photo gallery(正伝寺)

鷹ケ峰の北東、加茂川の西岸が西賀茂である。バス停神光院から800mほど北西へ行くと,
西賀茂鎮守庵町に左手に正伝寺(臨済宗)がある。
来朝した宋の名僧兀庵普寧(ごつたんふねい)は在日6年,帰国に際し南宋禅の不振を嘆き,
高弟東巌慧安(えあん)に将来開く寺のため正統禅の普及を念願して「正伝」の額を与えた。
慧安は1268(文永5)年に聖護院の執事静成法印の援助で烏丸今出川に正伝寺を創建した。
また師との文通で中国事情に通じ,元寇の際は石清水八幡宮に参籠して敵国降伏の祈祷文を書き,
その末尾に「末の世の末の末まで我が国は万の国にすぐれたる国」と書き,戦意高揚に努めた。
このため亀山天皇から正伝護国禅寺の寺号を与えられた。
のち比叡山衆徒に焼討ちされ,慧安は鎌倉に下ったが,1282(弘安5)年慧安に帰依した
賀茂の社家森経久の尽力で現在地に再興された。のち後醍醐天皇の勅願所,
足利義満の正伝寺庭園祈願寺として栄えたが,応仁の乱で焼亡し,秀吉・家康の援助で再興した。
しかし,その後しだいに衰え,現在は本堂と庫裏を残すのみである。
 本堂(方丈,国重文・桃山)は伏見城の遺構と伝え,襖絵は狩野山楽筆という。
また,広縁の天井は伏見城落城の際に鳥居元忠らが切腹した廊下の板とされ,血天井とよばれる。
庭園は小掘遠州作と伝える枯山水で,龍安寺石庭の石のかわりにサツキを主体とした刈込みを配し,
東側の土塀越しに比叡山を望む。寺宝には精庵筆絹本著色兀菴和尚肖像(元),
絹本著色兀菴和尚肖像・紙本墨書東巌和尚蒙古降伏祈祷文・東巌恵安筆先聖先賢聖道一轍義
2巻(いずれも鎌倉),紙本墨書東巌和尚賜号勅書(室町),九条袈裟2領(ともに南宋)がある
(いずれも国重文・京都博物館寄託)。正伝寺の背後の山から北の船山(標高317m)にかけてが,
平安前期に創建された霊巌寺跡と伝えられるが,確かなことは不明である。
また,船山は五山送り火の一つ,船形が焚かれる。
〜(京都府の歴史散歩:山本四郎著による)〜







参道途中には京都ゴルフクラブ(西コース)が
横断しており、趣に欠け大変残念だ。


庫裏





方丈


小堀遠州作「方丈庭園」


さつき刈込み





<正伝寺>