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「おー、おはよー。」 医務室の件から何週間かして、俺は、同じ色の服を着た子どもでごった返す食堂の片隅に、黒い髪の包帯少女の姿を見つけた。 肩に手を置いて声を掛けた俺に、彼女は一瞬驚いたように体を震わせて、振り返る。 「・・・・・・。」 「・・・ンなイヤそーな顔すんなってー。」 俺の顔を見るなり、明らさまにイヤそーな顔をした彼女に、俺は朝から鬱に入りそーなぐらい傷ついてしまった。そんなに俺が嫌いかお前は。 「ここしか席が空いてねーの! しょーがねーだろー。」 彼女の隣に食器の載ったトレイを置いて、俺は素早くそこに腰掛けた。そしたら今度は、彼女は席に着いたままズリズリ椅子をにじらせて、俺から離れていこうとする。 ・・・なんで警戒されてんだ? 俺・・・ 「・・・あれ?」 何か見られてるよーな気がして、テーブルの向かい側に目を向けたら、そこには怪訝そーな顔で俺をじっと見てる、金髪碧眼の彼女の弟の姿があった。 「今日は何か・・・男に見えないこともねーなー。」 前に見た時は、女物のワンピースを着て、髪を半分結って半分下ろしてたから女の子だと思ったけど、今日はちょっと違った。普通に、俺と同じ男物の服を着て、髪は後ろの低い位置で一つにまとめてある。それでも女顔なのには変わりねーけど、服や髪型を変えただけで、一応、男だって判別できるから不思議なもんだ。 「おねえチャン。」 俺と目が合って、彼女の弟はパッと俺から視線を外して、自分の姉へと顔を向けた。 「Why is he free with us?(なんでコイツこんなに馴れ馴れしいの?)」 「Ignore him.(無視しときなさい)」 硬いパンをスープにつけて食べようかどーか悩みながら、俺は、理解不能な言葉で何事か話し合ってる二人の会話を聞いていた。 結局、そのままパンを口に放り込んで噛んだりしてるうち、ふと、あることに気付いて、二人のうち弟の方に顔を向けた。 「・・・あれ? お前、そんな声だったかー?」 言われて、弟の方がスプーンを持ったまま、また俺の方に目を向ける。 今、この子の声は、声変わり前の少年らしい高い声だけど、前に会った時に聞いたみてーな、甲高い女の子の声とは全然違う。 「・・・・・・。」 俺の横で、包帯少女・和歌が、何かを諦めたみたいなため息をついて、口を開いた。 「声を変えられる。」 「へー。そーいう能力? 珍しーな。」 俺に答えをくれた和歌に対し、弟は不思議そーに首を傾げて、姉の顔を見る。 「・・・ニホン語イイの?」 和歌が面倒臭そーに頷いたのを見て、弟の方は軽く肩を竦めて、僅かな警戒の色を湛えた目で、俺の目を見返した。 「ドレがボクのこえか、ワカラナイ。」 もう地声がどんな声だったのかも覚えてねーってことなんだろーか。そりゃ大変だな。 「ケド、しあいのヒは、こえとふくカエるよ。ソレだけ。」 上手いんだけどイントネーションがおかしいせいで聞きにくい日本語でそう言って、ソイツは軽く笑ってみせた。 「試合の日だけ、声と服を変えるって? なんだそれー?」 「だって・・・そのホウが・・・・・・。」 と、何か言おうとして詰まってしまったらしい弟に、特に表情を変えないまま、和歌が助け舟を出す。 「油断してくれる。」 「Yeah,そう、オンナノコだと、ユダンしてくれるカラ。」 「うわー、セコいな、お前ー・・・。」 そうかな、とか言いながら残り少ないスープを掻き混ぜる女装癖少年の整った顔を見返して、俺は思わず小さく呻いた。どーやら、狡賢い策を練って相手を罠に掛けよーとかってのは、女だけの得意技ってわけでもねーらしい。 「・・・話し掛けるな。」 和歌のほうが、横目でちらっと俺の顔を盗み見て、ぼそっとした口調で俺に警告する。 「殺しにくくなると言った。」 「・・・あー、それな。」 前に俺が言った、『あんまり喋ると殺しにくくなる』ってやつのことだろう。俺は、手に持ってたパンを皿に置いて、ちょっと笑ってやった。 「『優秀者』同士って、滅多な事がねー限り対戦組まれねーからさー、ちょっと食堂でオシャベリぐらい、いーかなと思ってー。」 ふと、姉の和歌のほうが俺を振り返って、まなじりを強くして眉根を寄せる。 俺は笑った顔のまま、和歌を見て、それから弟のほうにも視線を遣った。 たぶん、この弟のほうも、『優秀者』に間違いねーだろう、と、俺は思う。 姉弟だってことは、ここに連れて来られたのも同時だってことだ。姉のほうが『優秀者』として今まで生き残ってるなら、同じように今まで勝ち抜いてる弟のほうも『優秀者』だって考える方が自然だろう。沙岐みてーな、例外じゃねー限りはな。 『優秀者』同士は普通、対戦を組まれることがない。もちろん、何事にも例外ってやつはあるけど、たぶん、普通に考えて、ない。 まるでドッグファイトのトーナメントみてーな、研究員同士が仕組んだ変な賭け試合も、ここしばらくは全然見ねーし。 だって、No.1のヤツとNo.2のヤツがやり合って、No.2のヤツが死んじまったら、それはそれでもったいないし。どーも研究所的には、TOP10ぐらいまでは残しておきたいらしい。 「・・・勝手にネームプレートを見た?」 珍しくムッとした顔で、和歌は俺を睨んだ。 「だってさー、そこにあったら見るだろー? わざわざ訊くか? そんなもん。」 「・・・・・・。」 なんかなんとなく納得いかなそーな表情で、ぷい、と俺から顔と目を逸らした和歌に代わって、向かいの弟のほうが、俺の言葉に反応して、口を開く。 「ゆうしゅうシャなの?」 「一応なー。」 ふーん、と気のない返事をしてから壁の時計を見遣って、女装癖の彼は、残りのスープを全部口に入れて、慌てて立ち上がった。 「Ah, I gotta go now!(行かなきゃ)」 「訓練?」 なんとなく焦ってるのを感じて俺がそう訊いたら、彼は軽く首を振って、 「けんさ。ノウリョクけんさだって。」 思ったより人懐っこいらしい彼は、もうあんまり警戒の色を見せねーで、そう答えた。 またな、と俺が手を振ってやると、彼は俺に向かってちょっと笑って、それから英語で姉のほうに何事かを言ったみたいだった。それから、急いで空の食器の載ったトレイを持ち上げて、カタカタと食器が揺れる音を立てながら走っていってしまった。よっぽど遅刻寸前なんだろう。 人目を引く鮮やかなハニーブロンドが、食事を終えて食堂を出て行く子ども達の波に埋もれてすっかり見えなくなってから、俺は隣の和歌を振り返った。 「お前はー? 今日も試合?」 「訊いてどうする。」 「知りたいだけ。」 「・・・・・・。」 即座に返した俺の返答に、和歌は言葉に詰まったみたいに沈黙する。 よし。だんだんコイツの性格が読めてきたよーな気がするぞ。 たぶんこの子は、彼女の強い口調の言葉にも引かず、遠まわしな言い方もせず、馴れ馴れしくストレートに物を言うタイプの人間に弱い! これは俺の想像かもしれねーけど、この子の無表情と女性的じゃない突き放した物の言い方は、他人を自分に深く関わらせねーためのもんで、たぶん、心の中ではいろいろと考えてんだと思う。実際、対応に困るとウッカリ怒った顔を見せたり、言い返せなくて黙っちまったりするわけだし、確実にボロは出かかってる。 「・・・何も。」 「休み? へー、何かすんの? つってもやる事なんて限られて・・・。」 徐々にウザそーに変わっていく彼女の表情を見ながら、俺がちょっと面白い気分になってきたちょーどその時。 いきなり、目の前の和歌の顔が揺れて、テーブルに腕がぶつかるデカい音とともに、彼女の姿が俺の視界から消えた。 「食べ終わってんなら退いてよ。」 聞き慣れた声に斜め後ろを見上げると、そこには、思いっきり勝ち誇った顔の沙岐が立ってた。たった今引き抜いたばっかの、和歌の椅子を両手に持って。 突然の出来事に周りの子ども達の視線が集まる中、俺はようやく、沙岐が何をしたかを理解した。 「沙岐!!」 いきなり後ろから椅子を抜かれて床に落ちた和歌を見て、俺は妹の腕を掴んで、怒鳴りつけた。けど、沙岐のヤツは生意気にも、フフン、と鼻を鳴らして和歌を見下ろして、得意げに言った。 「こいつの妹に当て逃げされたから、仕返ししてやったのよ!」 「お前・・・っ」 さすがに、これは甘い顔してられねーだろう。大体、沙岐の言い分は完っ全に逆ギレじゃねーか! 一発ひっぱたいてわからせてやろうと、俺が沙岐を睨んで立ち上がった、その時だった。 いきなり、床に尻餅をついたみたいな格好だった和歌が、座ったままで沙岐の片脚を掴んで、そのまま思いっきり足元を掬った。 「きゃ・・・!?」 俺が腕を掴んでなけりゃ・・・それか、俺が立ち上がってなけりゃ、多分、沙岐はそのまま後ろに倒れて、コンクリートの床で思いっきり後頭部を打ってたと思う。 俺が思わずそー考えてヒヤリとするぐらい見事に、沙岐は短い悲鳴をあげて、完全に体を浮かせて転倒した。 咄嗟に俺が沙岐の腕を引っ張って吊り上げたおかげか、沙岐はなんとか踵を床に打ち付けたぐらいで、事なきを得た。当の沙岐はというと、一瞬味わっただろう浮遊感のせーか、引き攣った顔でぼーっと俺を見上げてる。 「だ・・・大丈夫か・・・?」 さすがに、これには俺も焦ったしビビッた。俺は、無意識にやった自分の行動に心の中で喝采を送りながら、沙岐をゆっくり床に降ろしてやる。 周りの視線が痛いぐらい集中する中、和歌は静かに立ち上がって、沙岐が取り落とした椅子を持ち上げて元の位置に戻し、彼女に代わって床に座り込んだ沙岐を見下ろした。 包帯だらけの顔に表情と感情を隠したまま、彼女は片手で椅子を指し示して、ごく落ち着いた様子で、静かに口を開く。 「Have a seat, if you like.(どうぞ、お掛けください)」 たぶん、座れ、とか、使え、とか、そんな事を言ったんじゃねーかな。 彼女がそう言った途端、周りを取り巻く子ども達の集団の中で、何人かがクスクス嘲笑う声を上げたよーな気がした。たぶん、英語がわかるヤツらだ。 床に座ったままの沙岐が、ポカン、とした間抜けな顔で見上げる中、和歌はちらっと俺の顔を見てから、すぐ目を逸らした。それから、何も言わないまま、サッサとテーブルの上のトレイを持ち上げて、人垣の間を縫って行ってしまった。
「・・・・・・残念だったなー、沙岐。またお前の負けだ。」 この狡賢い妹が、2回も他人にしてやられるなんて、滅多にあることじゃない。 未だに何が起こったかわかんねーよーな顔で座り込んでる沙岐を見て、俺は思わず吹き出しそーになりながら、妹の頭を撫でてやった。 ばらばら散ってくギャラリーと俺の顔を交互に見上げながら、徐々に、何が起こったのか、最後に和歌にどんな事を言われたのかを理解できてきたらしい。沙岐はみるみるうちに頬を真っ赤に染めて、唇を噛みながら、怒りの表情を露にする。 「何よ、その負けって!」 「いやー、やっぱ悪は必ず罰せられるもんだなーって思ってさー。」 「はぁ!? 誰が悪よ! 意味わかんない!!」 頭で湯が沸かせるんじゃねーかと思うぐらい怒り心頭、ってかんじの沙岐は、ピシリと音を立てて俺の手を払って、立ち上がってから服についた埃を叩く。 「あれ? 食わねーのー?」 わざと足音を立てて食堂から出て行こうとする沙岐に、俺は、テーブルの上で湯気を上げてる沙岐の朝メシを指差して、声を掛けてみた。 「いらない!! お兄が食べればっ!?」 沙岐はブチ切れ状態のまま俺を振り返って・・・振り返りざまに後ろにいた男を肘でどつき倒して・・・怒鳴りながら返事をした。 おお、すっげぇ、ありゃ近年まれに見る怒りようだぜ。 早足で食堂を出て、後続がいるにも関わらず思いっきりドアを閉めた沙岐の足音が、徐々に遠ざかっていく。方向的には、和歌が行った方とはたぶん逆だ。追いかける気はねーらしい。 沙岐が閉めた扉に鼻を直撃されて、涙目になりながらうずくまる背の高い少年に心の中で同情しつつ、俺はため息をついて、周りに誰もいなくなった席に座り直した。 「・・・ったく、俺はあんなふうに育てた憶えはねーぞ。」 なんて独り言を言ってみながら、俺は沙岐が置いていったトレイを手元に引き寄せて、フォークを取る。
俺が育て方を間違えたんじゃなくて、あいつが育ち方を間違った・・・・・・そう信じたい。
ま、沙岐のことだ。たぶん晩メシに何か好きなモンでも出りゃ、それで機嫌は直るだろう。単純なヤツだから。 俺は、皿の上に載った素材のよくわかんねー料理を口に運びながら、テーブルに頬杖をついて、今日の予定を練るために目を閉じる。 今日は訓練も検査も試合もない。一昨日試合があったけど、別に大した怪我もしてねーもんで、今日一日の休みを満喫するぐらいの体力と気力は十分だ。 「さて・・・今日は何すっかなー・・・。」 久しぶりの休みらしい休みに、俺はアヤシイぐらい独り言を言いまくりながら、思いっきり腕を伸ばして伸びをした。
「付いて来るな。」 和歌は左手を胸元に抱えるみたいな格好で、低い声でそう言った。 「いや、ほら、別に付き纏ってるとか、そーゆーんじゃねーんだけどさー・・・。」 俺が履いてるのと全く同じ靴跡がついた手の甲のガーゼを触りながら、恨めしそうな目で俺を睨む和歌の視線に突き刺され、俺は彼女を見下ろして、弁解した。 「なんつーか、日に当たりてーなーとか思ってさー。けど屋上って混んでるし・・・。」 って言ってみたものの、どーも疑いは晴れてないらしい。和歌は、一瞬疑わしげな視線を俺に向け、ぷい、と顔を逸らしてあっちを向いてしまった。 あー、クソ、なんで女ってのは、しょーもねーカンチガイばっかするんだか。 「あー、だから謝ってんじゃん。すみませんでしたーって。」 俺は、向こうを向いた和歌の横にしゃがんで、本日何度目になるかわかんねー謝罪の言葉を口にする。 「はあ・・・だからごめんって・・・。妹がやったのも含めて、謝るからー。」 午後、俺は午前中にしてた二度寝から目覚めて、軽く昼メシを食ってから、特に娯楽もねー研究所での休日を少しでも充実したものにしよーと、外に出ることにした。 といっても、俺たちが出られる『外』ってのは屋上か、南側の3階にあるこの小さいテラスぐらいなんだけどな。それでも、普段あんまり太陽の光を浴びない俺たちにとって、『外』に出ることは大いに気晴らしになる。
休みのヤツらが集まる屋上か、投身自殺の名所だって理由で人気のないこのテラスか。
悩んだ末、人の多い屋上を避けてこのテラスに来て、ボーッとしながら外に出た瞬間、テラスの床に座ってた和歌の左手を思いっきり踏んづけて、今に至る・・・。 「・・・大丈夫か? それ、傷だろ。」 汚れたガーゼがついたままの左手を取ろうと伸ばした俺の手を、和歌は素早く避けながら、 「ここは大した事ない。」 と、短く答えてガーゼを剥がしてみせる。 見ると、確かに大したことない、少し大きめの擦り傷、ってかんじの傷だった。ちょっと血が滲んでるのは、紛れもなく、俺が全体重かけて踏んだせいなんだろーけど・・・。 「だから、話し掛けるな。」 「それなんだけどー。」 スッと立ち上がりかけた彼女の手を、俺は素早く掴んで彼女を見上げた。 「あんま他人と関わりたくないって、よくわかるぜー。俺だってそーだし。」 「・・・・・・。」 彼女は、中腰の微妙な体勢のまま、黙って俺を見下ろして、怪訝な顔をした。 「・・・そーなんだけどさー、なんか、お前とは縁があるみてーなかんじ。『優秀者』同士が知り合うなんてさ、滅多にある事じゃねーじゃん?」 とか何とか言って。 実際は、単に妹以外の話し相手が欲しかっただけだったりして。 知り合いだとか友達だとかになっても試合に支障が出ない相手を、俺はきっと、ずっと捜してたんだと思う。自分に都合のいい、暇を潰してくれる相手を。
俺は、心の中で自分を嘲笑った。
「そー思わねー?」 見上げた俺を、彼女は真っ黒な瞳で真っ直ぐにじっと見詰めて、そっと、彼女の手を掴んだ俺の手を取った。 「何・・・・・・っ痛って!!」 「・・・寝言は寝てから言え。」 女のくせにもの凄げー握力をみせた手の力を緩めて、和歌は冷たく一言そう言って俺の手を離し、フン、と軽く鼻で笑った。 「残念ながら、今まで寝てたから寝れねーんだなー、俺はー。」 冷たい言葉も包帯に隠された硬い表情も・・・不思議と、俺を不快な気持ちにはさせない。どころか、なんとなく饒舌になってきたよーな印象のある彼女との会話の投げ合いは、純粋に俺を楽しませてるんだと思う。 相手に深入りしない、知り合いを増やさない、を前提に、慎重に言葉を選んで使ってきた今までとは違って、久しぶりに気楽に、あんまり先のことを気にしねーで話せるからかも? よくわかんねーけど。 研究所を囲む高い塀に切り取られた空を見上げたら、わずかに色がついたドームの外壁越しに、くすんだみてーな色した太陽が輝いていた。ポカポカしてあったかい光を浴びながら、俺はしゃがんだ姿勢を崩して、その場に腰を下ろす。 研究所の中の、阿鼻叫喚っていう言葉がお似合いな毎日なんかウソみてーな、頭の上で晴れ渡る空と、静かで柔かい風。そんなのに囲まれてたら、またここでの日常が非日常に戻ってしまいそーで怖い。 逃げられるわけないのに、逃げ出したくなる。 「なあ・・・」 俺は、固い壁に背中を預けて、平和すぎる空を見上げるのを止めた。 「ここから出れたヤツって、いると思う?」 冗談っぽく、言ってみた。 答えなんかわかりきってるし、そもそも和歌が、こんなバカな質問に答えてくれるとも思わねーけど。 「まー、いねーよなー・・・」 「・・・一人だけ。」 俺の声に重なるみたいにして聞こえた和歌の言葉の意味を理解するのに一瞬、間を置いて、俺は彼女を見上げた。 「マジで?」 「本当。」 マジで、信じられなかった。 いくら俺らが普通の人間より戦闘力で優れてたって、完全武装のWASP私兵とセキュリティに固められたこの研究所の警備を単独で・・・いや、何人かいたって、突破すんのは難しいし、運良く出れても、今度はもっと多くの追っ手が掛かる。 だいたい、このクソ狭い『首都』で足跡を残さずに逃げるなんてムリな話だ。 昔、みんなで反乱みたいなの起こして逃げよーとか言い出したヤツがいたけど、この入れ替わりの激しい子どもの集団をまとめるなんて、並大抵の統率力じゃできねーし。それになにより、ソイツは俺に言われるまで、一番大事なことを忘れてやがった。
WASPは、ボタン一つで俺ら全員を殺せるってことを。
俺らの心臓がWASPに握られてる限り、反乱は起こり得ない。 じゃあ、どーやって? 天を仰ぐみたいにして見上げる俺を、和歌はちょっとの間見下ろして黙ってた。 しばらくしてから彼女は、足がつかないぐらい高いテラスの手すりに軽々と腰掛けて、俺から見て斜めの位置で向かい合う。真正面に座らないあたり、まー、この子らしいといやこの子らしいかも? 「・・・上牧所長の息子。」 「へー・・・息子まで改造? 相変わらず行動イカレてんなー、あのクソジジイ。」 詳しいな、って言おうとして、やめた。 情報源は、たぶん聞かねーほうがいい。沙岐も何かと、他の子どもが知らねーよーな事を知ってるけど、俺が想像できる限りじゃ、仕入先は一つしかねーし。 「あんたは正気?」 不意に、和歌が訊いた。 「は?」 「こんな、異常な所で何年も。なのに、それを普通だって思い込もうとしてる。」 和歌は、縁に掛けた両手を離してゆっくり、天を仰ぐみたいな仕草を見せた。それから、真っ黒な目でもう一度俺を見て、言う。 「それって十分、イカレてる。」 「・・・・・・。」 一瞬、真剣な顔をしちまったかもしれない。相手に悪い印象を持たれるかもしれねー、感情をそのまま表に出した顔を。 「・・・あーそう。」 俺は、すぐには笑えない代わりに顔を下に向けて、息を吐き出しながら、その場に立ち上がる。 「それって俺だけ?」 「あたしは、」 言葉を返しながら口の端にだけ笑みってやつを思い出した俺に、和歌は初めて、自分を一人称で呼んだ。
あれ? さっきよりもっと饒舌になった代わりに、どんどん言葉遣いが崩れてきてるんじゃねーのか、コイツ?
「あんたよりマシ。」 「落とすぞ、お前。」 冗談のつもりで笑いながら言った俺に、和歌は一瞬だけ、笑ったよーな気がした。 「落ちようか?」 「え? ――って、おい!?」
長い、黒い髪が、常春の空気の中に揺れる。 手すりから手を離したままの彼女は、その姿勢のまま、ゆっくりテラスの外側へと身体を傾けて、音も立てずに後ろに・・・空中に向けて倒れた。 駆け寄ろうとした俺の目の前で、グレーのスカートの裾が風になびいて、見えなくなる。 手を伸ばす暇もなかった。 まるで全部がスローモーションみたいにゆっくりに見えて、俺の目を釘付けにしたまま、彼女は消えた。
「和歌!?」 俺は、今起こったことが信じられねーまま、木製の手すりに駆け寄る。 3階つっても、下は全面コンクリートだ。 今までだって、ここから投身自殺して無事だったヤツは、まだいない。 そんな、色んな嫌なことが頭の中を掠めて過ぎて、俺は一瞬ためらった後、手すりから身を乗り出して、下を覗き込んだ。
「・・・・・・。」 ・・・・・・勘弁してくれ。 テラスから下を見た後、俺は乗り出した身体を元に戻して、ちょっと呻いて手すりに額を打ち付けた。 ゴン、っていうよーな堅い音が、テラスと俺の頭の中に軽く響く。 「死ぬと思った?」 平然と俺の目の前に顔を出して、和歌は低い声のまま、そう言った。 「・・・・・想像以上に運動神経がよろしーよーで。」 「落ちるわけないのに。」 テラスの外側のわずかな出っ張りに足をかけた和歌は、手すりの端にかけた手を片方ずつ動かして、手すりを抱え込むみてーな体勢を取る。それから、半眼で見つめる俺を見て、微かに笑いやがった。 俺は、比喩じゃなくホントに目の前にある和歌の顔を見返して、心の底から深く、息を吐いた。初めて見た、包帯だらけの彼女の笑い顔に、妙なモンを見た違和感みたいなのを感じながら。 「はーあ・・・こんな時ばっか、笑いやがって。」 たぶん、後ろ向きに倒れた時に手すりの端を掴んで、そのまま鉄棒の後転の要領で回転すれば・・・プラス、恐るべき握力と運動神経があれば・・・こんなふうに、手すりの外側に、こっちを向いた状態で着地できるんだろーな。 あー、くそ、一瞬でも慌てた自分がバカみてーじゃねーか! 「お前、やっぱ、変わってんのなー・・・。今のって、お前流の冗談かー?」
いつもながら、女ってわかんねーなー、って思う。 裏表があるのは男も女も一緒かもしれねーけど、問題はその使い方だ。 女ってのは、泣いたり笑ったり怒ったり、忙しく表情を変えては人の気を引こうとするし、どれが本当の顔でどれが作り物の顔なのか、隠すのがマジでうまいし。沙岐なんか、その典型みたいなヤツだ。 ・・・だけど、コイツは性別を越えて、もっとわからねーな、とも思う。 どんな顔も、どんな感情も隠そーとするから・・・・・・そう、裏表がないんじゃなくて、裏も表もどっちも隠そーとして隠し切れてねーのがわかるから、そこらの女より、ずっと理解できねーんだ。
・・・まあ、でも・・・たぶんだけど、わかるのは・・・ 「お前、別に俺のこと嫌いじゃねーよな。絶対。」 思ったことの後半をそのまま口に出したら、和歌は小さく「は?」って呟いて、眉をしかめてみせた。 「マジで嫌ってたら、俺なんか無視してりゃいーもんなー?」 「・・・・・・。」 俺は、なんか知らねーけどちょっと可笑しくなって、笑いながら、和歌の顔を覆う包帯の留め金に手を触れる。 「外していーか?」 和歌は一瞬、びっくりしたみたいに黒い目を見開いて、俺を見た。 「次会った時、包帯なくてもわかるよーにー。」 和歌が返事をするより早く、俺はそう言いながら、両手を使ってゆっくり、痛くないよーに、彼女の右頬と鼻の上を隠す大きなガーゼを剥がした。 乾いた血の染み付いたガーゼを階下に捨てたら、彼女の顔はちょっとすっきりして、右頬と鼻の上に、大きくて新しい傷が走ってるのが露になる。 和歌は、抱え込んでた手すりから体を離して、手を突っ張って俺と距離を取った。 「・・・気持ちのいいものじゃないから。」 「いーから。」 彼女が嫌がってもっと離れようとするから、俺は彼女が落ちるんじゃねーかと一瞬不安になった。片手だけ伸ばして、彼女の腕を掴んで支える。もし落ちても、俺の力なら片手でも引き上げられるから。 「外すぞ。」 そもそも、背が高い俺の方が腕が長げーから、どんだけ和歌が頑張ろーが、俺の手の届かない範囲まで逃げるなんてムリ。 俺は、片手で遠慮なく、彼女の顔の大部分を覆う包帯の留め具を外した。 軽く、布と布が擦れる音を立てて白い包帯がもとの長さに縮んで、和歌の鼻や白い首に引っかかりながら、スルリとほどけて落ちる。
人工的だけど優しい首都の風が、彼女の首に留まったままの包帯をその身に乗せて、静かに攫っていった。
「・・・・・・。」 顔を隠すものを失った和歌は、小さいため息をついて、意思の強そうな瞳で、真っ直ぐに俺を射すくめた。 痣と、傷と、傷跡。 古いのと、治りかけのと、新しいの。 これが女の顔かってくらい、顔中に残る戦いの痕跡を眺めながら、俺は、『これはキレイに消えるんだろーか』なんて、マヌケ丸出しな事を考えてた。 消えるわけない 整形したって全部キレイにはなりそーもねーって事ぐらい、見ればわかんのにな。 マヌケなこと、口走らねーでよかったぜ。
けど、この子はたぶん、それなりに可愛かったんだと思う。
沙岐みてーに自信過剰になれるほどの可愛さじゃなかったかもしれねーけど、たぶん、10人男がいりゃ、そのうち何人かは誉めてくれただろーな、って程度には。 なのに・・・・・・ 「・・・気持ちのいいものじゃない。」 ただ見つめてるだけで何も言わなかった俺に向かって、和歌は暗い声で呟いた。 「あたしが殺した人がつけた傷だから。」 「・・・・・・そーだな。」 俺は、また手すりを抱え込むみてー格好になった和歌の頭を、片手で軽く、何回か叩いてやった。妹にするみてーに、力を入れないで。
意外にも、和歌は、そーされるのをそんなに嫌がらなかった。
「あー・・・それって、そんな悪いコトじゃねーってー。たぶん。」 俺がそう言ったら、和歌はちょっと、不思議そーな顔で俺を見上げた。 和歌だけじゃなくて、俺にだって、殺したヤツの数だけ傷がある。 たぶん、数は少なくたって、俺のも和歌のと同じで、一生消えない。万が一、この研究所から解放される日が来たとして、運良く整形できたとしても・・・たぶん目立たなくなるだけで、この手で殺した人間の念のこもった無数の傷は、一生消えてはくれねーだろう。 だから、俺はこう考えてる。 嫌なことは考えねーで、笑ってたいから。 「だってさー、他人の生きた証がここにあるって、なんかいーじゃん?」 俺は、和歌の頬に刻まれた大きな傷を触りながら、ちょっと笑ってそう言ってやった。 そしたら、和歌は俺を見上げたまま、ちょっとびっくりしたみてーに目を大きくして、何か言いかけたよーに見えた。 「・・・・・・。」 けど、すぐ彼女は口を噤んで、俺から目を逸らす。そーしながら、片手で俺の額を押して、近くなりすぎた顔同士を遠ざけてから、言う。 「・・・もう、憶えた?」 「んー?」 「顔。」 「・・・・・・あー、顔?」 顔と目を逸らしたまま、彼女はまるで吐き捨てるみたいに素っ気無く、俺に問い掛ける。 俺は、もう一回だけ、じっと彼女の傷だらけの顔を眺めて、その顔がちゃんと俺の記憶に残ったかどーか、確認した。 一回見たら忘れない、黒くて深い色の瞳。 数え切れないぐらい多くの人間が想いを刻みつけた、彼女の顔。 記憶に残らないことなんか、あるわけねーけど。 俺は、こっちを向いた彼女の目を思いっきり見返して、こう返した。
「俺、人の顔覚えらんねーからさー。もーちょい、ここでダベっててOK?」 「・・・Get a brain.(バカかお前)」
・・・・・・なんか怒られたよーな気がする。
この時、俺は、まだ何も知らなかった。 この先に起こることも、何も。 これからもずっと、同じように毎日が続いてくんだって、そんなふうに思ってた。
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