なかなか面白い。今までの「古鷹」と共に読んでいただけることを期待して筆をおく。
 『海軍兵学校連合クラス会第7回全国大会記念誌(2004/6)より』