真宗改革に挑んだ明治の指導者たち

その情熱と行動の教訓

 腐敗堕落の極にある浄土真宗を、立て直そうと、これまで、どれだけの人々が、情熱を燃やし、挫折していったか知れない。
 明治以降、真宗改革に挑んだ指導者の中でも有名な人たちの足跡をたどり、現在の浄土真宗親鸞会の存在する意味を考えてみたいと思う。

近角常観

求道会館を建設 後進の育成に力注ぐ

 東本願寺にあって、「求道会館」を建立し、青年の育成に力を入れたのが、近角常観師であった。
  明治4年、滋賀県の大谷派西源寺に生まれる。
 明治22年に上京し、第一高等中学校に入学。さらに、東京帝国大学へ進んだが、学生時代に大事件が発生した。
 東本願寺の腐敗堕落を、いたずらに座視できぬと、明治27年、清沢満之を中心とするグループが、京都で、本願寺改革のノロシをあげたのである。この運動に、血気盛んな学生が学業を放棄して馳せ参じた。近角常観師も決起し、寝食を忘れて奔走した。しかし、本願寺の内部対立を深めただけでなく、改革推進グループ内の統一も乱れ、わずか二年で運動は消滅してしまった。

 大いなる挫折感と失望から、近角師は病におちいり、故郷で療養の日々を送った。
 回復後、再び上京し、明治31年に大学を卒業している。

宗教法案への反対運動

 明治32年、山県内閣が国会に提出した宗教法案に、東本願寺が先陣を切って反対運動を起こした。その中心となって猛烈に行動したのが近角常観師であった。彼は、13宗56派に檄文を飛ばし、全国から上京した信徒に反対演説をぶった。まだ大学を出たばかりの青年であったが、舌鋒火を吐く勢いで、多くの共鳴者が現れたという。この結果 、宗教法案は国会で否決されるにいたったのである。
 東本願寺は、近角師の功績を認め、明治33年、彼を、欧米の宗教制度視察旅行に派遣した。キリスト教の何を学ぶのか、はなはだ疑問であるが、ドイツで一つのエピソードを残している。
 近角師らが中心となって、明治34年4月8日、ベルリンで、釈尊降誕祝賀会を開催し、初めて「花まつり」と名づけた。この行事の成功をきっかけに、以来、「花まつり」の名称が、一般 に使われるようになったという。

青年への伝道

 明治35年、帰国後、近角常観師は、青年に浄土真宗の教えを伝えたいと、東京に「求道学舎」を設立した。31歳にして、ようやく、本来の目的に向かっての活動を開始したのである。祖末な二階建ての家屋であったが、近角師の講演に集まる若者が次第に増えていった。大正4年に、新たに「求道会館」を建設し、後進の育成に力を注ぐ。
 昭和6年、62歳で脳溢血で倒れ、右手が動かなくなった。病床からも、日曜日には、人々の前に出て法話を続けたが、昭和16年、72歳でこの世を去った。

→七里恒順
→真田増丸



浄土真宗親鸞会の存在と真宗改革の流れ