桜の花が咲く音


霧越カズト


1

 その夜、僕がその公園に寄ったのは、ほんの気まぐれだった。だから、そこで彼女に会ったのは、本当に偶然のことだった。

 その日は、ちょっとした事で原付も自転車も使えなくて、仕方がなく歩いてバンドの練習へと行った。そして、そのあと毎週の恒例行事として、バンドのメンバーと夕食を食べに行って、ついでにベースのやつの部屋に寄ったりした。そんなわけで、帰り道に着く頃には、気がついたらもう数分で日付も変わろうかという時間。ふと見ると、ちょうど良い感じの公園があった。原付なら数秒、自転車でも十秒かかるかかからないかで横を通り過ぎてしまいそうな公園でも、背中のギターの重さに耐えて歩いている僕にとっては、とても魅力的に見えた。まるで、ここで休んでいきな、とでも言っているかのようだった。
 季節はちょうど三月の終わりごろ、冬には凍てつくような風が吹くこの街にも春の暖かさが訪れ、あと数週間で桜の花が咲こうともいう頃だった。
 僕は公園に入り、少しばかり色あせているベンチに腰を下ろす。ギターは隣に立てかける。暗めの電灯が、月の光を損なわずに光っている。防犯上は問題がありそうだけれども、良いな、と思えた。公園のほぼ中央に一本の木があった。見たところ、たぶん桜の木だろうと思った。少し注意してみると、つぼみと思われるものもついている。開花は、もう少し後だ。
時計を見ると、いつのまにか日付は変わっていた。もう土曜日になってしまったのか、と思った。普段ならそうでもないけれど、こんな場所にいると、一日の終わりと、そして始まりを感じてしまう。
 明日はバンドの練習の前に、バンド以外にやっているサークルの会合がある。その会合までに用意しておかなければいけないレジュメをまだまとめていない事に、ふと気がつく。仕方なく、夜の公園という非日常の世界から、自分のアパートという日常の世界へと戻るために立ち上がろうとした。そこで、ふとさっきの桜の木が目に入った。いや、目に入ったのは桜の木じゃない。その木の下にいる女の子の後ろ姿だった。雰囲気からして、たぶん高校生。明るい色のスプリングコートの背中に、少し長めのストレートの髪をたらしている。その足元には、一匹のねこがたたずんでいた。白い毛が綺麗なそいつが、ゆっくりとこっちを向く。そして、上に少し目を向けて、にゃあ、とないた。今まで桜の木を見上げていた女の子が、そのねこの声に促されたのか、僕のほうを向いた。そして……
「こんばんは」
彼女は涼しげな声でそう言った。
「どうしたんですか? こんな夜中に。それに、それギターですか? 」
隣においてある黒いギターのソフトケースを差してそう尋ねる。
「うん、ちょっと友達の家の帰りでね。ひと休みしてたんだよ。そういう君こそどうしたんだい? まだ高校生だろ? もう日にちだって変わってるよ」
「私は、焔の散歩なの」そう言って、足元の白いねこを抱き上げる。そうか、あいつは焔っていうのか。
「ねこは夜出かけるものでしょ? だからこんな時間になっちゃうの。そうだ。ね、ギター弾いてみて。お願い」僕のそばまで寄ってきてそう言った。
別にそれを拒む理由もないが、エレキギターは、アンプに通さないと、本当に貧弱な音しかしない。その事を説明しようと思った瞬間、今日友達から格安の値段で買ったマイクロアンプのことを思い出した。ジョークのネタになるだろうと狙って買った、マーシャルのアンプ。確か電池で大丈夫なはず。
 ちょっと待って、と言ってそのアンプを取り出す。どうやらサービスで電池を入れてくれていたようだった。というよりも、売るときに出し忘れていたという方が正しいのだろうけれど。隣に立てかけているケースからギターを取り出す。少しだけ特徴的な形の、フェンダーのジャガー。シールドでアンプとつなぐ。時間のことを考えて、ボリュームは抑え目にする。軽くチューニングを確かめる。大丈夫、狂ってない。
 ただそれだけの、一連のその動作を見て、彼女は感心したように声を出す。
「それじゃあ、どんなの弾こうか?」
「うーんとね、何でもいいよ」
そういうのがいちばん困る。コードを適当に繋げつつ、何を弾こうかと考える。結局、数年前に流行った、とあるバンドの曲に落ち着いた。あれなら弾きながら歌えたはずだ。
 ギターには、ほんの少しばかり自信のある僕でも、歌となると、そのほんの少しばかりの自信すらなくなる。それでも、何とか一番を歌い終わる。そして始まるギターソロ。ここぞとばかりに弾いてやる。そして次にくる二番の歌。……本当に歌は苦手だ。
 一曲終わった。ぱちぱちぱち、と拍手をしてくれた。焔も、よくやった、という目でこちらを見る。
「ありがとう。で、どうだった」
「ギターとっても上手いね。ほんと、すごいよ。ほら、焔もすごいって」
にゃあ。
歌はどうだったか言わない彼女。僕も聞かない。その代わり、
「ありがと、焔」
とねこの頭をなでてやる。なめらかな毛が心地よい。
「あ、焔の名前覚えてくれたんだ。ありがと」そう言って、にっこりとする彼女。
そういえば、まだ彼女の名前を聞いていなかった。
「そういえばさ、君の名前なんていうの? あ、俺は奏司。谷原奏司。大学生だよ」
人に名前を尋ねるときは自分から名乗る、の原則を守ってみる。
「私は沙月。及川沙月です。まだ高校生、よろしく、です」
そう言って、また笑った。



2

 それから、夜の散歩が僕の日課となった。行き先は、もちろんあの公園。ちょうど午前零時になる頃そこへ行くと、はじめてあった日のように、ねこの焔と一緒に沙月がいると言うわけだ。しかし、この一組の人間とねこを見ていると、どっちが飼われている立場なのか、わからなくなってしまう事がある。
沙月は、
「焔とは、ずっと一緒にいたんだよ。だから、最高の親友なの」
なんて言っているが、どう見ても、焔、つまりはねこの方が、ひとつくらい立場が上のような気がする。それくらい、焔は威風堂々としていた。
 いつも、沙月は焔に引っ張られるようにして現れるし、帰るときも、同じように焔が先に立っていく。
 そう言えば、毎日ギターを持っていくようになったのも、焔が原因と言えなくもなかった。

 ある日――そう、散歩をはじめてまだ三日ほどしか経っていない時。沙月と並んでベンチに座っていた僕の足を、焔が前足でたたいた。ぽんぽん、と軽く。つめは出していなかったので、大して気にすることなく、どうした焔、などと、軽く声をかけて、流そうと思ったのだが、
「ねぇねぇ奏司さん。焔がね、奏司さんのギター聴きたいって」
にゃあ。
これは同意しているというなき声なのか?
「まじか? というより、焔の言う事わかるのか? 」
たぶん、わかるよ、と言うだろうが……
「あたりまえでしょ。わかるに決まってるよ。だって、私と焔の仲だもんね」
そう言って、焔を抱き上げる。
その焔は、というと、もう何も言わず、ただじっとこちらを見つめる。
あ、沙月になでられて、ちょっと気持ちよさそうな顔。しかし、がんばって、まじめな顔にしようと勤めている。そこまでやられちゃ仕方がない。
「わかったよ。明日から持ってくるよ」
そうするしかないだろう。
「ありがと、奏司さん」
にゃん。
沙月と焔が、感謝の言葉を述べる。
次の日から、夜の散歩に行くときには、ギター――フェンダーのジャガーと、例のマイクロアンプが必需品となった。

そうやって、ギターを持っていくようになって、また何日か経った。桜の花も、たぶんもう少しで咲くんじゃないだろうか。そう言えば、ニュースでは、関東辺りまで桜前線が北上してきていると言っていた。
「ねぇ、これ弾いてみて」
その日やってきた沙月は、書店などでよく売っている、曲の歌詞とその曲のコードを書いた雑誌を持ってきた。
 この曲なら、ラジオやテレビで頻繁にながれていて、もちろん僕も何回か聴いたことがある。弾けないことはないが……
「おい、誰が歌うんだ? 俺はこの歌は歌えないぞ」
今をときめく、ハイトーンのヴォーカルが特徴の女性アイドルの曲など、誰が歌えるか。
「大丈夫だよ。私歌うもん。ね、焔」
にゃあ。
まじか。
「それじゃあいいけど……。ほんとに歌えるのか? 」
「大丈夫だよ。いいから弾くっ」
そこまで言うなら仕方がない。実際に弾いて、使っているコードを確かめる。うん、これならすぐにいける。
「それじゃあ、いくぞ」

正直、あまり期待していなかったが、沙月の歌はとても上手かった。焔も、ゆっくりと聴き惚れていた。
「おい、上手いじゃないか。なんかやってたりしたのか? 」
「なんもやってないよ。ただね、歌うのだけはむかしから好きだったの」
そう言って、沙月は微笑んだ。
それからは、僕がギターを弾いて、沙月が歌うようになった。
焔はというと、公園の中をふらついたり、丸まって聴いていたり。つまりは好きにやっていた。
なんとなく、良い時間だった。





 その日、ニュースで、この街でも早いところではもう桜が咲き始めていると言っていた。だから、あの公園の桜も、もうそろそろ咲くのだろうか。そんなことを考えながら、午前零時、いつもの道をギターを背負って歩いていった。いつものように、沙月はその公園にいた。けれど、いつもその傍らにいるはずの焔の姿は見えず、沙月の様子もどこかおかしかった。
 どうしたんだ、と訊こうと近寄っていくと、彼女のほうから話し出した。
「焔がね、いないの。どこか行っちゃったの」
普段の彼女からは考えられないような、沈んだ声。
「それじゃあ、探してるのか? 焔を」
「うん。ずっと探してるんだけど、見つからないの。どうしよう……奏司さん……」
僕よりも、頭一つ分くらい背の小さな彼女が、上目遣いに僕の顔を覗き込む。その眼は、少しばかり潤んでいた。
 それから、二人で焔を探した。公園だけでなく、路地、電柱の陰、一生懸命探した。
「焔はね……」
探しながら、沙月が話し掛けてきた。
「焔はね、本当にずっと私と一緒だったの。私が生まれたときには、もう家にいたの。だからね、焔の方が私より年上なの。びっくりでしょ。前は、親友、なんて言ったけど、それよりも、兄妹、って言った方がしっくりくるかな。焔がお兄さんで、私が妹。だから、だからね……焔が私に何にも言わないでどこか行くなんてないの……。ないの……。ないよね……」
沙月が生まれる前からか……ということは、もうそろそろ寿命というやつが来てもおかしくないかもしれない。ねこは、死期が近づくと自ら姿を隠す、というから。もしかすると焔はもう……。
 気がついてみると、もう既に一時間以上探していた。それでも、焔は見つからなかった。そして、結局僕と沙月はあの公園へと戻ってきた。はじめて沙月を見た、あの桜の木が目に入る。つぼみはもうだいぶ綻んでいた。ここ数日中に咲くことは間違いないだろう。
 ふと、その木の下に、白い何かが横たわっているのが見えた。あいつ、こんなところに……。
 沙月が、ゆっくりとそちらへと歩いていく。ゆっくりと、ゆっくりと。だけど、一歩一歩確実に。
「……焔。こんなところにいたんだ……。探したんだよ。私も、奏司さんも。ほんと心配かけて、だめなんだから……。もうだめだよ、こんな事しちゃ……。だけどね、今回はもう許してあげるから。だからね、お願いだよ。目を開けてよ。ねぇ、ほむら……。またにゃぁ、って言って。お願い、おねがい……だよっ……」
それでも、焔は少しも動かなかった。目を開けることも、にゃぁとなくこともなかった。
沙月は、泣いていた。けれど、その涙は決して取り乱して流している涙じゃなかった。
「本当はね、こういうふうになってるんじゃないかって思ってた。焔とずっと一緒にいられるわけじゃないこともわかってた。でもね、お別れがこんな急に来るなんて、思ってもみなかった。……ほんと、隠れるならもうちょっとしっかり隠れなよ、焔。ここじゃ、すぐに見つかっちゃうよ……」
僕も、彼女と焔のところへ――桜の木の下へと行く。
「ここに――桜の木の下に埋めて欲しかったんじゃないか? 」
僕がそう言うと、沙月がこちらを見上げる。
「そう……なのかな」
「そうだろ。全く焔の考えそうなことだよ。だから……お別れしよう、焔に」

僕と沙月は、今にも咲きそうな桜の木の下に、焔を埋めてやった。

「ねぇ、奏司さん。何か弾いてくれますか? 」
焔の埋葬を終えたあと、沙月はまだ濡れたままの瞳をこちらに向けてそう言った。
何も言わず、ギターを取り出してセットする。そして、
「何を、弾く? 」
「うんとね、何でもいいよ。奏司さんの好きなの」
けれど、今ここにふさわしい曲なんて、あまり思い浮かばない。仕方がないので、即興で弾くことにする。

何のために、ギターを弾く? もう二度と会うことがない焔のために。そして、沙月のために。沙月が悲しんでいるから。焔を失って、悲しんでいるから。そして、僕も悲しいから。焔がいなくなって。そして、沙月が悲しんでいるから。

「……ありがとう。やっぱり奏司さん、ギターとっても上手だよ」
「そうか? 誉めてもらえて嬉しいよ」
そして、一瞬の沈黙。その瞬間、どこからか、かすかな音が聴こえた気がした。
あっ、と小さな声をあげて、沙月が上を見上げる。まだつぼみだった桜の花。けれど、そのつぼみが、今、この瞬間、開き始めている。それも一つや二つではない。この枝も、あの枝も、そう、ほとんど全ての花が、今まさに咲こうとしていた。
「うわぁ、すごい……綺麗、だね。奏司さん……」
沙月はそう言って、僕の方を向いて微笑んだ。





 あの日、焔が死んでからもう一年近くになる。あれから、なぜかあの公園へとはあまり行かなくなった。たまに行っても、沙月の姿を見ることはなかった。何せ、焔の散歩をしに来てたんだしな。
 今日は、うちのバンドの練習日。ちょうど今時期、春になると新入生が練習を見学に来る。先ほども、一人来ていた。自分も、そうやって期待と不安の入り交じった気持ちで見学に来たりしたことを思い出す。
 練習中のちょっとした休み。ドラマーがタバコに火をつけたとき、部室のドアが控えめにノックされた。練習中ならば、絶対に気がつかないだろう位の音だ。どうぞ、とドアの向こうの人物に声をかける。そして、ドアもまた控えめに開けられる。
 その隙間から部室の中を見たその人物は、一瞬にして安心したような顔になる。その新入生は、部室の中に入ってきてこう言った。
「久しぶりです。奏司さん。えーっと、見学していいですか? 」
沙月は、そう言って初めて会ったときよりは、少し強くなった笑顔を見せてくれた。



――終