ミステリにおける論理性の一考察と探偵論
今回の課題本「月光ゲーム」をはじめとする有栖川有栖のミステリは、ただミステリとして優れているだけでなく、さわやかな青春小説の趣もあり、大変な人気となっています。今回は、数多い魅力の中でもミステリ部分――特に有栖川作品の特長とも言える論理《ロジック》について考察していきたいと思います。
ロジックを特徴としたミステリで思い出されるのが、国名シリーズをはじめとするエラリー・クイーンです。「簡単だろう。まるで子供の算術のように」というクイーンの言葉どおり、ロジックとは、すなわち算術です。いくつかの手がかりからひとつの事実を見つけ出していく。これはいくつかの公理から定理を導き出していく数学の手順とまったく同じ事です。
ミステリで数学での公理にあたるのは、上述の通りいくつもの手がかり――現場の状況、犯人の遺留品、容疑者のアリバイなどと考える事が出来ます。これらは、証明する事無く使えるものでなくてはいけません。何かの主観を含めないと解釈できないようなものは、その段階ですでに推理に入っています。
そうして証明――推理に必要なものを分類、整理していきます。その次の過程はいくつかのパターンがあります。
まずは「月光ゲーム」でも行われているような、手がかりを組み合わせて事実を探り出していく方法です。数学の証明でも一般的に行われる方法です。ミステリでもクイーンの諸作などでよくみられます。この方法は成功した場合は、すっきりとまとまった非常に美しい論理が現れるのですが、失敗した場合はミステリとして中途半端なものになってしまいます。場合によっては同じ手がかりからまったく違った結末を導き出す事も可能になってしまいます。
他に考えられるのは数学で言うところの背理法での推理が考えられます。海外ならば「ウッドストック行き最終バス」などのコリン・デクスター、日本ならば西澤保彦の作品などのロジックにこの傾向が見られます。この方法は一見するとばたばたと少しばかり見にくい証明になっていますが、その分考えられる可能性は全て否定でき、正解をひとつに導きやすいという利点があります。
いずれの方法にも利点と欠点があります。しかし、その欠点を乗り越え事実を明らかにしたとき、探偵は証明終了とできるのです。
余談ですが、この証明終了を表す「q.e.d.」は「quod erat demonstrandum」、ラテン語で「これが証明されるべきものであった」の略で、元はユークリッドの原論で証明の最後に使われた決り文句でした。
さて、このようなロジックを重視したミステリの場合、人物の記号化――とりわけ、探偵の記号化が著しく進む傾向があります。これは、ロジックという非常に記号的なもの(というよりも記号そのもの)を扱っているだけに当然の帰結ということができるかもしれません。「試験に出るパズル(高田崇文・講談社ノベルス)」などがこのことを最もよく表す例ではないでしょうか? しかし、これでは本当にミステリと数学の問題との境目があいまいとなってしまい、ミステリ読むくらいなら数学の証明でもしてれば? といったことになってしまい、非常によろしくないです。
それでは、数学とミステリのどこに違いを見つけていくのか? ということになりますが、それはミステリ=推理小説、すなわち、小説であるということが両者の違いになっていくのではないでしょうか。この、ミステリが小説である時、問題を解く存在――つまり探偵は非常に不安定な存在とならざるをえません。探偵は、謎を解くという特権を作者から与えられた唯一の存在です。そのユニーク性ゆえに小説世界から遊離してしまうのです。
そのような事を避けるのにはどうしたらよいのか? これに対してはいろいろな対処法が考えられます。まず簡単なところでは、探偵にすぐにわかるような記号を付け加える事。いわゆる「キャラ萌え」という方法です。キャラクターとして新たな要素を付け加えられた探偵は、小説内の人物として動き回る事が可能となります。しかし、これは探偵という記号に新たな記号を付け加えただけに過ぎません。
根本的な解決は? といえば、探偵を物語と同じ次元にまで下げるということが考えられます。つまり、物語自体を探偵のものとしてしまうのです。後期クイーンの諸作や法月綸太郎、西澤保彦のタックシリーズなどがこの方法の例だと思われます。しかし、この方法は作者に大変な筆力を必要とします。物語が探偵のものとなったとき、探偵は事件の当事者となります。すなわち、その時点で作者から与えられたユニーク性は希薄となり、他の登場人物の中に埋もれてしまうからです。そうなってもなお、探偵が探偵として存在することは非常に困難です。
そうして突き詰めて考えていくと、他の登場人物の中に埋もれた探偵など、いなくなっても良いのではないか? という極論が浮かびます。有栖川有栖の「絶叫城殺人事件」では、探偵役の火村はただの観察者としての要素のほうが大きいですが、これはこの探偵不要の好例ではないでしょうか。
それでは、「月光ゲーム」をはじめとする「学生アリス」の探偵・江神二郎はどうなのでしょうか? この問題を解く鍵は解決編のはじめのあたりの彼のセリフ(文庫版p.305)にあると思います。江神は単純な萌え探偵ではない事は明らかです。(そっちのほうの魅力がない、とは言いませんが……)かと言って、月光ゲームは江神の物語ではありません。彼はあくまで事件の外にいた人物です。有栖川有栖(作者のほう)は彼に「事件を解く」という特権を与えています。しかし、彼はその特権を自ら進んで使おうとはしていないように思えます。もう、悲しい事件を終わらせたいから、だから仕方がなく事件――実際にあったことを明らかにする、そういった態度が見えます。学生アリスの第二作「孤島パズル」でも同様です。三作目の「双頭の悪魔」では多少違いますが、普通の探偵のように犯人を断罪する事はしません。
名探偵に必要とされる条件はいくつかあります。明晰な頭脳だったり、人並みはずれた観察力だったり。しかし、事件――しかも多くの場合は殺人事件――を扱う探偵にはもっと必要不可欠なものがあると思います。それは、優しさ、ではないでしょうか。殺される側にも、殺す側にも、それぞれの想いがあり、その思いゆえに、悲しい事件が起こる。その悲しみを断つ事ができるのは、また人の優しさだけなのではないでしょうか。そして、江神二郎は、この優しさをもった探偵だと思うのです。
以上、思うままに書き連ねてみました。私の不勉強と見識の浅さから、ところどころあまり良くない部分があるかもしれませんが、そこのところは多めにみてくださるようおねがいします。