新着メール 1件

   

 

 

 十九歳になって、初めて俺は喪服を買った。
 人生で初めて喪服を着た俺が見送った人の名前は、真理子。
 生まれて初めてできた、俺の彼女だった。

 


 真理子の家がある神戸から、大阪市内にある俺の家までは、遠いようでその実、とても近い。
 新快速を使えば、大阪−神戸間なんて、せいぜい二十分かかるかどうかだ。大した距離じゃない。
 それでも俺は、六畳一間の狭いマンションの玄関を潜るなり、もう一歩たりとも歩けないくらいに疲れ切っていた。線香の匂いのする喪服を脱ぐのすら面倒になって、そのままベッドに倒れ込む。
 ポケットに入れていた携帯の硬さが鬱陶しくなって掴み出したら、メールの着信ランプがチカチカ点灯していて、俺の暗欝な気分をさらに煽り立てた。
 現代人の性か、疲れを圧して新着メールを見ると、受信ボックスに入っていたのは全部、大学の友達からの励ましメールだった。
 真理子が死んだことを、みんなどうやって知ったんだろうか。
 情報が漏れた理由はわからないけれど、みんな、大学を休んで真理子の葬式に行った俺のことを、他人事ながらそれなりに心配してくれている。
 俺は、悪いと思いながらも返信ボタンを無視して、携帯を枕元に置いた。
 最新の黒いワンセグ携帯の表面に目を遣ると、男のくせにキラキラしたデコレーション。
 デコ電好きだった真理子が、自分のネイルアートに使う道具を持ってきて、俺の知らないうちにラインストーンを貼り付けては喜んでいた。あの時の真理子の得意気な顔は、未だに忘れられない。

 そう、俺はまだ、真理子が死んだという実感がない。
 真理子のお母さんから電話をもらった時も、葬式に行っている間も、悲しいというよりは茫然とした感じで、何が何だかわからないけど泣いていた、という感じだった。
 人一人この世からいなくなるってことは、こんなに簡単なことだったんだろうか。
 今日から真理子がいないと言われても、悲しいというより不思議に感じる。
 俺は、薄情な人間なんだろうか。
 それとも、みんな最初はこんなふうに混乱して、何日かしてやっと、故人の死を悼む気持ちになるものなんだろうか。

 ずっしりと重い体で寝返りを打つと、そのつもりはないのに、自然と溜め息が漏れた。

 真理子は、まだ高校生だった。
 一昨日の夜は、同居の祖父の誕生日だと言っていた。
 彼女は祖母を伴い、祖父が運転する車で食事に出掛けて、そのまま、帰らぬ人となってしまった。
 真理子の乗ったその車は、踏切前で一旦停止して、その後突然発進したのだと、目撃者は言う。
 一体何があったのかはわからないけれど、最高時速130キロの新快速に突っ込んだ彼女の遺体は、車体に守られていたとはいえ、見るも無残に引き裂かれていたという。
 真理子が死んだその時間、俺は、運転見合わせでごった返す大阪駅のホームに立って、人身事故のアナウンスにイライラしながら時計を見ていた。
 バイトで疲れてるのに帰れなくて、事故なんか起こした奴を恨みさえした。
 まさかそれが、真理子とその祖父母だったなんて、思いもせずに。

 俺は、最低の人間だ。



 


 目が覚めると、外はもう真っ暗だった。
 マンションの横を走る高速道路から、大型トラックのクラクションが鳴り響いて、俺は眠い目を擦りながらカーテンを閉める。
 強烈な咽の渇きを覚えて冷蔵庫を開けると、幸いなことにコーラのペットボトルが入っていた。
 三日前から置きっぱなしのコーラは、コップに注いでも泡なんて立たなくて、口の中に広がるのは清涼感ではなく不気味な甘さ。それでも、俺の咽を潤すには事足りた。
 電気を点けようとスイッチを探したら、不意に、背後でパチンと小さな音がした。
 何かが弾けるようなその音に振り返っても、そんな音を立てそうなものは部屋の中にはないし、棚の上のものが落ちたり、倒れたりもしていない。
 よくある家鳴りだと思って室内を見回していたら、俺は、また携帯がチカチカ光っているのに気がついた。
 今度は誰の励ましメールだろう、無感動にそんな事を考えて、俺は電気も点けずに携帯を手に取って、フリップを開く。
 受信ボックスには、新着メールが一通。
 俺は、携帯の決定ボタンを連打する勢いで、受信ボックスを開いた。

     22:21 宮田 真理子

 未読メールを開封する手前で、俺は雷に打たれたような衝撃を覚えて、携帯を手にしたまま動きを止めた。
 差出人は、真理子。
 一昨日死んだはずの、真理子からのメール。
 ドクドクと高鳴る鼓動が、携帯を握りしめた俺の手を震わせる。
 そんなはずはない。
 きっと、サーバーの調子が悪くて、過去のメールが誤って送信されてきただけに違いない。
 俺は、震える指で決定ボタンを押した。

     家まで来てくれたのに、会えなくてごめんねm(_ _)m

 ガシャン、と大きな音を立てて、携帯がフローリングの床に落ちた。
 そんな馬鹿な。
 俺は今日の葬式で、初めて真理子の家に行った。
 サーバーの不具合の再送メールなんかじゃない。
 俺は急に怖くなって、勢いよく後ろを振り返る。
 けれど、そこには何もない白い壁があるだけで、映画や心霊特番みたいに、真理子の亡霊が俺を睨んでなんかいなかった。
 それでも俺は恐怖に駆られ、数歩の距離を走って電気のスイッチを押した。
 少し暗めの電灯の光に照らされた部屋の中は、いつものように雑然としていて、何も変わったところなんてない。なんとなく息苦しく感じるのは、俺が今、無駄に走ったりなんかしたせいだ。そうに決まっている。
「……真理子?」
 呼び掛けてみたけれど、返事なんかない。
 当たり前だ。だって真理子はもう、死んでいる。
 それに真理子は、別に俺を恨んで死んだりしていないはずだ。幽霊になってまで、俺を怖がらせたりなんかする子じゃない。
 俺は深呼吸して息を整えると、床に転がったままの携帯を拾い上げた。
 ディスプレイに表示されているメールは、確かに真理子のメールアドレスから届いたものだ。でも、これを打ったのは、絶対に真理子じゃないはずだ。
 多分、心ない誰かが事故現場で真理子の携帯を拾うか何かして、イタズラ心を起こしたんだろうと思う。
 同じ人間のすることとは思えない、非常識なその行為に、俺は心底腹立たしく感じた。
 すぐにでも携帯会社に電話して、真理子の携帯を止めようかと思ったものの、身内でもない俺にそんなことができるはずもなく、俺の怒りは急速にその勢いを失った。
 真理子の両親にこのメールのことを伝えれば、恐らく迅速な対処をしてくれるだろうと思うけれど、一人娘と父母を同時に失った彼らを、こんな低レベルなイタズラ野郎なんかのために、さらに悲しませるようなことはしたくない。
 そんなことを考えていたら、不意に、俺は真理子が可哀想になって泣けてきた。
 届くはずのないメールが届いて、それを打ったのは別人なんだと思ったら、急に、真理子が死んだという事実が、現実味を帯びて俺に襲い掛かってきたのだ。

 十八歳で死ぬなんて、若すぎる。
 世界には何十億という人間が生きていて、死んだって仕方ないような悪い奴らがごまんといるのに、どうして、何の落ち度もないただの女子高生が、こんな死に方をしなければならないんだろうか。
 その上、心ない奴が真理子の振りをして、くだらないイタズラのネタにまでしている。
「真理子……」
 俺は、握り締めた携帯のデコレーションを指で撫でながら、一晩中泣いた。

 



 真理子の葬式が終わって、一週間が経った。
 大学にバイトに忙しい日々が続いたけれど、俺の気持ちは沈んだまま、一向に晴れない。
 周りの友達も気を遣って、宴会やったり遊びに誘ったりしてくれたけれど、そんなものは気休めにもならなかった。
 それというのも、例のイタズラメールが、未だに届き続けているからだ。
 内容は他愛もないことばかりだけれど、それが余計に俺の感情を逆撫でし、苛立たせる。
 若くして死んだ真理子を可哀想に思う気持ちと、心にポッカリと穴が開いたかのような淋しさは、執拗にメールを送り続ける変質者への怒りを倍増させた。けれど、俺以上に悲しみに暮れる真理子の両親に相談するのは憚られて、俺は毎夜送られてくるメールを、半ば無理矢理に無視し続けている。
 無視し続けていれば、相手もいずれ飽きるだろうと考えていたし、俺が何も言わなくても、今月の請求書が届く頃には、真理子の両親も娘の携帯電話の存在を思い出して、解約に走ってくれるだろうと思うからだ。
 とはいえ、真理子を失ったショックとこのイタズラは、俺が思う以上に、俺の心を弱らせていたらしい。
 止まらない頭痛を覚えて転がり込んだ病院で、軽い自律神経失調症と診断された俺は、周りの勧めもあって、一週間ほど大学とバイトを休んで、静岡の実家に帰ることにした。
 旅行バッグを出して、服や日用品を詰め込みながら、俺は、複雑な気持ちで自分の手元を眺める。
 実家に帰るのは、こっちに来てから初めてのことだ。
 思えば、関西に来たばかりの頃は、初めての一人暮らしの難しさと、まるでいつも喧嘩でもしているかのような口調の関西弁に、どうしても慣れることができなくて、大学と家とを往復するだけの毎日だった。
 そんな毎日を変えてくれたのは、他でもない、真理子だった。
 いつも静岡に帰りたいとばかり思っていたのに、真理子と出会ってからというもの、そんな気持ちも忘れてしまっていた。
 怖いと思っていた関西弁も、真理子の言葉なら自然に受け入れることができた。
 真理子が死んだと聞かされた時は実感がなかったけれど、今となって思うのは、彼女は俺にとって、俺自身よりも大きな存在だったかもしれない、ということだった。
 それでも彼女はもういないのだから、現実を受け入れて前に進むしかない。

 力強くバッグのファスナーを閉めて立ち上がった時、ベッドの上で携帯が鳴った。
 時計を見ると、22時21分。いつものイタズラメールの時間だった。
 内心イラッとしたけれど、いつまでも携帯のランプがチカチカ光るのも目障りなので、俺は仕方なく、その新着メールを開封する。
 差出人は、宮田 真理子。
 けれど、その本文がディスプレイに表示された瞬間、俺は目を疑った。

    今日は、付き合って半年の記念日だね(^ ^)
    覚えててくれた??

 俺は、携帯を放り出して、ベッドサイドの卓上カレンダーを掴み取る。
 滅多に見ないカレンダーの表面を目でなぞり、今日の日付を探し出した。
 必死の思いで見つけ出したそこには、ピンクのペンで『祝♪ 半年記念!』と、丸みのある字で書き込みがある。真理子が生前、俺が忘れないようにと書いていたのを覚えている。
「……なんで知ってんだよ……!」
 一体誰が、何の目的で、こんなメールを俺に送りつけてくるのか。
 いや、それよりも、俺と真理子しか知らない記念日を、なぜこいつが知っているというのか。
 俺は、カレンダーの文字を見つめながら、言いようのない不気味さを感じて、ぶるりと体を震わせた。
 イタズラにも程がある。
 きっと、真理子の携帯の送受信メールを見るか何かして、俺たちが付き合い始めた日を知ったに違いない。
「いい加減にしろよ!!」
 怒鳴りながら床に叩きつけたカレンダーが、甲高い音を立てて、茶色いフローリングに白い傷をつける。
 俺は、言い知れない怒りと不安を抑え切れなくなって、白い壁を何度も殴り続けた。
 もう嫌だ。許せない。
 これはイタズラなんかじゃない。ただの死者への冒涜ではないか。
 頭にきた俺は、怒りに任せて携帯を掴み取り、電話帳を開いて、狂ったようにスクロールボタンを押し続ける。そして、登録された番号の中から真理子の名前を探し当てると、俺は迷わず通話ボタンを押して、スピーカーの部分を耳にあてがった。
 真理子の名前を騙る変質者は、俺からの電話を取るだろうか。
 取らなくても構わない。何度でも掛け続けてやるだけだ。
 万が一電話に出たら、警察に言ったとか何とか言って、脅してやればいい。真理子を冒涜し、俺を苦しめた罪は重い。
 ところが、受話器から聞こえてきたのは、いつものコール音ではなかった。

『お掛けになった電話番号は、現在使われておりません。恐れ入りますが、番号をお確かめになって、おかけ直し下さい』

 受話器を持つ手が、震えた。
 同じアナウンスを繰り返す携帯を、ゆっくり耳から離して、ディスプレイを見る。
 掛けているのは、間違いなく真理子の番号だった。
 解約されている?
 真理子の番号が使われていないということは、当然、それに付随してメールアドレスも消滅しているはずだ。
 じゃあ――あのメールは……?

 俺は、ガタガタ震える手で終話ボタンを押して電話を切ると、そのまま携帯を遠くへ放った。
 ガシャン、と大きな音を立てて、携帯からバッテリーが外れて飛んだ。開いたままのディスプレイから光が消え、電源が落ちる。
 ベッドの上にへたり込んだ俺は、完全に沈黙した携帯を凝視したまま、身動きひとつ取れない。
 今まで届いたメールの数々が、脳裏を過った。
 毎晩22時21分に届いた真理子からのメール。
 どうして気が付かなかったんだろう。
 あの日、電車が止まったのは、22時30分頃のことだった。

 22時21分は、真理子が死んだ、その時間だったんじゃないだろうか。

「真理子……?」
 震える声で呟いたその時、携帯が鳴った。
 
 けたたましく鳴る携帯には、バッテリーがついていない。
 ここからでも見えるディスプレイにはバックライトが点り、『新着メール 1件』の文字が浮かび上がる。
 チカチカと光る裏面のライトが、床を不気味に照らし出した。

 カチカチと鳴る歯の音を噛み殺して、俺は自分の鼓動を自分の耳で聞いていた。
 鳴り止んだ携帯から少しでも遠ざかろうと、腰が抜けたままベッドの上を後退る。
 これは、真理子なのか?
 どうして俺に、こんなことを?

 また、携帯が鳴った。

 俺は、ビクッと体を震わせて、部屋中を見回した。
 部屋の中には誰の姿もなく、ただ、鳴るはずのない携帯がメール着信を知らせているだけだった。

『新着メール 2件』

 何度も何度も、携帯が鳴る。

『新着メール 3件』

 俺は戦慄して、両目を瞑った。
 真理子、やめてくれ。
 俺が何をした?
 どうしてこんなことをするんだ?

 暖房をつけているのに、異常なまでに寒い。
 身体中が凍えてしまいそうに寒かった。
 鳴り続ける携帯の音から逃げるように耳を塞ぎ、俺はただ、震えながら真理子に問い続けた。

『新着メール 6件』

『新着メール 7件』

『新着メール 8件』

『新着メール 9件』

『新着メール 10件』



 どれぐらいそうしていただろうか。
 気がつくと、あんなに鳴り続けていた携帯が、静かになっていた。
 恐る恐る目を開けると、床の上に放置されたままの携帯のディスプレイは、真っ暗になっている。着信を知らせる裏のランプも消えていて、今起こったことが嘘みたいに、シーンと沈黙していた。
 真理子は、諦めてくれたんだろうか。
 震えが止まらない身体を抱きかかえるようにしながら、俺はしばらくの間、電源の落ちたその携帯を見つめていた。
「か……帰ろう!」
 こんなところに、いつまでも一人でいられない。
 大阪駅発の夜行バスには間に合わないかもしれないけれど、電車で京都駅まで出れば、静岡行きのバスがあるかもしれない。帰省が一日早くなって親に文句言われたとしても、ここで一晩過ごすことに比べたら、ずっとマシだ。
 俺は、勢いよくベッドから降りて、さっき作ったばかりの荷物に手を掛けた。けれど、足が震えてうまく立てず、そのままフローリングの上に思いっ切り尻もちをつく。
「……!」
 手をついた先に、携帯があった。 

 恐怖に震える俺の手のひらの下で、再びディスプレイが光り始める。
 そして、メールの着信音が鳴り響いた。

『新着メール 20件』

 俺は、無我夢中で携帯を掴み上げると、手近な壁に叩きつける。
 綺麗にデコレーションされた黒い携帯は、派手な音を立てて真っ二つに折れ飛んで、硬い床の上に落下した。

 俺の目の前で、真っ二つに折れた携帯が、鳴り続ける。

『新着メール 100件』

 その時、ひやりとした何かが、俺の首筋に触れた。
「あ……あ……」
 それは、人の指だった。
 誰かの冷たい十本の指が、後ろから俺の首筋を伝って、肩へ、胸へと這ってくる。
 金縛りにあったように動かない身体を目だけで見下ろすと、青白い腕が、まるで蛇のように俺の胸に貼り付いているのが見えた。
 やがて、背中に誰かが覆い被さってくる感触がして、長い髪の毛が俺の耳をくすぐる。

     なんで見てくれへんの

 耳元で聞こえたのは、真理子の声だった。
 背後から迫る彼女の顔が視界の端に見えて、頬と頬がピタリと触れ合う。
 生気のない青白い頬は濡れていて、ひんやりと冷たかった。その顔を見るのが怖くて、俺は無理に視線を下に落とし、ガクガクと震える自分の膝を見続けていた。
 やがて、触れ合った頬から俺の顎を伝って、一滴の水滴のようなものが落ちた。
「ひぃ……っ」
 ボタボタと流れ落ちる真っ赤な血が、恐怖に慄く俺の服に、次々と染みを作っていく。
 俺は声にならない悲鳴を上げて、震える手で思い切り、彼女の腕を振り払った。
 逃げようと身体を捻ってみたが、抜けた腰と笑う両膝はそれを許さず、無情にも俺の身体をフローリングの上に投げ出した。

 目を開けると、俺は、そこに膝をついた真理子と、向かい合っていた。
 真っ赤なコートの裾から夥しい量の血を滴らせ、青白い腕を前に伸ばして、真理子は、俺の肩をぐっと掴む。
 そして、彼女は、右半分が無くなった血塗れの顔で、にぃっと笑った。

     携帯、鳴ってんで

 真理子がそう言うと同時に、部屋の壁という壁から、一斉にメールの着信音が鳴り響いた。
 





「解約されますと、もうこの番号はお使いいただけません。機種変更されてはいかがでしょうか?」
 首元にスカーフを巻いた制服のお姉さんが、真っ二つになった俺の携帯を両手に持ちながら、そう尋ねた。
「……いえ……解約してください」
 俺は、携帯ショップの椅子に座り、迷うことなく財布から免許証を出して、それをカウンターの上に置く。
 お姉さんはその後も、契約解除料がいくらかかるとか、オプションでつけてるサービスの適用日がいつだとか、ありとあらゆる解約抑止トークで俺を引き留めたけれど、俺はそれを全て拒否した。
「かしこまりました。では、こちらの書類にご記入をお願いいたします」
 根負けしたお姉さんが差し出した書類に、俺は無言で記入を始める。
 あの後のことは、正直、よく憶えていない。
 気がついたら辺りが明るくなっていて、そこに真理子の姿はなくなっていた。
 服についた血の染みも、床にできた血溜まりも、まるで何事もなかったかのように消え失せて、朝の光の射す部屋の中には、壊れた携帯が転がっているだけだった。

 あれは悪い夢だったんだろうか。

 解約用紙を書き終えて、俺は静かにペンを置いた。
 お姉さんがその紙を取って、カウンターに置かれたパソコンに、何事かを打ち込み始める。

 もし、あれが本当に真理子の仕業だったとしたら、彼女は俺に、何を伝えたかったのだろう。
 俺に何かしてほしかったのだろうか。
 何か未練があるから、俺の前に現れたのかもしれなかった。
 届き続けた、他愛もないメールの数々。
 もしかすると真理子は、自分が死んだことを知らないのではないか?
 真理子の手を振り払った俺の行動は、果たして正しかったのか。
 このまま彼女は、亡霊となって、現世を彷徨い続けることになるんだろうか。それとも、いつか天国へ行ける日が来るのだろうか。

「あの……ちょっと待ってもらえますか」
 俺の口から出た言葉に、お姉さんの手が止まった。
「解約する前に、どうしても送らなきゃいけないメールがあるんですけど……無理ですか?」
「はあ……あの、このチップを別の携帯に挿し替えれば……」
 壊れた携帯からお姉さんが取り出してくれたのは、指の先ほどの大きさのSIMカードだった。最近の携帯は、本体ではなく、この小さなチップの中に電話番号が入っているので、別の携帯にこれを挿せば、すぐに自分の番号で使用できるようになるという。
 俺はかなり無理を言って、お姉さんに店頭のデモ機を貸してもらうと、それに自分のSIMカードを挿入した。

 真理子のメールアドレスは、名前の後に誕生日が続く、覚えやすいアドレスだった。
 俺は、宛先を入力し終えると、本文の欄に一言だけ、こう打ち込んだ。

   今までありがとう。さようなら。

 送信ボタンを押して、俺はすぐに電源を切った。
「よろしいですか? 返信は待たれないのですか?」
 デモ機を受け取ったお姉さんは、親切にもそう聞いた。
「……大丈夫です。ありがとうございました」
 そのまましばらく待つと、お姉さんの横にあったプリンターから、解約完了を示す紙が何枚か吐き出されてくる。
 俺はそのうちの一枚を渡されて、お姉さんがSIMカードにハサミを入れるのを、静かに眺めていた。
 やがて席を立った俺に、お姉さんが声をかける。
「解約済みの本体は、こちらで処分いたしましょうか?」
 お姉さんの視線は、俺の手の中の壊れた携帯に注がれていた。真っ二つになった携帯なんて使い道もないのだから、持って帰る人も少ないんだろう。
 俺は、軽く頭を下げて、いいです、と答えた。
 



 今から静岡に帰るなら、時間的に夜行バスより新幹線のほうがいい。
 携帯ショップからJR大阪駅へ向かう途中、俺は赤信号に立ち止まった。
 阪急梅田駅とJR大阪駅の間にあるこの信号の左手には、大きな歩道橋が設置してあって、夜になると、その上はストリートミュージシャンの奏でる音楽で一杯になる。

 真理子と初めて出会ったのも、この歩道橋の上だった。

 懐かしさに駆られて見上げた俺の目に、赤いコートの裾が飛び込んできた。
 歩道橋の縁に立った真理子が、片方しかない目で、立ち止まった俺を見下ろしていた。
「真理子……」
 呟いた俺を、隣に立ったサラリーマンが、敬遠するような目でちらっと盗み見る。
 俺は、構わずに上だけを見上げていた。
 俺の送ったメールは、ちゃんと彼女に届いただろうか。
 片方が千切れた脚で立ち、無残に潰れた顔で俺を見つめる真理子。
 彼女がもし、このままの姿でこの世に留まり続けなければならないとしたら、それはあまりにも残酷すぎる。
「俺は……」
 俺が口を開きかけた時、不意に、真理子が笑った。
 血塗れの顔で、いつもみたいに笑って、片手を振った。
 茫然と見守る俺の前で、真理子はくるりと俺に背中を向けると、歩道橋の縁をゆっくりと歩いて行く。
 彼女が向かう先には、一組の老夫婦の姿が見えた。
 真理子の祖父母だ、と、俺は直感した。彼らもまた、真理子と同じように、身体のあちこちが千切れて無くなり、血塗れだったからだ。
 そして、真理子が近付くと、老夫婦は、眼下の俺を見下ろして、静かに頭を下げた。
「真理子!!」
 人目も憚らず、俺は叫ぶ。
 いつの間にか流れ出した涙を拭きもしないで、俺は真理子の名前を呼んだ。
 真理子は振り返って、もう一度、俺に向かって手を振った。
 俺も、夢中で手を振った。
 明るい光の中に消えていく真理子たちの姿を見つめながら、いつまでも手を振り続けた。

 真理子は、自分がもうこの世のものではないと、気付いたのだろうか。
 それとも、俺にはわからないだけで、何か未練となるものを断ち切ることができたのだろうか。
 真理子がこの世に留まっていた理由も、この世から去っていく理由も、結局、俺には何もわからなかった。
 けれど、それでもいい。
 真理子が、笑って逝ってくれるなら、理由なんて何だって構わないのだから。

 眩しい光に包まれて、真理子の亡霊はこの世から消えていく。
 やがてその光が全てを呑み込んで、真昼の空に溶けてなくなるその瞬間も、俺はずっと、手を振り続けた。
 


 信号が青に変わって、押し寄せてくる沢山の人たちの中で、俺はいつまでも、青く晴れた空を見上げていた。

 

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