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腐敗堕落の極にある浄土真宗を、立て直そうと、これまで、どれだけの人々が、情熱を燃やし、挫折していったか知れない。
明治以降、真宗改革に挑んだ指導者の中でも有名な人たちの足跡をたどり、現在の浄土真宗親鸞会の存在する意味を考えてみたいと思う。
真田増丸
熱烈な布教 仏教済世軍を設立
「熱烈な実践の仏教者」と称され、布教怠慢を続ける本願寺に警鐘乱打したのが、真田増丸師であった。
明治10年、福岡県豊前市の本願寺派浄円寺に生まれた。
32歳で東京帝国大学を卒業し、喜び帰郷すると、母は、彼を本尊の前に導いて言った。
「この卒業証書はまことにうれしいが、ご門徒の汗と脂の結晶です。この卒業証書を生かすには信仰に生きるほかはない」
息子の目の前で、母は、卒業証書を破り捨て、真の浄土真宗の信仰を求める新しい出発点にせよ、と諭した。以来、大分県の西光寺に入り、求道に励む。
製鉄の町、八幡で布教
大正3年、製鉄の町、北九州八幡へ出て労働者に布教することを決意し、野外伝道を始めた。
八幡は製鉄所の開設で好景気にわき、各地から多くの労働者が流れ込んでいた。中には世を食い詰めた者もまじっていた。博打うち、けんかの血なまぐさい事件は絶え間なく、新しく開けた鉄の町は、繁栄のかげに、荒々しい地獄の様相を呈していたのである。この地獄の中に迷える人たちに救いの手を差し伸べようとしたのであった。
その伝道方法は、太鼓をたたいて街頭を行進し、その先頭に祖末な衣服の真田増丸師が立った。人々は異様なものを見る目を向け、「乞食坊主が来た」と嘲笑をかくさなかったという。雨の日も、風の日も、街頭に出て、太鼓をたたいて労働者を集め、伝道が続けられた。
翌、大正4年、 「仏陀の慈光を世界に輝かし、以て全人類を救済すること」をスローガンに、仏教済世軍を設立し、八幡市に本部をおく。真田師38歳であった。
しかし、熱烈な伝道の言葉にも、耳を傾ける労働者は少なかった。本部での朝の勤行に、一人の参詣者すらないこともしばしばであった。
「なぜ、八幡の者は聞いてくれないのか」 煩悶は続いた。
だが、情熱あふれる布教は、やがて八幡の労働者、住民の心をとらえはじめた。熱心な聞法者が次第に増え、やがて九州、中国、さらには東京へも教線を拡大するにいたった。
大正6年には機関誌を創刊。発行部数も1万部を超えるにいたった。東京赤坂の質素な屋敷を新たな拠点に、伝道の熱意は、北海道から、台湾、韓国にも及び、各地に支部が開かれた。済世軍に属する人は数万人に達したという。教団が大きくなっても、真田師は、いつもみすぼらしい黒衣をまとった一介の貧乏僧としか見えない姿で伝道にあけくれていた。
全身全霊、情熱の人
真田師は、街頭演説のことを「野外戦」と言った。そして野外戦に出るときには必ず仏前にお別
れの勤行をした。死を覚悟しての出陣だったのである。同行の者にも、「済世軍の真生命はこの野外戦にあるのだ」と、常に言っていたという。
本願寺のある住職は、こう感慨を語った。
「真田という人は、全身全霊、情熱の人であり、一度演壇に登らるるや、もはや何者も眼中にはない。ただ言々句々、肺腑をついて現れる信仰の叫びばかりである。満堂の聴衆は陶然として、その熱心に酔わされたる形があった。いや信者ばかりではない。脈のあがった我々坊主が感激させられた。あの熱心と真剣でやってもらえば、沈滞したる仏教もきっと復活するだろう」
真田増丸師は、街頭で、どのように叫んでいたのか。著書の中から、その一端を知ることができる。
「万事に打ち勝って、真に永遠に生くる大法を求めよ!!身をすてて求むる心より信は得られるのである」
「知らずや、無常迅速なることを!!死に対しては毀誉褒貶いずこにかある。敵も味方もない。真に人生を真面
目にするものは実に死の一大事である。
死の前には何物もない
学問も何かあらん
金銭も何かあらん
名利も何かあらん
毀誉褒貶も何かあらん
希望も目的も何かあらん
ああ、死は正しく、我が眼前に横たわっているではないか。死よ!死よ!信仰よ!信仰よ!
生死の問題は久遠劫より尽未来際にわたる大問題である。世上のことはたとえそれが大問題と考えられても、わずか一世の問題にすぎない。しかるに、信仰は、三世にわたる大問題である。
生死の大問題にぶち当たれ!生死問題にぶち当たって大煩悶の後、一大光明を認めた人は……如来のお救いにあずかった人は、ああ、その人は不死の人である。永遠に生くる人である」
「悲しいかな、多くの人々は大きな生死問題を煩悶せずして、時に名利や利欲や、位
階や権勢のようなものに憧れて、そのために徒に煩悶するばかりである。ああ人よ!こうして君たちは死すべき人となるのではないか!ああ!」
「蓮如上人のお言葉に、
弥陀をたのめば南無阿弥陀仏の主になるなり
と。南無阿弥陀仏の主になるというは、信心を獲ることである。
ああ、天は破れ地は壊れ、山川はくずるるといえども、動かざる金剛堅固の、南無阿弥陀仏の家に住む身は、幸いなるかな」
「ああ、人々よ!先ず物質上の家よりも、心の家から建設しようではありませんか。金剛堅固の如来の御心に安住しようではないか。たよりにならぬ
浮世のものをたよりにして、いたずらに苦悶するよりも、絶対に安住の天地……常住に愛護したもう弥陀の御こころに来たって安住せられよ!
すべて疲れたる者、また重きを担える者は、来れ!如来に来れ!如来は汝らを安慰ならしめ安息せしめたもうのである」
早すぎた死
盲人用に『点字済世軍』を発刊したり、エスペラント語による雑誌を発行し布教の一助にするなど、実に精力的な活動を展開した。
しかし、済世軍発足からわずか11年目の大正15年、真田師は、急性盲腸炎でこの世を去った。49歳の若さであった。
死の直前、こんな言葉を残している。
「肉体をもつ者は親鸞聖人の信仰の外救われない。死は一旦なり信は永遠なり。全国の支部長よ。お同行よ。最後まで伝道することが宗教家の立場である」
二人の息子に対しては、
「博士や偉い者にならなくてもいい。どうかお念仏を称える人になってくれ。お父さんは一生貧乏生活だった。残す金など何もない。お金のいる時は、お浄土から電報為替で送るよ」
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