たけしの遺伝子
よい北野
殿に関するみんなの色々

 「梅島あたり」 〜たけしの遺伝子一周年記念寄稿文
ねこ

北千住駅から東武線に乗り換えて三つ目。
梅島駅の改札を抜ける頃には、真冬の黄昏は早くも闇に変わろうとしていた。

初めて訪れる地。
たけしさんの原風景をたずねる旅が今始まった。

振り向くと、小さいながらもガラス張りの新しい駅舎。
近年になって立て替えられたのだろう。
目の前に京樽の店の照明が煌々と輝いている。
どこにでもありそうな駅前の風景が続く。
しかし下町テイストのケーキ屋さんの名前が絶妙。
「ハニー」だったり「ハイアート」だったり…
細い道の左手に“UTIU PACHIKO”のネオン。思わずきよし師匠の「ウチュ〜〜!」を
思い出し一人ウケる。
右手には古そうな“富士写真館”の看板。
たけしさんが子供の頃、安子姉ちゃんと通った“島根富士館”という映画館を思い出す。
なんにでも結びつけてしまいそうになり苦笑するが、みんなの頭の中もオールナイトで
たけしさんが聞かせてくれたさまざまな思い出話が今よぎっていることだろう。


右大臣が「でっかいおじさんと、ちっちゃいおじさんが手をつないでるの、いないかな〜。」と笑いながらもらす。
その話、たけしさんが枝豆さんの運転で久しぶりに梅島に帰ってきた時の話、お気に入りらしく何回も言われているが、遭遇するには金星人よりも低い確率だった、残念(笑)。


最初の目的地、“足立四中”へ。
大きく立派な校舎に一同感嘆の声。
5☆さんが「皆さん、入られないんですか?」と言われるが、リアクションに困る。
どう見ても怪しい集団。これがこれから先も延々と梅島の街を闊歩するのだ。

たけしさんとマー兄ちゃんは本来行くはずの“十中”に行かず、この四中に越境入学した。
レベルが高くさきさんの希望だったらしい。
だが小学校時代の友達と別れ、お兄ちゃんと比較されることの多かったたけしさんは、中三の頃から次第に反発するようになったと言う。
たけしさんの最初の挫折の始まり。


四中の近くにある“都立足立高”へ。
ここも同じく立派で大きい校舎だった。
ここでのたけしさんは中学時代に続き専ら野球に打ち込んでいたようだ。
級友の印象は“地味でおとなしい人”、“痩せてちっちゃくて色白の人”などが多い。
授業をさぼって図書館で勉強し、数学のテストで一番を取ったのは有名なエピソード。
また高三の一時期の集中的な受験勉強で明大工学部に現役入学したことは、マー兄ちゃんも一目をおいていた。


少し歩いて今度は“梅島第一小”へ。
ここは「元気が出るTV」で紹介され一躍たけしさんの母校として有名になった。
たけしさんの小学生時代の写真がバッジやTシャツ、トレーナーとなり人気グッズだった。
ここもまた多分にもれず立派な校舎である。
5☆さんが「たけしさんが建てたんでしょ。すごいですね。」をさっきから連発してるのだが、ここに関してはみな心の中で認めていたのだろう。何も言わなかった(笑)。


寒さのため、口数が少なくなってきた一行であるが、全員ある公園の前でその名前にふと立ち止まった。“ベルモント公園”、思いっきり足立区に似つかわしくない名前だ。
公園の中には洋風の建築物が。何の用途なのかは不明。


公園の横では焼き芋売りのあんちゃんが、買いに来た小学生たちに「お前ら、もう5時だぞ、早く帰れ」と諭していた。
下町らしい光景に一同なごむ。


少し行くと、何もない住宅街に一軒のカラオケ屋が。
そのネオンサインに一同沸く。“カラオケ BEAT”!!
たけしさんへのリスペクトに違いない(笑)。
それとも同級生がやってんのかな?


しばらく歩いたところで一同の足が止まった。
何でもない普通の一軒家。
でもその二階には小さく“小料理屋 しなの”の文字が…
実は今回のミステリーツアー、菊次郎さん行きつけだった“信濃家”を捜すのが 大きな目的のひとつでもあった。そしてできれば営業していてほしい、と。
「こ、これは……??」一同で議論する。
5☆さんはわざわざドラマ「菊次郎とさき」の領収書の住所をビデオを止めて書き留めていた。
でもそれはドラマ用で実際には存在しない住所というのが前もってもうわかっていた。
右大臣が「あれって駅前だったよなぁ。」と言う。
確かにそうだ、信濃家は駅前だったはずだ。
そこで菊次郎さんはいつも、アジフライともろきゅうと冷や酒を注文していた。
たけしさんが「父ちゃんを捜す時は、けもの道を逆にたどっていけばいい」と言っていたように本当に毎度お決まりのコースだった。

外灯もあまりないような暗い道で、おずおずとその家の前に寄っていくと、玄関に小さな
張り紙が。
「夜8時より営業いたします」の手書きの文字に一同驚く。
「えっ、やってるんだ!」
でも開店にはまだ時間がある。
結局、あの信濃屋がここに移転した…かも…しれない、いや、信濃家と思うと心もはずむ、という無理やりなこじつけで自分を納得させて一同はその謎の家をあとにした。


狭い道から大通りに出る。
昔ながらの店と新しい店が混在している。
でも人通りは少ない。なぜか犬の散歩をしている人によく出くわす。
そしてしばらく歩いていった時、道路の向こう側にさん然と輝く一軒のお店を発見。
「あっ、あの酒屋さん、さきさんがよく買いに行ってた“かめ@”さん!」
思わず右大臣に同意を求める。

一同立ち止まってしばらくお店を拝見。
店の中から店主の方が時折こちらを不審そうに見ている。
どうも申し訳ありません。7人もの集団がじーっとお店の方見てるんだもんなぁ。
そりゃ不審ですよね(苦笑)。
「お店の方に行ってみますか?」という案も出たのだが今回は遠慮する。


いよいよたけしさんの実家がある町内へ。
しかし工務店だの工場だのがやたらと多い。
ここは職人さんの町だということを改めて実感する。
この一角でたけしさんのご実家も“北野塗装店”だったわけだ。


ご実家はあっさりと見つかった。
みんなが「えっ?えっ?」と言ってるので、私が「こちらでございます」と指し示す。
「うわ〜っ、ここ?」と感嘆の声を挙げるが、数年前、さきさんのために建て替えられた
邸宅は昔の面影は全くない。
TVで見てご存知の方も多いだろうが、とても瀟洒なお宅である。
でも実物を拝見して思ったのだが、小さなお家ではない。
1000ちゃんがぽつりと「さきさんのお葬式の時映ったのって、この道だったんだよね。
え〜、なんか狭いね。」とつぶやいた。
前の道の幅だけは、たけしさんの子供の時からのものだろうと思う。
この道であの日たけしさんは号泣されたのだ。
さきさんとの思い出がとめどなく溢れ、感謝し、また子供としての自分の人生を顧み、幾ばくかの自責の念にかられた。

本当は誉めてほしかった息子と、誉めてあげたかった母との、今生での別れの時が迫っていた。


「お前と私はこの世では一回しか親子にならないの。お名残おしいけどね。」
さきさんがたけしさんに言った言葉だ。



一同「人様の家の前で申し訳ない」という字が顔に書いてあり、無言で足早に立ち去った。



北野邸を後にしながら、たけしさんは何度この道を歩いたのだろう、とふと思った。
2階にぼんやり灯った明かりに温もりを感じた。



昭和7年(1932年)、北野家はこの町内に引っ越してきた。
土地を借り、家を建てた。
300円のうち200円を払い、あとの100円を月に10円ずつ、さきさんは内職をして返したという。
当時、サラリーマンの月給が約25円だったらしい。

木造平屋建て、8畳、4.5畳、台所という間取り。

この家で、親と子の確執があり、兄弟の触れ合いがあり、愛情があり、涙と笑いと、語らいがあった。
そんなに特別なものでもない。きちんとした家族の営みがあった。
たけしさんはとてもそれに感謝している。

今はもう、うしさんも、菊次郎さんも、そしてさきさんまでもが逝ってしまった家も
たけしさんの瞼の奥には、懐かしい怒鳴り声と笑い声の響く、暖かな家族の日常が
刻まれているだろう。

昭和22年(1947年)1月18日。
銭湯の帰りに近所の子供とかけっこをしていてさきさんが産気づいたという有名なエピソードでたけしさんはこの世に誕生した。

お正月生まれのおめでたさから、さきさんは当初、竹のようにどんなものにも耐えられるようにと
「竹司」と名づけられるはずだったが、「司」という字が無粋(ぶいき)だからと、「武士」の「武」に変えられた。

未熟児で生まれたたけしさんは身体が弱く、小児ぜんそくなどを患い、さきさんはよくねんねこ半天で病院に通ったという。

この下町の路地から「ビートたけし」になった男。
それは必然なのか神様の気まぐれか。


今日もまた多くの人を魅了し、求めつづけられる男。

たけしさんが求めるものは今果たしてあるのだろうか。

息をはずませながら澄んだ瞳でこの家の戸を開くあの時の少年は未来に何を馳せていただろうか。


「母ちゃん、ただいま!」

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