ここでの生活を当たり前だと思い始めたのは、いつからだっただろう。

  何度も繰り返される非日常が日常に変わったのは、いつからだった?

  変化のない、同じような毎日がただ繰り返されて、ただ足早に過ぎていく。

  妹がくだらない悪戯に自由時間を費やすのは、ただ変化を求めてのことなのかもしれない。

 

  『No.358、用意はいいな。』

  「どーぞ、いつでも。」

  クソ狭いエレベーターの中にわんわん響く、この世で一番ムカつく研究員の声に、俺は頭の上のカメラを見上げ、返事を返した。

  俺の声に呼応するみたいに、俺を乗せた真っ白なエレベーターが、機械的な音を立ててゆっくりと降下を始める。

  今日の『試合』は誰と当たるだろう。

  昔・・・そう、3年くらい前までは、この狭い空間でそんなことにも興味を持ったような気がする。

  目の前の扉が開けば、それを合図に殺し合いが始まる。知ってる顔のヤツもいたし、全然知らねーヤツもいた。何の躊躇もなく攻撃を仕掛けてくるヤツもいれば、いきなり放り込まれた殺伐とした空気に戸惑ってるヤツもいた。

  今となってはもう、この空間は、俺に何の感慨ももたらさない。

  この世の地獄に向けて俺を運んでいく、ただの小さな乗り物でしかなくなった。

  「Pater noster・・・・・・」

  もうこれも日課だ。

  俺の唇から、言い慣れた言葉が漏れる。

  「・・・Qui es in caelis, sanctificetur nomen tuum, adveniat regnum tuum, fiat voluntas tua sicut in caelo et in terra. Panem nostrum quotidianum da nobis hodie; et dimitte nobis debita nostra, sicut et nos dimittimus debitoribus nostris, et ne nos inducas in tentationem, sed libera nos a malo. 」

  昔、たまに食堂で顔を合わせた小さな女の子がいた。

  別に、俺はその子に特別な感情を持ってたわけじゃねーけど、その子はよく、俺のそばに来て、この研究所を出る日がきたら何がしたいとか、そーいう事を話してた。

  その子は純粋な日本人じゃなかったらしく、キリスト教徒で、外国語の祈りの言葉をやたらに知っていた。その中でも、このラテン語の祈りの言葉は、その子のお気に入りだったらしい。

  俺は別に神を信じてたわけじゃねーけど、何度かその子と一緒になって祈りの言葉を口ずさんでるうちに、その言葉を完璧に覚えた。同時に、その意味も。

 

    天にましますわれらの父よ

    願わくは御名の尊まれんことを

    御国の来らんことを

    御旨の天に行わるる如く地にも行われんことを

     われらの日用の糧を、今日われらに与え給え

    われらが人に赦す如く、われらの罪を赦し給え

    われらを試みに引き給わざれ、われらを悪より救い給え

    国と力と栄えとは、限りなく汝のものなればなり

    アーメン

 

  いつのまにか俺は、そのラテン語の祈りを、無意識のうちにこのエレベーターの中で口にするようになった。

  自分の武運を神に乞うわけじゃない。

  ただなんとなく、そうすることで気が落ち着くよーな、そんな気がして。

  だから、俺がその子を殺したその時も。

  俺は涙を流す代わりに、その子の好きだったこの言葉を口ずさんだ。

  確かその時は、ちゃんと悲しいって感じられたような気がする。

  「・・・Amen.」

  無意識のうちに唱えられた祈りが終わるのとほぼ同時に、俺の目の前にあるエレベーターの白い扉が、ゆっくりと、静かに開き始める。

  半分しか開いてない扉の隙間から、何もない、広く無機質な『実験場』が顔を覗かせる。何も遮る物がないその空間の向こう側に、同じように開きかけたエレベーターの扉。同じようにその中に立ち尽くす、誰かの人影。

  「・・・っ!?」

  それは、いくらなんでもイキナリだった。

  エレベーターの扉も開ききらないうちに、遠く向かい合わせに立つ『被検体』が片腕を振り上げるのが見えた。

  嫌な予感がして咄嗟に身を低くした俺の右肩を、焼けつくような激痛が襲う。

  「な・・・っ・・・。」

  気が遠くなるほどの痛みの中、自分の右肩に目を遣ると、そこには、服ごと溶けかかって深い火傷を負い、変色した皮膚が覗いていた。多分、何か酸性のもんが飛んできたんだろう。

  先制攻撃もここまで来りゃ、立派に卑怯なんじゃねーのか?

  ・・・とはいえ、相手がここまでやる気だってのに、いつまでもここにいるわけにはいかねーよな。

  そう判断した瞬間、脳髄を刺激してたはずの肩の激痛がスッと和らぎ、俺は狭いエレベーターから飛び出した。

 

 

  『試合』の間のことは、いつもよく覚えてない。

  もしかしたら、俺の中の何かが、わざと意識を飛ばしてんのかもしれねー。

  俺の頭ん中が、完全にイカレてしまわねーように。

  「・・・何だ・・・あんたか・・・。」

  なのに、今日は違った。

  俺は、目の前にある男の顔を見ながら、いつもないはずの意識がはっきり輪郭を持ち始めたのを感じた。それと同時に、右肩と、いつの間にかやられてたらしい左足の火傷の痛みまでも思い出す。

  俺と顔を付き合わせた格好のソイツは、俺がよく知ってる奴だった。

  この研究所にいる子供の中では、比較的大きくなってから収容された奴で、俺より一つ年上。この研究所で『試合』を勝ち抜いて二年の、未来の『優秀者候補』。

  いつも自信にあふれてたコイツの唯一の弱点は、俺と同じ趣味を持ってたこと。

  別に俺はコイツを特別好きじゃねーけど、色々あったことも、まあ事実っちゃ事実。

  「・・・・・・。」

  自信過剰ともとれるくらいにプライドが高かったはずのソイツの顔は今、見たこともないくらい苦痛と恐怖に満ちて、呼吸をしようと口を開くたび、気道から押し出される血の塊を豪快に吐き出す。

  生温かい血塊が手首に吐き掛けられるのを感じて、俺はそこで初めて、自分が左腕を前に突き出してるのに気がついた。

  自分の二の腕から肘、血に塗れた手首と、ゆっくり視線で辿って、指先へと行き着いた瞬間、俺は指先に感覚を取り戻す。

  ソイツの気道を突き破ってたのは、ソイツの首に刺さったままの、俺の人差し指だった。

  他の三本の指先が温かい肉を裂いて硬い骨に当たってんのに、人差し指だけなんとなく感触が違うってのは、多分、そーいうコトなんだろう。

  「・・・悪ぃ。」

  俺は、唇を真っ赤に染めて血を吐き、焦点の定まらない目を見開いてるソイツと、温かい肉の感触に締め付けられる自分の指を見比べて、咽の奥から声を出した。

  「失敗した。」

  首に刺したままの四本の指にちょっと力を入れてから、すぐに引き抜く。まるで熟れ過ぎの果物をつぶすみたいな、肉をかき混ぜる耳障りな音が、やたらと耳に残った。

  それから、切れた動脈から噴き出した鮮血が、容赦なく俺の顔を真っ赤に染める。

  音もなく折れた首の骨は、もうその上に載っかってる頭を支えられなかったんだろう。ソイツは、ありえない角度に頭を垂れて、自分の血で汚れた冷たい床にゆっくり倒れていった。

  「・・・一撃で殺してやるのが、優しさだよな?」

  一応そう呟いてみたけど、床に這いつくばったソイツには、もう聞こえてねーみたいで。

  『NO.358。』

  どこからともなく聞こえる俺を呼ぶ声に、俺は面倒臭さを隠す努力もしないで、俺から見て左の頭上にあるガラス張りのコントロール・ルームを見上げる。

  いくつかの機材と棚の手前に、白衣のオヤジどもが並んで座って、俺の存在に対する侮蔑と俺の上げた成果に対する満足が入り混じったみたいな目で、俺を見下ろしていた。

  『上がっていいぞ。』

  その中の一人、俺と沙岐の担当官でもある、白衣の袖を捲り上げたデブとガラス越しにばっちり視線がかち合って、俺はその場に思いっきり唾を吐いた。

  「何日休める?」

  俺の問いに、デブの担当官は一人だけ暑そうに汗を拭きながら、マイクに顔を近づける。

  『その程度の傷なら、次は5日後だ。訓練は通常通り、明日も行う。』

  「・・・・・・。」

  『医務室へ行く前に、シャワーを浴びて来い。床が汚れる。』

  テメーの汗よりゃマシだろーよ。

  いつ見てもブサイク極まりない担当官のセリフを頭の隅の方で聞きながら、俺は心の中で毒づいてみる。

  しばらくそのまま、コントロール・ルームに居並ぶ連中を睨みつけてたら、いきなり実験場の扉が開いて、数人の作業服を来た男達が、俺と死体しか存在しない空間に雪崩れ込んで来た。

  『NO.358、早く上がれ。』

  ウザそうに急かすマイクの声と、シェルフみたいな布にくるまれて運ばれていく、俺が殺した男の死体。

  作業員が床の血溜りを布とモップで拭き始めて、俺はようやく、ガラスの向こうの奴らから視線を外し、エレベーターへ向けて踵を返した。

  血溜りに浸かった足を踏み出すと、硬くて白い床に赤い靴跡が鮮明にスタンプされる。

  乾き始めた鮮血のせいで、体のあちこちの皮膚に突っ張るみたいな不快感を感じながら、俺は無言のまま、俺をこの地獄へ連れて来た小さな白い空間へと、再び足を踏み入れた。

  待ってました、とでも言うみたいにすぐさま動き出したエレベーターの床に座って、俺はなんとなく、いつもより疲れてるみたいに感じてため息をつく。

 

  いつからだったんだろう。

  知り合いを殺しても、悲しいって思えなくなったのは。

 

  「・・・Amen.」

  いつもの祈りの最後の部分だけを口にして、俺は一人、あまりの馬鹿馬鹿しさに笑っちまった。

  だって、そーだろ?

 

  あの子が愛した神は、とっくに俺たちを見捨ててる。

 

 

 

 

  与えられた服に着替えて、シャワールームの隣にある医務室の扉を開けると、そこには誰もいなかった。

  「・・・あれ?・・・」

  濡れた髪からポタポタ滴り落ちる水滴を気にしながら、俺はシーンと静まり返った医務室の中を見回してみる。けど、そこには俺の担当官はおろか、ムカつく医者の姿もなかった。

  おいおい、勘弁してくれよ。

  こっちはさっさと治療受けて寝てーんだよ!

  「・・・はーあ・・・・・・。」

  心の中で毒づきながら、俺はため息をついて医務室の中に入った。

  勝手に薬や包帯を使おうもんなら、その後ぶん殴られても文句は言えねーし、仕方なく、俺はここで医者の帰りを待つことにする。

  「・・・っと、そーだ。」

  確か、奥にソファがあったはずだ。俺はそれを思い出して、医務室の板張りの床を奥に向かって進んでいった。

  普段、熱でも出して体温を測る時ぐらいしか座らせてもらえねーソファだけど、ちょっと待つのに座るくらいは許されるだろう。たぶん。

  ったく、医者が医務室にいねーで、ドコ行ってやがる。

  ヒリヒリどころじゃなく痛む傷のおかげで機嫌が悪かった俺は、進路を塞ぐ目隠しの白いカーテンを鷲掴みにして、乱暴に左に引いた。

  「・・・あ。」

  視界を遮るものがなくなって、目の前が開けたこと。その事を後悔したのは、もしかしたらこの時が初めてだったんじゃねーだろーか。

  床に落ちた赤いまだら模様のついたタオルと、鮮やかな鮮血にまみれた革張りのソファ。

  茶色っぽいソファから投げ出された細くて白い腕、そこにパックリ開いた深い傷口から、ゆるやかに流れ出る赤い液体。

  でも、そんなことよりも何よりも俺を驚かせたのは、そんな大量出血現場を見てしまったことでもなんでもない。

  「・・・すみません・・・でした。」

  俺は、ソファに押し付けられてるセミヌードの出血少女と、彼女の細い体に圧し掛かるみたいな格好で固まってる俺の担当官に向かい、ぎこちないながらもとりあえず素直に謝って、焦ってカーテンを閉めた。

  ドキドキいいまくりの心臓を押さえて、俺はどーしたもんかとその場に立ち尽くす。

  おいおい、真っ昼間から冗談きついぜ。何やってんだよ、あのデブ! 俺が来るって知ってんだろーが!

  たぶんアレは妹じゃなかったけど、今のは本っ当に気まずかったぞ。

  俺は、まるで試合の疲れが一気にぶり返したみたいな脱力感に見舞われながら、医務室の扉に向かって引き返した。

  ・・・最悪。

  気分的にはあそこに割って入って中断してやりてーとこだけど、まあ、それがあの娘にとっていい結果を生むとも限らない。少なくとも、この腐りきった研究所では。

  となれば、さっさとこの場を離れるだけだ。

  俺は、胸の中で渦巻く嫌悪感と倦怠感を押し潰そうと頑張りながら、医務室の扉に手を掛けた。

  「NO.358。止まれ。」

  後ろから掛けられた声に振り返ると、開いたカーテンのこっち側に、暑苦しいほど肉付きのいい俺の担当官と、顔を含めたところどころに包帯を巻いた血塗れの女の子が立っていた。

  あ、そーか。

  その子の目を見て、俺はよーやく、彼女のことを思い出した。

  包帯を半分くらい取ってるからインパクトが足りなくてわかりにくかったけど、たぶん、この子はこの間、沙岐のヤツが足かけて転ばせた包帯少女じゃねーか。

  「・・・何か?」

  別にやめなくてもいいですよ、って言いたいところだったけど、一応それは心の声に止めておく。

  担当官は、脂肪なんて多量の荷物を担いでるせいか、ものすごく歩きにくそうに、それでもなんとか早足っぽい足取りで、ドカドカと俺の横を通り過ぎて医務室のドアを勢い良く開け、振り返って俺の顔を見た。

  「担当医を呼んでやる。そこに居ろ。」

  奴は脂ぎった顔を微妙に気まずそうに歪めて、さっと俺の視線から顔を逸らした。

  「・・・そうですか。」

  俺は、部屋を出ようとする担当官に向けて、僅かな嘲りを込めて笑いかける。

  「急いでもらえますか? 俺はあなたと違って、女の子の相手は苦手なんで。」

  一瞬、ヤツは俺を鋭い目で睨んだよーな気がしたけど、別にキレて殴り掛かってくるわけでもなく、フン、と鼻息を吹いただけで、一見、そんなに俺の言葉を気に留めてないみてーにも見えた。

  「二人で床の血でも拭いてろ。」

  ヤツはちらっと俺を見てから、視線を俺の背後の女の子へと移して、面白くなさそーな顔で、無駄に大音量を立てて乱暴にドアを閉めた。たぶん、やっぱりちょっとはムカついたんだろう。

  「・・・八つ当たりしやがって・・・。」

  俺は、思わず塞いだ両耳を解放してから、力任せに閉じられたドアが壊れたりしてねーかだけ確認する。後で俺のせいにされんのはごめんだからな。

  「・・・・・・Alte kacker.(くそじじい)」

  「・・・?」

  ボソッ、と小さく、低い声が聞こえて、俺は顔だけ動かして後ろを振り返り、声の主を捜した。

  「何て?」

  俺は、開いたカーテンの向こう側に、床に落ちたタオルを拾ってる出血少女の姿を見つけて、軽く聞き返す。

  頭を上げてこっちを見たその子の顔は、たぶん、貧血のせいなんだろう、見える部分だけでもわかるくらい、かなり血の気が失せて、真っ青だった。それとは対照的に、ところどころ真っ赤に染まった服が気味悪いぐらい印象的で、さらに言えば、その子の白くて細い腕や脚、首、顔に至るまで、彼女が女の子だってことを忘れてやりたくなるぐらい、傷や傷跡だらけだった。

  「・・・・・・。」

  あの時、床に倒れた俺を見下ろしてた時と変わらない、無表情な黒い瞳が、じっと俺を見返していた。

  「手、高く上げとけよ。俺、床拭いとくからさー。」

  この前のこともあるし、親切心でそー言ったつもりだったけど、まだ血が止まらない彼女の左腕を指差した俺を完っ全に無視して、出血少女は手にしたタオルで左腕の傷を押さえ、その傷ついた左手で雑巾を掴み、床の血を拭き始めた。

  「おい、聞いてんのかー? 血、止めねーとぶっ倒れるぞ?」

  「・・・・・・。」

  彼女のそばにしゃがんで、耳元で言ってみたけど、彼女はまたチラッと俺を見ただけで、床を拭く手を止めようとはしない。

  「・・・はぁ・・・そんなに雑巾が好きなら、別にいーけどさ。」

  頑固に雑巾を離さない少女の姿に、俺は思わずため息をついてから、自分も別の雑巾を手に持った。赤い床を拭きながら、なんとなく、また話し掛ける。

  「ソファについた血、ほっといてもいーと思う? 全っ然、とれねーんだけどー。」

  「・・・・・・。」

  無視か。

  俺は、革のソファに染み付いた血をどーしたもんかと考えながら、堅く口を閉ざしたままの彼女から視線を外して、雑巾を洗いに行こうと腰を上げた。

  「・・・お?」

  視界の端に映った白いプレート。ソファの脇のサイドテーブルに置いてあったそれを手にとって見ると、それは俺が付けてるのと同じ、味気ない無機質なネームプレートだった。

      No.143 水無瀬 和歌 E 

 俺は、手に持ったプレートに書かれた黒い文字に視線を走らせて、その名前の響きを頭の中で反芻する。

  ・・・コイツ、『優秀者』か。

  下を向いたまま床を拭き続けてる彼女を横目に見ながら、俺はそのネームプレートをもとあった所に置き直して、洗おうと思ってた雑巾を床に放った。どっちにしろ、革に染み込んだ血液なんて完全には拭き取れねーし、真面目にやる方が馬鹿げてる。俺は、忘れかけてた体の疲れと火傷の痛みをまた思い出したこともあって、ソファに腰を落とした。体を投げ出すみたいに音を立てて、思いっきり。

  「・・・もしかして、日本語、わかんねーの?」

  俺が放り投げた雑巾に反応して振り返った彼女に、俺はソファの肘掛に腕と顔の側面を預けながら、ゆっくり話し掛ける。

  稀な例だけど、ネームプレートに書かれた名前の横に、『E』とか『C』なんかのアルファベットが付け加えられてるヤツがいる。この『水無瀬 和歌』のネームプレートがそうだったみたいに。

  例えば『E』は『English』を、『C』は『Chinese』を示してて、その子どもが日本語以外に話せる言語を表してる。とはいえ、そう書かれてても、日本語が話せるヤツもいれば、全然話せないヤツもいる。名前は日本人だけど日本語がわからないヤツとか、明らかに外国人だけど日本語しか話せないヤツも中にはいて、孤児の吹き溜まりみたいなこの研究所内は、よく言えばなかなかインターナショナルな環境なのかもしれねー。

  こっちを振り返ったままで何も言わない彼女の様子を見て、俺は肘掛から顔を上げて、ため息をつきながら、ソファの柔かい感触に背中を預けた。

  「・・・そっか。妹も、見た目外人みてーだったもんな。」

  「あれは弟。」

  ちょっとだけ唇が動いて、彼女は普通より低めの声を吐き出した。

  彼女はゆっくり立ち上がって、たぶん、え? って顔してただろう俺を、黒くて深い色をした目で、じっと見下ろす。

  「義理の。」

  「・・・何だ。日本語OKじゃねーか。」

  流暢どころか完璧に日本人の発音で言った彼女の言葉を聞いて、俺はちょっと拍子抜けして、普通より少し背が高い彼女の顔を見上げた。

  「・・・人前で日本語使いたくない。」

  「なんでー?」

  「話し掛けられるから。」

  かなり素っ気無い調子で、彼女は早口に言葉を紡ぎ出す。彼女は、床に落ちた俺の雑巾を拾って、自分の持ってたものと一緒に、ちょっと離れた流し台に放り投げた。

  「ふーん・・・・・・今しゃべってんのはー?」

  「あんたがしつこいから。」

  喋りたくて喋ってんじゃない、とでも言いたげに語尾を強調して、彼女はこの前より少なくなった包帯やガーゼの隙間から、きつい目で俺を睨む。

  「そいつはどーも。・・・んで、この前の子が弟だって? なんでまた、あんな女みてーなカッコしてんだよ?」

  「しつこい・・・話し掛けるな。」

  「あー悪ぃ。俺、静かにしてんのって苦手でさー。」

  本気でウザそーに眉根を寄せた彼女は、たぶん、俺に日本語が話せるのを教えた事を、早くも後悔してるんだろう。ほとんど出血の止まった左腕からタオルを離し、彼女はまた、それを流し台に向けて放り投げる。かなり乱暴に。

  「思ったんだけどさー、なんか、連戦とかさせられてるみてーじゃん? なんでそんなことされてんだよ? フツー、しねーだろー?」

  「・・・・・・。」

  俺の質問に対しては何も答えずに、彼女は黙ってソファの隣に置いてある棚を開け、山積みになった味気ないグレーの着替えの中から女物のワンピースを出して、俺が座ってるのとは逆側のソファの肘掛の上にそれを広げた。

  「・・・・・・恥ずかしくねーの?」

  血のついたワンピースのファスナーを下ろして、俺が見てる前でサッサと脱ぎ出した彼女の突飛な行動に、俺は思わず面食らって小さく呻いた。

  別に、俺は女の裸を見たからって、そんなに嬉しくもないしあんまり興味もねーけど、この子は別に、俺のそんな趣味を知っててやってるわけじゃないだろう。

  「・・・べつに。」

  「フツーじゃねーな。変わってる。」

  「・・・・・・。」

  俺の視線の先で、彼女は白っぽい下着姿全開の状態で、着替えのワンピースを手に取りながら、包帯に半分隠れされた顔を俺のほうに向けた。

  「あんたに言われたくない。」

  手にしたワンピースを頭から被って、彼女は静かに息を吐き出す。ほとんどしなくなった血の匂いに代わって、彼女の髪が揺れるその度に、甘ったるい匂いが俺の鼻先を掠めては消えた。

  「俺? 俺ってなんか変わってる?」

  「・・・・・・。」

  器用に背中のファスナーに手を伸ばしながら、彼女は無言で俺の視線から顔を逸らした。

  やっぱり、色白か・・・。

  あんまり何も考えないで、ボーッと彼女が服を着替える様子を眺めてた俺は、彼女の傷と痣だらけの痛々しい背中を見ながら、ふと、そんなことを考えた。

  うちの妹にしろ、この子にしろ、他の子ども達にしろ、変態研究員の性的な対象になりやすいのは、どーやら肌の色が白い子が多いらしい。中身はどうあれ、なんか儚げに見えたりすんのか?

  「あー・・・なんか俺、一人で喋ってる? あ、もしかしてさー、この間の事、まだ怒って・・・」

  「・・・・・・静かにしろ。」

  言いかけた俺の言葉を遮って、彼女は片手で血色の悪い額のへんを押さえ、ため息みたいな息を吐き出しながら、だるそーにソファに腰を下ろした。わざわざ、俺の座ってる位置からは人一人分どころか二人分ぐらい空けて。

  「頭が痛くなる。」

  「あー・・・悪い。」

  そーか、それもそーだよな。

  失血のせいで貧血気味の顔を肘掛に預けて目を閉じた彼女に、俺は、素直に一言謝って、どーやら喋り過ぎたらしい口を閉じた。その代わりに俺も、肘掛に片肘で頬杖をついて、横を向いたまま、包帯だらけの『優秀者』を観察することにする。

  何せ、『優秀者』は八人くらいいる割に、こうしてお互いが顔を合わせる機会は滅多にない。

  ・・・いや、会ったけど気付かなかったって事もあるかもしんねーけど・・・。

  女の『優秀者』っていうと、もっと何つーか、ゴツくて攻撃的なのを勝手に想像してたけど、彼女を見る限り、そーでもないらしい。もっと太れよってぐらい細いし、ちょっと変だし冷たいけど、別にそんな強い攻撃性は感じらんねーし。

  まあ、やっぱ、見た目と能力の強さは比例しねーってことか。

  有り得ないはずの連戦で傷だらけな事と、研究員から受けてるだろう妙な扱いってのを除けば、『優秀者』水無瀬 和歌は、妹と同じ年代の、普通の女の子みたいに見えた。

  「・・・担当医、遅せーな。」

  「・・・・・・話し掛けるな。」

  「俺だって、黙ってよーと努力はしてんだって。けどさー、黙ってると、色々考えるだろー?」

  閉じてた瞼を鬱陶しそうに開いて、まるで威嚇するみたいに低い声を出した彼女に、俺はちょっとだけ笑って、言葉を続けた。

  何で、他人にこんな事話そうと思ったのか、自分でもよくわかんねーけど。

  「・・・何も考えねーほうが楽なんだよ、ココじゃ。」

  何も考えなきゃ、ここでの生活は、こうであって当然になる。

  こうであって当然なら、何も辛くは感じない。疑問も湧かない。外の世界に思いを馳せることも、必要なくなってくれる。

  強いヤツが生き残って、さらに強いヤツに殺される。それを何度も繰り返す小さな世界の中で、俺は生きて、そのシンプルなルールに従い続ける。

  いつか俺が、そのルールのもとに冷たい床の上に倒れるまで。

  考える時間さえ自分に与えなきゃ、それが当たり前になったまま、毎日が過ぎていってくれる。

  だから、話し続ける。

  話題を探して、笑った顔を作って。そーしてりゃ、気も紛れるし、相手にマイナスのイメージを持たれることもない。

  お互いのためだ。

  「・・・It could be.(そうかも)」

  俺の笑った視線の先で、彼女は真っ直ぐ前を向いたまま無表情で何か言って、また重い瞼を閉じた。

  同意したのか否定したのか、それとも全然関係ない独り言なのか、俺にはわからなかった。

  だけど少なくとも、彼女にはこれ以上、俺との会話を続けるつもりがないんだろう。それだけはなんとなく、雰囲気だけで理解できた。だから俺も、あえて聞き直したりはしないで、わからない言葉の意味はそのままに、彼女から視線を外す。

  「・・・あーあ。喋りすぎた。」

  ため息をついて、天井を仰ぐ。

  「殺しにくいヤツが、また一人増えたかな・・・。」

  冗談でもなんでもない俺の言葉に、彼女はもう、何も言い返しては来なかった。

 

 

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