

近藤勇・土方歳三の墓碑
| JR板橋駅の広場に向って碑のある区域がある。近藤勇は慶応4年(明治元年)流山(千葉県)で捕えられ、新政府の東山道総督府板橋本陣に送られ、4月25日平尾宿の一里塚のあたりの櫟林で斬首され、首は京都三条大橋でさらされ、胴以下はこの地に埋められたが、その夜のうちに何者かが一部を持ち去ったという。 (三鷹市の竜源寺に埋葬され、近藤勇の墓がある) 近藤勇宜昌・土方歳三義豊2名を列記した墓碑は明治8年(1875)新撰組隊士であった長倉新八(杉村義衛)によって建てられ、右側面には戦死した隊士39人、左側面は病死あるいは隊則違反で処刑の71人が記されている。 なおその長倉新八の墓もある。近藤勇は昌宜だが、宜昌となっているのに注目。 |
板橋駅前公園
| 豊川稲荷の小さな祠がある。元武田信玄の家臣池田内匠の屋敷跡といわれ、のち帰農した。 公園の端に4億年前の石灰岩の化石郡が置かれている。カナダ・オンタリオ州の石で板橋区との友好の印に贈られたもの。三葉虫や巻き貝らしきものが発見できる。 |
旧中山道と新中山道
平尾追分・川越街道
東光寺
| 丹船山、浄土宗。増上寺末寺。創建年代は不詳だが、室町時代と推察される。 宇喜多秀家の墓と供養塔がある。秀家は関ヶ原合戦で西軍の副将。敗戦後自首し、八丈島へ流された。明暦元年(1655)没。八丈島大賀郷に墓があるが、明治3年に一族が内地に帰還。遠縁の前田家に寄寓した。墓はその際に移したもの。境内に庚申塚あり。 |
観明寺
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真言宗、豊山派、如意山。江戸初期創建。 参道入口の庚申塔は寛文元年、都内最古。この寺は板橋宿が満員の時、臨時の宿となる。寺の中山道の向かい側に板橋宿の妓楼「高砂屋」(板橋3-2-8)があった。 |
北豊島郡役所跡(板橋3-4-9)
| 妓楼のあたり明治19年から大正15年まで郡役所があった。 |
平尾宿 脇本陣跡
| 豊田家(市右衛門・喜平次)109坪 紀州徳川家の休息所。近藤勇も斬首までここにいて、豊田家の娘「おとよ」になつかれたという。板橋3-5-13には妓楼「進藤楼」があり、30人以上の遊女がいて、昭和18年まで営業していた。 |
遍照寺
| 真言宗智山派成田山。もと天台宗で大田山といった。江戸初期創建。板橋宿の馬つなぎ場50頭用意した。遍照寺は明治4年廃寺。大日堂が残ったが、明治14年「旭不動堂」と呼び成田山新勝寺の新栄講道場が開かれたが、昭和22年真言宗の寺院として再興した。馬頭観音がある。となりに妓楼「伊勢孫楼」があった。 |
板橋区役所跡
| 明治30年青山家を買い取って役場としたところだが… |
板橋宿本陣跡
| 広さ97坪、門構の立派な屋敷だった。飯田新左衛門。中山道を通る大名30家の宿所。文久元年皇女和宮も宿泊。明治23年(1890)失火で焼失。現スーパーのあたり。 |
水村玄洞旧居(現石神医院)
| 高野長英がかくまわれた。 |
加賀一丁目・二丁目あたり
| 今まで通ってきた中山道の右側一帯は加賀藩の下屋敷21万8000坪があったところ。明治9年陸軍第二造兵廠がおかれ、そのあと戦後に野口研究所・国立極地研究所などのほか学校・病院・理研などになる。 |
文殊院
| 真言宗豊山派。江戸初期にはあったという。もとは中山道から参道があり、山門も中山道側にあったという。延命地蔵・閻魔堂・子の権現・本陣・飯田家の墓地・遊女の墓 |
板橋
| 石神井川にかかる。平安末にはかかっていた。昭和7年コンクリート。 現在のは昭和47年にかけた。旧 石神井川沿いに緑道。渡辺崋山別離の場所、日本橋2里25町33間の碑。 |
縁切榎
| 板橋を過ぎ、上り道になるあたり、宿の大木戸跡と言われるが、その先に縁切榎といわれる榎と祠がある。この木の下を婚礼の行列が通ると、必ず不縁になるとの言い伝えがある。そこで榎の皮を削り茶に混ぜて亭主に飲ませると離縁できるということまでになった。 |
新撰組隊士供養塔
| 北区滝野川七ー八ー一 所在 慶応四年(一八六八)四月、新撰組局長であった近藤(こんどう)勇(いさみ)昌宜(まさよし)は、平尾の一里塚で官軍により処刑され、その直後、胴体が、ここに埋葬されたと伝えられています。 墓地内の中央には三基の石塔があります。これは、局長近藤勇と副長土方歳三をはじめ殉死した新撰組隊士たちを供養する目的で建てられたものです。塔の中央には「近藤勇宜昌・土方歳三義豊之墓」と刻まれ、両側面には総計百十名の新撰組関係者の名前が彫られています。裏面には造立の発起人として、新撰組に所属していた「旧新撰組永倉新八改杉村義衛」とだけありますが、このほかに近藤勇の身内や新撰組と親交のあった医師松本良順の参加も知られています。高さ約三m八十八cm・幅約四十五cm・奥行約四十三cmで、造立年月日は彫られていませんが、明治九年(一八七六)に造立されたことがわかります。 墓域は昭和四年(一九二九)四月、滝野川町北谷端睦会を発起人として地元の人たちによる改修が完成し、現在のような配置となりました。それを記念して「近藤勇・土方歳三両雄墓地改修記念碑」が建てられ、これに先立つ同年二月、塔の造立者である永倉新八の墓碑が造立されました。 近藤勇の命日にあたる毎年四月二十五日には、近藤勇墓前供養祭がおこなわれ、地元を中心に多くの人々が参列しています。 平成七年三月 東京都北区教育委員会 |
むすびのけやき
| 中山道第一番目の宿場板橋宿は、平尾宿、中宿、上宿に分かれていました。 今、ここ旧平尾宿にある三本のけやきを、未来に向け、意欲を持ってまちをつくり、生活する人々の、幸せ・ふれあい・にぎわいを願いつどう人々のこころのむすびの象徴として、むすびのけやきと名付けました。 中山道開道四百年、板橋区制施行七十周年にあたり、碑を立て次世代への道しるべとします。 平成十四年十月 中山道未来意産ネットワーク 板 橋 区 |
東光寺
| 御本尊 阿弥陀如来(あみだにょらい) 宗派 浄土宗(じょうどしゅう) 丹船山薬王樹院(たんせんざんやくおうじゅいん) 創建年次は不明ですが、寺伝によると延徳三年(一四九一)に入寂した天誉てんよ和尚が開山したといわれています。当初は、船山ふなやま(現、板橋三ー四二)あたりにありましたが、延宝七年(一六七九)、加賀前田家下屋敷の板橋移転に伴って現在の場所に移りました。移転当時は、旧中山道に面した参道に沿って町家が並び賑やかであったようです。しかし明治初期の大火や関東大震災による火災、そして第二次世界大戦による火災と、たび重なる火災や区画整理のため現在では往時の姿をうかがうことはできません。なお山号の丹船山は、地名船山(ふなやま)に由来しています。 境内には、昭和五八年度、板橋区の有形文化財に指定された寛文二年(一六六二)の庚申塔と平成七年度、板橋区の有形文化財に登録された石造(せきぞう)地蔵菩薩(じぞうぼさつ)座像(ざぞう)、明治になって子孫が供養の為に建立した宇喜多(うきた)秀家(ひでいえ)の墓などがあります。 平成九年三月 板橋区教育委員会 |
観明寺と寛文の庚申塔
| 当寺は、真言宗豊山派の寺で、如意山観明寺と称します。御本尊は正観世音菩薩です。創建年代は暦応元年(一三三八)と伝えられていますが、不明です。『新編武蔵風土記稿』には、延宝五年(一六七七)十月に入寂した慶浄が中興開山とあります。江戸時代、板橋宿の寺として、多くの人々の信仰を集めました。 明治六年、当時の住職照秀和尚は、町の繁栄祈願のために、千葉の成田山新勝寺から不動尊の分身を勧請しました。現在も出世不動と呼ばれて親しまれています。なお、不動通りの名称は、このお不動様に由来します。 境内に鎮座する稲荷神社は、もと加賀藩下屋敷内に祀られていた三稲荷の内の一社で、明治になって陸軍造兵廠が建設された際、当寺へ遷座されました。 また参道入口にある庚申塔は、寛文元年(一六六一)八月に造立されたもので、青面金剛像が彫られたものとしては、都内最古です。昭和五八年度に板橋区の指定有形文化財になりました。 平成十二年六月 板橋区教育委員 |
遍 照 寺
| 江戸時代は大日山と号し、区内唯一の天台宗寺院であったが明治四年廃寺となった。 その後明治十四年不動堂と称して成田山新栄講の道場となり、昭和二十二年真言宗寺院として復活、現在は成田山新勝寺末寺となっている。 境内は宿場時代の馬つなぎ場で、幕府公用の伝馬に使う囲馬、公文書伝達用の立馬、普通継馬などがつながれていた。境内にまつられる寛政十年(一七九八)建立の馬頭観音と宿場馬を精巧に模倣した駅馬模型にそのなごりをとどめるのみである。 また、堂内には上宿に居住した町絵師柴左一の画いた明治期の板橋遊廓千代本楼遊女道中の扁額が納められている。 平成二年三月 板橋区教育委員会 |
高野長英ゆかりの地(旧水村玄洞宅)
| 幕府の対外政策を批判し、永牢の身となった蘭学者高野長英(一八〇四〜五〇)は、弘化元年六月晦日小伝馬町獄舎の火災による切り放しの時に脱獄、そして逃亡した。出牢後の一ヶ月は幕府の厳しい探索にも拘らず消息不明であったが、七月下旬の或る夜、彼の門人である医師水村玄洞宅を訪れた。 玄洞は身の危険を知りながら一両日長英を奥座敷にかくまい、七月晦日の深夜には北足立郡尾間木村に住む同門で実兄の医師高の隆仙宅へ人をして逃れさせた。 長英はその後郷里水沢に老母を尋ね、さらに江戸、近畿、四国、九州と逃亡生活を続け再び江戸に舞い戻ったが、嘉永三年十月三〇日青山町の隠れ家を幕吏に襲われて自殺した。 平成七年 月 板橋区教育委員会 |
文 殊 院
| 真言宗豊山派、幡場山大聖寺文殊院と号す。本尊は文殊菩薩。 江戸初期、本陣飯田家の菩提寺として、古くから信仰を集めていた延命地蔵尊の境内をひろげて建立された。開山は寛永二年(一六二五)に入寂の権大僧都慶恵と伝える。天保六年に全焼し、安政以降正住職を置かず、赴任する仮住職も短期間で他の大寺へ転住し、出世寺とも呼ばれた。 山門脇に延命地蔵堂、境内に二大閻魔を祀る魔堂、足腰の守り神として知られる子の権現がある。魔堂内には、文化年間に番場原出土と伝えられる石棒が朝日観音として祀られている。墓地には史跡として有名な宿場時代の遊女の墓がある。本堂内には、板橋七福神の毘沙門天が奉安されている。 飯田家墓地の飯田静の墓碑は昭和六十三年度に、また本尊文殊菩薩は平成元年度に板橋区の有形文化財に登録された。 平成十四年三月 板橋区教育委員会 |
板 橋
| この橋は板橋と称し、板橋という地名はこの板橋に由来するといわれています。板橋の名称は、すでに鎌倉から室町時代にかけて書かれた古書の中に見えますが、江戸時代になると宿場の名となり、明治22年に市政町村制が施行さ れると町名になりました。そして昭和7年に東京市が拡大して板橋区が誕生したときも板橋の名称が採用されました。 板橋宿は、南の滝野川村境から北の前野村境まで20町9間(約2.2km)の長さがあり、この橋から京よりを上宿と称し、江戸よりを中宿、平尾宿と称し、三宿を総称して板橋宿と呼びました。板橋宿の中心は本陣や問屋場、旅籠(はたご)が軒を並べる中宿でしたが、江戸時代の地誌「江戸(えど)名所(めいしょ)図会(ずえ)」の挿絵から、この橋周辺も非常に賑やかだったことがうかがえます。 江戸時代の板橋は、太鼓状の木製の橋で、長さは9間(16.2m)幅3間(5.4m)ありました。少なくとも寛政10年(一七九八)と天保年間二度修復が行われたことが分かっています。近代に入ると、大正9年に新しい橋に架けかえられましたが、自動車の普及に対応するため、昭和7年に早くもコンクリートの橋に架けかえられました。現在の橋は、現在の橋は、昭和47年に石神川の改修工事の際、新しく架けかえられたものです。 平成十二年三月 板橋区教育委員会 |
中山道板橋宿上宿
| 江戸時代の五街道の一つである中山道は、江戸と京を結ぶ大動脈として、人々の往来や物資の流通などをささえてきました。 板橋宿は中山道の第一番目の宿場であり、その長さは15町49間(約1.7km)でした。天保14年(一八四三)には人口二四四八人、家数五七三軒を数え、旅籠屋はたごや、料理屋や駕籠屋(かごや)など様々な店舗が軒先を並べていました。板橋宿は日本橋方面から平尾宿・中宿・上宿に分かれており、石神井川にかかる板橋から現在の環状七号線あたりまでが上宿でした。 平成14年(二〇〇二)は、中山道に伝馬(てんま)制度(せいど)が成立したとされる慶長7年(一六〇二)から400年目にあたり、それを記念して各宿に石碑を建立しました。 平成14年11月 板橋区教育委員会 |
縁 切 榎
| 中山道板橋宿の薄気味悪い名所として旅人に知られていたのだこの縁切榎である。いつの頃からか、この木の下を嫁入り・婿入りの行列が通ると、必ず不縁になるという信仰が生れ、徳川家に降嫁の五十宮いそのみや・楽宮さざのみやの行列はここを避けて通り、和宮の折には榎を菰で包み、その下を通って板橋本陣に入った。 この伝説の起こりは、初代の榎が槻の木と並んで生えていたため「エンツキ」と言われ、所在地である岩ノ板を「イヤナサカ」としゃれ、これを縁切に通わせたとする説、富士に入山した伊藤身禄みろくがこの木の下で妻子と涙の別れをしたからとする説がある。 現在の榎は三代目であるが、この木に祈ると男女の縁が切れるという信仰は今でも続いている。 平成4年3月 板橋区教育委員会 |
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