薔薇たちへの供物

霧越カズト

――青の時代に――

第1章  発端

――「だって、今夜のお月様ったら、へんに大きくて、低いところにぬっと出てるんだもの。ちょっと散歩して、眺めてたんだよ」



 卒業式を一週間ほど後に控えた、ある日の放課後。いつものテーブルに、山百合会のメンバーのほかに共に、一人の生徒が座っていた。
「それで、相談というのは?」
 祥子が、不安そうな表情を浮かべているその生徒に尋ねる。
「私、演劇部二年の氷沼蒼美といいます。実は、部室にこんなものが……」
 彼女は、がさがさと紙を取り出した。そのポストカード大の紙には、こうタイプされていた。
――卒業公演を、中止しろ。さもなくば、本当の殺人劇が、幕を、開ける。
「……脅迫状?」
 覗き込んだ祐巳が、その顔を曇らせる。
「蒼美さん、何か心当たりは?」
 志摩子が訊く。
「いえ、誰もこんな脅迫される覚えはないって言っています」
 そう答える蒼美の声は硬かった。
「ふーん、まぁ、それはそうだろうね。お、ここに署名が――」
 じっくりと脅迫状を眺めていた聖が、赤いインクで書かれたその文字を発見した。
「rosa―nihil? いったい何のことかしら?」
 由乃が首をひねる。
「rosa――これは間違いなく、薔薇のことね。でも、後半のnihilが……」
 祥子が考え込む。
「nihil――虚無、でいいのかしら。それにしても、いったい虚無の薔薇って何?」
 蓉子が柳眉を曇らせる。
 紅薔薇――ロサ・キネンシスは中国の薔薇、黄薔薇――ロサ・フェティダは悪臭のある薔薇……黄色の薔薇は匂いが強いのである。そして、白薔薇――ロサ・ギガンティアは大きな薔薇。少し前にちょっとした騒動となった蟹名静――彼女が名乗ったロサ・カニーナは、犬の薔薇という意味だった。その花は黒を予想させる彼女の雰囲気と違いかわいらしい薄桃色だったが。
「まぁ、その話は置いておいて、それで、蒼美さん、演劇部としてはこの脅迫状をどう受け止めるつもりなのかしら?」
 江利子が蒼美に訊いた。
「私は、予定通り卒業公演はやりたいと思っています。部の中には脅迫状に怯えて、今年は中止したほうが良いと言っている人もいますが、お姉さま達の、最後の舞台です。絶対に、中止なんかしたくないです」
 蒼美の目には決意の光が宿っていた。
「よし、決まり」
 聖が、パンと手を叩く。
「決まりって、何がですか?」
 祐巳が尋ねる。
「何がって、当然、そんな脅迫状を送りつけたやつを探し出すの。そうすれば、安心して演劇部の卒業公演を見られるじゃない」
 そう言って、にっと笑った。
「となると、早速情報収集しなきゃいけないわね……。
 蒼美さん、演劇部は今日練習はしているの?」
 蓉子が尋ねる。
「いえ、本当は練習したかったんですが、脅迫状のことがあったので、今日はお休みということにしました。でも、明日のお昼に部室に集まる予定ですので、その時にでも――」
「わかったわ。それじゃあそのときにお邪魔するわね」
 蓉子の言葉に、蒼美が安心したようにうなずく。
「本当に、ありがとうございます。皆さんだって卒業式の準備とかでお忙しいはずなのに……」
「――そんな、気にしないでください。リリアンの生徒のために働くのが、白百合会ですから……」
 空になっていた蒼美のカップに紅茶を注ぎながら、志摩子が言った。聖は、その志摩子の言葉をうれしそうに聞いていた。
「今日できる事は、今日のうちに済ませて起きましょうか――
 rosa―nihilがいったい何なのか調べておきませんか?」
 祥子が提案する。
「じゃあ、ちょっと調べもの行ってきますか。――祐巳ちゃん、お姉さんと一緒に良いとこ行こっ」
 聖が祐巳を後ろからぎゅ、と抱く。
「ぎゃっ」
 祥子が眉をしかめているのは、祐巳のあげたリリアンの生徒らしくない声のせいか、それとも、自分の妹に対する聖の行為のせいか。もしくは、その両方か。
「それじゃあ、ちょっと祐巳ちゃん借りていくよ」
「あ、あの、それじゃあ行ってきます……」
 祐巳は聖に引きずられるようにして、ドアから出て行った。
「……お姉さまも、ちょっとゆっくりお茶飲んでいけば良いのに」
 半分くらい紅茶の残ったカップを見ながら、志摩子はそう呟いた。


「あら、珍しい組み合わせね」
 図書室に入ってきた祐巳と聖を見て、静はそんな声を漏らした。
「えへへー、いいでしょう。祐巳ちゃんと一緒」
 聖は彼女に見せ付けるように、祐巳の腕を抱き寄せる。
「ロ、白薔薇さまっ――」
 祐巳はいつものように困った顔。
「……図書室では静かにしてくださいね。
 ――で、今日は何のご用ですか?」
 静が二人に尋ねる。
「んー、ちょっとね、調べ物」
 聖と静は、何事もないように会話している。祐巳はそんな二人を、微妙な表情で眺めていた。
 もう、終わったこととはいえ、生徒会選挙のときに起こった出来事――いわゆるロサ・カニーナ事件の中心にいた二人である。バレンタインの時には志摩子も含めて、”色々と”あったらしいということは祐巳も察していた。それでも、いや、それだからこそこうやって、二人で笑いあえる。祐巳は、聖と静の強さに憧れている自分を感じていた。それと同時に、四月から二人がいなくなってしまう寂しさを。
「ほら、祐巳ちゃん。早く探しちゃお」
 祐巳は、その聖の声を追った。

 机に二人向かい合い、分厚い冊子をめくっている。祐巳は薔薇の専門書、聖は植物事典。しかし、そのどちらにもrosa―nihilの文字はなかった。
「ないねぇ……」
「ないですね……」
 二人、ため息をつく。これだけ探してないという事は、rosa―nihilとは、植物の名前ではないのかも? そう考えて百科事典等もひっくり返してはみたのだが、どの本にもrosa―nihilという単語が何を意味しているのかは載っていなかった。
「どう、探し物は見つかった?」
 肩を落としている二人に静が声をかける。
「いいや、ぜんぜん駄目。全く収穫なし」
 聖が肩をすくめる。
「よろしければ、何を調べているか教えてくれませんか? 何かわかることがあるかも……」
 静の申し出に、聖と祐巳は顔を見合わせた。確かに、今は情報が何よりも欲しい――脅迫状を送った人物に少しでも近づくために。しかし、だからといって静に脅迫状のことをもらす事はためらわれた。聖は――というよりも山百合会として、事が大きくなるのは望むところではなかった。
「実はね――」
 聖は、巧妙に脅迫状の事を隠しながらも、自分達がrosa―nihilという言葉の意味を調べている事を静に告げた。
「rosa―nihilね……」
 静はそのすぅとした頬に手を添え、何かを思い出そうとしているかのような表情をした。
「rosaは薔薇でいいと思います。nihilも確かラテン語で虚無という意味で正しいはず。けれど、その二つが重なってどういう意味になるのかまでは……」
「うーん、やっぱりわからないか……」
「今度友人にでも訊いてみます。何かわかったらお知らせしますね」
 すまなそうに静が言った。
「うん、そうしてくれると助かる」
 そう答える聖の表情は、本当に心から感謝しているような色があった。
「それでは、お騒がせしました」
 ぺこりと祐巳が頭を下げる。二つにくくった髪が揺れる。
「ふふ、いいのよ。また――遊びにきてね」
 また――その機会がもうほとんど残されていない事を、静も祐巳も、そして聖も知っていた。分かっているうえで交わされる約束。何も知らない人が見れば、刹那的な社交辞令のように映るかもしれない。しかし、この三人の中では、それは真実の言葉でしかなかった。その裏には打算も何もない。あるのは互いを大切に想う心だけ。
「――……うん」
 聖は静にそう、微笑んだ。


 次の日の昼休み、祐巳たちはクラブハウスにある演劇部の部室を訪れていた。
「どうぞ、きたないところですけど……」
 昨日、薔薇の館を訪れた蒼美が彼女達を出迎える。その言葉どおり、部室の中は整理してもしきれない小道具などが、雑然としていた。
「それじゃあ、早速ですが脅迫状について訊いてもよろしいですか?」
 祥子が演劇部の生徒達に尋ねる。
「はい――、と言っても、私達にも誰があんな事をしたのかなんて、全く分かりません。rosa―nihilという言葉にも、全く心当たりは……」
 二年生で演劇部部長の守口綾香が答える。
「これまでにこういった事はなかったんですか?」
 祥子は重ねて訊く。
「ええ。励ましの言葉やお手紙をもらう事はありましたけど、脅しの言葉はいただいたことがないわ」
 そう答える三年の中井紅音の声は、まるでここが舞台の上であるかのように、浪々と響き渡った。
「お姉さまはうちの部の人気女優でしたから……」
 そう言うのは、紅音と姉妹の関係である蒼美だった。
「そうなんですか……、凄いんですね紅音さまは……」
 祐巳が感心したような声を上げる。
「私なんてまだまだよ――。だから、もっと勉強して、もっと練習して、本当の女優になるの」
 紅音はそう言ってにっこりと微笑む。その笑顔には、確かな決意が秘められていた。
「――お姉さまは、ニュー・ヨークの演劇の学校に行くんです」
 蒼美が、誇らしげな、けれどどこか寂しげな声を出した。
「そうなんですか……」
 遠いところへ一人で飛び込んで行ける勇気。それは、とても素晴らしいもの。けれど、残されるほうは? 笑って、その人の背中を押してあげられる? 大切な人の夢のために、笑顔でいられる? 三人の薔薇さまはもう卒業してしまう。白薔薇さまはリリアンの大学部に進学する。物理的な距離はそれほどでもない。けれど、精神的な距離は、とてつもなく、遠い。紅薔薇さまと黄薔薇さまは他の大学に行く。本当に、遠い。そして、来年、お姉さまも卒業してしまう。お姉さまがどこの大学へ行くのか、それとも進学しないのか、それは分からない。けれど、二人の距離が離れてしまうのは、間違いがなかった。祐巳は、いつか必ず訪れる、二人の距離が開いてしまう日の事を想うと、とても怖かった。
「――とにかく、脅迫状を送られるようなおぼえはない、と……。うーん、わかんないなぁ」
 聖がうなる。
「とりあえず、今までどおり卒業公演のほうは準備を続けてください。でも念のため、行動するときはできるだけ一人にはならないようにしてください」
 祥子の言葉に、演劇部の一同は無言でうなずく。
「ところで、卒業公演って何をやるんですか?」
 由乃が尋ねた。
「――殺人劇よ……」
 そう答える綾香の顔は、いくらか曇っていた。


第2章 展開

――「そうだ、あの唄は、きっとこんな月のために作られたんだね」



 その日の放課後、祐巳は蒼美と駅前のファッションビルに来ていた。劇中で使うための靴を買うためだった。エレベーターでレディスファッションの階まで昇る。バレンタインのときに祥子とここへ来た事を思い出した祐巳の顔は、微かににやけていた。
「――どうかしたの?」
 それを見た蒼美が声をかける。
「い、いえ、べつに」
 あわてながらも、自己嫌悪。
「そう、なら別にいいんだけど……」
 蒼美は不思議な顔をしながらも、先へと進んだ。
 劇で使うという靴は、そこそこの値段がするものだった。
「高いんですね。劇で使うだけってもったいなくないですか?」
 祐巳は素直な感想を口にする。その少し高めのヒールは、高校生が履くには少し早いような、ありていに言うと、大人の女性、に似合う物だった。
「もちろん、劇で使った後は自分で使うわよ。こんないいもの一回きりなんてもったいなさ過ぎるわ」
 そう言って蒼美は笑った。
 店員を呼んで試し履きする蒼美を、祐巳は不思議な気分で見ていた。
 彼女は自分とたった一歳しか違わない。けれど、彼女がその細い足首をヒールに通すだけで、美しく、なまめかしい感じになるのはなぜなのだろうか? 自分があのようなものを履いたって子供がいたずらしているような、そんなおかしな印象。お姉さまが履いたら、きっとよく似合う。自分はあと一年でああなれるのだろうか? 少しでも「大人」に近づけるのだろうか?
「それじゃあ、これを二つお願いします」
 そんな蒼美の声に、祐巳は現実に引き戻された。
「二つ、ですか?」
 その戻る間に店員が蒼美に尋ねる。
「ええ、お願いします」
 にっこりと、蒼美が答える。
「どうしてですか?」
 店員が商品を取りに行ったところで、祐巳は蒼美に訊いた。
「綾香さんの分もいるのよ。私と綾香さんは靴のサイズとか服のサイズとか同じなの。だから、劇とかだけじゃなくて、普段でも靴を取りかえっこしたり、服を貸し借りしたり、結構便利なの」
 祐巳は、それをうらやましく思った。自分も弟と服のサイズは同じで、たまに借りたりはするが、できれば同性でそういうことができる友人が欲しい、と思う。やはり、男物と女物ではデザインなどが微妙に違うのだ。

「祐巳さんは、何か用事ある?」
 ファッションビルから出たところで、唐突に蒼美が尋ねた。
「いえ、特にないですけど――。まだ何か買い物あるんですか? お手伝いしますよ」
「私の買い物はもう終わり。今日はあと、うちに帰って、靴を慣らしたり、しなきゃいけないことするだけ」
「それじゃあ――」
 と、お別れの挨拶をしようとする祐巳を蒼美がとめる。
「私に付き合ってくれたんだから、今度はあなたのお買い物に付き合うわ」
 そう微笑む蒼美の顔は、万人を惹きつけるような、まさに演技者の笑顔だった。


「うん、ぴったりね」
 靴を買った次の日の昼休み。演劇部の部室には蒼美と綾香、そして祐巳の姿があった。
「それにしても、ヒール高くて大丈夫ですか?」
 昨日買ったヒールを試しに履いている綾香に、祐巳が尋ねる。
「これくらい、まだまだ高いうちにはいらないわよ」
 そう言って、綾香は部室の中をくるくると歩き回る。
「うん、大丈夫みたいね」
 蒼美が腕を組んで言う。
「――蒼美はいいの? 試さなくて」
 綾香が尋ねる。
「昨日うちでも履いてみたから大丈夫よ。それより、祐巳ちゃんもちょっと履いてみる?」
「あ、いいわね」
 蒼美の突拍子もない提案に、綾香も同意する。
「え、私はいいですよ」
 手をぱたぱたと振って意思を示そうとするも、祐巳の前には綾香が脱いだばかりのヒールがしっかりと置かれていた。
「ほらほら〜」
 そう言ってヒールを勧める綾香を見て、まるで聖さまみたいだ、と祐巳は思った。
「じゃあ、ちょっとだけですよ……」
 そう反論しながらも、ヒールに足を通す祐巳の鼓動は高鳴っていた。少し大きいくらい。立ってみると、いつもよりも高くなった視線。その、ほんの少し高くなった世界に、祐巳は感動していた。
「うーん、なかなかね……」
 蒼美の微妙な批評。
 それを聞いて、絶対にヒールが似合う大人の女性になって見せると、心に誓った。そしてこの高い世界の住人になるのだと。

「これ、左側のほうにおいとくから」
 祐巳が脱いだヒールはまた綺麗な箱の中に入れられ、蒼美のヒールが入った箱の横に置かれる。周りには他の靴が入った箱や、色とりどりの衣装がかけられている。現実にはある、けれど、どこか浮世離れしているような。普通に街中で見たら、どうにも思わない服でも、こういう場所にあると現実から遊離するのだと。
 そして、三人は予鈴におわれて現実世界へとまた戻っていった。


 放課後、第二体育館を利用しての稽古が行われていた。演劇部以外でそれを見守るのは、山百合会の幹部達だけだった。まだ完成ではないものの、それぞれ衣装もつけている。
「――ああ、それでは私はどうしたらよろしいのでしょうか?」
 紅音の声が響き渡る。演技をしているときの彼女は、普段の何倍も魅力的だった。一つ一つの動作がとても自然で、それでいて、大きく、目にはっきりと映っている。計算されつくした自然。
 ――主人公はある貧しい姉妹。妹は姉のために盗みを働いてしまう。姉は思い悩み、その罪を償わせようとするが……。
「お姉さま、あなたは私の思いを分かってくださらないのですか?」
 妹役の綾香が悲痛な叫びを上げる。
「……どうして本当の姉妹じゃないんですか?」
 祐巳は既に出番を終え、真剣な面持ちで舞台を見つめる蒼美に尋ねた。
「――もうすぐ分かるわよ」
 視線を祐巳に向けることなく、蒼美は答えた。
 話している間も、舞台の上では劇が進行していた。
「もう、私にはこうするしかないのでしょうか?」
 そう叫ぶ紅音の手には、鈍く光るナイフがあった。
 祐巳は一瞬恐怖の表情を浮かべる。
「もちろん作り物よ」
 それを悟ったのか、蒼美が言った。
 姉妹のやり取り、罪の意識と、親愛の狭間。
「劇の中とはいえ、刺されるほうも刺すほうも、本当の姉妹だと、ちょっとね……」
 蒼美が呟く。
 その呟きに導かれるように、紅音が綾香のほうへと向かっていく。
 ドン、と体がぶつかる。
 その次の瞬間、綾香は床に崩れ落ちた。
「綾香っ」
 蒼美が、突然叫んだ。
 舞台では、紅音が綾香の顔を覗き込んでいる。その表情は演技しているそれではなかった。
 何かハプニングが起こったのは誰の眼にも明らかだった。
 祐巳たち山百合会幹部の面々も綾香の元へと急ぐ。
 倒れた綾香の近くには、紅音が突き立てた作り物のナイフが落ちていた。
 その刀身は、鈍い銀色で、赤い血の欠片もついてはいなかった。


「つまりは、紅音さんがぶつかったときに、綾香さんが履いていたヒールが折れて彼女はバランスを崩した、ってこと?」
 薔薇の館のいつもの部屋で、聖が言った。
 演劇の練習中に転倒した綾香は、結局足首を酷く捻挫し、治るのには数週間ほどかかるとのことで、当然のごとく卒業公演には出ることができなくなった。
 ラストシーン、紅音扮する姉が妹である綾香へと作り物のナイフを突き立てた後、本来ならば、そのまま二人は抱き合い、舞台は終わるはずだった。しかし、ぶつかった瞬間、その衝撃で綾香が履いていたヒールが折れ、彼女は転倒したのだ。綾香が履いていたヒールを調べると、一度切り離されて、接着剤で軽く修復された跡が見られた。ヒールが折れたのは、明らかに人為的な原因だった。何者かが故意に、綾香を貶めたのだ。
「そして、またこれが届いていた、と……」
 そう言いながら蓉子が広げたのは、事件後、綾香のヒールの箱の中から見つかった、以前と同じ様式の脅迫状だった。奥に隠すように入れられていたので、綾香は気がつかなかったのだろう。ヒールをしまおうとした蒼美が発見したらしい。そこにはrosa―nihilという署名があった。そこにタイプされている文面は次のようなものだった。
――綾香には、警告だ。――と……。
「とりあえず、rosa―nihilがどんな人物か? というのは後で考えるとして、今回の事件について整理してみてはどうでしょうか?」
 志摩子が提案する。
「そうね――今回のことでrosa―nihil――いえ、犯人が演劇部の内部にいる、というのはどうかしら?」
 江利子が言った。
「え、どうしてですか?」
 祐巳がたずねる。
「まず、演劇部の部室には――演劇部に限らず、クラブハウスの部屋には授業中鍵がかかっているわ。つまり、合鍵かマスターキーを持っていない限り、演劇部以外は中には入れない。もし、入れたとしても、あの靴を今回の劇で使うかどうかは、部外者には分からないわ。あそこには、他にもたくさんの靴や衣装が置いてあるのだから」
 その江利子の言葉に、同席していた蒼美は頷いたが、
「けれど、演劇部にはあんな事をする人なんていませんっ!」
 そう言って身内をかばう。
「今は動機の事は考えずに、純粋に誰に可能だったか、を考えましょう。だって、人の心なんて、他人が考えて分かるものじゃないから……」
 蓉子が言った。
「――分かりました。まず、あのヒールは、昨日私と祐巳さんが一緒に買って、私が家にもって帰りました。そして、今日持ってきて、昼休みに部室で綾香が合わせて。その後は放課後まで手を触れてません」
 蒼美が説明する。
「質問。その昼休みのときはどうだったの?」
 聖が手を上げる。
「あ、昼休みのときはなんともなかったです。私も履いて確かめましたから」
 祐巳が言った。
「――あなた、あんなヒールを履いたの?」
 祥子が微かに柳眉をゆがめる。そして、祐巳にはもっと……だの、そんなのよりも……など、ぶつぶつと呟いている。
「ということは、昼休み以降にあの細工はされたということか……。放課後、部室の様子はどうだったの?」
 聖が蒼美に尋ねる。
「ええと、一番初めに部室に行ったのは、お姉さま――紅音お姉さまだったそうです。私が行く十分から二十分くらい前だったそうです。それからちょっとの間二人で――あ、一回お姉さまはトイレに行きましたけど、それ以外は二人でいました。それからだんだんと人が集まって、それ以降、部室で誰かが一人になる機会はなかったと思います」
 そう言いながら、蒼美は何か心配そうな顔をした。
「あなたの言葉が本当だとすると、ヒールに細工をする時間があったのは紅音さんだけ、ということになるわね」
 祥子の言葉は、冷酷だった。
「けど、お姉さまがそんな事をするなんてっ!――」
 蒼美が立ち上がる。
「そうですよ。それなら、まだ部外者の仕業だって言うほうが納得できますよ」
 祐巳も言う。
「誰も、紅音さんがやった、とは言ってないわ。ただ、放課後に細工をする時間があったのは紅音さんだけ、と言っただけ。部外者が授業中にやった、とは否定できないわ」
 祥子の言葉に、祐巳は安心した顔をした。
「ところで、劇はどうするの? 綾香さんは無理なんでしょ?」
 由乃がたずねる。
「ええ、代わりに私がやることになったわ。元々今回はその他大勢の一人だったし、私の代わりは誰でもできるから……」
 そう言う蒼美の表情は、どこか悲しげな、どこか切ない表情だった。
 蒼美が綾香の代わりをやるということは、蒼美は姉である紅音に、演技とはいえ刺されなければいけないのだ。
 本当の姉妹だから――だからこそ、刺されるのはいやなはず。事実、彼女は先ほどそう言っていた。祐巳はその事を思い出し、複雑な気分になった。
「そういえば、蒼美さんのヒールはどうだったんですか?」
 祐巳がたずねる。
「私のはね、残念ながら大丈夫だったわ」
 蒼美は静かに答えた。









第3章に代えて――好事家に注意を促す文章――

 いささか短いとも思われるが、以上で問題を解くのに必要な条件は全て提示されている。犯人――rosa―nihilを指し示す事は不可能ではない。答えとして選び得る選択肢は非常に少ない。あてずっぽうに答えても正解にたどり着く事はあるだろう。しかし、私がここで一部の好事家に望むのは、そのような当て推量で得られる答えではない。むしろ重要なのは、正解にたどり着くまでの論理である。答えは論理の末に求められる当然の帰結に過ぎない。極論、論理が正しければ答えなど要らない。
 もちろん一部の好事家は、このような文章が無くとも十分な論理を持ち、結末を予想しているだろう。それにもかかわらず私がこのような一文を挟んだのは、全てrosa―nihilという言葉の持つ意味にある。一部の好事家には、薔薇があり、虚無があればその意味するところのものは一目瞭然、もはや説明することもためらわれるほどである。一部の好事家にはその意味するところにより犯人――rosa―nihilの正体を見破ることも十分可能であろう。もちろん、一部の人名はそのものを意識してつけられたものである。しかし、問題を解くのにその事実は必ずしも必要ではない。
 そして、rosa―nihil以外にも数多くの証拠を示しているのにもかかわらず、薔薇と虚無の意味が分からない人。そのような人には、少なくとも日本国内でミステリファンを名乗る資格は無いと思われる。

 「ミステリ好き」を自称するならば、以降の章で探偵役が事件の全容を明らかにするのを予想するだろう。また、その探偵役を誰が務めるかを考えているかもしれない。しかし、上で述べたように、事件の全容は既に明らかである。問題は明らか――rosa―nihilの正体は? それを解き明かすのに必要な条件も全て述べた。後はそれを組み合わせるだけである。ジグソーパズルよりも容易に組み合わせられるだろう。ミステリ好きを自称する人にそれをわざわざ説明するのは、少しばかりおせっかいが過ぎるというものだろう。また、演出のうえからも、以降の章で通常思われているとおりの解決――探偵役が関係者を集めて事件を全てを解き明かしていくシーンを挟む事は望ましくない。ミステリ好きには、それぞれ自分の論理を持ち、以降の文章を読まれる事を期待する。
 なお、ミステリ好きではない人のために、解説を設ける予定である事を追記しておく。

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