秋の空を見上げて
霧越カズト
「ふぅ……」
自然とため息が漏れた。いくつかの偶然が重なってこの学校に入学して、そして白薔薇の蕾と呼ばれるようになり、私の生活は大きく変わった。
仕方なく、そう思って入学したはずなのに、いまやこの学校は私にとって一番大切な場所だった。もちろん、美しい仏像を安置しているお寺は今でも私の好きな場所のひとつだ。本堂のピンと張り詰めた、それでいてどこか安心することができる空気。その空気が、私は好きだ。以前ならその場で仏様と向き合う時は、できるだけ一人になるようにしていた。その方が、真摯に向き合えると思ったから。けれど、今は隣には志摩子さんがいて欲しい、そう思っている。彼女にも自分と同じような趣味を持って欲しいと思っているわけではない。それは、もう少しは仏像愛好の趣味を分かち合いたいとは思っているが、無理強いするのは好きじゃない。ただ、自分の大切な時間を彼女と分け合いたい、というだけだ。
入学当初は違和感のあった姉妹制度だが、今、こうして自分と彼女の関係を考えると、とても自然なものに思えた。それはとても、とても自然な関係だった。誰かを大切に思うことで、私たちは成長していく。誰かに大切に思われることで、私たちは成長していく。思い、思われることで、三年という高校生活を、かけがえのないものにしていく。
志摩子さんと姉妹になったことで、クラスメイトの私を見る目は変わったと思う。いくらかの羨望と尊敬、そしていささかの嫉妬。全ては白薔薇の蕾という肩書きのせい。この名前を少し重く感じる事はあったけれど、元々の性格と、肩書きに関係なく接してくれるクラスメイト、そして何よりも志摩子さんのおかげで、私はかけがえのない大切な時を過ごせていた。
昼休みは、大体志摩子さんや紅薔薇の蕾こと祐巳さん達、山百合会のメンバーで昼食を囲んだり、クラスメイト達とお弁当を食べたりするのだが、今日は薔薇ファミリーが皆それぞれに用事があったり、クラスメイトも皆学食で私だけがお弁当だったりと、偶然に偶然が重なり、私は一人でお弁当を食べることになった。
外は澄み切った青空。せっかくだから、と私はおもてへ出た。
並木を散歩する人たちや、ベンチで仲良くお弁当を広げる姉妹。どの顔も、輝いて見えた。私と志摩子さんも、ああいう顔をしているのだろうか? ふと、考える。
私は、それらの人とは少し離れた、誰も座っていないベンチに腰を下ろす。ランチボックスを開け、ぼぉっとしながらサンドイッチをつまむ。どんなものでも、こんな良い天気の下なら美味しく思えるだろう。それほどまでに、秋の青空は心地よかった。
「ねぇ、ここ良い?」
ハムとタマゴのサンドイッチを食べ終えた頃、そう声をかけられた。声の主を見ると、それは濃い色の制服ではなく、痛いほどの白いシャツ――私服をさっぱりと着こなした女性だった。
「あ、はい。どうぞ」
この人はいったい? そう思いながらも私は隣を勧める。彼女は、どうも、と言いながらそこに座った。
「いやー、良い天気だね。こんな日は外でボーっとするに限るね」
彼女はそう言って、大きく伸びをする。
「あの……」
私は、恐る恐る声をかける。アブナイ人には見えないけれど、高校の中で私服の人を見かける事は、ほとんどないので、どうしても不審な目で見てしまう。
「ああ、私はここのOGでね、今は隣の大学通ってるの。だから、そんな不審者じゃないから安心してね」
こちらの心の中を読んだかのように、彼女は朗らかな笑みを見せた。心のそこから笑っているような笑顔。私は、この人に好感を持った。
「そうなんですか……。あ、挨拶が遅れてしまってすいませんでした。――っと、こんにちわ」
あわてて挨拶をする。一瞬きょとんとした後、彼女は大きな声で笑った。
「あー、面白いね、あなた。うん、そういうのいいね。でも、リリアンじゃ挨拶は『ごきげんよう』だよ」
そうだった。彼女の指摘どおり、この学校では『ごきげんよう』というある意味時代錯誤な挨拶が基本である。高校からこの学校へ来た私も、普段はこの『ごきげんよう』に大分なれた。しかし、こういうとっさの時にはやはり間違ってしまう。
「あ、そうでしたね」
間違いがあっても軽く笑い飛ばしてしまう彼女の笑顔。私もつられて笑った。
――ぐー。
その時、彼女のおなかが音を立てた。
「あら、もうちょっともつと思ってたんだけどなぁ……」
彼女はそう言って恥ずかしそうに頭をかいた。
「どうぞ」
私はサンドイッチをひとつ差し出す。
「お、ありがと。実はさっきから、結構美味しそうだなぁ、と思ってたんだ」
彼女はそう言って、とびっきりの笑顔をくれた。
「あー、それにしても良い天気だねぇ」
二人でサンドイッチを食べた後、彼女はもう一度、高く青い空を見上げた。
「本当に……、澄み切った秋の空ですね……」
春――桜に包まれて、私は志摩子さんと出会った。私の今までの人生の中で、最高の、一番大切な出会い。
そして、夏へと向かう雨の季節に、私と志摩子さんは姉妹になった。雨に濡れながら、私は彼女からロザリオを受け取った。後悔は――していない。私は彼女を大切に思っているから。
けれど、常に不安はあった。今年の春に卒業してしまった、前白薔薇さま。その人のように、私は志摩子さんを支えていけるのだろうか? しかも、紅薔薇や黄薔薇と違い、志摩子さんは今年も、そして来年も白薔薇さまとして勤めを果たさなくてはならない。一年でも大変な仕事である。それを二年も勤めなくてはならないのだ。並大抵のことではない。そこらあたりの事情を聞いた時、私は素直に前白薔薇さまを恨んだりもした。どうして自分よりも一学年下に妹を作らなかったのか? 山百合会のメンバーから、あまり話せない事情がある事は聞いた。しかし、私はどうしても、前白薔薇さまを責めてしまう気持ちをとめられなかった。
彼女は、私の隣で爽やかに風を感じている。私は、彼女のような人が志摩子さんの姉だったら良かったのに。もしそうだったら、一学年飛ばして妹を作ったりせず、志摩子さんに重荷を背負わせることもなかっただろう。そう思った。
「秋か……」
彼女はそう言って、何かを思い出すような目をした。遠く、遠くを見つめるような視線。寂しげで、切なげで、悲しげで、けれども、強い、何かを懐かしむような視線。通り過ぎたばかりの高校生活を振り返っているのだろうか?
「――もう、銀杏の季節だねぇ」
と、いくらかの間の後、彼女は突拍子もないことを言い出した。何かを懐かしむような、半分笑いの混じった声。しかし、私の中で、銀杏というキーワードである人が即座に思い浮かんだ。今度、一緒にそれを拾い集める約束をしている――。
「あのっ――」
彼女に声をかけようとする。けれどもその声にかぶるように、遠くから昼休みの終わりを告げる鐘がなる。
「ほら、もうお昼は終わりだよ。早く行かなきゃ先生に怒られるよ」
そう私を促す。私は立ち上がりつつも、彼女に尋ねようとする。しかし、彼女も立ち上がり、軽く手を振りながら足早にこの場を離れていく。
「――聖、さま?」
まさか、聖さま――前白薔薇さま? 私は呆然と彼女を見送った。
私は思った。志摩子さんの姉が、彼女で――聖さまで良かった、と。私と志摩子さんの絆の証――そして、志摩子さんと聖さまの絆の証だったロザリオをぎゅっと握る。
秋の空は、高く、青く、澄んでいて、流れる白い雲が、とてもとても綺麗だった。
"Blue autumn"is over.