虚現の国の――
長屋 言人
静まり返る劇場。
数多の物語がその舞台の上で演じられた。
笑い、泣き、人の感情があらわにされている。
そして、今日もその舞台の上で、またひとつの物語が。
さあ、客席の照明が落ちていく。
あなたのあなたによるあなたのための舞台が始まる。
今、ゆっくりと舞台を隠していた幕があがる――
*
1
目が覚めた。
暗闇の中。
視覚が消え去るだけで、驚くほどに存在は希薄になる。
草木も眠り、音は無い。失っていないはずの聴覚も役には立たない。
愛しむように左の手首にそっと指を触れる。かろうじて残った触覚が脈拍を感じる。弱々しく、今にも止まってしまいそうな脈動。
とくん……とくん……とく……
規則的、自律的な反復。
だんだんと暗闇に目が慣れる。
ここはどこなのだろうか?
横たわるのは硬い床。
両脇に木のベンチが並び、向かう祭壇には何も供えられてはいない。
薄い光がステンドグラスから差している。照らされる私。
いったい、私はどこにいるのだろうか? そして、私はいったい何者なのだろうか? 薄明かりの中で考える。
弱々しくも立ち上がり、生贄の無い祭壇に向かう。一歩一歩ゆっくりと。そこにいない神に、何を祈るのだろうか?
気がつくと、歩みにあわせるように壁をロウソクが彩っていた。人の背よりも少し高いあたり、左右の壁を一列に弱い光のラインが燈る。
ぎぃと扉の開く音。
後ろを振り返ると、両開きの大きな木の扉が開いていた。そこから現れるのは一人の可憐な少女。
「――あなたは、誰?」
少女が問いかける。
「私は……アリス」
自然と言葉が出る。
私の名前? 本当に?
全く確信がもてなかった。
それでも自分の名前が出るだけで、消え去りかけていた存在が確かなものになっていく。
私の返答を聞いて、彼女がにっこりと微笑んだ。
「ようこそ、アリス。
……ああ、迷い込んだあなたがアリスなら、道案内の私はウサギね」
静々と歩く少女。ウサギは私の前に立ち、すぅと手を差し伸べる。
「行きましょう。私、あなたと色々お話したいわ」
そう言って手を引いて歩き出そうとする。
「行くってどこへ? 話ならここでも……」
私はあせってウサギに言う。
すると、彼女は私のほうへと向き直り、右手の人差し指をぴっと私の唇につけた。
「眠りにつくのは寝室、食事をするのは食堂。ここはお祈りをするところよ。お話をするならお話をするのにふさわしい場所に行かなきゃ」
私は、彼女の歌うような声がとても気に入った。
「……お話にふさわしい場所ってどこなの、ウサギ?」
「ふふふ、談話室よ」
私の質問に、ウサギは笑って答えてくれた。
重厚な扉の向こうには、緋色のカーペットが敷かれた廊下が伸びている。ちろちろと薄暗いランプの灯りが差し、私とウサギの行く先を示している。前を行くウサギが着るブレザーのすそがひらめいている。
「ねえ、ここはどこなの?」
私はその背中に問いかけた。
「……ここは、ここよ。他のどこでもなく、私とあなたがいるところ」
顔をちらりと覗かせて、彼女はそう答えた。
「そうじゃなくて……」
私が聞きたかったことと彼女の答えは違っている。
「ここはここ。それ以上でもそれ以下でもないわ。あなたはここにいて、私もここにいる。それで十分じゃない? それとも、あなたはここにいる時だけがあなたで、どこか違うところへ行ったら違う人になってしまうの?」
ウサギは立ち止まり、私のほうを向き直る。
「……いいえ、違うわ。私はどこにいても私。……きっと」
答えながらも、私は自信がもてなかった。
私はどこにいても私?
どうしてそんなことが言えるの?
私は、自分の胸に手を当てて考える。薄暗い灯りに照らされた、セーラー服。これが本当に私なの?
気がついたら、ウサギは笑みを残して歩き出していた。
2
談話室では、数人の少女達が談笑していた。ウサギや私のように黒髪の者だけでなく、金髪や赤毛の少女もいる。ただ、それらはすべて染めた髪ではなく、彼女達自身の色だった。少女達に共通していること――それは、全員が学校の制服のようなものを着ていることだった。ウサギと私も例外ではないのだけれど……。
四人掛けの丸テーブル、私の隣にウサギが座る。彼女の横顔を見つめる私。窓の外は鮮やかな緑。そこから差す光が、柔らかく暖かく私達を照らしている。
「飲み物は、紅茶で良い?」
テーブルの上のポットから、赤い紅茶を注ぐ。私の分と、自分の分。
私は、砂糖だけ入れてそれを飲んだ。
「それじゃあ、いくつか質問良い?」
砂糖とミルクを入れた紅茶をかき混ぜながら、ウサギが言った。
「――ええ。私に答えられることだったら、何でも答えるわ」
暖かい液体は、私を落ち着かせてくれた。
「アリス、あなた紅茶は好き?」
「ええ」
たった一杯の飲み物が、私を落ち着かせる。だから、私はそれが好き。
「そう、あなたも紅茶党なのね? 良かったわ、仲間ができて。私のお友達はどうしてかコーヒーが好きな人が多くて……」
そう言ってため息をつく。
「お友達? あなたのお友達はたくさんいるの? ここにはいったいどういう人たちがいるの?」
尋ねる私に、ウサギはちょっと困った顔。
「どんな人、ね……難しい質問ね。そういうふうに一言で表せる人たちじゃないわ、みんな。あなただってそうでしょ? アリス」
私? 私はどうなのだろうか?
どこから来て、何をして、何を考えているのか。
私は――私には何もない? 私を表すのに、一言も必要ないの?
「でも、みんなあなたに逢わせてあげたい人ばかりよ」
私の沈黙を肯定と受け取ったウサギが言葉を繋ぐ。
「――私も逢いたいわ」
それはごまかしではなく、本心だった。私は、ウサギの友人達に興味があった。
ここにいるのは、いったいどういう人たちなのだろうか? ということに。
「良かったわ。嫌だって言われたら、私とても悲しい思いをするところだった」
そう言って、彼女はほっと胸をなでおろしている。その表情を見て、私も安心した。
二人で紅茶を飲む。
少し温くはなっているけれど、心地良い。
「私もお邪魔させていただいてよろしいかしら?」
顔を上げると、そこには少女が立っていた。ショートカットに精悍な顔立ち。声や仕草から少女だとわかってはいるが、一見しただけだと、少年に見間違ってしまうだろう。
「あらヨシコ、来ていたのね。もちろん良いわよ。一緒に楽しみましょう」
ウサギはその少女――ヨシコに椅子を勧めつつ、その大きな目で私に確認をとる。私も無言でうなずく。
「アリス、こちらはヨシコ。今話していた私のお友達よ。――ヨシコ、こちらはアリス。先ほど会ったの。これからあなた達に会いに行こうと思ってたのよ」
テーブルの上には、ティーカップがひとつ増えている。
「はじめまして、アリス。よろしくね」
ヨシコは私に晴れた朝のような笑顔をくれた。
「はじめまして……」
私も彼女に笑顔を返す。ちゃんと笑えているのかな?
この建物は、正方形の回廊型をしている。私が今いる側と、その反対側。中庭を取り囲んでいる。その中庭の中心には泉があるという。
そして、この建物の周りは――
「開いた森?」
私は聞きなれない言葉に声を上げる。
「そう、開いた森」
ウサギは確かにそう繰り返した。
「開いているってどういうことなの?」
私の知る限り、開いた、と言うのは森に付く修飾語ではない。
「どういうことね……実はね、私もちゃんとわかっているわけじゃないの。ずっと開いているって言われているし、あの森はそういうものだと決まっているから……」
答えるウサギも困ったような顔。
「そういう時は、あの子に聞けば良いのよ。ほら――」
どうやらヨシコも難しい話はあまり好きではないらしい。
「ああ、ラプンツェルね。彼女ならうまく説明してくれるわね」
「ラプンツェル?」
どこかで聞いたことがある、名前。
「ええ、それじゃあ、早速これから彼女に会いに行きましょう」
そう言ってウサギは席を立つ。
「ごめんなさい、私は遠慮させてもらうわ」
しかし、ヨシコは席を立たない。
「私、彼女ちょっと苦手なのよ。少し話が難しくて……」
苦い顔で紅茶を飲む。
「ふふ、いつもヨシコはそうなんだから。ラプンツェルのお話とっても面白いのに」
ウサギがからかうように言う。
「あの話が面白いっていうあなたも、十分に変わってるし、面白いわよ」
ヨシコの仕返しはちょっと弱い。
「アリスも、ラプンツェルのお話が面白くないって思ったら素直に言うのよ。あの子、黙ってたらいつまでも話し続けるんだから」
そういうヨシコは苦笑い。どうやらその経験があるらしい。いや、その経験があるからこそ、今の反応があるのだろう。
「行きましょう、アリス」
話していて気が付いたことだが、ウサギは少し気が早い。決めたことはすぐに実行するという性格のようだ。
「ええ、わかったわ。
それでは、ごきげんよう、ヨシコ。また会いましょうね」
私はヨシコにいとまを告げる。
「また一緒にお話しましょうね、アリス。――あなたの話はラプンツェルと違ってとっても面白いわ」
彼女はそう言って私を送り出してくれた。
3
談話室から廊下へと出る。
「さて、どのルートを通っていく?」
ウサギが私に尋ねる。
「どのルートって?」
ラプンツェルのところまで行くのにはそんなにたくさんの道筋があるのだろうか?
「えーとね、彼女の部屋はここから大体ほぼ反対側にあるの。それで、この中を通っていくのか、それとも中庭を通っていくのか、という事。あなたはどちらの道を通っていきたいのかしら?」
先ほど談話室で聞いた話を思い出す。
この建物はロの字型。その中には泉。私は、その泉が見たかった。
「私は、中庭を通って行きたいわ。先ほど話していた泉が見てみたいの」
その事を伝える。
「分かったわ。実は私も中庭を通って行きたかったの。とっても奇麗なのよ」
そう言って、ウサギは私を中庭へと続く扉に誘う。
薄い焦茶色の扉。その向こうにはどのような光景が広がっているのだろうか?
ウサギがその扉を開ける。
差し込む光。一筋の道が出来上がる。
その道の向こう、一直線に並木道が続いていた。
薄い色の桜並木。
「本当に、奇麗……」
無意識に足が進む。
「この桜は、どこまでも満開で、いつまでも花びらが舞い続けるの」
私の後を追いながら、ウサギが説明する。
「どこまでも? いつまでも?」
「どこまでも、とは言っても、ここから真ん中の泉までなんだけれど」
桜色の絨毯が薄く敷かれていて、歩くたびにフワフワと軽く舞う。
「ほら、もうすぐ泉よ」
ウサギが指す先に、水の光が見えた。
それは、石に囲まれた奇麗な泉だった。さらさらとした水で満たされている。
「これが、”泉”……」
私の目はその中心に吸い込まれていた。
そこからはこんこんと水がわき出し、それと同時に虚空の闇へと水が飲み込まれて行く。生成と消滅が同居していた。
水はどこまでも澄んでいる。だからこそ、そこのないその泉の奥の奥までが見通せていた。
「どう? 不思議な感覚でしょう。でも、ラプンツェルが言うには、これは何の不思議でもないって。いえ、それどころかこうじゃなければいけないのだって」
「こうじゃなければいけない? 泉はこうやって水がずっとわき出していて、ずっと水が吸い込まれているのが普通だって言うの?」
「私も良くは分からないの。……ヨシコほどじゃないけれど、私にもラプンツェルの話は難しいのよ」
ウサギはそう言って、ごまかすように舌の先を出して笑う。
「私、ますますラプンツェルに会いたくなったわ」
「それは良かったわ。ヨシコや私の話を聞いて彼女に会いたくなくなった、なんてあなたに言われたら、私ラプンツェルにおこられちゃうわ」
「……彼女って、怖い人なの?」
「そんな事ないわよ。彼女は、決して私を責めないわ。でも、きっと彼女は残念に思うから。その残念そうな顔が私を責めるわ」
きっと、ウサギはラプンツェルが好きなのだろうと思った。
泉の向こう側、桜の並木は紅葉の並木へと変わっていた。
「これは……」
私は言葉を失う。
今まで歩いてきた道は春の桜。
これから行くのは秋の紅葉。
「どこまでも続くのも、いつまでも続くのも変わりないわ。ただ、季節が違うだけよ」
立ち止まったままの私の横で、ウサギが歩き出す。私もそのあとを追う。
足元で落ち葉がかさかさと音を立てる。乾いた音が、空に舞う。
葉は永遠に落ち続ける。
「でも、やっぱり道には終わりがあるの」
秋は終わりを告げ、扉が姿を現していた。
永遠の春に永遠の秋が続く。終わらない桜と紅葉にも、始めと終わりがある。その中間には真実に終わることのない始まりと終わりがある。
有限の中に無限がある。
ウサギが扉を開ける。
その薄暗い廊下の向こうにいるはずのラプンツェル。彼女はその答えを教えてくれるのだろうか。
4
螺旋を描く階段、その最上階へと向けて、ウサギと私は上り続けていた。
「最上階に住んでいる閉じこもり。だからラプンツェル」
軽く息を切らせながら彼女が説明する。
「でも、髪をつたわなくてもちゃんと部屋に入れるから心配しないでね」
「閉じこもりって、誰かに閉じ込められているの?」
「そういうわけじゃないわ。ここには彼女を独り占めしようとする魔女も、一目惚れする王子もいないわ。ラプンツェルはただ自分の意思で部屋にずっといるだけ」
「閉じこもって、何をしているの?」
「読んだり、書いたり、考えたり。あとは部屋を訪れる人と話をしたり。そう、アリスと私のように」
ロウソクの灯りが、螺旋を描いている。
「彼女は、どういう本を読んでいるの?」
「小説、戯曲、論文、啓蒙書……もう、何でも読むのよ。だから、私たちが知らないことを知っているの」
「小説って、どういうジャンルの?」
「もちろん、彼女にジャンルなんて関係ないわ。もう、頭の中がどうなっているのか知りたくなるくらいにごちゃごちゃよ。一冊ごとに読んでいる本の種類が違うの。……話すときも大変よ。一言二言交わした次の瞬間には、もう他の話題に移っているのよ。付いていくだけでもう大変なの」
「……私、付いていけるのかしら?」
「ふふふ、心配しないで。彼女は優しいから大丈夫よ」
ウサギはそう言って私を安心させてくれた。
「ほら、話しているうちに着いたわ。ここが最上階、囚われの少女が閉じこもる部屋よ」
軽口と共に彼女が指差した先には、今まで見た中で一番重たい扉が立ちはだかっていた。
響くノックの音。
乾いていて、重たい。
「ラプンツェル、ウサギよ。入っても良い?」
中へと届くよう、少し大きめな声を出す。
「――どうぞ」
扉を通した返答は、くぐもって湿っていた。
「それじゃあ、入るわよ」
ウサギが扉を押す。
蝶番が軋んだ音を立て、厚い扉が開かれる。
「いらっしゃいウサギ。それと――」
中にいる少女が私の顔を見つめる。美しい、清流のような髪。魔女も、彼女の髪を触ったら、絶対にそれをつたって塔を昇り降りしようとは考えないだろう。そんなことをして、傷つけてしまいたくはないから。それほどまでに心奪われる。
「――彼女はアリスよ」
ウサギが私を紹介する。
「こんにちわ、アリス」
ランプの灯りに照らされた部屋、床には幾冊もの本が堆く積まれている。
その部屋の中、ラプンツェルは紺色のスカートに白いシャツをだらしなく着てソファーに横たわっていた。手にはそれまで読んでいたのだろう、緋色のハードカバー。
「はじめまして、ラプンツェル。――今は何を読んでいたの?」
「今はね、これ。……もう何回も読んでいるんだけど」
そう言いながら彼女は手にしていた本を投げる。落としそうになりながらも受け取ったその表紙には、虚無への供物と書かれていた。
「面白いの?」
ぱらぱらとページをめくる。
「面白い、と言うよりも、その小説はすべてなのよ。何もかもがそのためにあり、それはすべてのために存在している。
――さあ、そこへ座って。私と話に来たんでしょ?」
彼女が指す先には、この部屋の中で奇跡の様に本に埋もれていない椅子が二つ。ウサギが私を目で誘う。グラスファイバー入りのプラスチックが、私の体を優しく受け止めてくれた。
「やっぱりこの椅子座り心地が良いのよね。本当に、私の部屋に欲しいわ」
ウサギの言葉どおり、その椅子は本当に気持ち良い。体の曲線に、すっと吸い付くようだった。
「さて、今日はどんな話をしようかしら」
横になっていた体を起こし、ウサギと私に向き直る。
「アリスにここの説明をしてあげて欲しいの。いつもあなたが私達にしてくれるように」
「いつも話しているのだから、あなたが説明すれば? ウサギ」
ラプンツェルの言葉に、ウサギの顔は曇る。
「そんな、私があなたの話の半分も理解していなのはわかっているくせに」
が、その言葉に悪びれた様子はない。
「なに、気にしないで。言ってみただけだから。
――さて、それじゃあどこから話そうかしら」
ラプンツェルは一瞬考えるように斜め上に視線を向ける。
「あ、あの、それじゃあ”開いた森”について教えてもらいたいわ」
談話室で受けた説明の中で、一番不思議だった言葉。開くとか閉じるっていったい何?
「ああ、建物の周りの森ね。良いわ」
そこで一息、呼吸を整える。
「森は、開いているの。アリス、あなたは開いているという言葉の意味、わかる?」
彼女の言葉で、私は考えをめぐらす。
開く……
「――閉じていない……中と外……境を通り抜けられる」
イメージのまま言葉にする。
「その境はどこに?」
ラプンツェルはさらに問いかける。
「それは……」
そんなの、森を出たところにあるに決まっている。
「開いているということは、境がないということ。どこまで行っても、境には行き着くことがない。それが開いているということ」
「でも、それはどこまで行っても外には出られないということでしょ? それは閉じているという意味になるんじゃないの?」
私の返答を受けて、ラプンツェルは少し考え込むようにカップの中の液体を口にする。どうやら彼女はコーヒー党のようだ。
「そうやって自分で考えていくのは良いことよ。ただ他人の言うことを鵜呑みにしていくのではなく、あくまで自分で考えるというのが大切なのよ。その点ではあなたは素晴らしいわ。
――閉じているということは、内と外を分ける確固たる境目が存在するということ。だから、その境目さえ越えれば外へは出られる。けれど、開いていると、その境目にたどり着くことができない。どれだけ境界に近づこうとも、あなたと境界の間には埋められない隙間があるのよ。それが開いているということ」
彼女の言葉を反芻する。どこかで感じた意識。
「それは――有限の中に無限があるということ?」
桜と紅葉の並木道、その真ん中の泉。私は今通ってきた道を思い出す。
その私の返答を、ラプンツェルは満足そうに頷きながら聞いていた。
「アリス、あなたは本当に素晴らしいわ。どうしてそんなに本質を簡単に言い表すことができるの?」
「ええと、ここへ来るときに中庭を通ってきて、並木道と泉を見てそんなことを考えていたから」
「そう、あれも春夏秋冬が無限に連なっている。それぞれの季節は有限だけれど、一つ一つの時間は無限に流れているし、繋がったものも無限。あれを見てそうやって本質をつかめるというのは一種の才能ね。ひたすらに考え抜いて本質へとたどり着くのは、確かに大切かもしれない。でも、あなたのように直感で本質へとたどり着くのも重要なことね」
「そんな、褒められるものじゃないわ。ただそう感じただけで、それが何を意味しているかとか、そういうのは全く分からないのだから」
「もちろんよ。あなたが直感だけで結論だけでなく証明まで埋められるというのなら、私はきっと嫉妬に狂ってしまうわ。示すことの悦びは私に残しておいて欲しいわ」
彼女の口調は独特な感じがする。これだけの言葉を言っていながら、それがほとんどいやみには感じられない。
「うーん、アリスはラプンツェルと話せる人なのね」
話す私たちの様子を見ていたウサギが口を挟む。
「あら、ごめんなさいウサギ。あなたには退屈な話だったかしら?」
ラプンツェルがウサギのほうに顔を向ける。
「大丈夫よ。だって、あなたの話が難しいのはいつものことなのだから。けれど、今日はいつもよりとっても面白いわ。だって、アリスがちゃんと話せているのだから」
ウサギはそう言ってラプンツェルと私を順に見る。
「ありがとう、ウサギ、ラプンツェル。そうやって言われると、本当にうれしいわ」
褒められて、素直にうれしいと思った。
「本当にあなたとは良いお友達になれそうだわ。――そうだ、アリスは本に興味がある? なかなか私のように本に興味を持ってくれる人がいなくて……」
少し寂しそうな顔でラプンツェルが言う。
「――ねえ、私に本を貸してもらえたらうれしいんだけれど」
私がそう言うと、彼女はうれしそうに笑った。
「じゃあ、どんなのが良いかしらね……やっぱり小説が良いわね。そう、あなたのように直感ですべてを理解できる人にはこれが良いかもね」
彼女が差し出した本の表紙には、黒死館殺人事件と書かれていた。
「あ、それ私がすぐにあきらめたやつ」
覗きこんでウサギが言った。
「そうよ。あなたが五十ページでヨシコが十ページ。……きっとアリスは最後まで読んでくれるわ」
ラプンツェルはそう言うが、私はその本の厚さにちょっと自信がなかった。
「大丈夫、一晩で読んでなんて無茶なことは言わないわ。ゆっくりで良いから、あなたが感じるとおりに読んで。無理に理解しようとしちゃいけないわ。無理に考えることは、あなたの本質とは全く逆のことだから。それじゃああなたの良いところが全部消されてしまう」
彼女は私を見つめてそう言った。
「でも、これは推理小説でしょ? 推理小説は、自分で犯人だとかトリックだとか、そういうものを考えて読んでいくものじゃないの?」
私はそれが常識だと思ったいた。
「違うわ。どうして推理小説だからって誰もが考えなくちゃいけないの? 確かに私は推理小説を読むときは色々なことを考えている。でも、SFを読むときも私小説を読むときも科学書を読むときも、何を読むときだって私は常に考えているわ。なぜならそれが私だから。私は考えなくてはいけないから。
でも、あなたは考えなくても読める人。私が思考を繰り返してたどり着いた結論に、あなたはそこを歩いてたどり着いた。結論は同じでもアプローチは全く違ったのよ。あなたは歩くだけで何かを感じ取れるかもしれない。私はその場に行かなかったとしても、考えるだけで結論へとたどり着ける。そんなに違うのよ、アリスと私は。だから、同じように本を読んでいてはだめ。
違う人間なのだから、違う風に本を読むのが自然なのよ」
言い終えて、ラプンツェルは温くなったコーヒーでのどを潤していた。
「――やっぱり最後にはわからない話になるのよね。私には難しいんだけど、結局は自分の好きなように読めば良いっていうことね?」
ウサギが少しあきれたような声を出す。
「まぁ、そういうことね」
「だったら始めからそう言えば良いのよ。わかった?
アリスは、こんなにひねくれたものの言い方するようになっちゃだめよ」
その、少し勝ち誇ったようなウサギの言葉が面白くて、私たち三人は顔を見合わせて笑った。
5
「うわぁ」
私はウサギの部屋の窓から見える光景に、思わず声を上げた。
「どう、きれいでしょ?」
「本当に、きれい……」
眼下には真っ白な処女雪が降り積もっていた。広い雪原の向こうには、開いた森。
ウサギと私は、ラプンツェルの部屋を辞したあと、二階下にあるウサギの部屋に来ていた。今まで、夏の庭に桜並木と紅葉並木を見てきたから、ある程度の予想はできていた。春夏秋があって、冬がないのはおかしいから。
「ここは毎日雪が降るから、すぐに足跡も消えてきれいになるのよ」
「そうなの……」
雪原のほぼ中央に東屋が見える。そこへ一段低くなった道が続いている。今日は誰も歩いてはいないのだろう。そこにはひとつも足跡がついていない。
「あそこに行ってみたいわ」
あの東屋から周りを見渡したら、とてもきれいなのに違いない。
「そうね。私もあそこは大好きよ。でも、今日はもう疲れたでしょ? 休んで明日にしましょう?」
「そうね。今から体を動かすのは、ちょっと大変かもね」
彼女の言うとおり、確かにちょっと疲れている。
「私はこっちで眠るから、あなたはそっちのベッドを使って。ラプンツェルから借りた本を読むのなら、枕もとの読書灯を使うと良いわ」
ウサギが示す先には、ふかふかして気持ち良さそうなベッドと、シンプルなシルバーの白熱灯があった。
「ありがとう、ウサギ。私、この本を少し読んでから眠ることにするわ」
「そう。あまり熱中しすぎて、ずっと起きているというのは無しよ」
彼女は私の顔を覗き込みながらそう言った。
「ええ、気をつけるわ」
そう言いながらも、私にはあまり自信がなかった。
「それじゃあ、おやすみなさいアリス」
ウサギはランプを消し、暖かそうなベッドに包まった。
「――おやすみ、ウサギ」
私は、スイッチを押して読書灯をつける。オレンジ色の光が手元を照らす。
一ページめくると、すぐに私は小説の世界に捕らわれて行った。
謎の一族に古色蒼然とした館。いくつもの象徴的な事物。数多の言葉が私を惑わせる。
事象が言葉を生じさせ、言葉が数々の事件を起こす。
もはや事件を起こしているのは犯人ではなかった。器である建物が一人一人を殺しているのだ。それは、その館が館であるために。いくら探偵が努力しようとも、無駄な努力。なぜなら小説の中では、建物は世界そのものであり、登場人物は世界には逆らうことができない。
神秘楽団の|鎮魂歌《レキエム》が薄く流れ、|鐘鳴器《カリルロン》が|讃詠《アンセム》を奏で始めた頃、外ではゆっくりと白雪が降り始めていた。窓の外に目をやると、足跡ひとつない雪原があった。きれいに、まっさらに、雪が積っていく。
置時計を見ると、針は午前二時を指している。
栞を挟んで本を閉じ、白熱灯を消すと、部屋を暗闇が支配する。
暫くして目が慣れると、雪明りが仄かに窓から差し込んでくる。灯りと呼ぶには弱すぎるその光は、横たわるウサギと私を柔らかく包み込んだ。
意識がだんだんと薄れていく。目覚めたのは礼拝堂。その時とは逆の経過をたどっていく。右手の指で、左の手首に触れる。
とくん……とくん……とく……
自立的で、単調な反復。
だんだんと右の人差し指が鼓動を感じなくなる。
私は……
6
目が覚める。
部屋の中には薄い光が差している。
「起きて、アリス」
私はウサギの声で体を起こした。
「どうしたの? そんなにあせっているような声をして」
「見て、アリス。雪原の東屋で……」
彼女に促されるまま、私はあの雪原を見る。
白い雪、雪に隠れる白くて開いた森。そして、その中間に位置する東屋。その白い屋根の下には、赤い少女が倒れていた。
「あれは……」
私の目は、その赤から離れようとはしない。
「――行きましょう、アリス」
ウサギが私を誘う。
「わかったわ。行きましょう」
身支度を整え、彼女と共に部屋を出る。二人で廊下を進み、螺旋階段を下りながら、先ほど見た光景を思い出す。
真っ白な雪は、とてもきれいだった。この建物から東屋までの間には、一筋の足跡すらなかった。
美しい雪の真ん中に、ただ一輪の赤い花が咲いていた。
一階へとたどり着く。
ウサギが冬への扉を開ける。階上から見たとおりに、足跡ひとつない雪原があった。そこに、二筋の線を描き、東屋へと急ぐ。軽い音が鳴る。粉雪がふわりと浮く。
たどり着いたそこには、一人の少女が、首から血を流して倒れていた。その少女の姿に、私は違和感を覚える。なぜだかわからないが、彼女はここで死んでいてはいけない、そう思った。少女にはここよりも相応しい死に場所がある。核心にも近い考えが。
「ああ、オフェリヤ!」
ウサギが倒れている少女に駆け寄った。
「その娘は、オフェリヤというの?」
「ええ……どうしてこんなことに」
彼女が抱き寄せるオフェリヤは、水を浴びたあとのように、全身が濡れていた。
「誰がこんなことを……」
ウサギが呟く。青白い肌のオフェリヤの首には、そこを傷つけたはずの刃物は残っていない。それどころか、東屋のどこにも、血に濡れた刃は見当たらない。
オフェリヤは、その体に纏っているブラウスは、元は周りの雪のように真っ白であったのだろう。しかし、今はその血で薄桃色に染まっている。滑らかで金色のその髪は生気無く、透ける肌に張り付いていた。
立ち上がり、周囲を見渡す。
東屋と建物の間には、ウサギと私の足跡だけがある。そして――
「これは?」
東屋から森に向けて、まっすぐに足跡が伸びていた。
「誰かの足跡?」
いつの間にか、後ろにはウサギが立っている。
「……追ってみる」
私は、歩き出そうとする。暗くもなく、明るくもない開いた森に向けて。が、
「行かないで――アリス」
ウサギが、私の肩を捕まえていた。
「ウサギ……」
私は彼女も顔を見つめる。
「怖いわ。だから行かないで」
潤んだ瞳。
「わかったわ。――彼女の部屋、どこかわかる?」
視線を横たわるオフェリヤに向けて尋ねる。
「え? わかるわ。でも……」
「彼女、ここにこのままというのは……」
「そうね。それじゃあ――」
ウサギがオフェリヤの肩に腕を回す。私はもう片方の肩に。
抱えたオフェリヤの背は、私達より少し小さくて、だいぶ冷たかった。
7
オフェリヤを彼女の部屋のベッドに寝かせたあと、ウサギと私は昨日昇った螺旋階段をまた昇っていた。
昨日はウサギがノックしたドア、今日は私が敲く。
「――どうぞ」
昨日と同じ、少しくぐもった声が聞こえる。
「お邪魔するわ、ラプンツェル」
「どうしたの? 二人ともおっかない顔をして」
ベッドで上半身だけを起こしたラプンツェルが尋ねる。
「……オフェリヤが」
ウサギは、それしか言えない。
「――どこで?」
ラプンツェルの表情が変わる。
「あの……雪原の東屋で、首から血を流していて」
昨日見たのとは違う表情のラプンツェルに私は答えた。
「東屋? そう……」
彼女は短く呟いたあと、黙り込んでしまう。ウサギと私は、昨日と同じ椅子に座った。誰も口を開かない。けれど、その理由は三者三様。ウサギはオフェリヤの死にショックを受けていて、ラプンツェルはオフェリヤの死の謎を考え続けている。私は、ただ二人とも話そうとしないから、何も口にしないだけ。
何気なく、部屋の中を観察する。昨日ここから出たときと、様子は全く変わっていない。外は明るいのに、窓は締め切られ、カーテンも光を閉ざしている。ランプがたったひとつの灯り。
その灯りがたてる音だけが響く。
微かに、細く、私も思考を紡ぐ。
冬の庭、雪の中。
冷たく濡れて死んでいたオフェリヤ。
「オフェリヤなのに、どうして雪の中で死んでいたのかしら?」
私の口が、その沈黙を破った。
「それはどういうこと、アリス?」
ラプンツェルがそれに続く。
「アリスはオフェリヤのこと知らないのよね? なのにどうしてそういうことが分かるの?」
ウサギも私に聞く。
「それは……オフェリヤは泉の中で、花に囲まれているのが相応しい、そう思ったの」
濡れた体を雪の中に見つけたときに感じた違和感。その違和感を突き詰めていった答え。それが、私の口をついて出たのだった。
「オフェリヤ……泉……花……ということは、犯人は――」
言葉と共にラプンツェルが私を見つめる。
「……けれど、その名前の人がここにいるの? 彼《・》は《・》、ここにいるの?」
私は、ラプンツェルに聞き返す。
「彼? どうして、ホレイショが男だと決め付けるの? 名前から単純に男女の区別なんてつけられないわ。見た目から区別ができないように」
彼女から、その名前が出る。
「ねえ、そのホレイショというのは?」
ウサギが私達に聞く。
「知らないの、ウサギ? 残念ながら、私の部屋には今シェイクスピアが無いの。ちょうど貸し出し中。――あとで図書室で読むと良いわ」
「わかったわ……。そうやって簡単に教えてくれないところ、あなたらしくて大好きよ」
答えるウサギは、少し落ち着きを取り戻してきているように見える。いや、ラプンツェルの言葉が彼女をそうしたのだろう。ラプンツェルがそういう気遣いをするとは、あまり思っていなかった。
「それじゃあ、ホレイショについてはウサギがハムレットを読んでからにしましょうか。
――あと他に気がついたことはある?」
ラプンツェルが私に向かって尋ねる。
「他に? どうして首が切られていたのかな? ということくらいかしら」
流れた血がオフェリヤの遺体に彩を添えていたのは事実。しかし、それが死に至るまで血を流すことの理由にはならない。
「オフェリヤの最期は入水。確かに首を切られて、というのはおかしいわね」
ラプンツェルが首をひねる。
「――それも本を読めば良いのね」
「そう、分かってるじゃないウサギ。それもちゃんと書いてあるから心配しないで」
ぷぅ、とウサギは頬を膨らませる。
「そういえばアリス、黒死館はどう?」
ラプンツェルは昨日私が借りた本の感想を求めてきた。
「まだ途中だけど、とても面白いわ」
「本当? それじゃあウサギとヨシコの記録は超えたのね。面白いって言ってくれると、本当にうれしいわ」
彼女は朗らかに笑う。
「でも、まだまだ先は長いし、内容だってちゃんと理解できてるかどうか……」
私はあわてて言い訳する。
「大丈夫よ。長い本だし、一回読むだけですべてを理解できるほど簡単でもないし。ゆっくり楽しんで」
そう言ってくれるラプンツェルが本当にありがたかった。
「それじゃあ、私はこれから図書室へ行こうと思うんだけど、あなた達はどうするの?」
立ち上がりながら、ウサギがラプンツェルと私に尋ねる。
「私はもう少し考えてみるわ。アリス、あなたは?」
ラプンツェルはどこにも行かず、ここで考えるという。
「私も、図書室に行ってみるわ。ちょっと行ってみたいっていうのもあるし」
「良いわね。ウサギがハムレットを読んでいる間、色々と探してみると良いわ」
ラプンツェルはそう言いながら、両手を合わせた。少し言葉に冷たいところもある彼女だが、意外にこのような子供っぽい仕草が似合う。彼女にそれを言ったとしても、言い返されてしまうに違いないが。
「それじゃあ、またあとで会いましょう」
ラプンツェルの声に見送られながら、私達は部屋を出た。
8
螺旋階段を数階分降りたところで、ウサギが話しかけてきた。
「昨日こちらへ来るときは中庭を通ったから、今日は建物の中を通って向こうへ行きましょう」
そう言って、三階の廊下を歩き出す。
「良いわよ」
私は彼女のあとを追う。
「まぁ、本当はね、図書室も三階にあるのよ。階段の昇り降りが大変なだけ」
そう言って、くすりと笑った。
「そうなんだ。――ところで、ウサギはよく図書室に行くの?」
「だいたい、一週間に一回くらいは行ってるかしら」
「じゃあ、実はウサギも結構本は読むのね」
私がそう言うと、彼女は少し苦い顔をした。
「とは言っても、私が自分で読むのじゃなくて、ラプンツェルのお使いで行くことが多いんだけれど」
「そうなの……本も、面白いわよ」
「それはわかってるわよ。私も少しは読むんだから。ラプンツェルみたいに厚い本はちょっと無理だけれど」
確かに、ラプンツェルの部屋にあった本はほとんどが厚いものだった。あれを読むのは、私にも簡単なことではなさそうだった。
「でも、ラプンツェルのお使いっていうことは、彼女は本当にあの部屋から出ないの?」
「ええ。トイレもシャワーもあるし、食べたいときには誰かに頼めばいいし、基本的にあの部屋の中だけで生活することは可能なのよ」
ウサギの部屋にも、同じ設備がある。基本的に部屋は同じつくりなのだろう。印象は全く違うが。
「カーテンも開けないの?」
昼間でもランプを使うというのは、多少面倒なのではないだろうか?
「一回聞いたことがあるわ。太陽の光は眩しすぎるんですって」
「彼女、吸血鬼?」
太陽の光に弱い、といえば私にはそれがすぐに思い浮かぶ。
「でも、血を飲んでいるのは見たことがないわね」
ウサギと私は、顔を見合わせて笑った。
「ほら、ここが図書室よ」
ウサギが開けた扉の向こうには、天井まで届くようないくつもの本棚と、その間に重厚な机が凄然と並べられていた。
「ねえ、さっきラプンツェルと話していたのは、なんという本なの?」
その部屋を漠然と見渡していた私に、ウサギが声をかける。
「ハムレットね。ハムレットはシェイクスピアの戯曲よ。――ハムレット、オセロ、マクベス、リア王で四大悲劇。その中でもハムレットは”to be or not to be”――生きるべきか、死ぬべきかというせりふで有名ね」
説明しながら、私は本棚の間を歩く。インクのにおいと、古びた紙のにおい。今、私の左右には幾百幾千の本が並んでいる。その中では、幾億もの文字達が無数の物語を紡いでいる。物語の中で、何人もの人たちが様々な思いを抱え、限りなく行動を繰り返している。それに思いをはせる。それが本を読むということ。
「あったわ」
私は戯曲が並ぶ棚からハムレットを取り出す。それは、シェイクスピア全集の中の一冊だった。
「ありがとう、アリス。私はこれからこれを読むけど、あなたは?」
ウサギはそう言って、本を机の上に置き、暗い茶色の椅子に腰をかける。
「私は、ここを見てるわ」
私はそう答えて、また本棚の間を歩き出す。これだけたくさんの本があるということは、それだけの想いがあふれているということ。本を読めば、否応無くその思いを受け止めなければいけない。受け止めることができなければ、本を読むことはできない。そう考えて、私はラプンツェルのことが心配になった。彼女は、あの部屋で一人本を読み続けている。来る日の来る日も、あの薄暗い部屋で終わることなく活字に埋もれている。彼女は、毎日いくつの思いを受け止めているのだろうか? それに負けることは無いのだろうか? だから、ラプンツェルは強いのだ、そう思えた。
私は、探偵小説の棚の前で立ち止まる。そこにも同じように、たくさんの本が並んでいる。
ドイル、ポー、クリスティー、クイーン、カー、ダイン、乱歩、小栗、夢野、中井、横溝、連城、島田……あらゆる探偵小説が並べられている。作者達は、その本の中で、幾人もの人を殺している。彼らは、そのすべての死に責任を持っているのだ。小説を書くという行為は、小説を読むという行為とは比べ物にならないほどに、苦しいに違いない。
冒険小説ならば、自分も冒険した気になれば良い。そうすれば、どこへでも旅立つことができる。SFなら、どんなに遠い星でもいけるし、どんなに高度な科学技術だって意のままに操ることができる。歴史小説なら自分の好きな時代を生きることができるだろう。恋愛小説なんて、自分が望むような恋をいくらでもすることができる。その恋がどのような結末に終わろうとも、喜ぶのは自分だけだろうし、悲しむのも自分だけだろうが。純文学だって、自分の心の中を、考えたことを叫べば良いだろう。
それらに比べれば、探偵小説の如何に不健全なことだろうか。探偵小説家が描くのは何か? それは、謎に満ちた事件と、それを華麗に解き明かしていく探偵である。ならば、探偵小説家は何を望む? 冒険小説家は春かな地への旅を、恋愛小説家は燃えるような恋を望んだ。探偵小説家は?
彼らが望んだのは、死。
殺人による、悲劇的な死を望んだのだ。
彼らは、決して探偵の活躍を描きたかったのではない。事件なくして、探偵の活躍は無い。探偵がいなくても、事件は成り立つ。探偵小説の本質は、死である。探偵小説は、その生まれた時から死と謎に彩られている。
私は、モルグ街の殺人を手に取った。ポーが書いた、世界で始めての探偵小説。その中ですでに密室状況での不可思議な殺人事件が描かれている。
始めに死があったのだ。
それ以降どんなに足掻こうとも、ミステリは原罪に彩られているのだ。
殺すことから始まって、殺し続けることで歴史は紡がれている。おびただしい血が、行間に溢れているのだ。
私が次に手に取ったのは、今ラプンツェルから借りている黒死館殺人事件。彼女から借りているのとは、違う出版社から出されたもののようだ。ぱらぱらとめくり、それに目を通す。この中でも、悲劇は起こり続けている。館の中での象徴的な死。
次は、次は……
どれだけ本を手に取ろうとも、いくらページをめくろうとも、殺人が終わることは無かった。
本を棚に戻し、両掌を眺める。べっとりと血に濡れているような錯覚があった。左のほうを軽くなめる。錆びた鉄の味――血の味がした気がした。
きっと、閉じこもりのラプンツェルは吸血鬼で、こうやって物語の中で流れ続ける血を糧にして生きているのだろう。
暫くそうやって殺人現場に身をおいたあと、私はウサギの元へ向かった。
「どう、読み終わった?」
「ええ、ちょうど今」
ウサギは本を机の上に置く。
「で、どうだった?」
私は彼女に感想を求める。
「うーん、どうだったと言っても、私には正直、これがどうやってオフェリヤのことに繋がっていくのかはわからないわ」
「私にも、本当にハムレットがオフェリヤのことに関係があるかはわからないわ。でも、迷い込んだ私はアリス、道案内はウサギ、男装の麗人ヨシコ、最上階に閉じこもっているラプンツェル、名前とその人のありようは何かの関係があると思うの。だから、きっとオフェリヤはその名前によって運命付けられていたんじゃないかしら」
「ふうん、それで、一番有名なオフェリヤの生涯が関係ある、ということね」
ウサギはそう言って表紙を眺める。
しっくりと手になじみそうな、滑らかな布張りの表紙だった。
「ねえ、喉渇かない?」
ウサギが言った。
「そうね、確かに乾いたかも」
朝起きてから、何も飲んでいない。そして、私は血を飲んだという錯覚が余計に喉を乾かしていた。
「それじゃあ、談話室へ行ってお茶を飲みましょう」
彼女が私を誘う。
「ええ、行きましょう」
もちろん、その誘いを断る理由は無い。
ウサギがハムレットを元の場所に戻し、扉のほうへと向かう。私は最後、図書室の中を振り返る。
扉を閉じて、私は世界に別れを告げた。
9
談話室の昨日と同じ席で、ウサギと私は同じように紅茶を飲んでいた。
「ふう、やっぱり美味しいわね」
ウサギはそう言って目を細めた。彼女が飲むのはミルクティー。
「本当に……」
私は、レモンティー。薄い輪切りのレモン。心地よい酸味と、薄い香り。
ゆっくりと流れる時間。
ピアノの音が聴こえてきた。
「――誰かしら?」
私は、音色が聞こえる先を向く。
黒髪の少女が、アップライトピアノに向かっていた。
「ユキよ」
ウサギがうっとりと聴き入っている。
歯切れ良い響き。
舞曲の民族的な響きが私の心を躍らせる。
心の躍るままに、思考も踊りだす。
オフェリヤは死んだ。
ハムレットの一場面とは違い、雪に囲まれて。けれど、その体は濡れていた。雪の中で死んでいた、ということは雪にまみれる、というのが自然ではないのだろうか? 体温で解けた? いや、彼女の体は氷のように冷たくなっていた。それに、もし雪が解けて濡れていたとしても、あのように髪まですっかり濡れるということは無いのではないのだろうか。
つまり、オフェリヤは、あの雪の東屋で誰かに水をかけられた、もしくは、どこか他の場所で水に濡れたあとに、あの場所へ来た、ということになる。
東屋には出て行く足跡がひとつだけ。 夜、雪が降り始めた時間と積った量、それらを考えると、私が窓の外を見た時間には、もう東屋にいなくてはいけないことになる。しかし、あの時あそこには誰もいなかった。
結局、誰も建物からは東屋へは行かなかった、となる。
それが何を意味するのか?
どこからとも無く、突然あの東屋にオフェリヤと誰かが現れ、そこでオフェリヤの首を斬り、そこから森へと消えていった。
それは誰か?
オフェリヤを殺したのは――ホレイショ。
けれど、いったいどこにいるの?
ピアノの音が、談話室に響いている。
誰もがその音色に耳を傾ける。
だんだんと盛り上がっていく曲。
メインのテーマが繰り返される。
印象的なフレーズ。
最後のメロディーが終わる。
部屋中から拍手がおこる。
ウサギと私は立ち上がり、ピアノを弾いていたユキの元へと近づいていく。
「とても良かったわ」
ウサギが彼女に声をかける。
「ありがとう、ウサギ。――そちらの方は?」
ユキは私のほうを向いて尋ねる。
「私は、アリス。とてもいいピアノだったわ、ユキ」
彼女の演奏がとても良かったことを伝える。
「はじめまして、アリス。そうやって言ってもらえると本当にうれしいわ」
そう言って彼女は微笑む。
「今の曲はなんというの?」
ウサギが尋ねる。
「今のはポロネーズ――ショパンのポロネーズ。起源はポーランドの舞曲で、バッハ、ヘンデル、モーツァルト、リスト……多くの作曲家がモチーフに用いたりしているわ。でも、私が好きなのは、やっぱりショパンのポロネーズ」
答えるユキはどこかうれしそうな表情。
「元は同じ曲でも、色々な作曲家が色々なアレンジをしているのね。とても興味深いわ」
「ええ。元は同じだから雰囲気とかは一緒なの。でも、やっぱりそれぞれの個性があるのよ。――そうね、ジャズのほうがそれは顕著かもしれないわね」
そう言いながら、彼女は軽く鍵盤を叩きはじめた。
「私が今弾いているのは枯葉。同じピアノで弾いていても、違う人が弾いていたら全く違って聴こえるだろうし、さらにはこの曲だってピアノで弾くだけじゃなく、ギターとかサックスだとか、それぞれが好きな楽器で演奏するの。そして、同じ人が弾いていたとしても、その時によって全く違った演奏になるのよ。だから、今私が弾いているこのピアノの音は今だけのもなの」
私は、今ユキの弾くピアノの音をずっと覚えていようと思った。
10
帰り道は、昨日と同じく中庭を通ることにする。桜の花びらは今日も舞い続けていて、ウサギの髪に、私の肩に触れていく。
桜の花がいつまでも満開なのなら、その下にはいったいどれくらいの死体がその下に埋まっているのだろうか? いったいどのくらいの血液を花の色に変えているのだろうか?
いつまでも今でも花がその色をとどめているということは、私が歩いていくこの瞬間にもずるずると血を吸い上げているというのだろうか?
「アリスっ!」
ウサギの叫び声が耳に入る。
彼女が見つめる先は、生成と消失の泉。その縁にもたれかかる少女。――いや、単純に少女と言って良いのだろうか? 彼女の肢体は少女というよりも成熟した女性そのもの。そう、熟れ爛れた仲春のような。しかし、その透明さは少女そのものであり、私はその分かれた印象にちょっと戸惑っていた。
そして、何よりも私を混乱させたのが、その胸に突き立てられた銀色のナイフだった。
「――ウサギ、彼女は?」
呆然と少女を見詰めるウサギに尋ねる。
「彼女は……クジャク……。どうして……」
クジャクの来ていたシャツは赤く染まり、それはもう乾いていた。
桜は、どれくらい彼女の血を吸ったのだろうか? 私も動くことができず、そんなことをただ考えていた。
暫く水音だけが辺りを包んでいたが、やがて二人は歩き出した。一歩一歩、何かを確かめるようにクジャクの元へと。
一瞬ウサギの目を見たあと、私はクジャクの左手首にそっと触れた。冷たくなっていて、少しも動きは感じられない。
「――もう……」
見ればわかることでも、その事実をウサギに伝えなければならなかった。私は立ち上がり、首を左右に振る。
そんな私の代わりに、ウサギがしゃがみこんでクジャクの手を握った。
まるで暖めればもう一度温もりを取り戻すとでもいうように。
私は周囲を観察する。
誰が殺したの?
クジャクを殺したのは誰?
何かしらの痕跡を、微かな証拠を求める。しかし、それはどこにも見つからなかった。見えるものは、花びらと泉と枯葉だけ。誰かの足跡も落し物も見つからない。自然、観察するものはクジャクの死体だけになる。豊かな胸に、ナイフは突き刺さっている。絵に描いたような刺殺体。
そのあまりにも絵画的な光景に、私は現実感というものを完全に失ってしまった。
紅葉の並木道、ウサギと二人でクジャクを運ぶ。
赤い紅葉が降り注ぐ。
もう乾いたクジャクの胸に。
次から次へと舞うそれは、彼女の胸がまた血を流しているように思えた。
かさり、かさり。
ぱさりと舞い落ちた一枚の枯葉が、クジャクの胸のナイフを覆い隠した。
11
クジャクを彼女の部屋に安置したあと、私達はラプンツェルの部屋に向かっていた。
「ねえ、ラプンツェルは何かつかんでいるかしら?」
私はウサギに問う。
「――多分、何かの筋道はできていると思うわ。それができるのが、私が知っているラプンツェルだから」
私を安心させると言うよりも、自分に言い聞かせるような言葉だった。
「でも、孔雀のことがあったから、また始めから考えなくちゃいけなくなるんじゃない?」
ラプンツェルが考えているのはオフェリヤの死について。彼女の頭の中には、クジャクについての情報は入っていない。彼女と話したときにハムレットの話はしたが、ハムレットと孔雀の間に関連性も見当たらない。もしかしたらシェイクスピアの戯曲を探せばクジャクが出てくる話もあるだろうが、それが関係しているとは、あまり考えられない。
ノックとそれに続く返答、もう何回目になるのだろう? 私達は閉じこもりのラプンツェルの部屋に入る。
「――次は誰が?」
ウサギと私の表情を見たラプンツェルは、開口一番そう言った。
「クジャクよ」
ウサギの返答は短い。
「クジャクが? どうして彼女が……」
ラプンツェルは頭を抱え込む。
薄暗い部屋の中、本が溢れている。
「だめ、今の私にはどうしてクジャクなのかわからないわ。アリス、あなたは?」
「私は――私もどうしてクジャクなのかわからない。でも、クジャクが死んだことにも何か意味はあるはずだし、それはきっとオフェリヤのことにも関係があると思う。クジャクはオフェリヤのあとだというのにも、必然性があるはずだと思うの」
ラプンツェルは私の言葉をじっくりとコーヒーと共に飲み込む。
苦さに顔をしかめるように。
「それはつまり、オフェリヤとクジャクの死には関係があるということ? 誰かが何かの意思を持って二人を殺したと言うの?」
「――誰かが二人を殺したのかもしれないし、二人とも誰にも殺されていないのかもしれない。ただ、二人の間には絶対に何かの関係が無くちゃいけないと思うの」
「どうしてそう思うの?」
ラプンツェルの言葉が飛ぶ。
「……オフェリヤを見つけたときと、クジャクを見つけたときの印象がほとんどと言って良いほど同じだったから。そう、まるで同じ写真を見ているかのように」
私は曖昧な言葉で答える。
「それは、ほんの少しの間を置いて死体を二つも見たからじゃなくて?」
「違うわ。そういう意味じゃなくて、本当に同じ場面と言うか……そう、同じ曲のアレンジ違いというか、そういう感じだったの」
どうにかして、私は感じたことを伝えようとする。
「同じ曲のアレンジ違いね……、面白いたとえをするわね。もしかしたら、ユキと会ったの?」
ラプンツェルが聞いてくる。
「ええ、ちょっと談話室でお茶をいただいているときに」
ウサギが答える。
「ああ、それで音楽がたとえに出てきたのね。私もユキの音楽は大好きよ。彼女はピアノだけじゃなく、ヴァイオリンも上手なの」
ラプンツェルはうれしそうにそう言った。
「あら、と言うことは、あなたはユキのヴァイオリンを独り占めしたと言うの?」
ウサギが声を上げる。
「もちろんよ。だって、私はこの部屋から外へは出ないのだから」
それがどうした、と言わんばかりのラプンツェル。
「ずるいわ。彼女の音楽をひとりで聴けるなんて、贅沢過ぎだわ。アリスもそう思うわよね?」
ウサギの口はどんどんととがっていく。
「えっと――今度は、私達も呼んで、一緒に聴かせてね」
突然話を向けられてドキッとした。
「もちろんよ――でも覚えておいて。私は彼女のピアノを聴いたことが無いことを」
ラプンツェルはそう言いながら立ち上がり、壁際の蓄音機のそばまで歩いていく。
「私が聴けるピアノの音は、これを通した音だけ」
レコードに針を落とす。
微かなノイズと共に、丸みのある豊かな音が流れる。
「さて、それじゃあ考えましょう。どうしてオフェリヤとクジャクが死んだのかを」
低いピアノの音をバックに彼女は告げる。
「――私には、彼女達が死ぬ理由は全く思い浮かばないわ。だって、二人とも私の良い友達だったのよ」
ウサギが言う。その悲しそうな表情を見れば、その言葉が真実だというのは良くわかる。
「ええ、私もそれは知っているわ。私にとってもオフェリヤとクジャクはかけがえの無い友達だったのだから。私は、オフェリヤとたわいの無い会話をするのが好きだった。クジャクと演劇について語り合うのが好きだった」
ラプンツェルは目を伏せる。
でも、私にはそういう感傷が無い。私がはじめて見たオフェリヤは、すでに雪原の中で冷たくなっていたし、初めて触れたクジャクの鼓動は止まっていた。
「……ねえ、クジャクとは演劇についてどういう話をしていたの?」
少しでも故人のことを想いたくて、私はラプンツェルに尋ねた。
「彼女は、演じることがとても好きだったわ。演じるといえばその役になりきる、というのが一般的だろうけど、彼女は違った。彼女は何を演じてもクジャクだったの。――こう言うと、彼女が大根役者だったみたいだけど、それは違うわ。彼女にとって演じるということは、役になりきるのではなくて人物を表現するということだったのね。その人物が何を考えているのか、どういう人間なのか、それを表現していたのよ。小説家が文章で、音楽家が楽曲で表現するように」
「ということは、彼女はシェークスピアも好きだったの?」
演劇を語る上でシェークスピアは外すことができないだろう。
「もちろんよ。シェークスピアについても良く話したわ。でも、彼女と私はちょっと意見が違っていたのよね。私はテキストがあってその中にこそ意味がある、そういう考えなの。けれど、クジャクは私と逆で、何かの意味――テーマさえ十分にあれば、テキストは必要ないって言っていたの。だから、彼女は演じるだけでなく、自分で改作することもよくしていたわ」
ラプンツェルは遠くを見ながら言う。
「私も、彼女の演技を見せてもらったことあるわ。……とても素敵だったわ」
ウサギもそう言った。
「クジャクが演じたりしたものの中に、ハムレットはあった?」
二人に尋ねる。
「――そういうことね。ええ、彼女が好きなもののひとつがハムレットだったわ」
ラプンツェルが答える。
「もしかしたら、アリスはそれが二人のつながりだと思うの? でも、残念ながらそれは違うわね。ここには演劇が好きな人もシェークスピアをよく読む人だっているわ。彼女達とクジャクはどこが違ったのかしら?」
「いえ、違うわ。そうじゃないの。確かに、ウサギの言うとおりシェークスピアはとても有名よ。それはもうシェークスピア――ハムレットに限っただけでも、知らない人はいないんじゃないかっていうくらいに。でも、それは裏返すと、もうシェークスピアという人がその作品とは別のところで、ひとつのイメージとして成り立っていることだと思うの」
私は、訥々と直感を告げる。
「つまりは、どういうこと?」
ラプンツェルが先を促す。
「だから、オフェリヤとクジャクはハムレットというモチーフを使った別のものを通して繋がってるんじゃないか、ということ」
私がその考えのヒントを得たのは、先ほどユキのピアノを聴いたときのこと。彼女は言っていた。同じ曲でも弾く人によっては全く違うということを。それは、同じ曲であっても違う作品ということにはならないだろうか? そして、それが言えるのならハムレットも、無数の追従者を持っているのではないだろうか?
「シェークスピアという天才の生んだ傑作は、確かに多大な影響を後進に与えているわね。そして、それらの中には十分に人の縁を築くのに足るものもあるわ。そう――ちょっと待ってね」
そう言ってラプンツェルはがさがさと本の山を探り始めた。
「ああ、あれが始まると長いのよ……」
ウサギはサイフォンから勝手にコーヒーを注いで飲み始める。
「あら、ウサギは紅茶党じゃなかったっけ?」
紅茶党が増えたことを喜んでいたはずなのに。
「そうよ。でもこの部屋には紅茶が無いから仕方がないのよ」
そう言ってため息。
「あなたもどう? ――良いわよね、ラプンツェル?」
いつの間にか、どこからかマグカップを取り出している。
「良いわよ。好きに飲んでて」
ラプンツェルはまだ山を崩している。
「それじゃあ、いただくわ」
私はウサギからカップを受け取った。エメラルドグリーンのきれいなマグカップ。滑らかな丸みが手にぴったりと収まる。
「そのマグカップ、光に透かして見るときれいなのよ」
私は、ウサギの言葉のとおり、ランプの灯りにそのカップを透かせてみる。
「――本当……」
褐色のコーヒーを光が通過して、本当にきれいだった。
ラプンツェルの本探しはまだ終わりそうに無い。積まれた本を崩してはぱらぱらとページをめくる。そしてそれの繰り返し。確かに長くかかりそうだった。
「お待たせ。あったわ……」
そう言ってラプンツェルは一冊の本を差し出した。
「ちょっと貸してもらうわよ」
そう言ってウサギはその本を読み出す。
数分後、彼女は本を置いた。
「とりあえず、アリスも読んでみて」
そして、それだけを口にする。
私は、目の前においてあるその本を手に取る。少し重たい。この中に書いてある真実が、その質量を増大させているのだろうか。
一ページ、一ページ、ゆっくりと本を読み勧める。
かの名探偵が綴った沙翁の舞台。そこを舞台に引き起こされる悲劇。
美しきオフェリヤは花の中で死に、妖艶なホレイショは剣に心臓を貫かれ死んだ。
淡い|散光《ライム》の下での謎明かし。舞台上での光景ながら、私の脳裏には、確かに古びた街の|幻影《まぼろし》が見えていた。
「……そういうことなの?」
自分が言い出したことであっても、私には信じることができなかった。
「ねえ、この本のとおりにクジャクがオフェリヤを殺したというの?」
ウサギが誰となく尋ねる。
「そういうことになるわね」
ラプンツェルが苦しそうに言う。
「――そうなのね」
ウサギの頬を、一筋の涙が流れる。
クジャクがオフェリヤを殺したのだとしても、私にはまだ疑問が残っている。
「どうやって、クジャクはオフェリヤを殺したのかしら?」
その疑問を口にする。
「どうやって? ナイフで首を――」
「違うの、ラプンツェル。東屋のそばにあった足跡は、森に向かうものだけだったわ。クジャクはいったいどうして中庭の泉で倒れていたの? 私にはそれがわからないの」
東屋から森にのびていた足跡。それは外《・》に《・》向かっていた。クジャクが倒れていたのは中庭で生成と消滅を繰り返している泉。それは、この建物の|中《・》心《・》である。外に向かっていたはずが、中心にいる。
それは――
「無限に向かって、零にたどり着く。それはあなたが感じていたことでしょう?」
ラプンツェルがそう告げた。
そう、私は始めからわかっていたのだろう。
始まりと終わりが同居している泉。
永遠に向かえば、原初に戻るのが道理。
この建物は、それを体現しているのだろうか。
「冬の次には、春が来る――。そして夏が来て、秋。花のピンクと葉の緑、枯葉の焦げ茶に雪の白さ。その繰り返しで時間は流れていくわ。だから、雪の森に消えていったクジャクが現れるのは……」
ウサギの口から、自然と言葉が流れ出る。
そう、クジャクは泉の縁に背を預けて、確かに春の桜並木に向かっていた。
「そうなのね……いつも逆側から歩いてきていたから気がつかなかったわ」
私があの桜並木を通るときは、いつも夏の森を背にしていた。そして、秋の並木を通り、雪の森へと。つまり、夏――春――秋――冬という順序でめぐっていたのだ。しかし、それはもちろん正しい流れではない。正しくは、春――夏――秋――冬の繰り返しでなくてはならない。春から夏、秋から冬へはまっすぐと進むことができる。ならば、夏から秋、冬から春へはどうやって? その間を繋ぐものが、あの泉だったのだ。その尽きることの無い時間の流れがあの泉の流れなのだろう。
「大丈夫? アリス」
ウサギが私の顔を覗き込む。
「え、ええ」
少し頭痛はしているが、ひどいものではない。
「本当に? 顔の色が悪いわよ。少し休んだほうが良いわ」
ラプンツェルが心配そうな声を出す。
「――わかったわ。それじゃあ先に休ませてもらうわ」
私は、そう言い残してラプンツェルの部屋をあとにした。
12
ウサギの部屋に行くつもりが、私の足は思うのとは違う方向へと向かっていた。ふらふらと廊下を徘徊する。
春夏秋冬が永遠に続いているのなら、それを取り囲むこの回廊は何なのだろうか?
少しずつ、頭の痛みが増していく。
絨毯が足音を消す。
その長い毛に足をとられそうになる。
いつの間にか、私はあの重たい扉の前に立っていた。
この建物の中で、一番初めにくぐった扉。
建物に出入りする場所が玄関だというのなら、この扉が私にとっての玄関となるのだろう。
その扉の向こうには、祈りの対象がいない礼拝堂。いや、祈る対象が無いのに、どうして私はここを礼拝堂だと思ったのだろうか。
真ん中あたりの椅子に腰を下ろす。
冷たい。
頭が痛い。
意識が、だんだんと遠くなる。
部屋を照らしていた蝋燭はいつの間にか消えていた。
残るのは、ステンドグラスからの光。
照らされるのは何? 照らされるのは、私?
眠い。
まぶたが重くなっていく。
自然と左手首に右の人差し指が伸びていた。
鼓動。
生きているという証。
ああ、消えないで。
暗い。
消えていく。
私が、消えていく――
*
物語は、終わる。
けれど、それは次への始まり。
四季が巡るように、物語も巡るのだから。
しかし、今はひとつの区切りをここに。
そして今、緞帳が舞台を――閉幕《カーテン・フォール》。