首から掛けられた、白いネームプレート。

  NO.358  茨木 斗岐

  ただそれだけが書かれたこのプレートが、この腐れ研究所の中で自分を証明する唯一のものだ。

  俺は片手でその薄っぺらいプレートを弄びながら、ぼうっと考え事をしていた。

  「お兄、食べないの?」

  無遠慮な声と同時に、横から伸びてきた手が、俺の皿の上に載ったオレンジを奪い取った。そのおかげで、俺はようやく我に返る。

  顔を横に向けると、黒っていうよりは栗色の髪の甘ったるい顔立ちの女が、俺のものだったはずのオレンジを口に入れて、ニコニコと笑いながら俺のほうを見ていた。

  「・・・沙岐。」

  俺は、怒りを通り越して呆れた声で、ソイツの名前を呼んだ。

  「やるって言ってねーだろ。」

  「えー? いらないのかと思ったんだもーん。」

  馬鹿にしたように笑い、彼女は・・・・・・妹は、自分の皿に残った一切れのパンを口に放り込んだ。

  「いーじゃん。別に名前が書いてあったわけじゃないし。」

  残ったスープで口の中のパンを胃に流し込んで、妹は、飄々とした調子でそう言ってのける。

  ・・・我が妹ながら、嫌な女だ。

 

  藍田 沙岐(あいだ さき) 13歳。

 

  俺と一緒にこのB−21研究所に収容された、二つ下の俺の妹。

  親の離婚で苗字は違うが、顔を見れば兄妹だってことくらい、バカでもわかる。

  俺の女嫌いの元凶だといってもいいぐらい、顔は可愛いが性格ブスだ。

  俺は、ため息をついて妹から目を離し、耳障りなほどに騒がしい食堂を見回した。

  それほど広くない食堂には、俺たち兄妹と同じようにグレーの服を着せられた子ども達が無理矢理押し込められ、質素という以外の形容詞が見当たらない食事を摂らされていた。

  B−21の中でも、最も多くの子ども達を抱える収容施設。ここには今、50人くらいの子どもが収容されているはずだ。数えたことはねーけどな。

  実験と称したサイボーグの子供同士の殺戮試合と、厳しすぎる戦闘訓練。昨日までここにいたヤツが、今日もここにいるとは限らない。

  「ここも、少なくなったよね。」

  俺と同じように周りを見渡し、妹は、ぽつり、とそう言った。

  「ああ。そーだな。」

  俺と妹がこの研究所に収容されてから、もう5年経つ。

  ここにいる子ども達の大半がそうされるように、俺たちは、所内にいくつかある収容施設を点々と移りながら過ごしてきたわけだが、最近、全体的に子どもの数が減ったように見える。

  今までは、誰かが死んでも、定期的にスラムから『仕入れ』られて来る子どものおかげで、子どもの数が極端に減る、なんてことはなかった。

  『仕入れ』が滞ってる、ってことなのか?

  「ま、数が減ろうが増えようが、生きるヤツは生きる、死ぬヤツは死ぬ。それに変わりはないよね。」

  フン、と鼻で笑い、沙岐は冷たい口調でそう言った。

  「もちろん、わたしは殺す側だけどねー。」

  「・・・・・・。」

  俺はそんな妹の残酷な微笑みを見ながら、何も言わずに手の中の硬いパンを千切る。

  いつも思うことだが、女って生き物は、どうやっても理解できない。

  かわいい、それはわかるような気もしないでもない。

  根本的に顔の作りが男とは違うし、どんな動物だって雌の方が優しい顔立ちをしてるような気がするし。

  だが、『弱い』、これだけは納得いかない。

  そりゃ、男に比べりゃ、一般的に筋力や体力は、女の方が劣る。

  だが、女ってやつは、その弱さすら武器にする。

  弱いフリして、護ってほしそうな顔して男に媚びて、最後には男を踏み台にしやがる。

  少なくとも、俺がこのB−21研究所で会う女は、ことごとくそうだ。

  そりゃ、ここでは子供同士の殺戮試合がしょっちゅうだし、『お互い、引き分けのフリしようよ』とか言いながら、ラストスパートで相手の心臓ぶっ刺してやるくらいの狡猾な女なんて、腐るほどいて当たり前だけど。

  「お兄、今日は試合? 訓練?」

  「試合ー。」

  「あっそ。せいぜい死なないようにね。」

  殺し合いに赴く兄貴に言うべきことは他にねーのか、と、俺は内心呆れたが、まあ、この妹に優しい気遣いなんか期待するほうがどうかしてる。

  「お前はー?」

  「わたし? わたしは訓練。ま、適当にやるわ。」

  妹がそう返したのを聞いて、俺は少しホッとした。

  こんな生意気なガキでも、妹は妹だ。やっぱり死んでほしくはないわけで。

  実を言うと、沙岐はそんなに強力な能力は持ってない。掌に高熱を発生させて、それで相手に火傷を負わせるわけだが、相手に触れねーと何の効果もないし、よほど正確に相手の頚動脈でも灼かなけりゃ、なかなか相手を殺すまでには至らない。

  その程度の能力で、この研究所で5年も生きてられるのは珍しい。普通なら、俺みてーに応用をきかせやすい能力を持ったヤツとか、問答無用で広範囲の攻撃をしてくるヤツと当たって、とっくに死んでるはずだからな。

  沙岐がそういうヤツと当たらないのには、理由がある。

  コイツは、コイツより弱いヤツとしか当たらないようになってんだ。

  ロリコンなんて、世の中捜せばどこにでもいる。

  たまたま、沙岐や俺の担当がそんな趣味で、沙岐のヤツがそれを知ってて利用してるだけに過ぎない。性格は悪いが顔だけはいいからな、このガキは。

  試合で死ぬのと、ロリコン野郎の愛人になるのと、どっちがマシなのかは俺にはわからないが、ここに来た当時の沙岐は幼いながらに、後者を選択したらしい。

  こんなまだ前も後ろもわかんねーようなガキに、大の大人がいいように使われてる様子は、俺から見てもマジで異様だ。

  しかも沙岐は、試合の時だって対戦相手を巧みな言葉で騙したり、場合によっては怯えたフリをして油断させ、隙をついて相手の首を掴んで灼き尽くす、なんてことを平気でやるらしい。

  生き残るためとはいえ、そんな狡猾な妹を常日頃から見てて、なんで女に希望が持てるだろうか・・・・・・。

  とにかく、女ってやつは、たとえ子どもだって信用できない。

  男の方が、直情的で、わかりやすくて、ずっと信用できる。

  だから、俺は一生、女に心を許すようなことはないんだろうと思う。

  俺が、同性愛の趣味を持ってる言い訳にはならないかもしれないが、とにかく、俺はそう思ってる。

  男に媚びて、擦り寄って。

  腹の底では男を馬鹿にしてるクセに、甘い声で誘惑してくる女。

  本気で、吐き気がするぜ。

  俺は、一生、女を信用しないんだろう。

  表面上はニコニコ笑ってやっても、心の中では嘲笑ってやるよ。

  「んじゃ、わたし、もう行くから。」

  一人でモノローグめいた事を考えていた俺の耳に、沙岐が食器の載ったトレイを持ち上げる音が聞こえて、俺は我に返った。

  壁に掛けられた時計に目をやれば、時計の針は『試合』開始の1時間前を指していた。

  「待てよー。」

  俺はさっさと食器を片付けにかかる沙岐に声をかけながら、空になった自分の食器を持って立ち上がった。

  妹と違って実力で5年勝ち抜いてきたっていっても、俺だって着替えとウォーミングアップぐらいしねーと、さすがにちょっと不安なわけで。

  「えー、お兄、もっとゆっくりしたらいいじゃん。ってか、『優秀者』のくせに、1時間前行動なんて、超ダッサい!」

  「命かかってんのに、ダサいもクソもあるかっ!」

  思いっきり顔をしかめて言う妹の隣で食器を片付けながら、俺は半ば呆れて言い返した。

  コイツの言う『優秀者』ってのは・・・まあ、要するに、この研究所内で何年も勝ち残ってたり、変わった能力を持ってて『試合』に出なくても生き残れる奴ら・・・つまり、研究所のスタッフが『優秀だ』と判断した奴らのことだ。

  入れ替わりが激しい上、大小7つの施設に小分けされた子ども達にとって、一体誰が『優秀者』なのかなんて顔を覚えたりする余裕も機会もないが・・・というより、覚える前にみんな死んでいくんだが・・・とにかく、研究所のスタッフたちから漏れた噂からか、『優秀者』の名前くらいはみんな知ってる。

  割合的に『優秀者』は、女の方が多いらしい。それも驚きなんだが、『試合』にほとんど参加しない、『電脳の聖女』マリア、『LOCK&CRUSH』大宮千鳥と富田徳也、とかっていう有名な特異能力者も入ってるんだし、それを除けば半々ってとこだ。

  一応、5年生き残ってる俺も、その中に入ってるらしい。

  別に嬉しかねーけど。だって、それって、単にそれだけ多く殺してるってことだろ。

  「えー、だってさぁ、お兄を殺せるような相手なんて、めったにいないじゃん。他の『優秀者』と当たらない限り。・・・・・・あ、別に誉めてるわけじゃないから。」

  「お前に誉められるなんて期待してねーから、安心しろ。」

  なんでコイツは、いちいち余計な一言をつけようとすんだよ。

  俺は、何かと一言多い沙岐をうるさく感じながら、本心からの言葉を返した。マジで、コイツに誉められたことは一度もねーし。

  だが、どうやらその一言は、沙岐にとって心外だったらしい。沙岐は食堂の出口に向かって歩きながら、不機嫌な顔で俺の背中を叩いた。

  「なにそれ。まるでわたしが嫌な女みたいじゃん。」

  「『みたい』じゃなくて、本物の嫌な女だぞー、お前は。わかってねーのか。」

  「全っ然、わかんない。」

  嫌な女ってのは、大抵、自分がそうだってことを認めたがらねーんだよなー。

  むくれた顔で何度も背中を叩きまくる沙岐を見ながら、俺はそんなことを考えた。多分、俺の考えも、あながち間違いってわけじゃないだろう。

  背中に叩き付けられる沙岐の平手が拳に変わったのを感じつつ、俺は何となく、沙岐の言う『他の優秀者』の名前を頭の中に思い浮かべていた。

  西院 香、淡路 和高、この二人は、まだほんのガキらしいが、この研究所でのキャリアは恐ろしく長いらしい。あとの奴らのことは、本当に名前しか知らない。確か、張・愛怜・ライトスパロウ、水無瀬 和歌、ユイ・K・プラムフィールド・・・だったか?

  ちなみに、沙岐は『優秀者』には数えられてない。

  長く生き残ってるのは事実だが、対戦の組み方からして不正なわけで、その強さよりも、担当官を誘惑した女としての名前の方が有名だ。とんでもなく不名誉な名声だけどな。

  「あ、お兄、スゴイの来たぁ。」

  「あ?」

  いい加減殴られすぎで背中がヒリヒリしてきた頃、沙岐はパンチを繰り出すのを止め、面白いものでも発見したかのように嬉しそうな声をあげた。

  「マジやばいじゃーん。あいつ、死ぬんじゃない?」

  実に楽しげな沙岐につられて前を見ると、白い廊下を俺たちの方に向かって、ゆっくりと、っていうよりはフラフラとおぼつかない足取りで歩いてくる、黒い髪の少女の姿が目に入った。

  包帯だらけの片手を廊下の壁に当てて、半分寄りかかるみたいにしながら、そいつはなんとか歩いていた。

  体の大半を血に汚れた包帯やガーゼで覆われて、顔だって、かろうじて左目が見えている程度。確かに沙岐の言う通り、どっからどう見ても重傷患者だ。

  「あんなの、いたっけ?」

  俺の隣に立った沙岐が、その女を指差して、眉根を寄せた。

  言われてみれば、そいつはこの収容施設では見かけない顔だった。まあ、あんなに包帯グルグル巻きじゃ、例え知ってる奴でも判別できないかもしれねーけど。

  「さーなー・・・・・・別のトコから移ってきたんじゃねーのー?」

  それにしたって満身創痍もいいトコで、見るからに、『苦戦の末に試合に勝ったけど、動けないなんて言ったら廃棄処分されそうだから、無理して歩いてます』って感じだ。

  「お兄、あいつがいつまで生きてるか、賭けようよ。」

  沙岐は、新しいオモチャを見つけた子供みたいに、茶色っぽいデカい目を輝かせて、その女を指差した。娯楽なんてほとんどないこの研究所で、沙岐はよく、この手の悪趣味な遊びを提案してくる。

  俺は、ゆっくり近付いてくる女を眺めながら、沙岐の頭を軽くはたいてやった。

  「そーいう遊びはやめろ。」

  「何よ、つまんない。」

  沙岐は、本気で性格悪そうに口を尖らせ、爪先で床を蹴って肩を竦めた。

  つまらなそうに頬を膨らませながらも黙って歩き出した沙岐について、俺は長い廊下の奥に向かって、もう一度歩き出す。

  「・・・・・・。」

  向かい合うみたいにして歩いてくる包帯女をなんとなく眺めていた俺は、距離が縮まるにつれて強くなる、鼻の奥を刺激する嗅ぎ慣れた臭いに顔をしかめた。

  咽の粘膜に染み付くような、ねっとりした血の臭い。

  どんだけ慣れても、この臭いだけは好きになれそうもない。

  包帯女が、隣を歩く沙岐の横をほとんどすれ違いかけた時、俺はその姿に若干の違和感を感じたような気がした。

  全身に巻かれた、赤や茶色の染みが付いた白い包帯。

  薔薇の花みたいな深紅は鮮血、そうじゃないのは古い血。

  ってことは、この女のこの傷は、一回の試合でつけられたモンじゃねーってことだ。

  俺は、顔もわからないほどの傷を負いながらも、ひたすら一人で歩き続けるその女を見ながら、その奇妙な事実に眉をひそめた。

  俺たち試験体にとって、怪我ってやつは避けて通れないもんだ。試合に負ければその時点で人生は終わるし、勝ったところで無傷とはいかない。手間のかかる重傷を負った試験体なんか、即、廃棄処分される。

  だが、動けないほどの重傷でない限り、簡単な治療を受けて、次の試合まで、多少の日数を傷と体力の回復のために充てるくらいは許される。万全の状態で試合を行った方が、研究所にとってもデータが取り易いんだろう。

  連続して試合をさせられた奴なんて、今まで見たことがない。

  すれ違う俺たちを気にも留めない様子で通り過ぎようとする包帯女を見つめながら、俺はその異様な姿に戦慄した。

  この女は、明らかに連戦をさせられてる。

  それも、包帯に染み付いた血の色から見て、たぶん、一回や二回じゃない。

  よっぽど、研究所の奴らに憎まれてんのか?

  「あ、ゴメーン!」

  ボーッとしてた俺の横で、笑みを含んだ沙岐の声がした。

  それと同時に、沙岐とすれ違いかけてた包帯女が、いきなり不自然にバランスを崩すのが見えた。

  「あ・・・危ね・・・っ!!」

  視界の端に沙岐の楽しげな表情を見ながら、俺は倒れ込んできた影を受け止めようと、反射的に両手を前に突き出す。包帯に巻かれた両手が俺の両肩を掴んで、咄嗟に身構えることも出来なかった俺の体に、突き倒されるには十分なくらいの重みがかかる。

  背中をモロにコンクリートの廊下に打ち付けて、俺は一瞬、瞼を閉じて呼吸を止めた。

  「っ・・・痛ってぇー・・・!」

  「いやーん、お兄、女に押し倒されるなんてハジメテだったりしてー?」

  背中の痛みに耐えながら目を開けると、沙岐は、けらけらと笑いながら、茶化すみたいに弾んだ声を上げ、床に倒れた俺を見下ろしていた。

  「沙岐・・・テメー・・・。」

  コイツ、包帯女に足かけやがったな!?

  俺は、そんな得意満面な妹の顔を睨んで、引き攣った低い声を搾り出す。

  背中にひんやり冷たい床の感触を憶えながら、俺は顔を上に向けて、自分が受け止め損なった・・・いや、無様に転んだけど何とか腕で支えてやった包帯女の顔を見上げた。

  俺がその女の細い腰のあたりを支えて、相手が俺の両肩に手をついてるお陰で、抱き合うようなことにはなってない。けど、まあ、妙な姿勢になってるのは確かだ。

 

  白い顔に巻かれた包帯とガーゼの隙間から、深い漆黒の瞳が俺を見下ろしていた。

 

  見る者を射抜くような鋭いその視線は冷たく、だけど、まだあどけない少女の雰囲気すらも併せ持って、不思議と、俺の目を捉えて離さなかった。

  傷口が開いたんだろうか、俺の真上にあった女の胸元が、あっという間に真っ赤な血に染まって、生温い鮮血が俺の頬や唇の上に紅い染みをつける。

  口の中に鉄みたいな、それでいて甘い、嫌な味が広がって、俺は我に返った。

  いつまでこの姿勢でいるんだ、俺は。

  「えーと・・・大丈夫か?」

  一応声をかけて、俺はその女の腰を掴んだ両手を離した。

  女が無言で小さく頷いて、ゆっくり起き上がろうとしたその時、滴り落ちる血の臭いに混じって、俺の顔にかかってた彼女の黒い髪から、ほんのりと甘い花みたいな香りが漂って、俺の鼻腔をくすぐった。

  「・・・・・・。」

  一瞬の嫌悪感。もしかしたら俺は、顔を引き攣らせてたかもしれない。

  この研究所で、こんな匂いの残るもので髪を洗える女なんて、そういるわけじゃない。

  沙岐みてーに、夜中にこっそり大人たちの部屋に呼ばれて、そこでシャワーを浴びてくる必要のある女、そんな奴だけだ。

  なるほどな。包帯さえ取れば、それなりの顔してるってわけだ。

  「ほんと、ゴメーン! わたし、脚長いからさぁ。引っ掛かっちゃったぁ?」

  廊下に座り込むみたいな格好の俺の横で、包帯女は膝をついたまま、からかうように笑う沙岐には一瞥すら与えなかった。

  「沙岐〜!! お前なぁ・・・笑ってねーで、ちゃんと謝れ!」

  「えー、ってか、そっちが勝手につまずいたんじゃないのぉ?」

  沙岐は完全に反省の色ゼロで、人を小馬鹿にしたみたいな顔をして、ふふん、と鼻で笑ってみせた。

  マジで、なんて根性の悪い女なんだ、お前は。

  俺は、沙岐の態度に心底ムカつきながら立ち上がり、真っ赤に染まった胸元を隠すみたいにして、何とか立ち上がろうとする包帯女に片手を貸した。

  「ホント、悪い! ウチの妹が迷惑かけてさー。それ、マジで大丈夫か? ヤバイんじゃねーの? 治療は・・・」

  血が止まらないのか、胸元を通り越してどんどん紅く染まっていく彼女の服を指差して、俺は彼女を医務室に連れて行こうか迷った。治療をした方が良いんだろうが、こんな満身創痍の重症患者を医務室なんかに放り込んだら、廃棄処分なんてことにもなりかねない。

  「ねー、もういいじゃん。平気なんでしょー? 行こうよ、お兄!」

  彼女が無言で首を横に振って、医務室に行くのを拒否したのを見て取るなり、沙岐は無責任にも機嫌の悪そうな声を張り上げ、俺の左腕を引いた。

  「沙岐!」

  これにはさすがの俺も、声を荒げた。

  何をしても怒らないとでも思っていたんだろうか、沙岐は一瞬、びっくりしたみたいに俺の顔を見返して、怯んだような表情を見せる。

  「な、何よ!」

  「お前、いー加減にしろよ! お前のせいだろ! ちゃんと謝ってから行け!!」

  「はぁ? なんでわたしが謝らなきゃ・・・!」

  沙岐が不服そうに頬を膨らませて反論しようとした時、俺と沙岐の間に飛び込んできた小さな人影が、いきなり、沙岐の体に真正面から体当たりを喰らわせた。

  沙岐の体は、まるで後ろに跳んだみたいに一瞬で、俺の目の前から消える。

  「沙岐!?」

  完全に不意打ちを喰らい、廊下の壁際まで吹っ飛ばされた沙岐は、白い床に尻餅をついたみたいな格好で、苦痛に顔を歪めて呻いていた。

  俺はいきなりの出来事に驚きながらも、視線を沙岐から、沙岐を吹っ飛ばした子どもに視線を移して・・・息を呑んだ。

  「You're fool!(ばーか)」

  クスクスと得意気に笑いながら、ソイツは、無様に転んだ沙岐を見下ろして、流暢な発音で子どもらしい罵声を吐いた。

  10歳か、もう少し上くらいだろーか?

  ソイツは、まるで童話の世界から飛び出してきたお姫様みたいにキレイな女の子だった。

  見るからに欧米の血が濃いその女の子は、サラサラした長い金髪の一部を頭の上で結って、瞳の色は透き通った青色をしていた。どうしてもアジア系が多いこの研究所では珍しく色素の薄い白人系で、そういうのを見慣れてない俺にとって、その子の容姿は強烈に印象的だった。

  沙岐が着るとどうにもダサい、指定のグレーのワンピースですら、欧米系の子が着ると様になるから不思議なもんだ。

  「な、何すんのよ! 痛いわね!!」

  「おねえチャンをころばセタくせに。」

  沙岐が床に座り込んだまま、自分を突き飛ばした金髪の女の子を睨んで金切り声を上げると、その子はまなじりをきつくして、不安定なイントネーションの日本語で言い返した。片言ってほど下手でもないが、ちょっと聞き取りにくいところがある。

  「姉ちゃん・・・?」

  別に疑ったわけじゃない。ただ、二人の持つ特徴があまりに似てなかったもんだから、ちょっと驚いて声が出ただけだった。

  だが、俺が思わず口に出したその呟きに、その子は明らさまにムカついた表情をして、俺たち兄妹から顔を逸らし、自分が『お姉ちゃん』と呼んだ包帯女の手を取った。

  その子は、最後に沙岐のほうに睨みつけるみたいな・・・威嚇するみたいなキツイ視線を投げてから、包帯女の手を引いて廊下を歩き始める。

  「・・・Do you have any games today?(今日は試合あるの)」

  「・・・・・・。」

  かすかに漂う血の匂いと、金髪の女の子の声が徐々に遠ざかっていく中、俺と沙岐は何だか取り残されたみたいな気分で、去っていく二人の背中をぼんやり眺めていた。

 

  「・・・超ムカつく! 何よ、あのガキ!」

  二人の姿がすっかり食堂の中に吸い込まれてしまった頃、地べたに座り込んだままの沙岐が、思い出したように大声を上げた。いや、実際思い出したんだろうけど。

  「そーか。俺は、むしろお前にムカついたんだけどなー。」

  「名前ぐらい見ときゃよかったわ。あいつ、次会ったら、絶対泣かしてやるんだから!」

  「お前なぁ・・・。」

  両手に握り拳を作って悔しがる沙岐の姿に呆れながら、俺はもう一度、包帯女と金髪少女、二人が消えていった食堂の扉を振り返る。

  そーいえば、あいつらネームプレートつけてたか?

  俺が見てなかっただけか、それとも服の中にでも入れて見えないようにしてたのか。

  名前を知られるのを嫌がる奴ってのも、確かにいる。別にネームプレートを服の中に入れて隠してようが、見えるように出してようが、身につけてさえいれば何も言われないんだから、どっちでもいーんだけど。

  「ほら、いつまで座ってんだ、お前はー。さっさと行くぞ。」

  「えー、もー、オシリ痛いー!!」

  まあ、あいつらの名前なんか知ったところで、別に何が変わるわけでもない。

  今日も昨日と同じように殺し合って、生き残れば、また同じような明日が来る。生きるか死ぬかの毎日がただ繰り返される中で、唯一変わることといえば、一人、また一人と消えていく試験体の顔ぶれだけ。

  生きてさえいれば、いつかここから出れるかもしれないって希望を持ち続けて、そのために殺し続けて、もう5年。いつの間にかそんな淡い希望なんか消え失せて、ただ殺戮に慣れてる自分がここにいる。

  死んだ方がマシかと思っても、妹を一人残して死ぬことも、道連れに死ぬことも憚られて、結局死ぬ勇気なんてない自分に気付く。毎日続く緊張に耐えかねて気が触れる奴が、かえって羨ましくさえ見えて。

  全身包帯だらけで、それでもなお生きようとするあの子も、俺と同じように、妹がいるから死を選べないのかもしれない。

  それは彼女にとって、足枷なんだろうか。

  それとも、救いの手なんだろうか。

  「・・・・・・。」

  まあ、そんなことはどーでもいい。

  どうせ、あいつらだって俺たちだって、いつまで生きてられるかわかんねーんだから。

  今の俺には、他人の事に頭を回してる余裕なんてないし、そんなことしたって、何の意味もない。

  沙岐がブツクサと文句を言いながらも立ち上がるのを待って、俺は食堂の扉から視線を外し、早足で歩き始めた。

 

  イカレてしまいそうなくらいに白い廊下が、俺が一歩踏み出す度に、冷たくて固い音を響かせる。

  吐き気を催す濃い血の匂いと、甘い花の香りがミスマッチに混じり合って、戦場に赴く俺の鼻腔をいつまでも刺激し続けていた。

 

 

 

 

  これが、俺と彼女の出会いだった。

  媚びない、甘えない、擦り寄らない。

  俺が、一生かけて愛し続けた彼女との、一生忘れられない出会いの日だった。

 

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