
本門寺参道
| 門前町。ソバ屋 くず餅などが多く商店街が元気。 |
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(1) 萬屋酒店 明治8年建築 萬屋・くず餅店の老舗 |
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(2) 大石塔 呑川にかゝる霊山橋の前に題目を刻んだ大石塔あり。文化8年(1811)建立。 |
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本門寺の旧塔頭の一つ、本門寺の役寺のひとつで“寺格”は高い(大坊理境院)正応4年(1291) 日朝の庵室として開かれたが寂れ、嘉吉年間(1441〜1444)に日鏡 元禄元年(1688)ころ本門寺二十二世日玄が鎌倉比企谷にあった宝筐堂壇林を再興。 当寺に移し、南谷壇林として僧侶教育の学校とした。 その頃は霊山橋の辺りに山門があり、入ると南側に学寮が並んでいた。 |
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ア 此経難持坂(しきょうなんじざか) 慶長年間 加藤清正寄進の96段の石段。朝鮮出兵で王子・王女を連れ帰り育てた。王子は小湊誕生寺 住職となる白金は覚林寺創建。 |
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元和8年(1622)。三代藩主利常の生母。 |
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死後十六世日樹が命日追刻。正応院寛永3年(1626)。 この数年後 子の加藤忠広は改易されている。 |
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慶長12年(1607)秀忠の乳母正心院が秀忠病気平癒の御礼として建てた関東の現存最古最大の五重塔。 |
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本阿弥光悦の筆だが、これはレプリカ。本物は宝蔵にある。 |
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正保4年(1647)紀州 徳川頼宣の正室 遥林院(清正の子)が寄進。 キ 墓地にあるその他の墓 細川・水戸の徳川。鳥取 池田。山形 松平。上杉。伊予西条 松平家 等諸大名、 特に夫人の墓。 幸田露伴一族。力道山。片岡仁左衛門。中村八大。星 亨一族等々の墓がある。 |
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天海の一切経を収めている。 |
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コ 多宝塔 日蓮 荼毘の所、かって灰堂があったが、文政11年(1828)日蓮550年遠忌に建立。 願主 犬山城主 成瀬氏。 |
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宝塔のうしろへまわって階段をあがると紀州徳川家の墓地になっている。七つほど大きな墓があるが、紀州徳川の夫人達の宝篋印塔である。 養珠院は家康の側室お万の方の塔で、水戸頼房と紀州頼宣の生母。 右隣の松寿院は頼宣の娘 松姫、真空院は頼宣の子で紀伊二代藩主光貞の左の妙操院は十一代将軍家斉の側室で、紀州十一代の斉順の生母。 天真院は光貞の側室 伏見宮貞清親王の姫、安宮遥林院は頼宣の正室 加藤清正の娘 あま姫。父清正の影響をうけ法華経の信心厚かった。 霊岳院は光貞の三女 育姫、吉宗の姉 佐竹修理大夫 義秋の夫人。 伏見宮貞致親王の姫で貞宮(さきのみや) シ 本坊 日蓮入滅のところ。池上宗仲の屋敷で庭が美しい。 ス 池上家墓地
本能寺で亡くなった森 蘭丸の弟 忠政の一族の墓地。九代俊滋の時廃藩となり子爵を賜っている。
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370本(白梅150本、紅梅220本)拡張中。 本門寺西側の丘陵斜面を利用している。もと伊東深水邸があったが、戦災で焼失。そのあと築地の料亭経営者小倉氏が拡張して別邸とした。没後 大田区に寄贈。そのほか藤山愛一郎氏の茶室 聴雨庵が移築されている。 清月庵は江戸最後の棟梁 田尻善治氏の隠居所も移築されたもの。 梅園には30種の梅がある(梅は300種あるのでその1/10)。 緑蕚枝垂、白獅子、思いのまゝ、臘梅、呉眼枝垂、八重揚羽(今見頃?) (6)川端茅舎の旧居跡 川端龍子の異母弟 洋画家・俳人「玉芒ぎざぎざの露ながれけり」 |
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大田区文化財 三 宝 尊 像 (非公開) 寄木造、彩色、玉眼。 「南無妙法蓮華経」の題目の宝塔を中央に、その左側に多宝如来像(たほうにょらいぞう)、右側に釈迦(しゃか)如来座像(にょらいざぞう)を配置している。日蓮宗の本尊のまつり方のひとつで、一塔両尊(いっとうりょうそん)と呼ばれる方式のものである。 台座裏に記された銘文によると、天正三年(一五七五)、月村入道宗観(つきむらにゅうどうそうかん)の逆修(ぎゃくしゅう)供養(くよう)のため造像されたもので、月村家の菩提寺である当院六世日説(にっせつ)が開眼したことがわかる。近年まで同家の内仏として伝えられてきた。 昭和五十年三月十九日指定 大田区教育委員会 |
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大田区文化財 日 朗 聖 人 座 像 (非公開) 木造寄木造、彩色、玉眼、像高五○センチ。 当院の開山、本門寺二世日朗(一二四三〜一三二○)の像である。 近年、補修彩色が行われ、像底の下部が半分ほど塗りつぶされ、銘文が判読できなくなってしまったのは惜しい。 昭和五十年三月十九日指定 大田区教育委員会 |
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大田区文化財 前田利家室の層塔 この塔は、前田利家の側室、寿福院(じゅふくいん)が、元和八年(一六二二)に、自身の逆修供養のために建てた十一重の層塔である。このことは当寺十五世(復歴)日樹の銘文でわかる。 寿福院は、三代加賀藩主、利常の生母で、秀吉没後、徳川家との微妙な民従関係を解決するために、江戸に差し出され、人質となった。 なお天保四年(一八三三)の修復銘もある。 昭和四年二月二日指定 大田区教育委員会 |
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大田区文化財 加藤清正室の層塔 この塔は、江戸時代初期に造立された軒の美しい層塔である。現在では相輪(そうりん)も失われ、八層を残すのみとなっている。初層塔身の銘文によれば、寛永三年(一六二六)に、十一層の石塔として建てられた。 加藤清正(一五六二〜一六一一)の室(夫人)であり、清正の嫡男忠広(ただひろ)(一六○一から五三)の母である正応院が、生前に自分のために仏事をおさめ、死後の冥福(めいふく)を祈るという逆修供養(ぎゃくしゅくよう)のために建てたものである。本門に日樹(にちじゅ)が開眼(かいげん)している。 初層の塔身に追刻されている慶安三年(一六五○)の銘は、正応院の命日である。 昭和四十九年二月二日指定 大田区教育委員会 |
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この塔は本門寺山内最大の五輪石塔で、総高(そうこう)約四メートル、戦災による破損がいちじるしく、造立年記銘は見えないが、上から三段目の火輪(かりん)斜面に「日樹(花押)(かおう)」の書名が刻まれている。 したがって、本塔は、日樹が不受不施(ふじゅふせ)事件で信州に流される寛永(かんえい)七年(一六三○)より前の造立である。 しかも、地輪(ちりん)をはじめ、塔の全面に数百名の奉賀者の名を刻みつけてあることは、日樹とその信者層、ひいては江戸初期の池上本門寺外護者の実態と、不受不施史研究上、極めて有力な資料である。 昭和四十九年二月二日指定 大田区教育教育委員会 |
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大田区文化財 加藤清正の供養塔 山内最大級の宝篋印塔(ほうきょういんとう)であり塔身・笠・相輪(そうりん)が完備している。 この供養塔は加藤清正(一五六二〜一六一一)の息女で紀伊頼宣の室(しつ)(夫人)瑶林院(ようりんいん)(一六○一〜六六)が父清正の満三十八年目の忌日に当る慶安二年(一六四九)、その供養のために造立したものである。 清正は、安土桃山時代の武将として有名であるが、熱心な日蓮宗信者でもあった。加藤清正父娘の信仰心と孝養心が、うかがえる供養塔である。 昭和四十九年二月二日指定 大田区教育委員会 |
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大田区文化財 経 蔵 構造形式は木造、宝形造(ほうきょうづくり)、銅版葺、方五間輪蔵(りんぞう)形式である。 天明四年(一七八四)当寺三十三世日謙(一七一七〜九○)の時に再建された。 内部は、まわり灯籠のように、心柱を軸に八角形の書架がある。 昭和四十九年二月二日指定 大田区教育委員会 |
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大田区文化財 狩野孝信の墓塔 この宝篋印塔(ほうきょういんとう)の返花(かえりばなつき)基礎正面に、「慈父円大院孝信日養霊」と刻まれている。 本塔は、当代第一流の巨匠(きょしょう)、江戸鍛冶橋(かじばし)狩野家が構築したものと考えられる。 昭和四十九年二月二日指定 大田区教育委員会 |
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大田区文化財 紀伊徳川家墓所 この墓所は、養珠院(ようじゅいん)お万の方[承応(しょうおう)二年(一六五三)没]、および瑶林院[寛文(かんぶん)六年(一六六六)没]をはじめ、主として江戸藩邸で没した藩公の内室(令夫人)を埋葬したものである。 墓域の規模、構築の優美さなど、幕府直系大名の墓所としての威容を示している。 お万の方は、徳川家康の側室で、紀伊大納言、水戸中納言頼房(よりふさ)の生母である。その薫化(くんか)により日蓮宗に帰依した頼宣は、法華経を信奉することが篤(あつ)かった加藤清正の息女の瑶林院を妻として以来、池上本門寺との関係がより深いものとなった。 昭和五十年三月十九日指定 大田区教育委員会 |
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狩野は室町中期、正信によって始められ、明治時代に及ぶ日本絵画史上最大の流派である。画風はだいたい宋元画の影響を受けて成立し、中期には装飾画の風を帯びたが、のち、復した。 武家政権と結んで専門絵師の正統を誇り、探幽らの時期にこの風潮がとくに強かった。しかし、江戸中期以降は陳腐に流れ、芸術的生命は反狩野派によって保持された感が強い。探幽は慶長七年(一六○二)に生まれ、狩野派中興の祖といわれる。 慶長十九年(一六一四)に江戸に出て幕府に仕え、出家して探幽といい、宮内卿法印に叙せられた。狩野派を新時代の武家絵画に移行させ、狩野派繁栄の基を築いた。延宝二年(一六七二)十月七日、年七二で没した。代表作には、「琴棋書画屏風」「東照大権現縁起」、名古屋城、二条城の襖絵がある。 昭和四十三年十月一日 建設 東京都教育委員会 |
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明治二十七年五月二十四日、東京日本橋に生まる。同四十一年、湯島小学校高等科を卒業、喜多村緑郎に師事。 大正四年三月、本郷座初演「日本橋」のお千世が出世役。同六年二月の歌舞伎座「なさぬ仲」で幹部俳優に昇進。 十年に「新劇座」を起こして新派演目の刷新を計り「雨空」で国民文藝會賞を受く。 戦後、二十九年に日本藝術院賞受賞。外に「夢の女」「大つごもり」 |
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日蓮(一二二二〜一二八二)は鎌倉中期の僧で日蓮宗の開祖。安房国に生まれ、若くして天台宗を学ぶ。長じて鎌倉・比叡山・南都・高野山などで修業し、仏法の神髄が「法華経」にあるとし、きびしく他宗を排撃したため諸宗・為政者から圧迫を受けた。 晩年は甲斐身延山に隠棲し弟子や信者の指導にあたっていたが、弘安五年(一二八二)九月八日病の悪化とともに身延山を出発、十八日に武蔵国千束郷池上右衛門大夫宗仲の邸(現・本行寺境内)に到着し、十月十三日の朝、この場所で入滅した。 病中の日蓮が身延山を立ってここに移ったのは、その昔、法華経を説いた釈尊が霊鷲山から艮(東北方)にあたる工匠純陀の家で入滅した故事にならったものである。 昭和五十二年三月三十一日 建設 東京都教育委員会 |
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大田区文化財 総門と扁額 総門は、本門寺山内に現存する古い建築物のひとつである。広重の「江戸百景」などにも描かれ著明。 建造年代は、元禄年間(一六八八〜一七○三)といわれ、高さ六・四メートル、主柱間五・三九メートルあり、総欅(けやき)素木造(しらきづくり)で、簡素かつ壮大な構えをしている。 扁額の文字は、本阿弥光悦(一五五八〜一六三七)の書を彫刻したものである。 昭和四十九年二月二日指定 大田区教育委員会 |
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