昼下がりの問題
霧越カズト
「うーん。違うよねぇ。でもそうでないとするとぉ……。そこの説明ができないしぃ……」
お昼過ぎの大学生教の食堂。ほんの数十分前までの喧騒を余韻に残しつつも、テーブルには空いている席のほうが多い。午後の講義が始まっている時間なので、今もこの場にいる学生は、三講時の講義がないか、もしくはサボっている学生である。
テーブルの上にテキストやらノートを載せている学生が多く見られるが、そういう人たちはたぶん前者なのだろう。
「ん、どうした? レポートか?」
沙月もそうやってテーブルの上にレポート用紙を載せていた一人だが、隣でセットになっていそうなテキストなどの類がない。それに確か、彼女はこの時間線形代数があるはずじゃなかっただろうか。
「あ、奏司さん。レポートじゃないんだけど、ちょっとした問題なの。謎なの。本当に不思議なんだから」
一方的にまくし立てる。僕は、ちょっと待ってろ、といって飲み物を買ってくる。何か期待するような視線があったような気がしたので、二人分、である。
「今日はどうしたんだ。もうサボりか? 数学科なんだから、線形切っちゃまずいぞ」
そう、彼女――及川沙月は我が国立某大学の理学部数学科の一年生である。月曜日の三講時はその分野ではなかなか有名な教授の線形代数の時間である。ちなみに、僕も数学科の三年だったりするので、その教授に教わったことがある。「線形」とは線形代数学のことで、「切る」とは、まぁ「あきらめる」ということと同意義である。
「違うよぉ。今日はいきなり休講だったんだよ。本当にびっくりだよ。せっかくやる気だったのに。それに四コマあるから帰れないし。あ、ありがと」
向かいに座った僕からお茶のペットボトルを受け取りながら沙月は言った。
「そうか。そういえば、S田さんは急な休講が多かったなぁ。まぁ、あの人も忙しいだろうからな」
「あの人そんなに忙しいの? なんかそんなふうにあんまり見えないけどぉ……」
疑わしそうな沙月。
「おいおい、知らないのか? あの人結構有名なんだぞ。専門分野では結構トップだとかいう話だし。それに大学受験用の参考書だって書いてるし」
とある有名大学受験用数学参考書の名前を挙げる。
「うそっ! 私それ使ってたよぉ。本当にびっくり」
「で、いったい何が謎なんだ? 数学なら少しはわかるぞ。ちなみに物理、化学は高校生レベルまで、英語もまぁそのくらいか。フランス語は訊くな」
「……奏司さん。それはちょっと寂しいよぉ……。せめて『数学は任せろ』くらい言ってよぉ」
……そんな目で見るな。泣きたくなる。
「それで、本当に何が問題なんだ?」
「うんとね、これなの」
そういって沙月が出してきたのは「五十円玉二十枚の謎」と書かれた文庫本だった。いつもはなんとか殺人事件だとかそういうものが出てくるが、今日はちょっと違うようだ。
どれどれ、と中をのぞいてみる。ん? 「五十円玉二十枚の謎 問題編」か。ふんふん、ほぉほぉ、なるほど、で、だから、そうか。
とある作家が若いころに書店でレジのバイトをしていたところ、毎週五十円玉二十枚を千円札に両替にくる客がいた。その客はなぜそんなことをするのか? というのが謎らしい。
「これが問題なのか?」
「そうだよ。一、なぜ本屋で毎週五十円玉二十枚を千円札に両替するのか? 二、その五十円玉はどうして毎週彼の手元にたまるのか? というのが問題だね。あとのほうはそれに対する解答編になってるの。いろんな作家とか一般からも回答を公募して、それをまとめたのがこの本、というわけ」
「そうか、それで自分でもちょっと考えてみようというわけだな」
確かに沙月の性格を考えると、そういうのがあったら喜んで飛びつきそうだ。
「それだけじゃないんだよ。なんと、私にも同じようなことがあったんだよ」
なぜか誇らしげな様子。
「なにぃ? つまりは毎週五十円玉を二十枚も持ってきて、はぁはぁ荒い息をしながら『これを千円札にしてください』なんていう変態男がいるのか?」
最近彼女は、自分のアパートの近くのマンションの一階に入っている書店でバイトをはじめたといっていた。そこの書店にそういうやつが現れるというのか。
「……微妙に違うよぉ。別に変態じゃないと思うよ。それに毎週じゃないし」
「それならいったいどういうのなんだ?」
そう訊くと、彼女は語りだした。自らが体験した――いや、もしかしたら現在進行形で体験しているかもしれない事件を……
「はじめはね、先々週の土曜日、時間はその本と同じ夕方だったかな。結構若めの……二十代半ばくらいかな、そのくらいの男の人が店に来たの。服装? 服装はね、うーんとぉ、ジャージだったかな。確かそう。隣のコンビニの袋持ってたかな。それでね、レジのところにきて五十円玉二十枚出して『これ、両替してください』って。まぁ、その時はね、よくこんなにたくさん貯めたなぁ、って思っただけで、普通に両替して、お客さんもそのあと別に何も買わずにでてったんだけど。え、何も買わないのはおかしいって? 結構いるんだよ。目当てのものがまだ出てなかったとか、ただの暇つぶしとか。その人のこともそう思ってたんだけど、その次の週にもね、来たの。五十円玉二十枚を千円札に両替する人が。前の週とは違う人だったんだけどね。今度の人は、そうだなぁ、ジーンズにシャツだったかな。大学生風だった。ちょうど奏司さんみたいな服装かな。それで、また『これ両替してください』で、何も買わずに出てって。さすがに二週も続くとちょっと不思議でしょ。それでね、バイトの先輩に話してみたの。そうしたら、この本を読んでみたら、というわけ」
「ふうん。そうしたら、沙月の場合とこの本との違いは、持ってくる人が違う、というところか。そこは結構大きいかもな。
ところで、この本の解答編にはどういうのがあるんだ?」
「えーっとねぇ……。これが一番よかったかなぁ」
そう言って、沙月は最優秀賞をとった解答の説明をする。
はぁ、よく考えるなぁ。素直に関心。
「でも、私はこっちも結構好き。この人、今はプロの小説家なんだよ」
そうして、次にとある解答の説明をする。
おぉ、それはなかなか面白い発想だな。確か、そんな感じのことはちらりと聞いたことがある気がする。
「それじゃあちょっと考えてみるか」
確かにとても興味深い問題だ。
「それじゃ、いっしょに考えよ。奏司さん」
うれしそうな沙月。
五十円玉二十枚か……。考えながら、ぱらぱらとページをめくる。一番最後には、まだまだ解答を募集します、という募集文。ちょっと考えが浮かぶ。いや、そんなことはあるはずがない。というよりそれは反則だ。
「なぁ、沙月。ちょっと思い浮かんだんだけど」
「え、うそ! 凄い奏司さん。こんなにすぐ? 凄い凄い。それでどんなの?」
期待に満ちた目。
「いや、答え、というもんじゃないけど、その沙月の店に来た人もこの本を読んでる、なんてことはないかなぁ、と思ってさ」
自分もすばらしい解答を送ってやろうと思った人が、実際にやってみれば何か思い浮かぶかも、と五十円玉二十枚を両替に来た、ということは考えられないだろうか。
「おしぃ、奏司さん。そのネタはもう使われてるよ。ほらこれ」
そう言ってとある有名作家が書いた解答編のページを開く。確かに同じようなネタだ。まぁ、それだけで終わらないところはさすが、といったところだ。
「でも、案外沙月のほうの謎はこういうことかもしれないぞ。こういうことが書いてあったら、実際にそれをやってみる人が出てきてもおかしくないんじゃないかな」
「そうだよね。やっぱりそんなものなのかなぁ」
ちょっとがっかりする沙月。
「あら。及川さんじゃない。どうしたの、こんなとこで」
そういう声のほうを向くと、ショートカットの女の人が立っていた。
「あ、空木さん。こんにちは」と沙月。
「こんにちは。こちらは?」
と僕のほうを見る。
「こっちは谷原奏司さん。軽音の先輩です。っと、奏司さん。こちらは空木汐音さん。推理研のほうの先輩です」
互いに紹介する沙月。
「へー、これが噂の奏司さん、か。よろしくお願いしますね」と空木さん。いったい何の噂だ。
「こちらこそ。何の噂か知りませんが、噂なんて信じるもんじゃないですよ」と返しとく。
「そうですか? 結構信じられそうだけど。
ところで、その本もしかして……。やっぱり「五十円玉二十枚の謎」ね。やっぱり書店でバイトしてると手に入るのも早いのね。これってまだ先週発売されたばかりなのに。で、どうだった? どれが一番だった?」
と訊いてくる空木さん。
「えっ! これって先週出たばかりなんですか?」
思わず大きな声を出してしまう。
「ええ、そうよ。だいぶ前に出たやつの文庫版だけど。それが何かあるの?」
ちょっと驚いてる空木さん。
「それじゃあ、奏司さん。もしかして……」負けずに驚いてる沙月。
「そうだよ。さっきの推理はだめだ。いや、先週の二番目のほうはそれでもいいかもしれない。でも、はじめのほうは違う……」
まさか、そんなことが……。
「何です、さっきとかそれとか。教えてくださいよ」
そういう空木さんに先ほどまでの話をする。
「つまりは、この本と同じような行動をする人が二人いると。あとのほうはこの解答を考えての行動だとしても、はじめのほうの説明がつかないと、そういうことですね」
理解したことを示す空木さん。
「はじめのほうの人もそうかもしれないという可能性は残ってるけど、さすがに文庫の前の本が出たのが何年も前となると、ちょっときついですね」と沙月。
なら、いったい何なのだろうか。五十円玉二十枚……。五十が二十個……。50掛ける20……。50と20……。
50は2掛ける5の2乗。20は2の2乗掛ける5。……ん、これは。
「何かの暗号とか考えられないか?」
「暗号? いったいどんな」沙月がちょっと胡散臭そうな目で見る。
「50を素因数分解すると2掛ける5の2乗。同じく20は2の2乗掛ける5。どっちも同じ数字からできてるんだよ」
そういうと、沙月と空木さんは、あっ、という顔をする。
「でも、いったいどんな暗号が?」と空木さん。
「たぶん、2が二個と5がひとつだけじゃあ、そんな暗号なんて作れないから、ダイレクトに何かの数字を示していると考えたほうが自然じゃないかな、と思うんだけど。どう?」
「さすが奏司さん。でもそうすると……225か252か522ですね」沙月がこの三つの数字から考え出される三桁の組み合わせを並べる。
「うーん、何かなぁ。部屋番号とかかなぁ……」空木さんがポツリと漏らす。
確かにそれくらいしか考えられないかなぁ。三桁の数字なんてありそうだけど、実際に使われるとなるとそれだけじゃなく、ほかに何かついたりするからなぁ……。
「沙月がバイトしてる書店が入ってるマンションって何階建て立ったっけ?」訊いてみる。
「えーっと、確か六階建てだったかな。それで、二階までがテナントになってるの」
つまりは、実際にマンションとして使われているのは三階から上ということだ。
「ということは、残るは522ね」空木さんが結論を下す。
「でもいったいそこに何が?」不安なような、ちょっと何かを期待するような、そんな感じの沙月。
「何でしょうね。でも、他人にそれを教えようとするからには何かあるはずよね」
「でも、何か教えたいなら、普通に522に何かありますって教えたほうが早いですよ」反論する。
「でも、もしかしたらそうやって直接伝えることができなかったとか」沙月が再度の反論。
「それをどうしても秘密にしておかなきゃいけないとか、か。そんなことないと思うけどな」という僕の言葉に、
「いえ、今回はすでに普通じゃない事態なんだから、少しくらいおかしいことがあるって考えるほうが普通じゃない?」空木さんが返す。
「それじゃあ、いったい何が?」何かを期待する沙月。
「そう、犯罪の匂いがする」こちらもどこか嬉しそうな空木さん。
……いったいこの人たちは……。これがミステリマニア、というものなのだろうか……。
「522で行われているのは、ずばり犯罪よ」そう宣言する空木さん。
「いったい何が行われてると思います?」空木さんに訊いてみる。
「それは……」ちょっと口篭もる。勢いで言っていたが、特にまだ考えてなかったらしい。
「あれじゃないですか、拉致監禁とか」隣から沙月が助け舟。
そういえば、ちょっと前にどこかでそんな話があったな。確か、金銭のトラブルとかでそんなことになったとか。恐ろしい世の中だ。
「そうよ。監禁された被害者が、犯人たちの監視の中で、そんな大きな声で助けを求めることなんてできなかった。だから、一縷の望みを五十円玉二十枚に託して、助けを呼んだのよ。コンビニで千円札から五十円玉二十枚へと買えるときと書店でそれをまたもとに戻す時の二回。つまり、二十枚の五十円玉は彼からのSOSだったのよ」
と、少し芝居がかった言い方をする空木さん。あ、もうネタに入ってるなと察する。
「そうですよ。早く助けに行かないと。こうしている間にも被害者はどんなひどい目にあっているかもわからない。そんなこと、絶対にさせちゃだめだ。善良な一市民として、いや、一人の人間として凶悪な犯罪という残虐非道な行いが行われているのを黙って見過ごすわけには行かない。さあ、行くぞ沙月。悪を成敗するんだ」ネタにのってみる。空木さんはちょっと楽しそうだが……
「だめだよぉ、奏司さん。だって私四講時あるし」沙月はのってこない。
「だめよ及川さん。あなたがそんなひどい人なんて思わなかったわ。今死の危機に瀕している人がいるのに、それを黙って見過ごしてしまうなんて。ああ、もう信じられない」僕に負けず大げさになってくる空木さん。……ちょっと気が合うかも。
「そうだぞ沙月。もういい。行きましょう空木さん。こんな悪逆非道な人間なんてほっておいて」
「そうね。自分の単位のことしか考えていないような人なんてもういいわ」
二人で席を立ってみる。
「わ、わかったよぉ。私も行くよぉ……」沙月もしぶしぶといった様子で立ち上がる。
「とまぁ冗談はここくらいにしておきましょう」座りながら空木さんが言う。
「ふう、久しぶりに楽しかったですよ。空木さん。
お、沙月。どこか行くのか? 次あるんだろ。サボっちゃだめだぞ」僕も座る。
「ううぅ。二人でいぢめるぅ。後輩いぢめちゃだめなのにぃ。引きこもってやるぅ。いじめが元で引きこもってやるぅ」
恨めしそうに沙月。
「まぁ、そんな犯罪とか本当にあるはずないしな。それにもし仮に部屋番号まで推理があっていたとしても、それが沙月がバイトしているマンションのだとは限らないしな」
「でも、本当に面白い推理ですよ。この本の中にも、五十円玉二十枚が暗号なんていうネタはなかったし。ところで、522を示したいなら、素直に522円とか出せばいいのに、何でわざわざ五十円玉で?」いつのまにか立ち直ってる沙月。
「品物を買おうにも、522円なんて半端な値段なんてそうそうならないし、かと言って、522円だけを出すわけにもいかないでしょうし。それで両替という手段というわけよ。そして五十円玉を二十枚、という組み合わせにすれば両方ともに522が入っているからね」空木さんが解説。
「まぁ、実際のところは、たまってきたから両替に来ただけだろうな。その人一回しか来てないんだろ?」沙月に確かめてみる。
「うん。先々週の土曜日の一回だけだよ」
「それじゃあきっとそういうことよ。それにしても楽しかったわ。今度推理研のほうにも顔出してみてよ。こんな面白い推理するなんて、みんなきっと喜ぶわ」と空木さん。誉めてくれてるのだろうか。
「まぁ、ひまだったら、ですね。そちらもそのうちライブにでも来てくださいよ」
「ええ、誘ってくださいね。それじゃあね」
と空木さんは去っていく。
「それじゃあ、こっちももうそろそろ行くか」
「え、もう」ちょっと残念そうな沙月。
「だって、もう結構たってるぞ」
「うそ。わ、もうこんな時間。びっくり。もういかなくちゃ。それじゃあね、奏司さん。またね」
沙月も急いでいく。
僕は、といえば……。もう今日は何もないはず。部室にでもよって帰るか。
自分の飲みかけの野菜ジュースを持って生協を出た。
数日後、拉致監禁されていた、という男の人が保護されたというニュースが流れた。報道によると、沙月がバイトしているマンションの一室に監禁されていたらしい。残念ながら何号室までかは判らなかったが、被害者は監視つきながら外へ出たときなどいろいろな手段を使って助けを求めていたらしい。直接的な手段を使うとばれてしまうので間接的な手段を使って。結局は隣室の様子を不審に思った住人が警察に通報したということだ。もっとわかりやすい手を使えばよかったのに、そう思った。
その日、沙月と空木さんがとんできたのは言うまでもないだろう。
"Practice"is over.