城春にして

霧越カズト

 闇夜に桜が綺麗だった。
 城の裏側にあたるこの小道の辺りには、十分なスペースがないので花見の客も見当たらない。ライトアップされた白亜の城の光に、白色の桜が映える。堀はどこまでも深く水を湛え、宴会の喧騒が遠くに聞こえる。月は薄く輝き、星は見えない。僕の歩く音がこだまする。スニーカーが小石を踏む。
 一人で歩く桜並木。染井吉野はその枝を垂れ、誰かを誘う。何を誘う?
 僕はその下にある死体を夢想する。鮮血を迸らせ地面に伏すその姿は、可憐な少女のものだった。
 どこにもいない、少女のイメージ。それは桜が呼び起こす妄想。桜というシニフィアンが作用することで生じるシニフィエ。
 どの樹の下に彼女は眠っているのだろうか?
 僕は一つ一つ、丹念に桜を見上げる。染井吉野の花弁はどれも仄かに白く、血を吸い上げたように鮮やかな赤はなかった。その白さが、夭折する少女の幻影を浮かび上がらせる。
 君はどうして死んだの?
 見えない少女に呼びかける。
 桜は問いに答えず、ただ花弁を揺らしている。
 ゆら、ゆら、ゆら、と。
 僕はその花弁に目を凝らす。樹が、枝が、花弁が、フラクタルになる。全体は細部となり、細部は全体を写す。それはどこまでも途切れることなく、無限へと続く。この時無限は、有限の中に現れる。ゼロは無限遠と同一となる。この踏み出す一歩の中に無限はあり、それは有限で閉じている。つまり、閉じた世界は永遠に続く。それは裏表がないメビウスのように。
 その少女は、霞のような花弁の間から現れた。
 夢が現れ、消えていく、その一瞬の間に。
 青白い、頬。透き通るような黒い髪。あえかなるその瞳。細枝のような肢体を喪服のような、黒い制服で包んでいる。
 静む僕を、彼女が現に引き止めた。
「こんにちわ」
 彼女の声が、微かに届く。
「こ、こんにちわ」
 僕は、そんな自動的な言葉しか出ない。
 彼女は優しい瞳のまま、悲しげに桜を見上げる。
「桜は、悲しいわ」
 確かに、彼女は悲しいと言った。遠くから聞こえる宴会の音が、空虚だ。
「どうして?」
 僕は尋ねる。
「桜は、容易に死を連想させる。桜ほど、死と密接に結びついている花はないわ。桜よりも恐怖に彩られている花を見たことがないわ」
 その言葉に呼応して、一枚はらりと舞う。
「桜を見る人はたくさんいる。けれど、桜を想う人は少ないわ。だから、桜は孤独」
 僕は、桜の森の満開の下の秘密を思い出す。
「だから、寂しいからその根の下に人を抱くのか?」
 その僕の言葉に、彼女は驚いた表情をする。
「ふふふ、だったらどうする?」
 誘うような笑み。僕は、その彼女の誘いに乗るしかなかった。

 次の休み、僕は駅前で彼女を待っていた。
 他人との付き合いをできるだけ避けていた僕が、いったい何の心境の変化だろうか? ただ、彼女といても、苦痛ではなかった。人と一緒にいる感じがしなかった。そこには、まるで誰もいないかのような感覚。あの日、並木道で話してわかったのは、彼女が病弱だということ。そして、何よりも死に敏感だということ。
「こんな桜の下で死ぬのって、素敵じゃないかしら」
 そう言って、西行の歌をそらんじた。
 そんな彼女に、僕は惹かれた。そして、今日こうやって彼女を待っている。程なくして彼女がやってきた。この前とは違い、淡い春らしい色使い。気分が自然と軽くなる。
 そして、僕は知った。
 春の日がこんなにも暖かいのを。
 殺風景な街がこんなにも美しいことを。
 ステレオタイプな映画にこんなにも感動するということを。
 まるで餌のようなハンバーガーがこんなにも美味しいということを。
 軽く吹き抜けていく風がこんなにも肌を優しくなでるということを。
 何より、たった一人の少女が、ここまで僕の心を躍らせるということを。

 それは、とても綺麗な下弦の月。天に向かい弓を引く。
 あの桜並木を歩く。淡い風が吹き、花吹雪。花弁は散り、塵。
 二人立ち止まり、それを見上げる。いつまでも、いつまでも見ている。
 はらり、はらり、舞い続ける。踊る、花弁。僕は、詭弁を弄してでも、それを止めたくなり、死のダンスから目を離せない。
 薄暗い堀は、その身を投げた桜の花弁で、薄桃色に覆われている。
 彼女は、泣いていた。
「どうして涙を流すの?」
「だって、桜が堕ちていく」
「花弁が散っても、桜は死なない。また来年、美しく花を咲かせる」
「誰もそんな保証はできないわ。もしかしたら、この桜たちはもう二度とその花を咲かせないかもしれない。もし来年また花をつけたとしても、私がそれを見られるとは限らないわ」
 涙が、地面に落ちた花弁を濡らす。
「大丈夫だよ……」
 無責任な言葉。いつから僕は、こんなにオプティミストになったのだろうか?
 風が二人の間を翔け、また花弁を攫っていく。
 彼女の涙が止まるのなら、この風を止めてしまいたかった。
 散り行く桜の花弁を、一枚一枚受け止めたかった。
 この身を灰にして、その灰が花を咲かせることができるのなら、喜んで灰になる。
 弱く、弱く、彼女の手が僕の手を握る。触れ合う指と指。そこから心を通わせたかった。冷たく、消えてしまいそうな体温。微かに感じる鼓動。いつまでも、どこまでも、なによりも、感じていたかった。
 この闇が彼女を悲しくさせているのなら、早く夜が明けることを、祈った。
「桜の美しさは、一瞬だけ。ほんの刹那、美しく、咲き誇るの」
 小さな声。
「桜は、永遠を祈らないの? どうして、こんな一瞬で満足してしまうの?」
 消え行く、命。
「きっと、満足なんかしていない」
 僕は、はっきりと言った。
「満足していないから、毎年花を咲かせる。飽きることなく、毎年毎年、花を咲かせる。今年こそは、十分満足いく花を咲かせようとして。けれど、それが果たせないから、花を散らせる。きっと、満足ができる花を咲かせることができたら、その桜は永久に満開の花をその枝につけていることだろう」
 僕のその答えに、彼女は満足した様子だった。
「ありがとう。それじゃあ、来年こそ満足がいく花をつけられるように、あなたの血を桜の樹に注いで」
 彼女の言葉と同時に、下腹部に鋭い痛み。
 ナイフが突き立てられている。
 どくどくと流れ出る血液。
 花弁を濡らし、地面へと染み込んでいく。
 僕は、もはや言葉を発することができなくなっていた。ただ、彼女を見据える。
「桜は、人間の、動物の養分を吸い上げて、自らの美しさに代えるのよ」
 そう言って、彼女は僕に口付ける。少し酸っぱい桜の香り。
 立っていられなくなり、桜の幹に体を預け、地面にへたり込む。
 背中で桜の樹を感じる。頭上からは花弁が舞い散る。
 僕は、彼女に抱かれたまま、逝った。

"Fall End"is over.