鏡に問う



霧越カズト



 あと三日だ。その日が来れば、俺は自由になれる。誰からも隠れなくていい。誰からも逃げなくていい。誰の眼も気にしなくていい。
 十五年前――正しくは十四年と三百六十二日前、俺は人を殺した。
 殺す気はなかった――そう言って信じてもらえるとは思わない。けれど、彼女を殺そうとは思ってなかった。彼女は、俺の大切な人だった。この世の中でたった一人、俺のことをわかってくれている人だと思っていた。誰もが他人のことに無関心で、冷たくて、残酷なこの世の中で、たった一人彼女だけは俺の味方だと思っていた。全てが無表情な街で、彼女だけが俺に笑いかけてくれた。触れ合う一瞬、彼女の微笑みは他の男に向けられるものとは違うと思っていた。彼女の微笑みは俺だけのものだと思っていた。彼女は俺の全てだった。俺も、彼女の全てだと思っていた。
 なのに、彼女は俺を裏切った。
 俺があんなに思っていたのに、彼女は他の男と付き合っていた。悪い男にだまされていた。それを何とかして知らせようとしても、彼女は何もわからなかった。俺が彼女を救おうとしても、それは全て徒労に終わった。彼女は男に完全にだまされていた。それは洗脳と言っても良かったかもしれない。俺の力ではその洗脳を解くことはできなかった。
 もはや、彼女を男から引き離すには、やつを殺すしかなかった。
 やつが死ねば、彼女だってわかってくれるはず。自分はだまされていただけで、本当に彼女を愛しているのは俺だって気がついてくれるはず。そう信じていた。彼女を愛し、幸せにできるのは俺だけだと思っていた。そうすることが、俺の使命だと思っていた。
 けれど、彼女は最期までそれをわからなかった。
 俺が彼女の目の前でやつを殺したとき、彼女は俺を罵倒し、泣き叫び、怒り、責めた。
 俺は当惑した。
 俺は彼女のためにやったのに。彼女のためを思ってやったのに。彼女のために、やつを殺したのに。
 もはや、彼女を救うには、彼女をやつの呪縛から解き放つには、彼女も殺すしかなかった。だから、殺した。
 やつを殺したのと、同じナイフで、
 刺して刺して刺して刺して刺して刺して刺して刺して刺して刺して。刻み、切り、斬り、霧、キリ。
 その赤い血をもって、彼女は俺に救われた。

 それから、俺は逃げた。
 悪いことをしたとは思ってない。俺は彼女を救ったのだから。俺は正しいことをしたのだ。あの瞬間、やつを殺したとき、彼女を殺したとき、俺は確かに正義だった。しかし、世界はそれを許そうとしなかった。俺は、殺人犯になっていた。人を殺せば殺人犯。わかりきった事実。それまでは、俺もそう思っていた。けれど、人を殺すということはそんな単純なことではなかった。その正義ゆえに人を殺すということさえあるのだ。そういったこともあるというのに、殺人は一方的に悪だと決め付けられている。俺は正義だった。捕まるわけにはいかない。俺は悪ではない。裁かれるいわれはない。それがこの世の中の真実であるべきだった。今の世界は間違っているのだ。俺だけが正しい世界を生きている。正しい俺が間違ったやつらに裁かれるのは、あってはならないことだった。
 だから、逃げた。顔を代え、名前を偽り、過去を偽り、足跡を消し、昔を振り切り、居場所を変え、自分じゃない人間になりすまし、誰にも知られないように、見つからないように、知られないように、捕まることがないように、逃げた。
 それは、長い年月だった。十五年――振り返ってみて、何かあったわけではない。何もない、まったく何事もない毎日だった。生きることも、死ぬことも、殺すことも殺されることも。
 テレビで流れていた、事件を知らせるニュースも、一週間ほどで消えていった。その代わり、別の殺人事件のニュースが流れていった。それが、十五年繰り返された。十五年の間に、いったい何人の人が殺されていったのだろうか。戦争もあった。毎日、何人兵士が死んだ、民間人も、何人も犠牲になっていた。そして、事故。気がついてみると、毎日毎日、信じられないくらいにたくさんの人間が死んでいた。人間の死なんて、ありふれて安っぽいものだった。そこら辺にいくらでも転がっている日常だった。
 十五年間、その日常に触れないというのは、ある意味異常な状態だったのかもしれない。
 しかし、この異常な世界での異常ならば、逆に正常といえるのではないだろうか。
 俺は異常なのか正常なのか? その問いに答える人は誰もいなかった。いや、誰かに問うことすらできなかった。尋ねることができない問い。虚空に問いかけても答えは返ってこない。それでも、訊かずにはいられない。俺は、答えを熱望し渇望し、そして絶望した。
 鏡に向かうことが、俺の日課となった。
 そして、問いかける。
 無言で、視線で、何も見えず、何も聞こえず、何も感じない。時効まであと三日でも、その日課は変わらない。いつもと同じように、鏡に向かう。
 六畳の部屋が、広く感じられる。畳敷きの、何もない部屋。その日へのカウントダウンが刻み付けられるカレンダーすらない。それくらい頭の中で数えている。一秒一秒、数字を刻み付けている。ただ鏡に向かう毎日だった。

 久しく聞いていなかった音が聞こえた。
 はじめはそれが何の音かわからなかった。しかし、それは執拗に繰り返される。飽きることなく、途切れることなく。
 思い出した、これは、ノックの音だ。扉を誰かが叩いている。
 誰が?
 恐る恐る、小さなのぞき窓から外をうかがう。魚眼レンズで歪められた空間に、一人の少年が映っていた。
 考える。彼は何者なのか? 警察?
 いや、違う。警察がこんなノックをするだろうか? もっとすぐに踏み込んでくるに違いない。
 ならば、新聞の勧誘? 訪問販売?
 それにしては鞄も持っていないし、スーツも着てない。白いドレスシャツを着て、下はジーンズにスニーカー。髪の毛も整ってはいなかったが、だらしない感じはしない。
「……どちらさま?」
 細くドアを開ける。
「ああ、いたんですね。探しましたよ――さん」
 彼が言ったその名は、俺が一番初めに捨てた名前だった。
「なぜ、それを知っている?」
 数十センチあけられたドアをはさんで、彼に問いかける。
「駄目ですよ、そんなこと言っちゃ。もっとシラをきらないと。
――で、入ってもいいですか? 立ち話なんかしてて目立ったら、今までの逃亡生活が無駄になりますよ?」
 こいつは何を言っている? まさか、俺が殺人犯だと知っているのか?
 俺は周囲をうかがう。
「大丈夫ですよ。警察なんていませんから」
 彼はそう言って、笑う。
 笑う? この人殺しの前で、笑う?
 俺にはやつの神経がわからない。どうして人殺しの前で笑う?
 わからないわからないわからない。わからないから、俺はこの少年を部屋の中に入れることにした。
「さっぱりした部屋ですね。ボクもこういったシンプル系の部屋なんかいいなぁ、とは思うんですけど、どうしてもCDとか本は増えていくし、とにかく物が捨てられない性格なんですよね。とりあえず今はミッドセンチュリーにしてるんですけど、今度は和もいいかなぁ、って」
 彼は、まるで友人に話しかけるかのように、しゃべり続ける。
「おい、何しに来た?」
 こいつは何がしたいんだ?
「何しにって……、まぁ、いいじゃないですか。まずはゆっくりと座って話でもしましょうよ」
 俺の家なのに、この場の主導権は彼が握っていた。ホームセンターで買った安物のローテーブルを挟んで、俺と彼が座る。
「お前は、何者だ? 俺をどうするつもりだ?」
 何とかして、俺が主導権をとらなくては。
「――あと、三日ですね。でも、それを刻むカレンダーすらない。あなたは変わった人だ」
 ぐるうり部屋を見渡して、少年はそう言った。――あと三日? それすら知っているというのか?
 俺は身構える。部屋の中に武器になりそうなものは無い。台所に行けば包丁がある。しかし、それは青年を挟んだ向こう。シンプルすぎる部屋を呪った。
「心配しないでください。警察なんて外で待ってませんし、ボクだって警察なんかじゃない。見ればわかるでしょ? それに、探偵とかそういった類の人種じゃないし、あなたを警察に突き出そうなんて考えてませんから」
 その人を安心させるような笑顔の裏に、どんな表情が隠れているというのか?
「なら、いったい何のつもりだ?」
 何をたくらんでいる? 時効寸前の殺人犯に向かって、警察に突き出すつもりが無いなんて、信じられる言葉じゃない。
「とにかく、あなたは――さんでいいんですよね? 十五年――正しくは十四年と三百六十二日前に、ある女性と、その彼女と交際していた男性の二人を殺した? 間違いないですよね?」
 道を尋ねるような気軽さで彼は尋ねる。
「――ああ。確かにそうだ……」
 いくらか迷ったあと、俺はそう答えた。
 そう答えるしかなかった。とぼけることだってできたはずだった。しかし、この少年の不思議な雰囲気がそれを許そうとはしなかった。
「良かった。もし間違えたりしてたら大変ですからね」
 俺にとっては重大な事実も、彼の言葉になると、とてつもなく軽くなる。それが無性に腹立たしかった。
「それがどうした? 俺が二人を殺したからといって、どうした? どうするつもりだ?」
「いやー、そんなことはどうでもいいんですけど、これから殺す人を間違ったりしたらいやじゃないですか。一応本人確認はきちんとしないと。今は病院だと患者さんにタグつけて取り違えないようにしているらしいですよ。ホントに家畜かっつーの」
 からからと笑う。
「おい、今なんて言った?」
「家畜? 馬とか牛とかのことですよ。そんなの常識じゃないですか。逃亡生活で知的水準まで落ちちゃいましたか?」
「違う、馬鹿にするな。俺が訊きたいのはその前だ。お前、俺をどうするといった?」
「殺すって言ったんですよ」
 彼はあくまで、その軽い態度を崩さない。
「なん、だと?」
 彼は、何を言っているんだ?
「あー、信じられないって顔してますね。まぁ、しょうがないか。でも、これは事実です。ボクはあなたを殺します。いきなり殺すのもなんだから、ゆっくり話をしてからにしましょうってことです。ほら、インフォームドコンセントって言葉知ってます? やっぱりこういうことってちゃんと説明しなくちゃいけないじゃないですか。説明責任ですよ」
 世間話でもしているかのような口調。
「なぜ、俺を殺す?」
「なぜ? あなたがそれを訊きますか……。説明すると言ったから説明しますけど、それはこれから病気を治療しようというお医者さんに向かって、なぜ治療する? と問いかけるようなもんですよ……」
「能書きはいいっ! 早く言えっ!」
「だから、そんなに怒らないでくださいよぉ……。
 とにかく、あなたは人殺しです。どうしようもないくらいに人殺しです。
 人間を二人殺しました。自分の勝手な思い込みで。あのころのあなたみたいな人を、今はストーカーって言うんですよ。自分勝手に人を追い掛け回して、迷惑だって言ってもそれをまったく聞こうとしない。そして、自分の価値観をその人に押し付ける。無言で有言で可視で不可視であることでないことで。その行き着いた先が、殺人でしたね。今はあなたみたいな事件も普通にあったりするんですけど、あなたはちょっと流行よりも早すぎましたね。残念でした」
「だから、何だって言うんだ?」
 そんなこと、とっくに気がついていた。気がついていて、わからないようにしていた。認めたくは無かった。だって、俺はあんなにも彼女を愛していたんだから。それが異常な感情? ならば、この世界が異常なのだ。俺は、あの愛は、正常だった。俺は、狂ってなんか無い。俺は、狂ってなんか無い。俺は、狂ってなんか無い。俺は、狂ってなんか無い。俺は、狂ってなんか無い。俺は、狂ってなんか無い。俺は、狂ってなんか無い。俺は、狂ってなんか無い。俺は、狂ってなんか無い。俺は、狂ってなんか無い。
俺は――――――――――
「なんでもないですよ。あくまで残念なだけです。あと十年違えば流行だったのにって。時代を先取りしすぎでした。あのころだったら幼女誘拐とかが流行だったのに」
「それがどうした? 俺が人殺しだから俺を殺そうというのか?」
「まぁ、ある意味そうです。それがまったく正しいわけじゃないですけど」
「なんだ、お前は彼女の血縁か? それともあの男のほうか?」
「復讐ですか? やめてくださいよ。ボクがそんな馬鹿みたいなことするわけ無いじゃないですか。そんな低俗な理由で人なんて殺しませんよ。ボクを馬鹿にしないでください。これでも自分がやってることに誇りを持ってるんです」
「お前がやってること?」
「ええ。実は、ボクも人殺しです。これまで、そうですね――六人ほど殺してます。あなたで七人目です」
 少年は指折り数えて、答える。
「何? お前も――?」
 こいつも、人殺し?
「ああ、あなたと一緒にしないでくださいよ。ボクはストーカーじゃないし変態でもない。ごくごく普通の高校生です。ただ、ちょっと違ったのはその高校生は殺人鬼だったのです、なんちって」
「お前、人殺しをなめているのか?」
 俺がこの十五年間、毎日鏡に向かって問いかけていた言葉を、こいつは簡単に越えている。
「なめてなんかないですよ。それに、あなたよりもボクのほうがたくさん殺している。六人と二人なんて五十歩百歩だし、こういうのって数じゃないとは思うんですけど。ボクのほうがあなたよりも人殺しです」
「どうしてそんなに殺す?」
「どうしてって――それが正しいことだからですよ。悪いことをしたら罰を受けなくちゃいけない。当然のことですよ。漫画だって小説だって映画だって、正義の味方が悪をやっつけてハッピーエンドです。悪は殺さなきゃいけない。まぁ、シリーズものなら別ですけどね。それにフィクションだけじゃない。現実の世界だってそうです。自分が気に入らないという理由で、自分の正義を見せるという理由で、自分の価値観を押し付けるという理由で、自分は正しいという理由で、簡単に戦争が起こっています。正義の軍隊で神の軍隊で自由の軍隊ですよ。反対することは許されない、絶対的な服従の元の自由です。そんな屑みたいな自由でさえ殺人を許されているのなら、ボクだって殺していいでしょ? ボクだって誰かに罰を与える資格はあるはず。幸いなことに、あなたは罰を受けるのにふさわしい人間だから」
 少年の笑顔は張り付いたまま剥がれ落ちようとはしない。
「俺を殺してどうするつもりだ?」
「どうもしないですよ。帰ってご飯食べてテレビ見てゲームして勉強して寝るだけです。明日も学校とかあるんで」
 つまり、殺人はこの少年にとってはまったくの日常なのだった。学校帰りにちょっと本屋によるくらいの、それくらいのことでしかない。
「ひとつ訊いていいか?」
「いいですよ。って、もう何回も色々訊かれてますけどね」
「俺を――人を殺して後悔していないのか?」
「後悔? どうしてそんなことしなきゃいけないんですか? だって、ボクは悪を殺しているんです。誰がそれを咎めると言うんです? 正しいことをしているんです。ボクは正義です」
 少年は、はっきりとそう言った。
「お前は、俺だ」
 俺は、そう言って眼を閉じた。
「――もう、言い残すことはありませんか?」
 少年が立ち上がったのが気配でわかった。
「ない。いいからやれよ。遅くなるとママに怒られるぞ」
 返事はない。ただ、彼が動く気配だけ。
 そして、首に感じる衝撃。
 闇が訪れる。眼を閉じているよりも、夜よりも、闇よりも深い闇。
 遠くなる意識。
 薄れていく意識。
 死ぬことよりも、そうやって意識が消えていくことが残念だった。

"Fool and Justice"is over.