ある曇りと晴れの終末に




霧越カズト




 その日、街の空は低く灰色の雲に覆われていた。世界の終わりなんてのは、きっとこんな空の下なんだろうと思う。五月の連休も過ぎ去った、中途半端な週末。そんなどこにでもありそうな、ありふれた日曜、僕は拉致された――。

「で、どこまで行く気だ?」
 いつの間にか押し込められた後部座席から尋ねる。
「どこだって良いよね?」
 運転手は気軽に答える。
「昼飯食べに行くって言ってなかったか?」
 しかし、車は街を離れて、田園の中をひた走る。おかしい。ただ昼を食べるだけならこんなところに来ないはずだ。
「別に用なんてないんだろ?」
 隣に座ってる男が逆に訊いてくる。
「まぁ、暇と言えば暇だったんだけどな……。どこに向かってるかくらい教えてくれたっていいんじゃないか?」
「そうですね、もう教えてあげてもいいんじゃないですか? ね、さくらちゃんに奏司さん」
 助手席の女の子――及川沙月が言った。
「ま、もういいか。これ以上からかうのも無理があるしな」
 隣の男――谷原奏司が頷く。
「えーとね、今温泉に向かってるの」
 双海桜花――通称さくらが、運転しながら軽く言う。
「なにぃぃ」
 五月のある日曜日、僕――音羽響は温泉へと拉致されたのだった……。

 僕が現在住んでいる仙台の周辺にはいくつかの温泉がある。まぁ、火山の上に乗っかってるようなこの国ではさして珍しい事ではない。その温泉に行くというのもよくある話である。行楽シーズンの温泉旅館などは、家族連れなどでどこも満杯になっていることだろう。行けない人は、自宅の風呂に温泉の元を入れて自らの気をごまかすわけだ。それほどまでに、温泉というのは僕たちの生活に深く根ざしているのである。しかし、拉致されていく人は少ないだろうと思われる。
「どこの温泉に行くんだ?」
 温泉に行く事は聞いても、どの温泉に行くのかは聞いていない。
「ん、作並だよ」
 作並温泉は広瀬川上流部、山形県との境に近いところにある温泉で、泉質は食塩泉。たくさんの温泉旅館などが立ち並んでいる仙台近郊でも最もポピュラーな温泉のひとつである。
「昼は食べれるのか? 腹が減ったぞ」
 昼御飯を食べるという事で連れ出されたのだから、当然の如く昼食は食べていない。時間はちょうど昼時を少し過ぎたあたり。おなかが一番減る時間である。
「響くんお昼食べてきてないの?」
 さくらが訊く。
「ああ。起きたと思ったらお前に拉致られたからな」
 皮肉をたっぷりこめる。
「それじゃあ、これをどうぞ」
 助手席の沙月が何か手渡してくれた。飴だった。
「あ、そんなのじゃ全然おなかの足しにならないかもしれないですけど……」
「いやいや、ありがとう。ありがたくいただくよ」
 甘ったるいはずの飴も、空腹には最適な食べ物だった。
「あーあ、だめだって沙月。こんなやつを餌付けしたっていい事ないぞー」
 奏司が騒ぎ出す。
「何が餌付けだ。沙月ちゃんは、お前らに拉致されてかわいそうな俺の事を思ってだな――」
「でも、沙月ちゃんも結構乗り気だったよね」
 思い出したようにさくらが言う。
「……そうなの?」
 まさか、飢えた僕に飴をくれるような優しい彼女がそんなことをするはずがない。そう思って訊いてみる。嘘だと言ってくれ……。
「……ごめんなさい」
 軽く頬を染めて俯く彼女。……誰も信じられるものじゃない。

「温泉に行くというのはわかった」
「うん」
「で、どうして今、山形県にいる?」
「だって、時間が余ってるんだもん」
 見詰め合う僕とさくら。
「まぁ、いいじゃないか。天気もいいことだし」
 能天気に言う奏司。沙月もそうですねぇ、なんて言っている。
 温泉旅館に行ったはいいが、まだ時間が早いとかで入浴できなかった僕たちは時間をつぶそうという事になったわけだ。それでなぜか県を越えて山形まで来たのだ。県境のトンネルを抜けた瞬間目に飛び込んできたのは、抜けるような青空。仙台を被い尽くしていた灰色の雲はどこへ消えたというのだろうか?
「ほら、着いた着いた」
 さくらが自動車を駐車場に入れる。道路沿いに一軒の土産物屋が建っていた。店先にはテーブルとベンチが並べられていて、簡単な食事も出来そうだった。
「いらっしゃいませー、お茶どうですかー」
 お店のお姉さんがお盆にお茶を載せてくる。
「はい、響さん」
 沙月は、いつの間にか焼き鳥やらあゆの塩焼きやら持って来た。
「お、ありがと」
 彼女にお金を渡し、あゆの塩焼きをいただく。炭火で焼かれたそれは、鮮度も良いのかとても美味しかった。
「焼き鳥もうまいな」
 そう言いながら缶ビールをあおる奏司。いつの間にそんなものを……。
「やっぱり外で食べると美味しいね」
「そうですね」
 さくらと沙月は焼きおにぎりをほおばっている。
「ところでここには何があるんだ?」
 まさか、これだけのものを食べるがだけのためにここへ来たのではあるまい。
「ん、滝があるの」
 さくらが答える。
「滝? なんて滝だ?」
「んー、忘れちゃった」
 しれっと答える。
「……」
「……そんな冷たい目で見ないでよぉ、いぢわる」
 滝なんて日本の観光地の半数以上にある施設だ。それこそ、温泉と似たようなものだ。名前なんてどうだっていいのだが。
「まぁまぁ、お魚食べたら、滝見に行きましょうね」
 沙月がさくらのボケをフォロー。僕たち四人の中で一番大人っぽいのは彼女である。
「そう、天気も良いし、気分も良いし、恥ずかしい口喧嘩なんてすんなよ」
「あぁ、また飲んでるっ。ほんっと、どこからビールなんて出したの」
 そして、どこからか取り出した缶ビールをあおる奏司と、呆れた顔の沙月。
 確かに、ビールをぐいっといきたい陽気だった。

「ふええぇ、すごいですね」
 清流に架けられた鉄の橋から滝壷を覗く。流れ落ちる水の音が耳に心地よい。爽やかな太陽の光を映す水面は、飽きることなく見つめていられそうなほど綺麗だった。
「ね、来てよかったでしょ?」
 さくらが僕の顔を覗きこむ。部屋で独り暗く、寂しく過ごすのに比べたら、数万倍もマシだった。
「ああ、来てよかったよ。拉致されてなければ、もっとよかったんだけどな」
 素直に同意する事はしない。
「もうっ、まだそんな事言うんだ。あんまりしつこいのは駄目だよ」
 怒られる。
「おーい、おいてくぞーっ」
 いつのまにか先へと進んでいる奏司と沙月。その二人を追って、水の流れる音を聞きながら新緑の中を歩く。若い緑のにおいが清々しい。おどけた格好で写真を撮ったりする。意味がないといえば意味はまったくない行為。まったくの無駄。エネルギーの無駄使い。地球環境にやさしくない。けれど、その無駄が、人間らしい。

「ね、あの人変じゃないですか?」
 川の方を向いて沙月が言う。
「ん、あの人か?」
 言われて奏司はそちらを向く。僕もつられて視線をそちらに向ける。川べりの岩の上に、うつむいて川面を眺める髪の長い女性が一人たたずんでいた。出かけるときの仙台の空のように、重たい空気が漂っている。しかし――
「それほどおかしくないけどな……」
 奏司がそんな感想を漏らす。確かに、木にぶら下がってさくらが向けるカメラに向かってポーズを決めている今の奏司よりもおかしいやつはそういないだろう。
「なんか、悲しいことでもあったのかなぁ……」
 さくらの心配そうな顔。春の清流よりも冬の日本海が似合いそうなその女性の表情は、どこか鬼気迫るものを感じさせた。
「ま、だからといって俺たちに何かできるわけじゃないしな」
 所詮は他人、いきなり声をかけて何か聞いたところで、どんな解決もできないだろうことは目に見えている。こんな見ず知らずの人間に話して解決できることなら、あそこまで思いつめた表情はしていないだろう。
「わ、響くんて冷たいんだねー」
 さくらの非難するような視線。ほっとけ。

「っぷはぁー」
 先ほどの土産物屋の店先で、一気にビールを飲み干す奏司。
「……奏司さん、親父だよぉ……」
 沙月の言うとおりだった。
「しかしな、ちょっと運動した後はビールで一杯だろ。それが、常識だろ」
「運動って……ちょっと滝見てきただけじゃないですか。あんなの運動のうちに入らないですよぉ」
「まぁ、沙月のように普段からばたばたしてるやつにはたいしたことなくても、俺みたいに普段動かない人には運動なんだよ」
 つまりは、ただ運動不足ということだろう。
「ん? あれ、響くん、ちょっと見て」
 さくらがもうひとつのテーブルのほうを指差す。
「お、おい、あれって……」
 僕の声につられて奏司と沙月もそちらを向く。
「さっきの女の人、だよね……」
 沙月の驚いた声。
 四人の視線の先にいたのは、確かに、先ほど今にも川にその身を投げ込みそうに見えた、あの女性だった。
「……楽しそうだな」
 奏司の言葉どおり、連れらしい学生風の男と楽しそうに談笑している。どう見ても、さっきと同一人物の表情とは思えなかった。
「……行こうか」
 何か、狐につままれたような感覚を味わった僕たちは、当初の目的である温泉へと向かうことにした。

「……なぁ、響」
「何だ、奏司」
「どうして露天なのに混浴じゃないんだ?」
「……それが普通だろ」
「いや、違う。こういうところは混浴であるべきだ。そうじゃないと俺は認めん」
「誰もおまえに認めてもらわなくたっていいさ」
「まぁ、それはそうなんだけどな……。おまえだって混浴のほうがいいだろ?」
「いやとは言わないけど、どうしてもそうじゃなきゃ駄目だとも言わないぞ」
 僕は奏司みたいのとは違う。
「そっか。いつもさくらと一緒に入ってるからいいのか」
 意地の悪い笑みを浮かべる奏司。そんな顔をみると、まるっきり、中年親父だ。
「そ、そんなことはないぞ。おまえこそ、沙月と一緒に入ってるんだろ」
「ああ」
「……」
「……勝ったな」
 奏司の勝利宣言。なぜか負けてしまった。
 露天風呂で馬鹿な話をする馬鹿な大学生二人。どこまでも馬鹿な風景だったが、馬鹿は嫌いじゃない。
「にしても、いい眺めだなぁ」
 タオルを頭に載せるおなじみの温泉スタイルで外を眺める奏司。この露天風呂からの眺めはこの旅館の自慢のひとつらしく、パンフレットなどでも大きく宣伝してあった。そして、その宣伝は決して誇大広告なんかじゃなく、仙台市を流れるころにはゆったりとした流れに変わってる広瀬川の、いまだ清流としての姿を中心とした眺めはすばらしいものだった。
「ところで、もうひとつのほうの露天風呂って、ここほど眺めよくないんだろ?」
 奏司が訊いてくる。
「ああ、そうらしいな」
 拉致されてきた僕としては、ここへきてはじめて知ったのだが。
「かわいそうにな、さくらと沙月」
「いや、そうでもないだろ」
「どうしてだ? せっかくここまで来てこの眺めを観ないのはもったいないぞ」
 普通ならそうだろう。
「沙月はかわいそうだけど、さくらはむしろ喜んでるはずだぞ」
「だからどうしてなんだ?」
「もうひとつの露天風呂の名前見なかったのか?」
「名前? そんなの注意してみるかよ」
「『鹿のぞきの湯』って言うらしい」
「……そういうことか」
 さくらの鹿マニアぶりは、仲間内では有名な話である。
「どうせ今回のことだって、さくらが計画したんだろ? ただ温泉行ってもつまらないから俺を拉致してみたりとか――」
「いや、拉致は俺が決めた」
 かぽーっん。あまりにもステレオタイプな音がする。ああ、温泉だ。
「……殺すと書いてヤルぞ、こら」
 ――馬鹿だった。
「ところで、あれどうたったんだろうな」
「あれって何だ?」
「昼間の女の人だよ。川のところにいた」
 僕は、あの人のことが少し気になっていた。はじめ見たときは、今にも死んでしまいそうな表情をしていたのに、次に見たときには、そんなことを微塵も感じさせない屈託のない笑顔だった。あの短い時間に何があったのだろうか? あのいっしょにいた男に何か関係があるのだろうか?
「まぁ、ありていに考えると、思い悩んで自殺しようとしたのを恋人かなんかに止められて、というのが考えられるな」
 奏司は安っぽいドラマの見すぎだと思う。
「そんな馬鹿なこと本当にあると思うか?」
「じゃあ、ほかにどんなのが思い浮かぶ?」
 しかし、そう訊かれて何か思い浮かぶわけじゃなかった。
「確かに、それが一番もっともらしいかなぁ……」
 けれど、納得したくなかった。どことなく感じる違和感。
「結局、何もなかったみたいだし、いいんじゃないか? 真実なんて事実の解釈次第でどうにだってなるもんだ。俺たちにとっての真実になっていたらいいさ」
 どこか煙に巻こうとするその物言いは、奏司の癖だった。

「おまたせー」
 浴衣姿のさくらと沙月がやっとの事で来たとき、僕と奏司は休憩所で冷たい飲み物を飲んで、まったりとしていた。どうして浴衣はこんなにもリラックスできるのだろうか? 今度一つ買ってみようか、なんてことを話しながら。
「どう、似合う?」
 さくらがくるっと一回り。
「似合う似合う。もちろん沙月もな」
 そういうことにはよく気がつく奏司が僕より先に口を開く。
「で、どうだったんだ、鹿のぞきの湯は?」
 どことなくうれしそうなさくらに尋ねる。
「それがねぇ、残念ながらいなかったんだよ、鹿」
 まぁ、当然だろう。
「あ、でも、びっくりするような人と知り合いになったんですよ」
 そういう沙月の後ろから女の人が顔を出す。なんと、昼に滝で見た、あの女性だった。
「こんばんわ、今坂春奈です」
 そういってぺこりと頭を下げる。長い髪がふわっとする。
「あ、ど、どうも」
 思わず頭を下げる僕と奏司。それを見て彼女――今坂春奈が柔らかな笑みを浮かべる。
「あ、いたいた。ここにいたのか」
 そういいながら現れたのは、二度目に春奈を見たとき彼女と一緒にいた男だった。
「あ、どうもこんばんわ」
 僕たちに気が付いた彼も、なぜか頭を下げた。日本人とはつくづくお辞儀の好きな民族だと思う。
「彼がさっき話してた佐々木直樹クン」
 春奈がそう言って彼を沙月とさくらの紹介する。
「で、いったいどういうことなんだ? 説明してほしかったりするんだけど……」
 奏司が彼女たちを促す。
「うんとですね、春奈さんが今にも死んじゃいそうだったのは映画の撮影をしていたからで、その監督さんが佐々木さんなんだそうです」
 思いっきり不十分な沙月の説明。
「おい、それよく分からんぞ」
 つっこんどく。
「あぅ」
「つまりはね、演技だったんだったの。春奈さんと佐々木さんはサークルで映画を作ってて、今日はその撮影でここまで来てて、あの川を覗き込んでたりしたのは、全部演技だったんだって。で、撮影後の一休みに温泉に入りにきたと、いうわけ」
 さくらが補足説明。
「そうよ。あれを見て本当に私が死んでしまうんじゃないかって思い込んでくれるなんてね……。私今からでも本気で役者目指そうかな」
 そう言って春奈はにっこりと笑う。
「そっか、そういうことか」
 脇で聞いていた佐々木もようやく事態を理解したのか、ぽんと手を鳴らす。
「で、君たちも学生? 俺らはT北大の映画サークルなんだけど」
 彼が話し掛けてくる。
「そうなんですか。僕たちもみんなT北大ですよ」
「そうなんだってね。それじゃ、よかったら今撮ってるのできたら観に来てよ。今度上映会やるの」
 春奈はそう言って手帳を取り出し、場所と日時を書いてさくらに渡した。
「へぇ、ここでやるんですかぁ。みんなで観にいきますよ」
 そのみんなにはもちろん僕も入っているのだろう。
「あなたたちは何かやってるの?」
 春奈の質問。
「あ、私たちはですね――」
 そして、時間はいつしか流れ行く。
 こうして、音羽響拉致事件は幕を下ろした。

 ――誰もが演技している。
 唐突にそんなことを思った。
 誰もがそれと気が付かずに、自分という役割を演技している。
 自分という観客のために。
 生まれた瞬間に幕が上がり、
 死ぬ瞬間に幕が下りる。
 永遠のカーテン・フォール。その瞬間まで、終わらない舞台。
 喜劇か悲劇か、いったいどうなるかはわからない。
 ただ、みんな――奏司や沙月、それに――さくら。舞台の上で、これからもいっしょに演じられればいいな、そう思った。




"Masked day"is over.