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レイモンド・スプールアンス
1886年(明治19年)生れ、真珠湾以後ハルゼー艦隊の巡洋艦部隊を指揮していた。
1942年6月、当初部隊の指揮をとるはずのハルゼー提督が緒戦からの疲労により神経性皮膚炎が悪化し不眠症となったため急遽代役に抜擢された。フレッチャーが「ヨークタウン」を、スプールアンスが「エンタープライズ」「ホーネット」を指揮してミッドウェーに向かい、攻撃機数、技量、攻撃機の性能ともに劣勢であったが果敢に攻撃を繰り返し南雲機動部隊を壊滅に追い込んだ。フレッチャーの乗艦が沈没したため、航空戦の総指揮をとる事になり山口多聞指揮する「飛竜」との戦いとなったが、空母数でまさるスプールアンスが「飛竜」を屠り、衝突事故を起こし損傷していた巡洋艦「三隈」を撃沈した。その後、太平洋艦隊司令長官ニミッツ大将の参謀長に任命され、反攻計画の立案に奔走した。1943年、中部太平洋艦隊司令長官となり前線に復帰、翌44年にはマリアナ諸島の攻略を実施、「マリアナの七面鳥射ち」と呼ばれるほどの厚い対空防御で、小沢機動部隊のアウトレンジ作戦を粉砕し潜水艦による攻撃と併せて空母「翔鶴」「大鳳」「飛鷹」を撃沈した。その後、硫黄島攻略、沖縄攻略と駒を進め終戦を迎えた。「計算尺のような頭脳」と言われた冷静な判断力はニミッツの高い信頼を得て、米機動部隊は猛牛ハルゼーと冷静なスプールアンスが交互に指揮をとっていた。無け無しのワンセットの艦隊にワンセットの司令部では無く、2セットを用意し休養と再編成を行ないながら戦う体制は米軍ならではである。

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