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岡崎空襲           
 1945年(昭和20年)7月20日、午前1時から2時間にわたって、130機のB29が18万発の焼夷弾を落とした。この空襲で、岡崎の康生を中心に朝の十時まで 燃え続けたという。死者250人あまり、けがをした人350人あまり。
焼けた家は、約7500けん。  (当時の人口は約9万人)



















































写真1.2
*空襲で焼け野原になった岡崎中心部
 
連尺国民学校から岡崎銀行(木造2階建て 現在の東海銀行)の方向を写したもの

 
 
 写真3  
 *空襲で焼け出された人
 焼け残ったトタンなどを集めてかりの家を建てた。
 
 
 
 
 
 
 
 



  写真4
 *空襲で焼け野原になった中心部
 中央の人は当時の菅野岡崎市長
 郷土資料館,徳王神社より東別院方面を写したもの(遠くに写る寺の一部は,今も残っている。)
 
 
 
 
 
 




 
 写真5
 *空襲にあった人々の声(当時の新聞より)
 
 
 
 
 
 
 
 
 


 

 
写真6
  *焼夷弾がB29爆撃機から落とされる様子
  
  ・つつの中にヤシ油のパームなどよく燃えるものが入っていた。
  ・長さ約50p 重さ約1.5sの緑色の6角形のつつになっている。
  ・1発の親弾から48発の焼夷弾が,地上300bでばらまかれる。
  ・B29の1機で,親弾80発積まれ,焼夷弾は48x80=3840発になる。
 
 
 
 













   写真7.8
  *岡崎に落とされた焼夷弾 
 
 
写真9
  空襲で焼けたかわら
 黒いかわらも強い火で中まで白くなっている
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 



学校生活
(連尺国民学校・・・今の連尺小)
 
 写真10
  連尺少年団の分列行進
 男子は兵隊と同じような訓練をしていた。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
  写真11
  学校の防空壕をほる女子児童と先生
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 


 
  写真12
  なぎなたの訓練
  女子はてきがせめてきたときに戦うために、なぎなたの練習をした。
  男子は木刀(木のかたな)で訓練を受けた。
 
 
 
 
 
 
 
 





 
 
  写真13
  くわの皮をはいでいるところ
  この皮で服をつくった。国に供出した。はいだ木は使わなかった。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
  写真14
  稲かりをする小学生
 学校でかりた田んぼに米をつくった。
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
   写真15
   かりとった麦の脱穀(もみがらをとる)
  
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 


  写真16
 菅生川の河原で草かり
  食べ物がなかったため、畑にできるところはたがやして、いもなどをそだてた。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 



 
   写真17
 学校の運動場を畑にしていもをつくった
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 


   

 写真18
   空襲で焼けた学校を建てなおすために 材木を運ぶ女子児童


  連尺国民学校の校舎が岡崎空襲で焼けたため、桝塚航空隊より払い下げられた材木で建てなおした。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
戦争中の市民の生活
 
   写真19
  国防婦人会が竹やりの訓練をしているようす
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 



 
   写真20
   竹やり訓練
  敵の国のルーズベルト、チャーチルという人の面を上につけてにくしみをもたせるようにしている。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 写真22
  戦争中の中学校の制服
 小田さんが岡崎中学校の時の制服
 ボタンをよく見てください・・・ものがない時代だったので、土を焼いて(陶製)作っている。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 


 写真は,故小田幸平さん所有のパネルから許可を得て作成したものです。
 パネルは、現在「岡崎空襲を記録する会」が保存しています。
 この写真についての問い合わせは,メールでお願いします。(無断転載不可)
06.08.28更新(説明・写真を追加、これまでの写真を少し見やすくしました。)